学園祭シーズン
二度と悦ちゃんを傷つけない。
そんな誓いを胸に秘めた悦ちゃんとの”二回目”の時を過ごして。
元から色白の和風美人やった悦ちゃんは、華が開いたように綺麗になった。無色透明やった彼女の纏う雰囲気に、シャボン玉によぎる微かな色合いに似た淡い色が見え隠れするようになった。
そして、細い目がいつも幸せそうに微笑んで、『ユキちゃん』と俺を呼ぶ声に艶が乗る。
そんな変化に自分で気づいていない悦ちゃんは、『飲まない、注がないじゃ申し訳なくって……』とか言って、俺を相手にビールを注ぐ練習を始めた。それなら……と、夕方、俺の部屋に来たときには、少しずつ飲むほうも練習させる。二度と潰されることが無いように、自分の酒量を覚えるようにと。
少々のアルコールを入れた俺が、ほんのりと上気した悦ちゃんの色気にヤられて、もっと上気するようなこと、してまうのは……まあ、ご愛嬌。
そうして軟膏が肌になじむように、俺の隣にいるのが当たり前になった悦ちゃんの存在に、些か暗い独占欲が、心をよぎる
俺だけを、ずっと見とってほしい。
俺だけが、ずっと見とりたい。
悦ちゃんを、どこかに閉じ込めてでも。
死ぬまでずっと……俺のそばで。
そんな無茶をするわけにも、するはずも無いまま、夏が盛りを迎える。
この年のお盆に、悦ちゃんは初めて俺たちのライブを見に来ることができた。
一人で来させるのは俺が心配やったから、ゆりさんにお願いして一緒に来てもらって、やったけど。
翌日、午後からバイトがある悦ちゃんと、西のターミナル駅の近所で昼飯を食った。
俺が午後の新幹線で帰省するから、一週間ほど会われへんようになる。その前に少しでも、顔を見ときたいって。
『帰りたくないねんけど』と思いながらも、祖父ちゃんの七回忌の法事もあるし。
注文した料理を待つ間。
「良い意味でね、音に酔ったの」
そんなことを言いながら、悦ちゃんは昨夜の興奮が冷めない様子でライブの感想を伝えてくれる。その話の合間合間にはさまれる『ゆりちゃん』という呼び方に、二人がぐっと仲良くなったことも伝わってくる。
「マサ君の演奏なんて、『高校から聞いてるし』って昨日言ってた」
サラダにフォークを刺しながら、悦ちゃんが ゆりさんの口調を真似る。
「サク以外の三人は、高校の文化祭でも演ってたらしいわ」
「そんなに、前から?」
「うん。偶然そのステージを見たサクが、去年の俺みたいに、『一緒にやらせろ』って言うて。だったらって、学園町の大学にそろって進学したみたいやな」
「うわぁ」
目を見開くようにした悦ちゃんのフォークから、トマトがポトリと、皿に落ちる。
無茶苦茶やろ? そんな理由であいつら、進路決めてんで?
