物語の世界へ
大学生時代に受験予備校で英文法を教えていた美結は、いくら英文法を勉強してもなかなか英会話が上達しない自分にやきもきしていた。
きっと英語は勉強じゃなくコミュニケーションツールなんだーーそんな思いから、留学や海外生活に憧れるようになっていた。
それでもすぐに行動に移さなかったのは、ただ勇気が出なかったからかもしれない。忙しいからとかお金がないからとかと言い訳をして、人並みの学生生活を送り、人並みの就職活動をして、大手金融機関に就職した。
転機が訪れたのは、社会人3年目の春だった。友人との待ち合わせまでの時間潰しに表参道を歩いていたときのことだった。季節の割には日差しが強く、コンビニを探して片道1車線の道路沿いを歩いていた。
3階建の商業ビルの並びの終わり、地下に続く階段手前にまぶしい笑顔が印象的な看板を見つけた。
おそらく豊かではない国の、10歳くらいの黒人の男の子だ。ふと興味がわいて店内を覗くと、普段は夜間のみ開かれているだろうダイニングバーで小規模な写真展が開かれているようだった。
「新婚旅行で世界一周に行ってきたんですよー!」突然声をかけられ振り返ると、30代半ばくらいの男性が人懐っこい笑顔を向けていた。壁には幅2メートルほどの大きな世界地図が貼られ、周囲には世界各地の風景写真が飾られている。男性は雄介と名乗った。
美結は30畳ほどの店内の壁中に貼られた写真を見て雄介に聞いた「この写真みんな撮ってきたんですか?」
どうやら違うようだった。
「旅好きな人たちが今回は10組くらいいてね。それぞれが旅先での写真を展示してるんですよー。」
確かによく見ると、数メートルごとにテイストの似た写真が固まっていて、その前には展示者と思われる人がいるようだった。一人旅の男性、女性二人旅、子供の笑顔を集めた人、世界の絶景を集めた人、各地で同じ人形をモデルに写真を撮っている人など、趣は様々だ。何人かは来場者と思われる人たちと楽しそうに会話をしている。
「世界一周って、すごいですね…!言葉はどうするんですか?」
「英語もそんなに得意なわけじゃないし、言葉はなんとかなるもんですねー。どこに行っても同じ人間だし!自分も世界一周なんて別世界の話だと思ってたけど、格安プランなら意外と100万円くらいでも行けちゃったりするんですよ。」
本当に意外だった。具体的に考えたことはないが、それでも少なくとも500〜600万円はするものだろうと思っていた。そもそも十分な語学能力なしに外国旅行に挑むなんて想像してもみなかった。急に世界が身近に感じられた。
雄介は旅行中の様々な話をしてくれた。世界一周旅行に興味を持ったきっかけ、色んな人との出会いや起こったハプニングについて。最後には沢山のスタンプが押された、汚れたパスポートを見せてくれた。
元は同じ会社員だった雄介が、突然物語のような世界に飛び込んできたんだと思うと胸が高鳴った。
そしてその日から「新婚旅行で世界一周旅行」が新たな憧れとして、ひっそりと美結の心に刻まれることになった。




