木滝家
彼女の髪が満開の桜と共に揺れる。
うっすらと額に汗を浮かべた彼女は大きな桜の木の下を抜け、校庭側を全開にした教室へと最後の荷物を運び込んだ。
「多嬉ちゃん、少し休んでいきなよ!」
年配の事務員が職員室の窓から顔を覗かせ、校舎に横付けされた軽トラックへと駆けて行く彼女に呼び掛ける。
「ありがとう、次もあるから!」
折り畳んだ台車を荷台に載せた彼女はおばさんに向かって大きく手を振り嘘をついた。
その理由を知っている僕は爽やかな笑顔を振り撒く彼女が堪らなく愛おしくなってしまう。
幼い頃は物静かでどこか儚げだった彼女が、こうして強かな姿を見せるようになったことが堪らなく嬉しい。寂しくもあるが、それ以上に彼女の成長を垣間見れたことに望外の喜びを感じている。
彼女は『キタキ文具店』の文字が入った軽トラックを繰り小学校を後にする。
「――あ、おじいちゃん? 教科書の納品終わったから一旦戻るね」
『おお、気ぃ付けてな。こっちの整備も終わっからよ』
「ありがとう!」
ハンドル脇に搭載されたスピーカー越しに祖父とやり取りする彼女は目を輝かせ、いつになくはしゃいだ様子で帰路に就いた。
あの合格発表から一週間もしない内に彼女は祖父母が経営する文具店への就職を決めた。前々から腰痛を患っていた祖母がついに医者からストップをかけられたことが発端らしい。
もちろん孫思いの祖母は強く断ったが、何故かすでに継ぐ意志を固めていた多嬉ちゃんの気迫に負け、渋々就職を許したのだった。
奇しくも僕と同じく大学の内定を蹴ることとなった彼女だが、進学しないことについて悔やむでもなく、ましてや悲観するような素振りは一切見せたことがない。
むしろ以前よりも活き活きとして見えるのは、きっと僕の気のせいではないだろう。
「ただいまー! おじいちゃん、帰ったよ!」
店前に軽トラックを停めた多嬉ちゃんは大急ぎで裏手にある車庫の方へと駆け出した。
「おじいちゃーん?」
「はいはいはい、お疲れさんっと。箱も付けといて良かったんだっけ?」
真っ黒の軍手にハンディライトを携えた喜助さんがサイドボックスを叩きながらニヤリと笑った。綺麗に整えられた真っ白の頭に、小柄だがしゃんと伸びた背筋。齢八十を過ぎた今でも店の力仕事はするし、趣味でツーリングに出たりするというアクティブさ。
流石は多嬉ちゃんのおじいちゃんと言ったところである。
「ありがとー……いつも助かるよ」
ヴェルシス‐エックス二五〇ツアラー。
安定感のある外観もさることながらアドベンチャーバイクとしての性能も遺憾なく発揮するこのバイクは今や多嬉ちゃんの相棒だ。
「よろしくね、ヴェル」
ダークグレーの車体と挨拶を交わす多嬉ちゃんの気持ちはすでに旅先へと向けられている。
「ばあちゃんに何て言い訳しようかね?」
「……『修理に出してる』は、通らないかな」
粗方の旅支度を済ませた二人はここに至って最大の問題について首を捻った。
と言うのも、多嬉ちゃんの祖母米子さんが彼女のバイク乗りを強く反対していることに起因する。
元々、十年前に喜助さんがバイクで大きな事故を起こしてしまったことが原因の一つにあったが、それが転じて「バイク」その物にまで不信感を抱いてしまったものらしい。
喜助さんの場合、幸いにも他人を巻き込むことはなかったものの手足に全治一年の複雑骨折を負ってしまった。以来、喜助さんがツーリングに出る際も米子さんは渋い顔をするようになった。
しかし、それでも無理に止めることがないのは喜助さんの腕白故である。