そやけど。
「そんな無茶をアイツらがせんかったら。俺とは逢うことなかってんなぁって思ったら、すっごい運命みたいなモン、感じる」
これから帰る地元では、得ることができなかった”俺の居場所”。織音籠が産まれてなかったら、出会うことができてなかったら。俺は、唯一の居場所である”悦ちゃんの隣”に、もっと執着して。もっと悦ちゃんを束縛したくなって……洒落にならへんこと、してそうや。
フォークを握る悦ちゃんの右手で、シルバーリングが光る。
するはずの無い絆創膏の香りが、した。
その幻の香りで我に返った俺は、自分の考えの危うさに内心でぞっとする。
ホンマ、厄除けの指輪、やな。
さっき食べそこなったトマトを口に運んだ悦ちゃんは、何も知らないまま、話の続きをする。
「なんだか、昨日の曲みたい」
「ラストのアレ、やろ? 悦ちゃんが聴きにくるから、って演ってもらってん」
ジンの低い声が、脳裏に流れる。
「わたし?」
「そうやで。俺、こっちに来なかったら、悦ちゃんとも逢えんかったもん」
昨日のラストの曲は。マサとジンが高校時代に初めて作った曲、やった。
時空を超えて、友人や愛する人と出会えた喜びを歌った歌。
作詞のジンは、『ちょっと当時かぶれていたSF作品があってさ……』って、照れとったことがあったけど。
運命、ってあるやんな? きっと。
さっき運ばれてきた熱々のオムライスを食べ始めた悦ちゃんを眺めながら、俺もスプーンを口に運ぶ。
俺の大事な大事な居場所。
織音籠と、悦ちゃんの隣。
無くしたくない二つのものと出会えた”運命”に
感 謝。
夏休みを終えて、前期試験、後期のガイダンスと去年どおりに時間は過ぎる。
そろそろ、周りでは必要な単位の修得に目途がついて、必要最低限の履修のみで済ませようとする学生が増えてくる時期、らしいけど。
アイツらに、負けとられへんやん? リョウみたいによその学部の勉強までは無理でも、自分が受けられる講義は、ひとつでも多く取らんと。
「野島、こんなに授業とるのか?」
履修登録の手続きに行った学生課で、一緒に並んでた木下が、俺の履修登録表を眺めて目を丸くする。
「単純に、授業料を講義数で割ってみ? 俺のバイトの時給よりはるかに高い金払っとるねんで? メッチャもったいないやん」
「さすが、浪速商人」
「俺、大阪人と違う」
大阪と兵庫は、別モンやで?
そんな俺の言葉にクスクス笑いながら、亜紀ちゃんが隣に居る悦ちゃんの履修登録表を覗き込む。
「悦ちゃんも、結構数とってるねぇ」
「はい」
「野島君に、合わせて?」
「ええと、その……」
「定期代かて、もったいないもんな?」
赤くなって言葉に詰まった悦ちゃんに、助け舟をだす。
「定期代なんか、お前とのデートで元が取れるんじゃねぇの?」
「学生の本分は、お勉強です!」
木下の茶々に、かけてもいないい眼鏡を押し上げる仕草をしながら応えてやる。
「子ヤギが、ロッテンマイヤーさんになったぁ」
亜紀ちゃんの声に、悦ちゃんもクスクス笑う。
『次の人ー』と、呼ぶ学生課の職員の人の声に、慌てて木下がカウンターへと近づく。
「ロッテンマイヤーさんが”ユキちゃん”なら、ハイジも寂しくなかったのにね」
「俺は、子ヤギやないから。フランクフルトでもどこでもついて行くで?」
俺にだけ聞こえるくらい小さな声でつぶやいた悦ちゃんに、そう応えてみる。
悦ちゃんは、いつものように目を細めて、笑った。
そうして今年も、学園祭の季節が訪れた。
今年は、経済大、外大、総合大、の順番に週代わりで行われる。外大にはジンを、総合大にはリョウを、そして経済大には俺を代表者としてステージを申し込んだ。
初日の経済大の日は、昼飯の少し前までは悦ちゃんと居れたけど、準備もあるから途中から別行動になった。
