祭りの後
『誰もいない、どこか遠くへ行きたい』なんて、酔った頭で考えたとはいえ。悦ちゃんの隣と同じくらい大事な居場所が、織音籠にもあるわけやし。何より、これ以上悦ちゃんを傷つけたくないし。
あの日、お開きの後で悦ちゃんを家まで送って行った俺は、頭を冷やしながら一人で大人しく電車に乗った。
アパートに帰ると、ドアにメモが挟んであった。
【学園祭の最終日。総合大のステージの後、居酒屋で打ち上げ。悦子さんも、もしよければ……】
署名の代わりに書いてある”三日月マーク”を見るまでもなく、流れるような達筆で書かれた書き置きは、サクの手蹟。
悦ちゃんと打ち上げ、か。
ジンのことが、怖くなくなったとは言うてたけど……なぁ。
「なぁ、最終日の打ち上げ、聞いた?」
翌日の夕方、音楽スタジオのロビーで、俺はマサに尋ねた。リョウが事務手続きをしていて、ジンとサクはまだ来ていなくって、って少しの合間時間でのこと。
「いや、聞いてないけど? どうかしたのか?」
「なんか、『悦ちゃんも、来うへんか?』って誘われとるのやけど……」
「そうなのか? リョウ?」
俺の後ろにちらりと目をやったマサが、俺の頭越しに尋ねる。
なにやらチラシを手にしたリョウが俺の背後に戻ってきていた。
「何が、『そう』なんだよ? 分かんねぇだろうが。ちゃんと文章にしろよ」
「打ち上げ、悦子さんも誘ったのか?」
「ああ、それか。ゆりも誘っておいてくれるか? トミィも来るし」
「リョウ。昨日の今日、でそれは”無い”わ」
リョウの言葉に、思わず突っ込む。
「ああ。あれは、二人には悪かった、と思ってる」
気まずそうな顔でリョウが頭を下げる。ま、さっき顔を合わせるなり謝られたから、俺もネチネチと引きずる気はないけど。
「アイツも、不器用なところがあるから。一度 ゆりや悦子さんとは、きちんと引き合わせておいた方がいいんじゃねぇかって思ってな」
「マサ?」
どないする? って、昨日めっちゃ怒った顔をしとった奴の顔色を伺う。
「由梨が嫌がったら、俺は無理押しはしないからな」
「ゆり相手に無理押しができるなんて、思ってねぇよ。ユキは?」
そう言ったリョウは、春頃からかけとるメガネを軽く押し上げて、俺の顔を覗き込む。
ううーん……。
「ちょっと、保留させて?」
「保留?」
「うん。誘うかどうかも含めて、考えさせて」
「そうか」
「うん。ごめんな?」
「いや、いいけどよ。”昨日の今日”だし」
ジンの彼女にも声をかけるから、って言いながら、リョウが腕時計を見る。
そろそろ、ジンたちも来るはず。
その日の帰り道、マサにこっそりとひとつ頼みごとをする。
「さっきの打ち上げの話やけどな。ゆりさんの返事、俺にも聞かせてもろてもええ?」
「うん?」
「悦ちゃんが行くかどうかの判断基準になるやろから」
そう言った俺に、マサのつり目が笑いを含んだ。
「本当にお前は。過保護だな」
「だって、全力で守っとるもん」
『誰もいない、どこか』へ二人で行くわけには、いかへんねんから。
『誰にも傷つけさせへん』ねん。俺は。
俺を含めた、だれにも。
翌日の夜。
マサからの電話で、ゆりさんは『”アレ”と、和やかに飯なんか食えるか!』って断ったと教えてもらった。それを聞いて、俺は電話のこっちでガッツポーズをする。
よっしゃぁ。これで悦ちゃんに『嫌や』って、言わせやすくなった。
リョウには、悪いけど。これ以上、悦ちゃんと登美さんを接触させたくないねん。
次の日、学食で昼飯を食いながら、ゆりさんの返事も込みで、打ち上げの件を悦ちゃんに言うた。
「ユキちゃん、ゆりちゃんの言葉をかなり意訳してない?」
「大意は、間違うてない」
悦ちゃんのお弁当から、一個玉子焼きを貰って。代わりに、俺の定食の皿から一個、春巻きを入れてやる。悦ちゃんの家の玉子焼き、甘口で旨いねん。悦ちゃんは、定食の春巻きに入っとる生姜がお気に入りやし。
苦労してつまんだお弁当の煮豆を口に放り込んで、悦ちゃんがしばらく考えて。
「あの。ちょっと私も……」
「まだ無理、やんなぁ」
はっきりとした『嫌や』ではなかったけど。彼女の言葉に重ねるように確認した俺に、悦ちゃんが小さく頷く。
「それやったら、マサと『後日、仕切りなおし』って言うとるから、そのときに皆と飯に行こ?」
ゆりさんと一緒に、な?
