御櫃家~採石場~神社
昼食を済ませた二人は襖を隔てた広い居間の隣にあたる沙智ちゃんの部屋で人形を使ったままごとをして遊んだ。フローリングに張り替えて間もない部屋は女の子の部屋としては極端に質素で、土壁に寄せられた勉強机と二段ベッドが一台のみ配されている。
ままごとに使う人形は市松人形の女の子とビスクドールの男の子と実にちぐはぐな組み合わせであり、妙に小奇麗な状態も相まってどうにも付け焼刃の感が否めない。
ざっと確認したところ居間を除いた他の部屋はどれも和洋折衷といった具合だ。
沙智ちゃんのお姉さんの部屋が隣で、その隣に両親の寝室、斜向かいに台所と清代さんの部屋があり、突き当りに書斎と続く。湯殿は裏手の厠と背中合わせになっており、脱衣所の構造も確認済みだ。玄関から対角の位置、つまり湯殿より更に奥には土間と勝手口が設けられている。
内部を一通り確認するだけでも半時以上要する広さで、その間も微かな物音を立てる度に敏感に反応する清代さんから逃れることに全神経を集中させた。
コンコンコンコンッ
「旦那様、お加減はいかがでしょうか?」
――コンッ、コンッ
扉の前でお伺いを立てる声に書斎の向こうから二回だけ壁を叩く音が返ってくる。僕が中の様子を覗こうと取っ手に手を掛けた矢先にこれである。
どうやら清代さんは御用聞きに丁度よく設けられた隣室の使用人部屋から常に聞き耳を立てているらしい。時間を置いて再度試みても同様に阻まれてしまった。それは仕方のないことなのだが、戻り際に清代さんが書斎の前で頻りに両手をこすり合わせる仕草がどうも気になった。
使用人部屋の座卓にチラと見えた円柱型の置物もなんだか不気味に映った。
「木滝様、少々よろしいでしょうか」
廊下の置時計が午後の二時を差した頃。彼女がうつらうつらとし始めた沙智ちゃんを抱き止めるのと同じくして、廊下の方からお呼びが掛かった。
「はい。沙智ちゃんは今お昼寝に入ったところです」
「左様でございますか。もうじきではありますが、旦那様の問診にお医者様がお見えになります。折角ですがしばらくお構いもできませんで」
「いえいえ。ではこの辺でお暇いたします」
昼食の礼も併せて述べた多嬉ちゃんは清代さんに促されるまま廊下を進む。
しかし玄関先まで誘導されるかと思われた二人の歩みは不意に納戸の前で立ち止まった。
「何と申し上げたらよろしいのか……木滝様からご覧になられた当家はいかがでしたでしょうか。その、何か妙だと思われるような……」
「いえ、特にそのようなことは――ところで、沙智ちゃんのご姉妹はお二人いらっしゃるのでしょうか?」
多嬉ちゃんの返答に「ああ、やっぱり」と呟きさっと青ざめた表情を浮かべた清代さんは突然自身の肩を抱いてうずくまり震え始めた。驚いた彼女は清代さんに寄り添いその背をさすって落ち着かせた。
少しして息が整ったのを確認した彼女はゆっくりとその訳を尋ねた。
「奥様が……麗奈様が悲しんでいらっしゃるのです。いいえ、きっとこれは呪いなんです」
「どういうことでしょうか。麗奈さんとは沙智ちゃんのお母さんのことですよね。その方がいったい『呪い』とどういった関係があるのでしょう?」
「それは――」
多嬉ちゃんに縋り付くように喉につかえたものをひとえに吐き出そうとした直後、玄関の戸が開き紺のハット帽に背広姿の男がズカズカと上がってきた。真夏の気候にも関わらず白い口髭を蓄えた男の青白い顔には一切汗が浮かんでおらず、さも涼し気に、しかし不気味に目をギョロギョロさせ廊下にうずくまる清代さんを見下ろして言った。
「ふん、また世迷い言で他人を困らせておるのか。呪いなどあるはずはないと再三言い聞かせておろうが。まったく迷信深い女だ」
男は清代さんが手を着く床に大きなトランクケースを置いてさっさと突き当りの書斎に向けて歩いて行った。その後を追うように妙に甘ったるい匂いだけが微かに残った。
「失礼な人ですね。今のが例のお医者さんでしょうか」
「はい。ですが確かに呪いなどという取り留めもないものを信じる私が間違っているのです。しかしながら、それでもそう疑わずにはいられないほどの何かが当家にまかり通っているのもまた確かなのです。木滝様、この度は私のような蒙昧な下女にまでお気遣いいただきありがとうございました」
「こちらこそ貴重なお話をありがとうございました――あの、またお邪魔してもよろしいでしょうか」
鞄を抱えたまま玄関先まで見送りに出てくれた清代さんは振り向きざまに寂しいような悲しいような表情で軽く腰を折り早足で主の元へと急いだ。
