第四章 5
彼、ホセ・カークランドは小さく息をつき、それから困り果てたように右手で首筋を掻いた。
久しぶりに訪れた『聖都』。海外出張は五年ぶりのため、身体もまだ慣れていない。軽い時差ぼけを覚えつつなんとか目的地を訪れたのだが、どう表現すべきか分からない事象に直面してしまった。そしてそれを『不可解』だと認識している者が身近にいないという、最悪の事態。
――まあ、ヴァチカンに「それ」が存在しないと言われた段階で妙だとは思ったのだが。
ホセは外套から携帯を取り出し、ディスプレイを確認する。時刻は一三時。日本との時差は六時間だから、今電話しても怒られることはないだろう。
ホセは隣にいたマリアに声をかける。彼女もまた、外の寒暖差に負けないようフード付きの薄いポンチョを羽織っていた。ホセの呼び声に反応しくるりと踵を返すと、ポンチョと裾の長いスカートが円を描いて翻る。
「マリア、ちょっと電話してもいいですか。ジョンのところです」
彼女はその赤い瞳で一度ホセを仰ぎ、小さく頷いた。
「待っている間、あそこにいてもいい?」
彼女が指さした先は、市場の一角にある露店だった。女の子が好きそうなアクセサリーが立ち並んでいるのが見て取れる。
この街を少女ひとりで歩かせるだなんて。真っ先に治安の心配をするホセだが、同時にこうも思う。
とはいえ、マリアは『A-P』でもある。彼女なら何かあってもどうにかなるだろうし、一応その露店は目の届く範囲にある。悩みに悩んだ結果、ホセは渋々首を縦に動かした。
「なにか素敵なものがあれば買ってもいいですよ」
そして五〇シェケル分の硬貨を持たせてやる。
その瞬間、マリアの表情がぱっと明るくなった。よほど嬉しかったのだろう、やや早足で露店へと向かっていった。
その背中を見つめながら、ホセは携帯を耳に当てる。数回のコールののち、掠れた男の声が聞こえてきた。
『おー……ホセか。もう着いたんだ?』
「ええ。ブラザー・ジョン、おはようございます。寝起きですか?」
尋ねると、ジョンは欠伸をかみ殺しながら肯定する。
『昨日遅かったんだよ。例の菖蒲十条と東西の調査で科学研は稼働率一〇〇パーセントの状態が続いている。正直死にそう』
「なるほど」
それで、とホセはマリアに気を配りながら調査の進捗について尋ねた。マリアはきらめく金属のパーツを眺め、随分楽しそうにしている。時々ホセの姿を確認するためにちらちらと目を向けてくるので、そのたびにホセは空いている右手を振ってやった。
ジョンはのろのろとした口調で言う。
『どうも、御陵市の件とは状況が違うみたいだなぁ。今はそれしか言えない』
「それはそうでしょう。御陵市の件は『パンドラの匣』の影響を受けたから発生した事象ですし」
『いや、そうじゃなく。ああ、なんて表現したらいいのか俺には分からん。例えるなら――そうだな。お前が現役の時に加減を間違えて小国を二つ壊滅させたことがあったろう。あんな感じだな』
「……ええと、特に言い逃れはしませんが、なんとなく分かりました。つまり菖蒲十条と東西の件はあくまで『偶然の産物』だと言いたいのですね」
そうそう、それだ、と受話器の向こうでジョンが主張している。
『要するに、塩化する特定の条件を‟うっかり、たまたま”満たしてしまった。それも二か所同時に。で、その特定条件というやつを調査中。ま、こんなところかな』
「ふむ、アテはありそうですか」
『ああ。お前が過去に色々やらかしてくれたおかげで、塩化するときのメカニズムは熟知しているからな。ただ、少しチビわんこにも意見を仰ぎたい箇所がある。あー、能力者という点ではお前でもいいかな』
「釈義に関することですか?」
『うん。因果律を再構築する釈義って存在するんだっけ?』
ジョンが何を言っているのか、ホセには分からなかった。彼はなにかとんでもないことを言い放った気がするのだが、聞かなかったことにした方がよいだろうか。
ホセはええと、と微かに言葉を濁し、のろのろと答える。
「いや、因果律だけを操作するのはさすがに無理じゃないですか。所詮我々は人間です」
『だよな。そうだよな、つーかそれができるなら苦労しないよな』
「強いて言うなら、」
ホセが瞼を持ち上げる。「特定地点まで『時間が戻れば』、可能かもしれませんね」
ジョンが微かに口を閉ざした。
暫しののち、ジョンは軽く咳払いし、次の言葉を放つ。
『ま、それはいいや。お前の方はどうだ』
「ああ、ええと。ちょっと困ったことになりまして。だから電話したんです」
ホセの言葉に、ジョンが困惑した声を上げる。ホセはそのまなざしを塩により白く変色した街並みへと向け、ゆっくりと反芻するように言った。
「見つからないんです、どこにも」
『は? それはどういうことだ』
「言葉の通りです。『漁夫の指輪』が、どこにもないんです」
そう、ホセがはるばる聖都までやってきた理由はこれである。
教皇の証である『漁夫の指輪』を預かり、エクレシア本部に持ち帰ること。
ここ数か月の間で立て続けに『塩化』現象が起こっていることから、エクレシアは枢機卿団に対し早急に対策を打ち立てるよう強く求めていた。とはいえ、これほどまでにイレギュラーな出来事は未だかつて発生したことがなく、科学研による解析も思うように進んでいないのが実情だ。しかしながら、対応が遅れれば遅れるほど信者は不満を露わにする。ここまで粘り続けた枢機卿団だったが、いよいよ限界が近づいていることは明白だった。
