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バベル 第二部 パンドラの匣編  作者: 依田一馬
4.怠惰の緑の弓
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第四章 4

「駄目そうね」

 数十分後、壬生らがいた建物を仰ぎ小さく息をつく女がいた。

 彼女は流れるようなブロンドの髪をかき上げ、独特の赤銅の瞳を木製の扉へと向ける。そして、ためらいなく真鍮のドアノブを回したのだった。

 中は無人である。しんと静まり返った室内には、今の今まで人が生活していた痕跡が残っている。簡素な机の上には焼いたパンが転がっている。指先で軽くつつくと、微かに温もりを感じた。

 この場所には誰もいない。そう判断し、彼女は階段へと目を向ける。

「上かしら……?」

 その時、突如彼女の視界が陰った。開け放ったままの戸口に背の高い男が立ったのだ。

「外はどうだったの? “強欲(Avaritia)”」

 彼女はのろのろと振り返り、微笑みながら『彼』へと言葉を投げかける。

 ドアに凭れかかるようにして立っていた男――“強欲(Avaritia)”は、そんな彼女に肩を竦めて見せた。

「駄目だ、また気付かれたらしい」

「本当に『あのひと』は勘が鋭いみたいね」

 彼女――“色欲(Luxuria)”もこれには相当参ってしまっているようで、溜息を洩らしながら床の木目へと目を向けた。彼女の端正な顔が伏せられたことで、重力に従い金髪がさらりと流れ落ちる。

 これで何度目だろう。いい加減けりをつけたいところだが、何故か上手くいかない。まるで見えない何かに阻止されているようだ。

 彼女は困り果てた表情のまま胸の前で腕を組み、

「どうやら、そこで『あの方』は釈義を使ったみたいよ」

 そして顎で食卓の横を指す。確かにその場所からは釈義の残滓が感じられる。“強欲”もそれを確認し、恐ろしく長い息をついた。

「あーあ、釈義を使えば使うほど自分の首を絞めるだけだっつうのに……あの親父は一体なにを考えているんだか」

 事の始まりは五年前に遡る。

 五年前の冬――帯刀雪と会い現在の状況を共有した時、彼女らは一番大切なことを帯刀に伝えていなかった。否、敢えて伝えなかった、の方が正解か。

 実は、“強欲”“色欲”の二名だけが大司教ヨハネスの所在を知っていたのである。

 そもそも大司教ヨハネスが「逝去した」と公表されて以降、どうして「その身を隠すことができたのか」。答えは至極簡単で、“七つの大罪”の中でその命を担わされた特定メンバーが常に自分の“封印(シール)”の範囲に彼を置いていたからなのだ。

 そしてその役目を負ったのが、彼ら二名。莫大な釈義を行使するあまりひとりでは移動することすらままならないヨハネスを内密に補助することで、彼の『時間遡行』を支えていた。

 ところが、件の“憤怒(Ira)”戦以降事態が大きく変わったのである。

 五年前のあの日、“憤怒”が帯刀相手に戦闘を仕掛けたために場が混乱し、“色欲”も“強欲”も一度その場を離れざるを得なかった。その後の後処理は大司教の子飼い(・・・)であるトマス・レイモンが対応したのだが、そのトマスは現在行方不明になっている。落ち着いてから彼女らは元の廃工場に戻ったが、既にその場所に大司教の姿はなかった。

 この状況だけ見ればトマスが一枚噛んでいると考えるのが自然だが、そうなると五年もの間行方知れずになる理由が分からない。それに、あの男は出掛けに「古巣に行く」という言伝だけは残していた。その状況で、彼が大司教を連れ逃走するなど考えられるだろうか。

 結果、彼女は手掛かりになりそうな情報全てを用いて探し回ることとなる。さらに頭が痛いことに、そうしているうちに行動不能となっていた“憤怒”が復活し、大司教の息子である姫良三善のもとに向かってしまったと聞く。さすがにそれを見過ごすわけにもいかなかったため、“怠惰(Acedia)”を派遣し監視させることにしたが――大司教捜索に注力している間に、どうやら“憤怒”は浄化されたらしかった。

 五年の年月をかけ、あと一歩というところまで追いつけるようにはなったのだが、肝心なところでヨハネスに逃げられてしまう。今回も例外でなく、本人の近くまで迫ったところでまたしても彼女らの到着を察知されていたようだ。全世界を股に掛ける追いかけっこに、さすがの“色欲”も疲労を隠せないでいる。