門を潜る前にふと顧みる彼女の瞳に母屋から突き出た蔵の屋根が映る。
敷居を跨げばまるで彼女の帰りを待っていたかのように夏の喧騒が辺りを包んだ。
「よしっ!」
手巻きの腕時計を、出る直前に見た置時計に合わせた多嬉ちゃんは一つの気合と共に御櫃邸から南に見える小高い森に向かって歩き出した。
*
神社までの道中、村を囲うようにして広がる森より高く切り立った崖が見える場所がある。好奇心旺盛な彼女は神社までの道を大きく逸れ、崖に近付くにつれて聞こえてくる異音に耳をそば立て心躍らせた。
森を抜け崖の下まで来ると、頑丈そうな金属製の建物が崖から生えた太いベルコンを付けて聳え立っていた。形状は円柱型で上部のつなぎ目が先に見た置物の布を彷彿させ、少しだけ背筋をヒヤリとさせた。建物のそばには真っ白な粉が山のように積み上がっている。
「これが少年の言ってた採掘場かぁ」
主に廃墟を好むが変わった工場の造形にも強い関心のある彼女は、早速有り合わせのスマホで様々な角度から採石場を撮影した。そして案の定村に辿り着いた時点でバッテリー残量5%を切っていたそれはやがてうんともすんとも言わなくなった。
――うん、今日も絶好調だね!
ちなみに充電器の類はいつもの棚に残ったままで、つまりは家に忘れてきていた。僕は出発前から気付いていたが、世界の秩序を守る都合上おいそれと手出しする訳にはいかなかった。重要でないと言えば語弊があるかもしれないが、忘れ物程度で万が一彼女が僕の存在に気付くことがあっては事である。何が原因でペナルティが科せられるか分かったものではないのだ。
撮影は思うようにいかなかったものの、幾分か満足した彼女は当初の目的の通り小高い位置にある神社を目指した。森を仰げば頂上にある社と思わしき一部が、傾き出した日を照り返した。
屋敷を出て以来感じてきたまとわりつくような視線は未だ僕らを囲う森の至る所にある。
神社の麓に着いてみると離れた場所から創造していたよりもずっと急な斜面が立ちはだかった。百度石を始点にして明らかに百段以上はある階段の遥か上部に鳥居が見える。高さのある苔むした石段を登るだけでも相当な時間と体力を要するだろう。
が、一段目に僕が意図的に置いた青いトンボ玉を拾った多嬉ちゃんは突然階段を駆け上がった。リュックの脇を抑えつつ軽々と登る足は衰えることなく、見る見るうちに離れて行く。
およそ重さというものを持たない僕であるが彼女の背に乗るなどという行為に及ぶべくもなく、できる限り急いでその背を追った。
頂上に辿り着きふと顧みると僕らが登ってきた階段がいかに急だったかを思い知らされた。試しに落とした小石が止まることなく下へと転がっていく様を見るに、途中で踏み外しでもしたら一溜まりもないことが容易に分かる。
這って登るのが正解かと思えるほどの急勾配にばかり気を取られ、麓の外灯から神社の境内まで提灯が連なっていることにすら気付かなかった。
案外広い境内奥には立派な本殿があり、その横から神楽殿へと橋が伸びている。手近な所には見るからに冷たそうな水が滾々と湧き出る手水舎が設けられている。
すでに身を清めたらしい彼女は迷うことなく本殿手前の社務所へと向かった。彼女の他に辺りにはまったく人影がなく、いつの間にか鳴き始めたヒグラシの音がよく響いた。
「ごめんくださーい!」
「――はーい」
お守りや破魔矢の並んだ表から内に向かって声を掛けるも、返事が起こったのは本殿の裏側からだった。
早足で砂地を進む草履の音と共に一人の巫女が姿を現わした。うっすらと紅を差した凛とした顔立ち、長い髪を後ろに束ね、手には竹箒を携えている。真っ直ぐに伸びた背筋、どこか品のある足や視線の運びも相まって、まさに絵に描いたような美しい巫女さんだった。大和撫子とはきっとこのことを言うのだろう。
「御朱印をいただきたいのですが」
「大変お待たせいたしました。どうぞ、こちらで承ります」
リュックから目が覚めるような朱色に蒔絵の入った御朱印帳が取り出され、社務所に回った巫女さんの手に渡る。参拝客としてごく自然に巫女さんと触れ合う口実、もとい村の因習について話すきっかけとしては申し分ない。
初穂料を納めた多嬉ちゃんは新たなページに印が入る様を満足気に眺めている。
徐に筆を執る巫女さんの姿には僕の目も釘付けだった。
『御櫃神社』と達筆で書かれた御朱印帳を受け取った彼女はよく礼を言ってその場を離れかけた。
――ちょっと待ったぁあ!