そこで彼らは長い時間をかけて話し合い、ひとつの結論を導き出した。
――次代の大司教を選任すること。
大司教の権能があれば容易にできることですら、今は煩雑な手続きを踏んで行う必要がある。また、大司教を擁立することで少なからず信者の不満は吸収されるはず。その他諸々の思惑があってのことだが、ここでは割愛する。
そして、誰を擁立するかだが――。
ホセが『漁夫の指輪』を回収する命を受けた段階で、周囲はその答えに気づいていた。そして依頼を受けたホセ自身も、「ああやっぱり」と特段驚きもしなかったというところがまた悲しいところである。
さて、その『漁夫の指輪』は大司教が何らかの理由で退任した場合に教皇庁に返還され、印章の部分を破壊することとなっている。大司教ヨハネスが逝去した際も例外でなく、当時使用していたものは『死体が存在しない』状態だったにもかかわらず、何故かきちんと回収できていた。その際に印章は破壊され、再びヴァチカンにて厳重に保管された――はずだった。
エクレシア本部の記録ならびに己の記憶を頼りにヴァチカンを訪れたホセは、思わぬ出来事に遭遇してしまった。
――『漁夫の指輪』がない。
否、この表現はあまり適切でない。枢機卿団の担当者へ確認したところ、彼は首を傾げながらこんなことを言ってきたのである。
――いや、『漁夫の指輪』はヴァチカンで管理していませんよ。今は『聖都』で厳重に保管されているはずです。
ほら、とその担当者がその記録を開示してくれた。確かにそこには、例の指輪が『聖都』へ輸送されたことが記されている。そして日付は、なんとホセが本部で見た資料と一致しているではないか。
その瞬間、なにか厄介なものに首を突っ込んだ気がしたホセである。しかしここで諦めるわけにもいかず、渋々『聖都』へと向かうこととなる。
そして先述の「指輪がない」という発言へと戻る。
「管理体制がなっていないとか、事前に手配しておけとか、色々言いたいことはありますが……ないものは仕方がありません。この際新しく作ってしまえばいいんじゃないでしょうか。どうせ当分はヒメ君のものになるんです、与えたところであの子はすぐに壊しますよ」
『お前が今相当怒っていることは理解した。しかし、一応自分の息子なんだからもう少し可愛がってやれ。ついでに言うと、今回チビわんこはなにもしていない。とばっちりもいいところじゃねぇか』
「私ね、ちょうど今露店の前にいるんです。五〇シェケルで済むならいくらでも買いますよ、私は。幸いあの子の指輪のサイズは知っています。名案だと思いませんか」
疲れのあまりついつい現実逃避し始めるホセだった。
本件についてよほど堪えているのだろう。ジョンはなんだかいたたまれなくなり、憐れんだ声で、
『……うん、帰ったら愚痴のひとつでも聞いてやるから、まずは早まるな』
「私は至極冷静です」
『冷静な人は自分のことを冷静だとは言わないぞ』
冗談です、とホセが短く言ったとき、急に裾を引かれる感覚がした。驚いてホセが目を向けると、いつの間に戻ってきたのだろう。マリアがホセを仰ぎしきりになにかを訴えていた。
「失礼、」
ホセは携帯の送信側に手をかざし、マリアに声をかける。「どうしました?」
よくよく見ると、マリアはその手に何かを握りしめていた。何か買い物をしてきたのだろうか。だが、それにしては様子がおかしい。
「これ、」
マリアがそっと握りしめた手を開き、ホセへ見せた。
金色のインタリオリングだ。不思議なことに印章の部分が熱により溶かされ、元の造形が判別できない状態となっている。見たところ男性用に見えるが――そこでふと、ホセは何かに気が付いた。
「インタリオリング?」
その声はジョンにも聞こえたらしい。ジョンがその発言を問い質したのと同時に、ホセはマリアへと質問を投げかける。
「これはあの店で買ってきたものですか?」
違う、とマリアは首を横に振った。
「知らないおじさんが、くれたの」
「知らないおじさんから貰いものをしてはいけないとあれほど言ったでしょう……。まあいいです。それはどんな人でしたか?」
マリアはほんの少し逡巡し、それからまわりをきょろきょろと見渡した。そして、突然街角を指して言う。
「あのひと」
ホセが顔を上げると、確かにそこには二人連れの男がいた。片方は中年、もう片方は老年といったところだろうか。中年男性の方がもう片方の男を支えながら歩いており、建物の影へと消えて行くのが見えた。
ホセは瞠目し、思わず言葉を失う。
「……司教?」
マリアの声に反応し、ホセは震える声でジョンへ声をかける。
「ジョン、また後でかけ直します」
『えっちょっ、おま……!』
問答無用で電話を切り、ホセはマリアを小脇に抱え走り出す。
――まさか、そんな訳ない。
ホセはその男をとてもよく知っていた。もう何年も会っていない、むしろもう会うことがないと分かっているはずなのに、どうして『その人』だと確信したのかが分からない。しかし今は、その人物に会わなければならないと確信していた。
彼らが消えて行った建物の角に到着する。ホセは息切れをもよおしながらその角へ目を向ける。
彼らはすでにその場からは立ち去っており、裏手へ続く路地が真っすぐに伸びているだけだった。
ホセはマリアをその場に降ろすと、額から流れ落ちる汗を袖口で拭う。
「……遅かったか」
マリア、とホセがその名を呼んだ。「少しだけ冒険しましょうか。人探しです」