「それにしても、どうやって逃げ回っているのかしらね。短期間の『時間遡行』を繰り返していることは分かるのだけれど、それにしては流出する情報が曖昧ね」

「ああ、それは俺も不思議に思う。まるで、五年前の『契約の箱』みたいだよな」

 ええ、と“色欲”は頷く。

 確かに、大司教にまつわる情報はなぜか肝心なところで曖昧になる。かつての『契約の箱』がそうだったように、真実に近づこうとするたびにうやむやにされてしまう。まるで、誰かが意図的にその因果関係を崩して回っているようだ。

「まあ、悩んでも始まらないだろ。次だ、次。とりあえず“憤怒”が姿を消したというだけで少しは肩の荷が下りた。“怠惰”はそのまま姫良三善を監視すると言っているから、少しは猶予ができたと考えていいだろう」

「ええ、まあ、そうね」

 彼女の中で、何か漠然としたものが引っかかっていた。

「俺は先に行く。今日はこのまま少しだけ休んで、明日作戦を考えよう」

 そう言い残し、“強欲”は部屋を出て行ってしまった。

 ひとり残された部屋の中、しんと静まり返る冷たい空気。

 彼女は一度瞳を閉じ、じっとなにかを考えていた。

 ――本当は気がついているはずだ。

 彼女も、今部屋を出て行った彼も例外でなく、その違和感に気がついている。それを敢えて口にしないのは、各々の今までの生き方を否定することになるからだ。

変わることは、誰だって怖い。

 人間は変わり続ける生き物だ。一時も止まっていることなど、ない。だからひとつの魂を変えることなく使い続けなければならない『彼ら』にとってはそれが心底羨ましい。

 我々はどこから来たのか?

 我々は何者か?

 そして、我々はどこへ行くのか?

「――果たすべき目的は同じなのに、ね」

 私たち“七つの大罪(DeadlySins)”は、それしか生き方を知らないから。自分の存在意義は、己の持つ欲にしか見いだせないから。

 だからこそ、彼女は思うのだ。

「どうせなら、真夜が近くにいてくれたらいいのに……」

 その時だった。一度閉まったはずの玄関の戸が突然開き、ひとつの影が差しこんできたのは。

「あら、先客? それとも愛人とか言いませんよね?」

 女性の声だ。“色欲”はがばりと振り返り、その声の正体を確認しようとした。

 その女はどうやら東洋人らしい。くすんだ栗色の髪に、黒のパンツスタイル。彼女はここまで一人でやってきたのだろうか、上から羽織っているコートの左胸あたりに独特のふくらみがある。おそらく、護身銃か何かだろうが――まぁ、あれくらいではこちらは痛くもかゆくもない。それよりも気になるのは、彼女の薄氷色の瞳だ。その色はどこかで見たことがある。

 どこで見たのかを思い出しながら、“色欲”は咄嗟に愛想笑いを浮かべる。

「あら、このお宅の方かしら」

「質問をしているのはこっちよ」

 彼女の凛とした態度にも、やはり既視感がある。

 こういうとき、普通の人間はどう対処するんだったか……。

 長く生きていると、そんな些細な日常の一言も思い浮かばない。歳をとるのはだから嫌なのだ。何回体を変えようとも、ベースになる脳の仕組みは普通の人間と同じ。時間の経過により古い記憶はどんどん曖昧になってゆく。これではただの御長寿記録保持者ではないか。

「愛人って、誰の? 『あの方』ならもうここにはいないわよ。あなたこそ愛人?」

 そんなとりとめもない思考を無理やり断ち切り、彼女はその東洋人の女に一応聞いてみることにした。

 刹那、女は“色欲”に向かって銃器をつきつけた。素人とは思えない手つきに“色欲”も思わず感嘆の声を洩らすほどだ。しかし、“色欲”も黙っている訳ではない。つい反射的に、己の能力“鍵爪”を発動してしまった。右手の人差指と中指、二本の爪を瞬時に長くのばし、彼女の首を左右から掠めるように固定した。ストン、と突き刺さる音。少しでも動けば、彼女の頸動脈はあっさりと切れる。

