第四章 3
南イタリアとはいえ、寒いものは寒い。
彼・帯刀壬生は息を吐き出しながら、秋用のコートを首元にぎゅっと手繰り寄せる。この時期は日本と似た気候だとは聞いていたものの、日が落ちると――とはいえ、まだぎりぎりサマータイムが適用される時期ではあるのだが――相当寒い。日本にある自宅はこの土地よりもかなり寒い場所にあるけれど、あそこにはしばらく帰っていないから、己の身体はすっかり寒さの耐性を失っているようだった。
幸い後継ぎには恵まれた。彼は今、どうやら友人である『次期教皇』の元に身を寄せているようなので、それほど心配していない。少なくとも、ひとり――否。ふたり、か――ならば危険な真似はしないだろうし、なにより黙っていてもその行動がこちらに逐一伝わってくる。
息子の心配をしない親がいるものか。見よ、父はこれほどまでに息子を愛しているぞ。胸を張ってそんなことを言ってしまえば、きっとまた冷めた目でこちらを見つめてくるのだろうから言わないが。
家を出た娘二人も、それぞれアメリカとスウェーデンから動いている気配はない。父親がどこにいるのか探している素振りは辛うじて見せているけれど、今のところ発見された様子もない。まぁ、気付かれたと思った時点で逃げ出すけれど。
うちの子供たちは、揃いも揃って優秀だから。
壬生は唇の端を吊り上げながら、とある建物に入って行った。
この街ならどこにでもあるような普通の民家である。現在の彼はこの部屋を借りている。勿論、適当に付けた偽名を使っているので、誰もこの男が世界を揺るがす天下の情報屋の元・当主だとは気がつかないだろう。
「たっだいまー、っと」
唇からぽろりとこぼれ落ちた日本語。案の定、帰ってきたばかりの部屋はしんと静まり返っている。簡素なテーブルの上には今朝の食べかけがそのまま残っていた。
コートを椅子の背もたれにかけると、その足で二階へと上がってゆく。二階に上がると、微かに軋む扉がひとつ。それを開けると首だけを中に突っ込み、その部屋の「主」の生存を確認した。
「ただいま帰りました、げーか」
文字通りの、生存確認である。
静寂に満ちた部屋の中にはひとつ、ベッドがある。それに横たわるのは初老の男性だ。
肌は本当に生きているのか疑問に思うほどに白い。微かに胸のあたりが上下しており、それでようやく生きていることを確認できる程度だ。
彼は一日のうちに数時間程度しか目を覚まさない。それを知っている壬生なので、最低限の生存確認さえすればそれ以上は干渉しようと思わない。だがこの日は違った。なにかを思い立ったように別の部屋に向かったかと思えば、新しい衣服とタオルを持って戻ってきた。
なんとなく、彼が目を覚ますような気がしたからだ。
部屋に戻ると、彼の予想通り、ベッドの中の男性はぼんやりと瞳を開けていた。暗い色をした瞳は、天井を見つめたままぴたりと静止している。
「おや、起きましたか。着替えは置いておきますから、どーぞのんびり着替えてください。食べられそうでしたら、階下へ」
壬生の能天気な声色に、彼はピクリと瞼を震わせる。
「……あの子は?」
そしておもむろに口を開く。掠れた声は、ざらりと背筋を撫ぜ上げるようだ。
「今も変わらず、のんびりと司教をやっているようです。『契約の箱』もきちんと動作しているらしい。いやぁ、ハラハラするねぇ。一時はどうなることかと思った」
手近の椅子を引っ張り出し、壬生は彼の横に腰かける。そして、いつものざっくばらんな口調で話しかけるのだった。壬生の最後の一言に反応し、ベッドの彼はさらに追及する。
「“七つの大罪”が悪さでもしたのか?」
「いいや、ただの昔話です」
壬生は肩を竦める。
「せっかく『契約の箱』の在りかを隠匿して岩の子に引き継がせたというのに。その人物が死亡するだなんて、あなたもさぞご心労が絶えなかったでしょうに」
男は渇いた笑いを浮かべ、「そうだな」と返答した。
「ところで、猊下」
壬生が問いかけたのに反応し、男は右手を持ち上げ、否定の意を込めて横に振る。
「今は猊下じゃない」
「そうでした。……ヨハネス、あなたはいつまで逃亡生活を続ける気ですか?」
その問いに、彼――ヨハネスは堅く口を閉ざしてしまった。つまりは、まだ隠れているべきだと彼は考えているらしかった。確かに、と壬生も肩を落とす。