「はい」
お、二つ返事でOKやった。
そうか、ゆりさんと一緒やったら、ジンたちと飯行くのは”有り”か。
じゃぁ、次の段階、やな。
仕切りなおし、はともかくとして。
経済大の翌週の外大、そしてその次の総合大と、ステージが続く。
外大はさすがに知り合いがジンしか居らんから、敷居が高かったらしくて、悦ちゃんは見に来てくれんかったけど。
ラストの総合大は、ヨッコちゃんたちと見に行くって言うてくれた。
去年は観客で見とった総合大のステージに、自分も立つ。
その彼我の視線の違いに そして総合大ならではの観客の数に、一瞬、怖気づく。
そんな俺に気づいたサクが目じりにしわを寄せるように笑って、俺の背中を軽く一発はたいてから自分の立ち位置のステージ上手へとむかう。
サクに気合を入れてもらった俺も、ドラムセットに腰を下ろす。
深呼吸をして。
いつものようにカウントを取って。
青空へと広がっていくジンの声と、仲間の音に鳥肌がたつ。
広いところで聞くジンの歌声は、居場所とかどうとか関係なしに。
俺の魂を、揺さぶる。
その日の打ち上げは、リョウの言うように登美さんとジンの彼女が参加してた。
この前のに懲りたらしいマサは、『途中で抜ける』と言って座敷の下座に座った。俺もその正面で、一緒に小さくなっとく。って言うても、体、でかいけど。
俺も、マサと一緒に抜けよかなぁ。あー、それやったら、悦ちゃんにサークルのほうの打ち上げの場所、聞いといたらよかった。
この前、経済大の打ち上げで使った居酒屋は予約が取れなかったとかで、今日はいつもとは場所を変えたらしい。そんな大雑把な情報だけ、俺は広尾から聞いていた。
「マサ、飲まねぇの?」
俺の隣に座ったサクが差し出したビール瓶を、マサが避ける。
「今日は、やめとく。この後、約束もあるし」
「ふぅん」
軽く相槌を打ったサクは俺のグラスにビールを注ぎ足すと、俺とは逆隣に座ったジンの彼女に向き直った。
「約束って、ゆりさん?」
「まぁな」
「ええなぁ。彼女が一人暮らしって」
「そうか?」
なんでもないことのように、さらっと返事を流しながら、マサはチーズフライに手を伸ばす。
「ええやん。男が外泊するのと、女の子が外泊するのやったら、ぜんぜん違うやろ?」
「うーん」
「絶対、違うで? 悦ちゃん、外泊させるわけにはいかへんけど、マサが外泊したかって、親は怒らへんやろ?」」
「それはまぁ……そうか」
夏祭りの夜、鵜宮市まで帰る悦ちゃんを送って以来、何度か悦ちゃんを家まで送って行った。そうしているうちに、悦ちゃんの両親とも顔を合わせた。
相手の親の顔を見てしもたら、『あのオフクロさんが、心配しとるやろな』って思ってしまうから、『泊まっていってぇな』なんて、ねだるわけにもいかんようになってしもて。
俺の腕の中で、悦ちゃんが目覚めたのは……忘年会の翌日、あの日だけ。
大事に心の奥底にしまった、悦ちゃんの寝顔を思い出しながら俺はビールを呷った。
皆の邪魔をせんようにと、マサと二人でおとなしくしとったのに。
「マサぁ」
「なに?」
マサとリョウの間に座っとる登美さんに声をかけられたマサが、どない見ても”営業用”の似合わん笑顔を貼り付けて返事をする。
「あの彼女とホントに続いてるのぉ? 今日もこの前も来てなかったしぃ」
あやうい会話の流れに、テーブルの向こう端に座るリョウが、慌てたようにストップをかけるけど……。
「この前言ってた子、考えてみてよぉ。結構、床上手らしいしぃ。試しに付き合ってみれば?」
止まらぬ登美さんの言葉に調子を合わせるように、ジンの彼女までが『一度、お試し、って。どう?』なんて言い出した。
マサの眉間に皺がより、口がへの字に曲がる。
箸を握った右手も、何も持たない左の握り拳も。マサの両手に力が篭って、腕まくりしたシャツの袖からのぞく腕に筋肉の筋が浮かぶ。
パチリ、と音を立ててマサがテーブルに箸を置いた。
尻ポケットから財布を取り出したマサが、俺とサクの顔を見比べるようにして……万札を一枚、サクの前に置いた。
「これ、なんだよ?」
「俺の分の会費。俺、帰るから、後で清算してくれ」
マサはそう言いながら、財布をしまった。その勢いに押されるようにサクが自分の財布に、預かった金を納める。
「えぇー。マサ帰るの?」
「まだ、途中じゃない」