言ったところで隠れて乗ることを米子さんが一番よく知っているのだ。
「バレるでしょー。ほとんどうちでやってるもん」
が、可愛い孫が乗るとなれば話は変わってくる。ただでさえ娘夫婦を事故で亡くし過敏になっている米子さんが、大事に育った孫娘まで見す見す鉄の塊に差し出すつもりはないのである。
「何がバレるって? 喜助さん」
車庫の裏手から顔を覗かせた米子さんが低く沈んだ声を出す。
これには堪らず喜助さんは押し黙り、ばつが悪そうに後ろ手に隠したハンディライトの電源を切った。
「おばあちゃん、ごめん。やっぱり私電車で行くよ」
「謝らなくていいんだよ。ばあちゃんは多嬉ちゃんがやりたいことなら何でも応援するんだから」
米子さんは項垂れる多嬉ちゃんの頬を優しく撫でる。それから大きく育った胸を張らせ、ますます娘に似てきた彼女のことを慈しんだ。
「ばあちゃん、いくら何でも電車じゃ時間が――」
「喜助さん。私は一度だってこれに乗るのを止めたことがありましたか?」
多嬉ちゃんの気持ちを代弁しかけた喜助さんを制し、米子さんはじっと夫の目を見詰めた。
実際のところ米子さんは多嬉ちゃんがバイクに乗ることはおろか軽トラックに乗ることすら反対していた時期があった。しかし、乗ると決めた喜助さんや多嬉ちゃんのことを引き留めたことはこれまで一度もなかった。
僕は米子さんが家の居間で耳を澄ませながら、近所からバイクが遠ざかっていくのを知らない振りをして過ごしてきたことを知っている。
「気を付けていってらっしゃい。でも絶対に無理はしないこと。危ないと思ったらすぐにでも帰っていらっしゃい」
「――ありがとう、おばあちゃん! お父さんたちに挨拶してくる!」
ライダースジャケットとフルフェイスを持ったまま、文具店の裏口から居間に上がった彼女は仏壇へと直行した。
慣れた手つきで線香をあげ、そっと手を合わせる。
「じゃ、いってきます!」
それから同じく手を合わせた僕の横で勢いよく立ち上がり元気な挨拶を残して居間を後にした。
「では僕もいって参ります」
裏口から多嬉ちゃんを見送る晴男さんと亮子さんに一礼して僕もその後を追う。
「気を付けていっておいで。決して無茶はしないように」
「悠くん、あの子のことお願いね」
「はい! お任せください!」
幽体の僕から見てもぼんやりした姿しか確認できないけれど、こんな僕にまで気遣ってくれる広い心と穏やかな表情を見れば、やはり二人は彼女の両親なんだなと納得できた。
「おじいちゃん、おばあちゃん、いってきます!」
しれっとサイドボックスにタンデムした僕を載せ、多嬉ちゃんのバイクが店先から出発する。
後方を見遣れば木滝家の面々が総出で手を振り僕らを見送ってくれている。
空は快晴。まだ三月だから少し肌寒いけれど、絶好のツーリング日和になりそうだ。
*
〈メモ2〉
幽体は幽体ごとに「チャンネル」を持っている。
人は死んだら一つの世界に集まるものだと漠然と思い込んでいたが、実は各々に意図した空間で生活している。基本的には元々肉体のあった世界が共通してベースになっているものの、幽体同士が意図せず一緒になることはない。気心の知れた人と気の向いたときにだけ関われるといった環境は、どこかネットワークにおけるクローズチャットのシステムに似ている。
ちなみに僕は多嬉ちゃんのご両親とは幼い頃からの仲良しであり、お互いが常にウェルカムであるためいつでもごく自然な対話が可能となっている。信頼関係にあるからこそ、四六時中多嬉ちゃんに張り付いていることもご両親公認なのだ――ここが特に重要。