「いや、ね。『聖戦』からもう何十年と経っていて、あなたもこれ以上ないほどに上手に隠れている。まぁ、連れ出したのは私だし? あなたがそのように望むなら、これからも隠蔽できる自信はある」
だが、と壬生の口調はこれまでにないほど真剣さが増した。「あなたの御子息――姫良三善が今も教皇の地位を目指しているということは、『終末の日』は絶対に避けられないものになったということ。あの子供は前回『契約の箱』を開匣させ、そして今回も同じ轍を踏もうとしている。Doubting Thomasを利用して岩の子を遣わせたと言っても、所詮どちらも一度地に堕ちた者同士。抑止にはならないでしょう」
「……なぁ、ミブ」
のろのろとヨハネスが口を開いた。「大聖教も、“七つの大罪”も、元々は同じものだ。私のこの発言、何回目だろう?」
「三回目です。でも私はそれに対し『知るか』と三回答えたはずだ」
「じゃあ、あとは鶏を鳴かせてくれよ。それで君は真実と認めてくれるだろ」
ふ、とヨハネスは話し疲れたらしく、ゆっくりと息を吐き出した。「少し眠る。今日中にはもう一度起きるから」
「はいはい。今度こそ何か食べてくださいね。げーか」
善処する、という返答ののち、彼は再び目を閉じてしまった。微かに胸のあたりが上下している。
壬生は呆れたように立ち上がり、眠り始めた彼の部屋を後にした。
***
――きっかけは、本当に些細なことだった。
五年前の飛行機事故が起こる少し前、壬生の息子・雪とその後見人・慶馬が“七つの大罪”と直接交渉に乗り出した。その結果は惨敗で、雪は聖痕をより深くその瞳に刻みこみ、慶馬もまた左腕を失うこととなった。
実は彼らが入院している間に、壬生はそれらの尻拭いをしていたのである。なにせ「あの失敗」は末代の恥だ。ここで手を打っておかなくては、後から面倒なことになりそうだった。帯刀家は信用と完全性を売りにしている。ようやく世界を掌握したところなのに、あの子供はとんでもないことをやらかしてくれたものだ。
「馬鹿息子が。『契約の箱』は不可侵だと言ったろうに……」
今回たまたま自分も加担していたこともあり、正確にはまとめて始末しておこうという魂胆だったのだが。
さて、壬生が件の廃工場に訪れたとき、そこには既に“七つの大罪”らの姿はなかった。冷え切った廊下をゆっくり歩き、一部屋ずつ確認したから確かだ。暖炉には薪をくべたような形跡が残っており、使用済みのカップもそのまま残されている。別の部屋に行こうと再び廊下に戻ると、今度は大量の血痕と砂塵に阻まれる。まだ微かに脂っぽいような、生臭い匂いが残っている。ふむ、と壬生はゆっくりとしゃがみこみ、唯一戸のない部屋を一瞥する。
――ここが『例の場所』か。
「悪かったねぇ、慶馬君」
腕を一本持っていかれたんじゃあ、さぞ痛かったろうに。
黒髪をかき上げながら長く息を吐き出すと、ふと、彼の『青の瞳』が何かを捉える。この建物は先程まで無人だと思っていたのだが、どうやら違うらしい。ずっと遠くの方で、拍動が聞こえる。今にも消え入りそうなその音は、この惨劇の遥か向こうから感じるのだ。
立ち上がると、壬生は気配を辿ろうとその瞳を動かした。おそらく、数はひとり。生きているのが不思議なくらいに微弱な心拍音を追い、壬生は道を突き進む。
恐ろしいくらいに、なにもなかった。
曲がりなりにもアジトなのだから、おそらく“大罪”の最下層あたりはまだ残っているのだろうと思っていた。しかし、不思議なことに彼ら独特の気配の残滓すらないのだ。
前に進むにつれ、どんどん暗くなってゆく。夜目は利く方だが、年齢を考慮してペンライトの明かりを灯すことにした。整然とした雰囲気の中を、一筋の光線だけがつき進む。
奥に階段が見えた。下りだけの階段は螺旋状に伸びていて、明かりを灯しても一体どれくらいの深さがあるのかは想像できない。足元に転がっているモルタルの欠片を拾い上げ、ぽいっと螺旋の中心に投げ込んだ。……数秒後、微かに弾ける音がした。
「うーん、そんなに深くはないか」
ひとりだと独り言も増えるねぇ、と実にのんきなことを呟きながら、壬生は螺旋階段をのんびりと降りはじめた。他に厄介なものがなさそうだと安心しきっているせいか、既にふんふんと鼻歌まじりである。とはいえ、不真面目な素振りであっても、決して隙を見せている訳ではない。その証拠に、彼がその身に纏う気配は実に殺気立っていた。
