平岡小学校
翌朝。まだ早朝にも関わらず窓から差し込む日差しが真夏のそれを想起させる。
寝不足の体を起こした彼女は身にぐるぐるとまとったタオルケットを端に除け、額の汗を手の甲でぬぐった。それからすぐに布団を畳み身支度を整えてから急な階段を下りた。
「あら、おはよう。もうご飯にする?」
台所で朝食の準備を粗方済ませた奥さんと挨拶を交わした多嬉ちゃんは居間まで配膳を手伝い、六時を回る頃にはご夫婦と共に食卓を囲った。
「昨日はよく眠れたかい?」
「あ、はい。おかげさまで、ぐっすりと」
「そいつはよかった。外に出たって聞いたんだけど、バケモンはどうだった?」
お茶をすすりながら旦那さんが冗談めかして多嬉ちゃんの顔色を窺う。ご夫婦の表情を何度か見比べた彼女は観念して晩にあったことをありのまま二人に話した。
「がはははは! そりゃ多嬉ちゃんも相当酔ってたねぇ」
「あなた、笑い事じゃありませんよ! もう夜に出歩くのはやめておきなさい」
彼女の話を笑い飛ばす旦那さんとは対照的に真剣な面持ちの奥さんは多嬉ちゃんの膝に手を添え心なしか語気を強めて夜歩きを禁じた。
「アレはいったい何だったんでしょう。奥さんはなにか知ってるんじゃないでしょうか」
「ええ。話を聞く限り『オビツキ様』で間違いなさそうね。本当に無事でよかったわ」
「なぁに、そんなのただの御伽噺だろ」
「まったくあなたは! 村の年寄りならともかく、こんな若いお嬢さんが冗談で言うもんですか!」
やや乱暴に食器をまとめた奥さんは多嬉ちゃんに再三念を押し居間から出ていった。
「オビツキ様とは、この村にとってどんな存在なんでしょうか?」
「うーん、俺も元々他所の人間だから詳しくはないんだけどね。この村を守る神様ってことで合ってると思うよ。神社で奉ってるのも同じ名前だったかな」
民家が比較的まとまったこの辺りから更に村の外れの方にある小高い山の頂上に神社があるという。お祭りの時期は広い境内から麓にかけて提灯や屋台が連なるため迷うことはないらしい。
「もっと知りたいんなら学校の図書室に行った方がいいよ。年寄り連中に聞いてもまともに話してくれねぇから。小学校は平岡車庫の裏の方ね」
「小学校の図書室ですか?」
「うん。公民館も閉じちゃってね、資料とかも全部図書室に移したんだわ。今は子供たちが夏休みだから、年寄りのがうるさいと思うよ」
安戸さんの話を受け礼を述べた彼女はさっそく目的地への準備に取り掛かった。二階の部屋に戻りいつも探索時に使用する最低限の荷物をリュックに詰め、旦那さんからもらった村の地図を片手に階段を駆け降りる。
「ちょっと小学校までいってきます。奥さん?」
「……え、ええ。いってらっしゃい。お昼は用意しておくわね」
玄関の上がりかまちに膝をついた奥さんは下駄箱の上の《《置物》》から振り返り、多嬉ちゃんに向けて小さく手を振り見送った。
ぱっと見る限り、奥さんが熱心に拝んでいた置物は何の変哲もない木の棒だった。四角い台座に長さ三〇、太さ三センチくらいの木の円柱が突き立ち、円柱上部には鉢巻のように白い布が括り付けてある。
僕らが敷居を跨いだそばから奥さんは再びその棒に向かって両手をこすり合わせた。
民家の並ぶ通りから交番へと続く通りに出ると、木々の間から少し先の方に校舎の一部が見えてくる。三階建て鉄筋コンクリートの校舎からは村のかつてと今の盛衰が窺える。
『平岡小学校』の銘板と開け放たれた校門を過ぎ広々とした校庭に入る。時刻はまだ八時を回ったばかりであるのに数名の児童が元気に遊具の間を駆けている。彼らはきっと「夏休み」であろうと日頃のルーティンを崩すことのない村きっての精鋭たちに違いない。
「おはよう!」
多嬉ちゃんに気付いた子供たちは不意に立ち止まり彼女のことを遠くからじっと眺めた。しかし手を振る見慣れないお姉さんに恐れをなしたのか、彼女が近付くよりも早く、訳の分からない奇声を発しながら一目散に校庭横の雑木林へと散っていった。
昇降口には『図書室は午前9時から午後5時まで』の貼り紙があり引き戸が中途半端に閉じられている。窓から校舎内を覗き見る限り職員室を除いて人影はないようだ。
――ちょっと裏を回ってくるよ。
校舎が開くまでの時間を遊具で過ごすことに決めたらしい多嬉ちゃんから離れ、広い校舎の外周を散策する。
花壇の肥料に使うであろう堆肥の山の独特の匂いを嗅ぎながら校舎横を回ると、裏手すぐのところに長い煙突の立った焼却炉が一台設置されていた。
生憎と焼却炉の中は炭や煤ばかりだった。ただ、煤を軽く掘っている内に五つほど鳥の嘴らしき物が出てきたのは少々気になった。形や大きさからして鶏の物が近いと思う。焼却炉が残っていることも驚きだが、学校内で勝手に飼育動物を焼却してしまっている事実には更に驚きを隠せなかった。
校舎の真後ろに来た時、ちょうど表の方からキュルキュルと音が響いた。恐らく滑りの悪い昇降口の引き戸が解放されたのだろう。校舎から体育館へと続く渡り廊下を横切って多嬉ちゃんの元へと急いだ矢先、ふと足元の土に違和感を覚える。