口々に言う登美さんたちを、いつもより一段と釣りあがって見える目でジロリと睨んだマサは、
「リョウ、悪い」
そう言って立ち上がると、音を立てて障子を開け閉めして出て行った。
「もう、信じられなーい」
口を尖らせながら、登美さんがビールのグラスに口をつける。
「信じられへんのは、こっちや」
思わず呟いた俺の隣で、サクが居心地悪そうに空咳をしたのが聞こえた。
「なぁーに? ユキ。何か言った?」
「登美さんらの言うとる事の方が、俺には信じられへんわ」
手酌でビールを入れながらの俺の言葉に、サクがあわてたように俺の手からビール瓶を取り上げようとする。その手をかいくぐって、グラスを満たす。
グラス越しに睨んだ俺の顔を見た登美さんは、何を思ったのかニヤリと微笑む。
「心配しなくっても。ユキが良い、って子もいるから」
「だ・れ・が、そんなこと言うたんじゃ、ボケ」
あ、ヤバイ。”口”が、暴れだしてしもた。
けど、止める気もないし、止まらへんわ。
「俺もマサも。今まで一回でも、『女、世話してくれ』って頼んだこと、あるか? ないやろが」
乾いた唇をビールで湿らせる。
「そんなことしとうから、リョウの周りに居る女、全部にケンカ売ってまわらんと不安で居られへんのやろ? この前のサクの彼女かて、それが原因で別れたんと違うんか?」
いつやったか、悦ちゃんに言うたのと同じ”自業自得”やな。どっちがニワトリでタマゴか、知らんけど。
洋子さんの後、サクが付き合とったウチのサークルの一年生は、登美さんに威嚇されて、一ヶ月もたなかったらしい、って聞いとうし。
「大体、『床上手』って、なんやねん。どこの”遣り手婆”や。女の子が、外で使う言葉と違うやろ?」
「それは、男女差別じゃない」
「差別とかの話と違うわ。お里が知れる、言うとるねん」
フェミニズムとか、雇用機会の均等とかの話とは、別次元やろが。
呪い殺しそうな目で俺のことを睨みつけとる登美さんを、負けんと睨み返す。
「『本当のことを言うただけ。私悪くないし』って、思っとるのやったら。”身の程知らず”も、ええところやな」
「私の、どこがっ」
「彼女として連れて歩いとるリョウが恥か」
言い募る俺の肩に誰かの手が乗って、ぐっと力をこめられて、言葉が途切れる。
「ユキ」
「なんやねん。サク」
邪魔すんな。
振り払おうとした俺の耳元で、サクがささやく
「悦子さん、来てるぞ」
「……はぁ?」
「部屋の外で、待ってる」
握り締めていたグラスをテーブルに戻す。
信じるぞ、と立ち上がった俺に『逃げる気!?』と、絡むジンの彼女の声がするけど。
知らん顔をして、障子を開ける。
薄暗い廊下に、ホンマに悦ちゃんが立っとった。
「ユキ、ちょっと頭冷やせ」
「……ゴメンな」
「いいって。アレは、さすがに俺もやりすぎだと思うし。悦子さん、ちょっとだけ相手してやって。逆上せてるから」
サクにそんな風に頼まれた悦ちゃんが、心配そうな顔で俺を見つめてくる。
ごめんな? 自分でも『怒髪が天をついとる』のが、めっちゃわかっとるねん。ステージのときのサクの髪みたいに、四方八方に立ち上がりそうなくらい毛穴が怒りでキューっと縮んどる。
『マサみたいに、もう帰るか?』と、尋ねるサクに保留の返事をして。
そっと悦ちゃんと両手をつなぐ。引き寄せられるように、彼女の肩に頭を乗せる。
「ユキちゃん?」
「……」
「この前から、どうしたの?」
「……ごめんな、格好悪いとこ見せてもて」
「ううん。気にしないで。散々、私の格好悪いところも見られているのだから。お互い様、でしょう?」
悦ちゃんの声が耳元でする。
その声を、香りを。そして彼女を取り巻く独特の雰囲気を吸い込むように、深呼吸を繰り返す。
吸って、吐いて。吸って、吐いて。
吸うたびに、”悦ちゃん”が俺の体に吸収されて。
吐くたびに、汚れた怒りや聞きたくも無かった言葉が洗い流されて、出ていく。
どのくらいそうしとったやろか。
握り合った悦ちゃんの手に、力が篭った。
その、ささやかな変化に気付けるくらいになんとか落ち着いた俺は、体中の怒りを溶かし込んだ大きな息を最後に吐いて顔を上げる。
悦ちゃんと、目が合うた。
軽く背伸びをするようにした悦ちゃんの顔が近づいてきて、チュと軽い音を立てるようなバードキスをされた。
えぇ? 悦ちゃんから?