並べられた破魔矢の鈴を片っ端から鳴らし、今一度ここに来た目的を思い出していただく。
風もないのに突如として鈴が鳴り出した現象に驚きを隠せない巫女さんはさて置き、意図した通り彼女はゆっくりと踵を返して社務所へと戻った。
「すみません。この村について色々と伺ってもよろしいですか?」
「はい、構いませんよ。私にお応えできることでしたら何なりと」
「失礼ですが、御櫃麗子さんでよろしかったですか」
「え、あ、はい。私が麗子です……父にご用でしたら私の方から取次いたしますが」
単なる観光客と見せ、不意に自身の名前を持ち出した女の子を前に、困惑しながらも親切に応えようとしてくれる。
しかしどう答えたものかと悩む表情は彼女との会話を重ねるうちに次第と柔らかくなった。二十代半ばといった外見の麗子さんだが、村人たちよりは比較的歳が近いことも手伝ったのか親近感のようなものを抱き始めているのかもしれない。
お祭りに関することに始まり、村の人口減少の話題が振られ、やがて「不審者」の噂へと話が移るにつれ再び麗子さんの表情は強張り、出会った当初から気になっていた陰りを少しずつ見せ始めた。
化粧が薄いせいか歳の割には疲れが目立ち、心なしか頬もやつれて見える。
「『不審者』ですか……それは単に村人たちの噂でして」
「いいえ、麗子さん。私は確かにこの目で見ました。この世のものとは思えないような大きな巨体を」
「――!? そうですか、アレを見てしまいましたか。であればお話ししないという訳にはいきませんよね」
言って麗子さんは観念したかのようにふっと息を吐き、懐にしていた手を徐に竹箒へと戻した。
白衣の間からちらと見えた木製の物、僕が知る限りそれはドスという物に違いなかった。どうやら僕たちは知らず知らずの内にこの麗子さんが張り巡らせた警戒線を越え、門を潜ることを許されたらしい。
平屋の民家とつながった社務所の居間へと通された僕らは、早速麗子さんがお茶の支度に向かったのを見計らい内部の探索を始めた。とは言え、着いて早々居間を離れるのも不自然なため多嬉ちゃんにおいては限られた空間から情報を読み取るより他はない。
僕は麗子さんの後ろに付いてその動向を窺いつつ社務所と民家を調べてみることにした。
ガチャッ
台所へと向かうかと思われた足は真っ先に玄関へと向かい施錠しに掛かった。引き戸に付いたフック型の単純な鍵に加え、下部に付いた南京錠付きの閂まで施してある。用心のためと言っても内側からも南京錠を掛けるだけの必要性があるとは思えない。
懐のドスといい過剰な錠前といい、ここには明らかに「何かがある」と言っているようなものだった。
「お待たせいたしました」
盆を持って戻った麗子さんは彼女の前に座し、何食わぬ顔ですっと懐のそれを隣に置いた。
居間を出てから逐一麗子さんの行動を観察していたが、湯呑にお茶以外の物を入れるような素振りはまったくなかった。
ざっと家中を見た限り、目ぼしい物でいえば居間の壁掛けにある何ともソレらしい古びた鍵束と、平屋の方の床の間に飾られていた幾つかのお面である。鍵束については多嬉ちゃんも物色済みのようで、若干鍵が前後しているのが分かる。
「つかぬことをお聞きしますが、その、お隣にあるのは?」
「短刀です。見ての通り無銘ではありますが、切れ味は私が保証します」
予てからそうするつもりだったのか麗子さんは短刀を両手に取り、刃側を自身に柄を左に向けて多嬉ちゃんに差し出した。鍔はなく木目のはっきり見えるシンプルなデザインだが表面は丁寧に磨かれ、柄の部分には紋が施されている。
「どうぞお納めください」
「ええっ!? あの、それはどういう――」
訳が分からず狼狽える彼女だが、すぐに押し返し掛けた手を逆手にし有無を言わせぬ貫くような視線に促されるまま短刀を受け取る。
一見複雑なように見えた紋は近くで観察してみれば六芒星を中心にした円に唐草模様を配したものだった。
「この模様、確か御朱印にも同じものがありましたね」
「はい。当家では代々その籠目模様を家紋として参りました」
「――と言うことは、伝承にある通り『おれい』さん、つまりその家系である御櫃さんが代々神社を守られているんですね! この六芒星にはどういった意味が込められているんでしょうか!? かの棺と何か深い関わりがあるのでしょうか!」