お姉さんも分かっているとは思うけど、やましい気持ちなどまったくあるはずがない。肉体を持ち合わせるが故に生じる欲求は今の僕とは無縁の概念なのである。つまり、万が一の有事に備えて彼女の入浴に同行することがあっても自然のことであり、彼女を見守ることを存在意義とする僕にとってはもはや必須事項と言えるだろう。
だからどうか大目に見てほしい。
*
霧が立ち込める山間の道にポツンとバス停の標柱が立っている。
道路から少し離れた場所に設けられたベンチの横では僕らのバイクが頻りにハザードランプを点滅させ、救世主の再来を待ち望んでいた。
「ふふ。電波も無し」
所々空の見えるトタン屋根を見上げながら、多嬉ちゃんは嬉しそうに笑った。
恐らく先刻立ち寄ったコンビニで偶然知り合った女性ライダーもここを通るはずだ。そんな淡い期待を抱きながら彼女とこうして過ごす時間も悪くはない。
ただ、ほとんど視界ゼロの霧が晴れる予報などシティガールの彼女にできるわけもないし、ましてや急にバイクが動き出す可能性も限りなくゼロに等しい。
それでも彼女が笑っていられるのは、こうしたトラブルも込みで「旅」であることを心得ているからだ。
何と言っても人生は楽しむものである。縮図とも言える旅もまた然り。
間もなく夕刻という頃合いか、鬱蒼とした森の間から僅かに差していた日も傾き辺りは一層薄暗くなった。当初予定していたキャンプ場までの道程はまだ長く、ここでの野宿もやむなしかと思われた。
意を決した多嬉ちゃんがサイドボックスを開いた直後、僕らが登ってきた方向から崖を伝って微かにエンジン音が聞こえてきた。
幾分もしない内、不意に大きなヘッドライトが少し先のカーブから顔を覗かせた。
「乗りまーす!」
かさ張るテント以外の物をボックスから引っ張り出し、それらをデイパックと共に小脇に抱えた彼女はこちらに向かってくる大型バスへと大きく手を振って迎えた。
今では待合所と一体となったバイクとは少しばかりのお別れだ。
『平岡車庫行きです』
開くドアから運転手さんのアナウンスが流れる。元より馴染みのない地名に疑念を抱く間もなく、乗車した僕らを載せてゆっくりとバスが走り出す。
運転手さんのすぐ後ろの座席に落ち着いた多嬉ちゃんは車内に疎らながら乗客がいることに安堵したのか、心地良い揺れに伴って次第にうつらうつらと舟をこぎ始めた。
多嬉ちゃんの瞬く間隔が数分単位になり出した頃、バス停を過ぎる度に一人二人と減っていく車内の様子に僕だけが焦りを覚えていた。
かなり長い区間に設けられたバス停を三つ越える間に、残すところ僕らともう一人だけになってしまった。
もう一人の乗客は恐らく青年で、上着のフードを目深に被ったまま俯き眠っている。車内の暖房の効きが悪いのか時折体を震わせる仕草を見せ、その度に椅子へ深く座り直した。
気付けば辺りはすっかり暗くなり車内のライトが闇に浮かび、黒々とした泥沼を闇雲に進んでいるかのような感覚に襲われた。更に山深くなったのか、轟轟とトンネルを抜ける度にその感覚はより一層強くなった。
完全に寝入った彼女の安らかな寝息だけが僕の心を落ち着かせた。
長いトンネルを抜け再びトンネルに入った途端、蝋燭の灯りを消すかのようにふっと辺りの音がなくなった。
――……セ……エセ……
どこからともなく囁きが聞こえる。その囁きはやがて重なり、小さくはあるが確かに恨みがましい喧騒へと変わった。
『カエセ、カエセ、ワレラノドウホウヲ』
繰り返される悲痛な叫びを聞いた。
唸りにも似た異形の叫びは絶えずこの地に息づく者たちに訴え続けた。