エピローグ 約束の冠 ― ふたりだけの結婚式 ―
アジュリットの湖畔に佇む古城──
小鳥たちのさえずりが、かすかに響いている。
レースのカーテン越しに差し込む春の光が、部屋を柔らかく満たしていた。
私は、まだやわらかな夢の中にいた。
──眼下に広がる、広大な若葉色の大地と遥か遠くに煌めく青い海。
純白の羽を広げたオパリオスが、青空を舞っている。
私も寄り添うように空を飛び、オパリオスと同じ景色を眺めていた。
突然に、オパリオスの白い羽から淡い虹色の光が生まれ、やがて春の大地へと降り注ぐ。
溢れる光の中で、オパリオスは静かに私を見つめる。
その紫水晶の瞳と見つめ合ったとき、まるで自分が聖鳥になったかのような錯覚に包まれた──
「ん……」
(不思議な夢だったわ……)
まどろむ私の頬を撫でたのは、窓辺からかすかに入る春の風だった。淡い朝陽を透かす象牙色のレースのカーテンが、静かに揺れている。
傍らでは、陛下が静かな瞳で私を見つめていた。
少しはだけた寝衣の胸元からは、白い肌と鎖骨が覗いている。
「……アズール陛下、お目覚めだったのですね」
少し恥ずかしくなって瞳を伏せると、彼は淡く微笑んで私の髪に手を伸ばした。
「エメロードの寝顔を眺めていた……」
甘さをにじませる優しい声音に、胸の奥が締め付けられる。
そのアイスブルーの瞳は、まるで氷の欠片を溶かしたように穏やかに、私を映していた。
「……辛くはないか? まだ休んでいたほうが良い」
陛下は、そっと私の頬に触れた。
その声音と手の温もりに胸の奥まで暖かくなり、私は微笑んだ。
「大丈夫ですわ。……アズール陛下のお傍にいられて、とても幸せなのです」
「エメロード……」
彼は私を抱き寄せると、髪や額にいくつも唇を落とした。
小鳥たちのさえずりに、衣擦れの音が重なる。
私たちを包むように、淡い春の陽射しがやわらかく揺れていた。
「アズール陛下……もう、朝ですわ」
「まだ、こうしていたい……」
そう言って、頬に口付けた陛下。
「アズール陛下……」と囁くと、私を見つめる彼の瞳が熱を帯びる。
(恥ずかしいのに、動けないわ……)
私は、その瞳に捉えられたように目が逸らせなかった。
淡く微笑んだ彼が、再び顔を寄せる。
吐息が触れ、私が瞼を閉じたその瞬間──控えめなノックの音が響いた。
「お目覚めでしょうか。皇后殿下のお支度をいたします」
扉の向こうから聞こえたのは、エリーズの落ち着いた声だった。
思わず身を竦ませた私を抱き締めたままで、陛下が小さくため息をつく。
「もう、そんな時間か……」
「花嫁のお支度には、時間がかかるものです」
(花嫁……?)
私は、思わず目を見開いて陛下を見上げた。
「仕方がないな……エメロードの支度を頼む」
陛下の声に、扉が静かに開かれた。
エリーズに続いて、ニーナを先頭に皇后付きの侍女たちが入って来る。
彼女たちの腕には、純白のドレスとヴェールが大切そうに抱えられていた。
窓から差し込む淡い陽光を受けて、ドレスとヴェールに施された刺繍が初雪のように輝いている。
「これは……」
(雪の結晶の刺繍だわ……)
まだ雪の降っていた日、仕立師や侍女たちと過ごした楽しいひと時を思い出す。
運び込まれた純白のドレスとヴェールを見つめている私に、陛下が穏やかに微笑んだ。
「愛するエメロードのために仕立てさせた……私の、大切な花嫁のために」
優しく響いたその声に、私は口元を押さえた。胸の奥が、熱く締め付けられて涙がこぼれる。
「エメロード……」
私を抱き寄せた陛下が、頬を伝った雫にそっと唇を寄せた。
涙ぐんだエリーズは静かに頭を下げ、ニーナを含めた侍女たちは皆微笑みながら頭を下げた。
やわらかな陽射しと温かな祝福が、私たちを優しく照らしていた。
* * *
アジュリットの湖畔。
春の陽光が青い水面を照らし、私のまとう純白のドレスと白薔薇の香が風に乗って揺れていた。
その中で、ふたりだけの結婚式が始まる。
「エメロード、手を……」
微笑んだ陛下は私の手を優しく取ると、そっと指輪をはめる。
薬指に煌めく新たな白銀の指輪には、雪の結晶の意匠が刻まれ、中央にはアイスブルーダイヤが輝いている。
そして陛下の指輪には、小さなエメラルドが煌めき、白金に淡い薔薇の意匠が刻まれていた。
(この、指輪は……私たちの──)
わずかに目を見開いた私に、陛下は少し照れたように視線を落とした。
「エメロード、これを……」
彼が静かに取り出したのは、白銀に輝くティアラだった。その中央には、見覚えのある雫型のアイスブルーダイヤが煌めいている。
「アズール陛下、これは……」
「これならば、もう鎖が千切れることはない」
陛下は微笑むと、そっと私の頭にティアラを乗せた。
結い上げられた髪に、アイスブルーダイヤのティアラが煌めく。
「アズール陛下……」
微笑む陛下を見上げた瞳の奥が、熱くなる。
やわらかな陽射しが降り注ぎ、純白のヴェールが春風を受けてふわりと舞い上がった。
ずっと隠し続けてきた私の背中は、春の陽光を受けて初めての温かさを感じていた。
「エメロード、愛している……これからもずっと、私の傍にいてほしい」
その低い声は、どこまでも甘く響いた。
「ええ、アズール陛下……私も愛しております。ずっと、お傍におりますわ」
微笑みながらこぼれた涙を、陛下が指先で拭う。
「愛しいエメロード……」
そう囁くと、彼は私の頬に触れ、ゆっくりと屈んだ。
彼の顔が近付き、瞼を閉じた私に唇がそっと重ねられる。そのやわらかな温もりに、今までのすべてが溶けていくようだった。
ヴェールがふわりと揺れ、やわらかな春風と白薔薇の香りが私たちを包み込んだ。
凍てつく冬を越えた、ふたりだけの世界。
青く澄んだ湖面に光の粒が踊り、白薔薇の香りが風に揺れる。
穏やかな春の光に包まれて、私たちの未来は静かに、いま確かに始まった──
ここまで、この作品をお読みいただき、本当にありがとうございました。
物語が始まったとき、ふたりはそれぞれに傷を抱え、“凍てつく鎖”に縛られていました。
雪解けの季節を迎えたふたりの物語を、
少しでも楽しんでいただけたなら嬉しく思います。
最後まで見届けてくださった皆さまに、心より感謝申し上げます。
そしてまた、新しい物語でお会いできると嬉しいです。
星谷明里