「あ、はは、古い伝承ですがよくご存知ですね。申し訳ありませんが、籠目模様に関しては私も詳しいことは分からないんです。その辺りのことは口伝のみがあり、今は父で止まっている状態でして」
突然水を得た魚のように活き活きした彼女を前に苦笑した麗子さんの表情は「父」の話題に移った途端に再び影が差した。出会ったばかりの今はまだそのことに触れない方がよさそうだ。
「お父さんのことで、何か悩み事ですか?」
「……いいえ。ここのところ少し体調が優れないようでして。それより、そちらの短刀についてご興味はありませんか?」
「はい、あります!」
あからさまに話題を反らされたことも意に返さず、趣味嗜好に振り回されるままに彼女は食い入るように麗子さんの話に耳を傾けた。
今や彼女の手中にある短刀だが、その刃は江戸を遥かにさかのぼる時代に打たれたもので、時代の経過と共に拵を変えながら受け継がれてきたのだと言う。
伝承にある『オビツキ様』は鉈で首を落とされたことから、この短刀は伝承とは無関係とはされながら、御櫃家の間では鉈を打ち直した際に様を変えたとも伝えられている。口伝が正しければ鎌倉期より以前の霊刀ということになる。
何しろ古く、文献もないため確かなことも言えず公にはされていない。
村人や村外の観光客は本殿に奉納されている如何にもな錆びた鉈を有難く拝んでいるという寸法だ。
「そんな大切なものを何故部外者の私に渡すんですか? 失礼ですけど、何か裏があるようにしか思えません」
「警戒されるのも無理はありません。私も初めて村に来たときはそうでしたから」
「『村に来た』って、麗子さんはずっと村で暮らしていたんですよね。御櫃さんとして」
「実は私、養子なんです。十歳より以前は村から遠く離れた町にいたんですけど、突然実の父が母と私を置いて消えてしまったのを機に、母の生まれであるこの村に身を寄せることになったんです」
十五年前、麗子さんの母清代さんは我が子を養うために御櫃家の手伝いを始めた。それから一年もしない内に御櫃家の当主つまり現父親である宗孝さんから麗子さんを養子に迎え入れる提案が下された。
簡素な田舎暮らしとはいえ女手一つで娘を育てることに大きな不安を抱えていた清代さんは、実質的に旧姓勝呂の娘として接することを許され、且つ養育費や余分な給金まで支払われる提案を断る理由がなかった。
長年子を授かることのなかった御櫃家にとっても清代さんの即決は願ってもないことであり、奉公を始めてからの五年間は互いに本当の家族以上に親密な関係を築いていた。
「ですが十年前、沙智が生まれる際、麗奈さんはお産に耐え切れず亡くなってしまいました。妹は無事に生まれましたが、麗奈さんの死を知った父はそれから塞ぎ込んでしまい、次第に体まで弱り今では歩くのもままならない状態となってしまいました」
「それはお気の毒に……」
「いえ、それは誰にもどうしようもないことでしたので。しかし問題なのはそこからなんです」
義理の母が亡くなり、義理の父宗孝さんの容体が悪化するにつれ、村では二つの騒ぎが起きることになる。
一つは僕らも知る「不審者」の件である。村のご高齢者ほど知っている村の伝承に似た巨体が真夜中に村中をさまよい歩いているともなれば騒ぎとなるのも当然であった。
しかしこれについては従来より日の入りと共に外出を控える村人の習慣もあり、酒をたしなむ一部の村人が気紛れに見た戯れ言として収拾がついた。
「『神隠し』の噂はご存知ですか?」
「はい。でも、一番詳しいはずの安戸さんに聞いてもはぐらかされる一方で」
「仕方ないですね。あの一連の事件については村でも触れないことが当たり前になっていますから」
「一連ということは、実際に行方不明になった方が何人もいらっしゃるということでしょうか?」
ガタッ! ガタッ!
突如玄関の方から響くけたたましい音に二人の体がびくりと跳ねる。
恐らく何者かが引き戸を無理やりこじ開けようとしたのだろう。二人の会話とのタイミングがよすぎてさすがの僕も思わず身構えてしまった。
「あの、今のはいったい?」
「気にしないでください。近頃ああいったことがよくありますので」
麗子さんの隣に座る僕には膝にしたその手が微かに震えているのがよく分かる。
こんなことが日常的に起こっているともあれば、確かにドスの一つでも懐に忍ばせていても何らおかしくはないだろう。