「……あたしはあいつ(・・・)の娘よ」

 しかし、銃を手にした彼女は相当肝が据わっていた。彼女は真っすぐに“色欲”を見つめ、吐き捨てるように言った。

「“七つの大罪(DeadlySins)”がどうしてここに?」

「娘? 『あの方』に娘なんていたかしら」

「あなたたちが出てくるなんて、あの狸親父は何をしているんだか……」

 そこで、二人は同時に表情を変えた。ようやく互いに話がかみ合っていないことに気がついたのである。

 一度互いに冷静になるべきではなかろうか。

 東洋人の女が先に銃を下ろした。そして、今は撃つつもりがないことをはっきりと明言する。

「私は帯刀(たてわき)秋子(あきこ)。帯刀と言えばさすがに分かるでしょう。あなたは……“色欲”ね」

「ええ、その通り」

 相手がそのつもりならこちらから危害を加える理由はない。“色欲”も瞬時に爪をひっこめ、手首を軽く押さえる。

「タテワキ……あの少年の結縁者か。天下の情報屋さんが、どうしてこんな辺鄙なところに?」

「同じことをそっくりそのまま返すわ」

 彼女――秋子は溜息混じりに言う。「私はうちの先代を探しに来たんだけど。やっと居場所が掴めたと思ったら、何でか知らないけれどあなたがいるし」

「先代? 私は『あの方』がここにいるって掴めたからここに来たんだけど、私が来た時には既にもぬけの殻で」

「あの方?」

「大司教」

 つまり、探している人物は互いに違う、ということだ。

 それを知ると同時に、秋子も“色欲”も同時に溜息をつくしかできなかった。二人して目的物に遭遇することはなかったということだ。がっかりもいいところである。

 だが、落胆する“色欲”の前で、突然目を光らせたのは秋子だった。

「ということは、うちの馬鹿親父と猊下が一緒にいる可能性も、ない訳じゃないのよね」

「え? ええ……そうね」

 手掛かりはまたなくなってしまったけれど。

 しかし、秋子はそう思っていなかったらしい。数秒なにやら考えた後、結論を素早く出した。彼女の頭の回転速度は、おそらく己の倍以上だ。

「こちらには、まだ手札がある」

 自信満々、といった様子の秋子に対し、“色欲”が怪訝そうな表情を浮かべた。一体なにが言いたいのか、さっぱり分からなかったためだ。少なくとも、秋子と己は敵ではないが味方でもない。わざわざその手札を見せつけるような真似を選ぶことはないのでは、というのが“色欲”の見解だった。

 ところが、秋子の発言は“色欲”の考えをあっさりと覆す。

「あなた、帯刀家の『青の瞳』についてはご存じ?」

 尋ねられたので、“色欲”はやんわりと首を動かした。

「何となくは。あなたたちが常に世界をリードしてきたのは、その瞳の力があると言われているわね」

「ええ。この瞳は心が読める(・・・・・)。その能力に一番長けているのは現当主の雪だけれど、同じ瞳を持つ同士なら、比較的容易く探れるもの。うまく使えば、次に行く場所を特定できる」

 だから、と秋子は“色欲”にはっきりと言い放った。

「私についてくる? あなたが無暗に動くよりは、私と手を組んだ方が手っ取り早いと思うけれど」


***


 “色欲”が秋子の提案に対し首を縦に振ったその頃。

 危なかった、と肩で息をするヨハネスがいた。

「毎度毎度思うけど、君って本当、逃げ脚だけは速いよねぇ」

 その横で呆れた口調の壬生が呟く。「同じおっさんだとは思えない脚の速さだ」

 まぁ、本当に走って逃げた訳ではないのだが。

 ヨハネスが釈義を展開し、そこから逃げたのである。ヨハネスの持つ釈義は先天性三種。しかし、一般的な化学系でも物理系でも、ましてや生体触媒系でもない。

 彼の持つ釈義は数少ない特殊系。時間をほんの少し――最大で二日ほど――戻してしまう能力がある。そんな訳で、今彼らは急遽一日前に戻り、適当な飛行機に乗り込んだところだった。

 時間を戻した場合の作用については考えれば考えるほど思考が迷宮入りしていくため、壬生はその辺りは深く追求しないことにしていた。物事は、なると言ったらそのようになるのだ。細かいことを気にしていたら己の年老いた脳みそはすぐにパンクしてしまう。

「それで? 猊下、これからどこに行きます?」

 尋ねると、壬生の隣でヨハネスは既に船を漕いでいるところだった。釈義『時間遡行』の対価は『眠り』なのだから、その能力を使えば使うほど睡眠時間だけが伸びてゆく。

 まぁ、いいか。あとからどうにでもなる。重要だから何度も言うが、「物事はなると言ったらそのようになる」。天命は確かに存在する、だからそれは決して避けられない。常日頃そう考える壬生は案の定すぐに諦めて、彼同様少しだけ眠ることにした。

 それにしても――まさか、我が長女・秋子が己の居場所を突き止めてくるなんてこれっぽっちも考えていなかった。それも、気配も見せずに、だ。なんとなく裏で長男が動いたような気がしないでもないが、いずれにせよあの姉弟が手を組むとなると非常に厄介だ。

「愛する娘が父を追いかけてくるとは……うーん、なんか嬉しいような、そうでもないような……」

 本人が聞いたら罵倒されそうな台詞を呟きながら、彼はゆっくりと瞳を閉じた。

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