「ごめんな、悦ちゃん」
「ううん。ヨッコちゃんたちと、見て回るから。大丈夫」
「知らん人に付いてったら、あかんで? お菓子、貰ったら……」
「おい、小島。小学生とは違うんだから……」
俺たちのやり取りを隣で見ていた広尾に突っ込まれた。
お前かって、ヨッコちゃんが別行動したら心配になるって。
「心配しないで。ステージ、見に行くから。がんばってね?」
「うん。ほな、打ち上げで会おな?」
「無理、しないでね」
首をかしげるように見送る悦ちゃんの頭を軽く、ポンポンと叩いて。
「広尾。バンドのほうの打ち上げが終わったら、そっちの打ち上げに顔を出すから。それまで悦ちゃんを頼むわな?」
織音籠のほうは、『リョウの部屋で軽く』って言うとるから。長居はせんつもりやし。
顔の前に手を立てて、軽く拝んだ俺に広尾がOKのジェスチャーをして。
俺は、リョウたちとの待ち合わせに向かった。
気分良く演奏させてもらった後のビールは、うまい。
リョウの部屋の乾きモンだけをつまみに、飲んで飲んで、笑って。
気の置けない仲間と、気分良く飲んどった空気を破ったのは、玄関チャイムの音やった。
軽く返事をしながらリョウがドアを開ける。
「今日、来るなんて言ってなかっただろ? 酒も入るし、また明日、部屋に行くから。今日は、帰れ。な?」
そう言い聞かせるリョウの言葉を無視するように、部屋に上がってきたのは。登美さん。
「うわ、出た」
俺の隣に居ったマサが、小さな悲鳴を上げる。
「マサ?」
「由梨に影響されたのか、ちょっとあの子苦手でさ」
そんな会話をしとる俺たちの正面に、我が物顔でテーブルに座る登美さん。それに対して、『仕方ないな』って顔で自分の分のビールをテーブルから取ったリョウがその隣に腰を下ろす。
それを見てとったマサが数本のビールとスルメの袋を抱えて、部屋の隅に逃げたので俺もついて行く。
俺かって、あの子、苦手やし。悦ちゃんイジメたから、仲良く”おしゃべり”なんか、したくないし。
「ねぇ、リョぉウ。ビール開けてよー」
テーブルに並んだ缶ビールの一本を差し出しながらしなだれかかる登美さんの手から、リョウが苦笑まじりに缶を受け取る。
「それだけ飲んだら、送って行くからな。おとなしく帰るんだぞ」
そう言ったリョウがプルタブを起こすのは、いつも俺が悦ちゃんにしとるのと同じやねんけど。
『ありがとう』くらい、言わへんか? 俺が勝手に開けても悦ちゃん、毎回言うで? あの目ぇを、きゅっと細めて『ありがとう』って。
お前、今。リョウに頼んだのやろ? 男、は、”下僕”やないんやで?
『一本だけ』って言うたはずのリョウの言葉は、あっさりと無視されて。登美さんが次々と缶を空ける。その度に『爪が割れるー、リョウ開けてー』って。
割れるような爪なら、伸ばすな、言うねん。
心の中で突っ込みを入れながら、俺はマサと黙って部屋の隅で飲んどった。
「そういえば、マサぁ?」
登美さんに呼ばれたマサの肩がビクッとゆれた。そんなにビビらんでも……。
「あの、地味ぃーな彼女とは、まだ続いているの?」
「まぁな」
「ねぇ。私の友達でぇ、マサだったら付き合ってもいいかなーって子がいるんだけどぉ。乗り換えない?」
「……」
何で、乗り換えるなんて思えるんやろな。あんだけ、”夫婦”なこいつらに。
黙ってしもたマサのつり目が、険悪に釣り上がって見える。
あーあ。怒らしてもた。
横目でマサの様子を見ながら、ビールに口をつけた俺にも、魔の手が伸びてきた。
「あ、ユキもどう? 結構、美人な子が知り合いにいるんだけどぉ?」
ふ ざ け ん な や。
誰がお前に、『女、世話してくれ』言うた? 余計なおせっかい焼くなや。
「ごめんな。俺、今の彼女でごっつい満足しとんねん。他の子は、どんな美人さんでもいらんわ」