驚きに見返した悦ちゃんは、俺の背後を睨んどった。
「悦ちゃん?」
「……おまじない」
「えぇ?」
俺が呼びかけたときだけ俺と目を合わせた悦ちゃんが、俺の背後に目を戻すと軽く微笑んだ。
今までに見たことのない、どこか挑戦的なその微笑みに、背筋がゾクゾクしてくる。
「なんやの?」
「魔・よ・け」
悦ちゃんらしくない低く押し込めたような声に、自分の背後に”在るモノ”に、あたりをつける。
悦ちゃんに甘えるふりで、彼女の首筋に擦り寄るように顔を近づけて。その耳元で、囁く。
「あの女、出て来たん?」
悦ちゃんの返事はなかったけど。
俺の手を握る彼女の指に、力が篭ったのが伝わる。
『はい』だけは、きちんと声に出してきた悦ちゃんらしくない、無言の『はい』の答えに、グッと唇を噛みしめる。
何しに、出てきてん。
邪魔、すんなや。
”俺の”悦ちゃんや。
なんぼ『床上手』で、『美人』の女の子にも代えられへん。俺だけの”聖女”や。
お前らなんかとは、格が違うねん。
「あれ、悦ちゃん? って。野島君?」
横からかけられたのんびりした声に、頭を起こす。
おや、恭子ちゃん。ってことは……。
「こんばんはー。皆ここで飲んでたんやな」
「悦ちゃんが戻ってこないから、どこかで倒れてるかと思ったら。なに? 野島君が捕まえてたんだ」
「そら、会うたらハグのひとつもするのが、恋人違うん?」
「違うって」
なんや、そうか。サークルのほうの打ち上げも、ここやったんや。
悦ちゃんが、なんでココに居るのか、不思議にも思わんかった自分の余裕のなさに笑えてくる。
そんな会話をしている間に、一度悦ちゃんの手にぐっと力がはいる。
視界の隅を、登美さんが通って行くのが見えた。
「心配させて、ごめんな。そろそろ、悦ちゃん、返すわ」
「ひどい彼氏ねぇ。悦ちゃんを図書館の本みたいに」
「あれ? 借りパチしてもええの?」
いや、むしろ俺を貸し出ししたいわ。
「借りパチ?」
首を傾げる悦ちゃんは、声はいつもの声やけど。細い目が心配そうに俺を覗き込んでいる。
ごめんなぁ。気分よく、飲み会に出とったやろうに。
『借りパチ』は、方言かどうか、なんてどうでもええ会話をしとるところに、いつの間にか姿を消しとったサクが座敷から出てきて、心配そうな声をかけられる。
あっちこっちに心配かけとうわ。
アカンなぁ。暴走してしもたら。ちょっと、口、慎まんと。
「元気になったなら、戻りやがれ」
憎まれ口を叩くサクに軽く謝った俺は、悦ちゃんたちとは別れて座敷に戻った。
サクと一緒に、元の席に腰を下ろす。
対角に座ったリョウに片手で拝む仕草をすると、向こうからは軽く手を上げるだけの返事が返ってきた。
「リョぉウー、私もう帰るー」
障子が開くなり聞こえてきた声を聞かないふりで、グラスに口をつける。
「あー。じゃぁ、私もー」
「ん、だったら送っていく」
ジンが、自分の彼女の声に反応して立ち上がる。
「なら、少し早いけどお開き、だな。リョウも登美さんを送っていくだろ? ユキは?」
「……帰る」
「悦子さん、いいのか?」
この前の今日で、これ以上、悦ちゃんに心配はかけられへんし。
一つ頷いた俺の頭を軽く撫でて、サクも立ち上がった。
「ユキ、飲み直しするか?」
店を出たところでかけられたサクの誘いに、ありがたく乗った俺は。
その日、日付が変わるまでサクの部屋で飲んだ。
翌日は、見事な二日酔いやった。