日当たりの悪い校舎裏には珍しく、恐らく余った砂場の土を撒いたであろうサラサラの土の一角に近付くと、足跡が残っているのが確認できた。無数にある足跡に規則性はなく、ただその周辺を滅多矢鱈に踏み回った様子が窺える。土の具合からそう古い跡でもないらしく、何かを埋め固めた感じもしない。
校舎の外壁に沿ってできたそれを辿りサラサラの土の終点まで来てふと顔を上げたとき、廊下に面した窓が目に入る。
――これは……
これまた無数の手跡を窓に認めた瞬間それ以上の思考を停止した。
気を取り直して校舎に入り、『順路』の紙がぶら下がった標識ロープに従って三階奥にある図書室に辿り着く。郷土資料のコーナーでお目当ての資料を探す多嬉ちゃんの姿の他に、いつの間にか来校したらしい五人の年配の方々が思い思いに図書室を満喫していた。
「あー、だからよぉ!」
「ええ!? なんだって!?」
お互いに耳が遠いからか会話にすらなっていない一組が目立つ中、あとの三人は同様に机に本を開きながらウトウトと舟をこいでいる。
「何探してるの?」
多嬉ちゃんの背後に現れた少女は彼女の手元を覗きつつ不意に尋ねる。驚きながらも好奇心の強そうな少女に何か感じるものがあったのか、彼女はためらいもなく『オビツキ様』に会ったことを話し、オビツキ様について知りたいことを伝えた。
「お姉さんはそれを知ってどうするの?」
「私は……知って、助けてあげたい。なんだかとても悲しそうだったから」
彼女の目をじっと覗き込んだ少女は得心したのか「ついてきて」と言い、図書室の一角へと多嬉ちゃんを案内した。どこか楽し気に先導する少女の胸には『6年2組 勝呂葵』の名札がある。
『資料室』の札がある扉のドアノブを捻った少女は鍵が掛かっていることを確認し、すぐに資料室の横へと回った。
すると突然地窓の前にしゃがみ込み、片側を両手でガタガタと揺らし始めた。
「――何してるの!?」
「大丈夫だよ。誰も聞いてないから」
ガタガタガタ――カシャンッ
見事に向こう側に掛けられた捻締錠を外してみせた少女は得意気に彼女を中へと迎え入れた。
窓とカーテンが閉め切られた資料室は濃厚な本特有の匂いをムッと放ち、所狭しと並べられた本棚は代わり映えのしない背表紙を連ねている。
少女は迷うことなく隅にある棚から一冊を取り出し多嬉ちゃんに手渡した。背表紙に『閉』のシールが貼られたそれは児童書のようだった。
日本昔話のような温かみのあるイラストや平仮名の表記が目立つため読むにはさほど苦労はなさそうだ。
「お姉さん、頑張ってね。お兄さんもね」
僕らに手を振ったかのように思われた少女はいつの間にか消えていた。
手渡された本を手にしたまま呆然としていた多嬉ちゃんはふと我に返り慌てて地窓から少女の姿を探した。
『私のトンボ玉、大切にしてあげてね』
「ああ、これは君のだったのか。ありがとう。きっと大切にするよ」
すでに姿は見えないものの、僕にそっと囁いた少女はどこか満足そうにくすりと笑い次の生へと旅立っていった。
<資料>
『平岡村(旧オビツキムラ)伝承 「オビツキ様」
昔、幼い容姿で女子のように大層可愛らしい神様がいた。
神様は山の神で、山から見える村々と人々の暮らしを見るのが好きだった。
ある日、山間で怪我をした村の女子を村まで送り届けたことを契機に、しばらく村で暮らすこととなった。身寄りのない女子と思われた神様は、村人たちから大層可愛がられ、「おさち」と呼ばれる頃には村の一員として溶け込み毎日楽しく暮らしていた。
ある年の夏、日照りが続き作物が育たないことが危ぶまれた。結局雨は降ったものの、作物の実りが思わしくなく、また次の年の実りも悪かった。村では次第に口減らしの話題も持ち上がるようになり、当然ながらよそ者であるおさちはその対象となった。おさちは人の域を超えた力の行使をためらったが、やむを得ずその力を使った。
その年も、次の年も豊作だった。
十年の月日が経ち、おさちの周りの子供は皆大人になった。しかしおさちの姿は一向に変わらぬままであった。その力も相まって、少数ではあったが村人の一部が畏れをなした。おさちの話が国司にまで上ると、たちまちおさちは捕らえられ、自由がきかなくなった。
その力を使い国を治めようと企んだ国司は嫌がるおさちを座敷牢に入れ神力を使わせた。長年の生活で人の身に慣れ過ぎたおさちは次第に力を失い、ついには度重なる暴力に耐えられず死んでしまった。
おさちが死んだ頃から村では奇妙な噂が流れた。
「真夜中にはおよそこの世のものではない化け物が村をうろついている」
その化け物がおさちだと悟った、幼い頃おさちに助けられた女子「おれい」は、真夜中、体を複数併せ持つ化け物となったおさちの前に現れ、おさちが怖がらないよう自身の帯をおさちの目元に巻き、持っていた鉈で首をはねた。
その後、その首や胴体は神社に祀られ、『オビツキ様』として丁重に安置された。
おさちの最後に立ち会ったおれいはその神社の巫女として生涯を全うしたという』
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