それでも、リョウの彼女やし。また悦ちゃんにケンカ売られても嫌やから。バイトで培った”営業用”の笑顔を貼り付けて何とか言い返すことはできたけど。
アカン。このままここ居ったら、こんな与太話の相手しとったら。俺の”口”が、暴れてまうわ。
残りのビールを飲み干して、思いっきり腕を伸ばしてテーブルに置いた。空っぽの缶が、思ったより大きな音を立てる。
「リョウ、わるいけど。悦ちゃん思い出して堪らんようになってもたから、ちょっと行ってくるわ」
『また、明日』って言うて立ち上がる。隣で怒った顔をしとるマサの頭を二つほどポンポンと叩いて、俺はリョウの部屋を後にした。
サークルの方の打ち上げは、いつもの居酒屋。
リョウの部屋からは、歩いて三十分もかからん距離を、腹立ち紛れに大またで歩く。
あっという間に店について、店員に案内された襖の前で、深呼吸を二回。
忘れろ。あんな、気分悪い女のことなんか。ここ、入ったら……悦ちゃんが居る。
「遅くなりましたー」
いつもよりも陽気な風を装って、襖を開ける。
「おー、野島。遅刻の分、イッキな。そうだな、十分につき、一杯」
「勘弁してください。さっきまで別件で飲んできたんやし」
十分につき一杯、って。急性アルコール中毒で死ぬわ。
「仕方ないな、じゃぁ、駆けつけ……」
「ああ、もう。ほな、一杯だけイッキいきます!」
手近なグラスになみなみと注がれたビールを一息に飲み干す。
くらっと、脳が一瞬、揺れる。
悦ちゃんの隣の座布団に腰を下ろす。
お絞りと箸とグラスが一人前、キレイなままで置いてあるのは、俺の分。やんな?
違う、言われても。悦ちゃんの隣は、俺のモン。
「悦ちゃん、大丈夫?」
「はい。ユキちゃんは?」
悦ちゃんの前に在るグラスにはビールの泡、ついてないし。悦ちゃんの笑顔も、いつもの感じやし。
「うーん。大丈夫やない、って言うたら、介抱してくれる?」
「はい?」
手を拭き終えたお絞りを、テーブルに置いて。
酔ったふりで、隣に座る悦ちゃんにしがみつく。
大丈夫や無いのは……俺の方か。
ほのかに感じる悦ちゃんの体温に、さっきの怒りが咽喉下までこみ上げてくる。それと同時に、言いようの無い不安も。
「悦ちゃん」
「はい」
「悦ちゃん」
「はい?」
「俺から、離れんとってな」
誰が何を言うても、俺は、悦ちゃんを離したりせえへん。
そやけど……。
逆に悦ちゃんが、『もっとええ男、紹介する』みたいなこと誰かに言われたら?
悦ちゃん、『嫌や』って、言うてくれるやろか?
「俺には、悦ちゃんだけやから」
「はい」
ホンマに? ホンマに『はい』って思っとる?
『はい』しか言われへんからと違うやんな?
不安と、不信に振り回される心を留めるための碇になるものを求めて、左手がさまよう。
指先に触れた何かに指を絡めるようにして握り締める。
悦ちゃんの首筋に埋めていた頭を少しだけずらして、自分がつかんだものを見る。
悦ちゃんのおなかの前辺り。白くて柔らかい悦ちゃんの右手に絡んだ自分の浅黒い指に、ほっと息をつく。
「野島?」
「うん?」
「大丈夫か?」
「うーん。結構、キテるかもしれへん」
広尾らしい声に、頭を上げんまま答えた俺の背中に、そっと触れるものがあった。
タム タム タム タム
一分間四十拍くらいのペースでそっと叩かれる背中。額を押し付けとる悦ちゃんの左肩も、同じリズムで動いていた。
「ユキちゃん、しんどいなら帰る?」
「うー」
「ユキちゃん?」
「しばらく、こないさせとって?」
「はい」
緩やかに背中を叩き続ける悦ちゃんの手に、意識を集める。
離さへん、離さへん、離さへん……。
離れへん、離れへん、離れへん……。
これ以上邪魔、されるなら。
いっそ、二人でどこか……誰も来られへんくらい遠く、へ。