さて、ようやく地下に降りると、遠くの方に何か四角いものが見えた。ペンライトの明かりを飛ばしてみるも、正体はよく分からない。強いて言うなら、大きさからして棺みたいだな、と思った程度である。
他に何かないか、と周囲を一瞥するが、壬生の瞳にはそれらしいものは感知されない。微弱な拍動が、微かに見える四角いものから感じるだけだ。
ゆっくりと近づいてみると、その全貌が明らかになっていった。
どこかで見たことがあるような造りだな、と思ったら、この場所は聖堂を模して造られているらしい。今壬生が立っている場所が身廊だとすると、棺がある場所は内陣だ。その奥には神台を備えた後陣がある。
ふむ、と壬生は思う。
ここは確か“七つの大罪”が滞在していた場所だよなぁ、と。しかし目の前の聖堂の造りは、彼らの信仰とする神ではなく、大聖教の形式に則っているように見える。
数秒考えて、壬生は考えることをやめた。考えるだけならば後からいくらでもできる。ならば、あの棺をさっさと開けてしまおう。そう思ったのだった。
ようやく棺の前に辿り着いた。蓋は閉められておらず、中はすぐに覗き込むことができた。ひょいと壬生が覗き込んで、
「……うん?」
我が目を疑った。
その中に目を閉じ静かに横たわるは、どこかで見覚えのある男の身体だった。
髪は灰色がかり、ところどころ白髪が目立つ。細い体に、白い聖職衣。胸元で握られている金色の十字は細かい彫金が施され、実に美しい代物だった。こんな出で立ちの男を、壬生はひとりしか知らない。
この人物は、……大変よく知っている人物だが、何でこんなところに?
壬生は脳内の記憶の引き出しを必死になって探るも、結論はひとつしか出てこない。
この男は、大司教――ヨハネスである、ということのみだ。
しかし、そんなはずはない。壬生は知っていた。確かに大司教の葬儀は『死体が存在しない』奇妙な葬式であった。だが、あの件を操作したのはまさしく壬生本人。大司教は一度きちんと死んで、ヴァチカンに内密に輸送したのだ。それをこの目でしっかりと見てきた。その後、壬生は枢機卿であるジェームズと手を組み、とある理由から彼の遺体をヴァチカン内に永久に封印することにしたはずだ。棺を納め、戸を閉めたところもちゃんと見てきた。そして、後にホセ・カークランドが奪取した『契約の箱』が今後開くことがないよう、正当な管理者にあたる『第一使徒』、ケファ・ストルメントに渡したはずなのである。
この目の前の事態はなんだ。しかも不可解なことに、この男は生きているではないか。おかしい。もしも目の前に転がっている現実が「本物」ならば、己の目という最も確実な情報が覆されることになる。『青の瞳』の前では、嘘など決してあり得ない。
あり得ないことが「あり得ない」のか?
ならば。
あの日、ヴァチカンに納めた遺体は一体誰のものなんだ?
焦燥感に駆られる壬生の目の前で、ぴくり、とヨハネスの睫毛が震えた。そして、すぅっと目尻から涙が滑り落ちてゆく。
「――あの子が……」
そして、ヨハネスは目を覚ます。
姫良三善とのつながりが完全に切れた、と。そのように呟きながら。
***
今二階で惰眠を貪る男について、壬生はため息混じりに回想を終えた。
その後半ばなし崩しでこの男と共に世界中を逃亡することになり、気づけば五年が経過していた。
我ながら上手に逃げていると思うが、そろそろ実家に帰りたくなってきた頃合いだ。愛する妻とも連絡を取っていないし、我が子たちは……、
「あいつらは、まぁいっか。全員しぶといし、地球が二つに割れない限り生き伸びるだろ」
ちなみに、あれらのしぶとさは妻似である。
自分が惚気ていることにも気づかずにぼんやり食事を摂っていると、突然二階から派手に扉が閉まる音がした。はっとして見上げると、階段から転げ落ちるようにヨハネスが飛び出してくる。
「猊下、随分早いお目覚めで」
「ミブ! 今すぐここを出るぞ」
冗談すらも華麗にスルーし、ヨハネスが一方的に主張した。
「早くだ!」
「分かった分かった。追手ですね、お供しましょう」
壬生は至極面倒そうな表情を浮かべながら、それで? と青の瞳をヨハネスへ向ける。
「誰が来るの?」
「“強欲”と“色欲”、それから、あなたの娘だ」
その言葉に血相を変えたのは、間違いなく壬生の方だった。




