第四章 2
帯刀雪がその病院を訪れたとき、三善は喫煙所で黙々と煙草を吸っていた。傷によくないとは分かりつつも、こんがらがる頭の中を整理するにはこれが一番だった。
彼の横にある吸い殻入れに目を向けると、同じ銘柄の吸い殻がまるで大輪を描くかのように捨てられている。きっと、否、間違いなく犯人は同一人物である。
帯刀はそんな三善を見て、思わず苦笑した。
「みよちゃん。ダメだ、そんなもん吸っちゃ」
現在進行形で吸っている分をあっさりと取り上げられ、三善は不服そうな顔で帯刀を見上げる。仔犬のようだと自負している丸い瞳をじっと彼に向けたが、非情にも、火を点けたばかりのそれは灰皿へ放り込まれてしまった。
「ああ、もったいない。最近高いんだぞ、これ……」
嘆く三善をよそに、帯刀は涼しい顔をしている。
「いっそのこと禁煙すればいいじゃないか。もう一箱分は吸ったんだろ、十分じゃないか」
「うぐ……」
確かにこの数時間で相当吸った気がする。一応帯刀が来るまでという条件を自分に課してここに籠っていた訳だから、これ以上吸い続ける理由はないのだが。
大人しく煙草の箱を胸ポケットに突っ込んだ三善に、帯刀はようやく本題に移るべく口を開いた。
「――それで、みよちゃん。この間の話、聞かせてもらおうか」
***
――“憤怒”の話をしたい。
そう切り出したのは三善だった。
どうしても全てを知っている人物にきちんと話しておきたかったし、なにより真実に一番近そうな位置にいるのがこの帯刀という男だ。ヨハンもある程度認知しているようだが、まだ彼が現れた真の目的を聞き出せていない以上無駄な話はしたくない。そんな思いで、三善は帯刀を呼んだのだった。
ふたりは場所を変え、今は病院の外にあるベンチに腰掛けている。彼らの目の前では、小さな子供が看護士と共に散歩していた。車いすを押してもらい日向ぼっこしている入院患者もいる。
ふ、と息を吐き出し、三善はベンチの背もたれに身体を預けた。
「――実のところ、『一〇〇九三回』正しく記憶を持ち越せたのは“憤怒”だけということらしい」
帯刀はその隣でじっと三善の話に耳を傾けている。
話の大半は先日ロンやリーナに話したものとほぼ同じ内容である。今回はそれに加え、「箱のことはどうでもいい」と言われたこと、『一〇〇九二回目』の末路は三善自身が『契約の箱』を開匣したこと、“憤怒”は『終末の日』肯定派だが、『箱』を開匣することによる『終末の日』到来は望んでいないこと等を付け加えた。
ふむ、と帯刀が小さく唸って見せる。
「それで刺されたのか、みよちゃんは」
「ああ。要するにおれの存在は邪魔でしかないんだと。まったく、兄弟だからって容赦のない……」
三善は渋い顔をしながら脇腹をさすった。
「ええと、みよちゃん。兄弟云々はここでは追及しないからな。しかし、そうなると少し妙だな」
帯刀がぽつりと呟いた。その反応に、三善はきょとんとして首を傾げて見せる。
「なに?」
「“憤怒”は大司教の居場所を知っていて、条件付きとはいえ彼とみよちゃんを引き合わせる意思はあった。結果としてみよちゃんが捨て身で“憤怒”を浄化したからそれは叶わなかった訳だが、一体なんでそうさせようとしたんだろうな」
「なんでって……」
「俺が“憤怒”の立場なら、そんなまわりくどいことをせずにみよちゃんを抹殺するね。だってそうだろ、今回一番厄介なことをしそうなのは姫良三善、君しかいない」
そこまでばっさりと言われてしまうと、何も言い返せない三善である。ぐっと言葉を詰まらせ、ついつい黙り込んでしまった。
「ここで議論しておくべきなのは、“憤怒”がどのようなかたちの『終末の日』を最善と思っていたのか、だな。俺は一度基本に立ち返る方がいいと思うが、みよちゃんはどう思う」
「……そうだな。そうしたほうがいいだろうな」
うん、と帯刀は短く頷くと、三秒ほど間を空け口を開く。
「そもそも『終末の日』という現象は、『契約の箱』という釈義が発動した時に起こる事象だ。この釈義が発動すると、あらゆる物質が『塩化』し、同時に任意のタイミングまで『時間が遡行する』。後者は大司教による後付けの能力だから、本来の能力は前者だけ。すなわち、広い意味で捉えると『終末の日』とは世界が『塩化』することにより『万物更新の時』を迎えることだ」
ここまではいいか、と帯刀が尋ねた。三善はのろのろと頷き、その唇を動かした。
「“憤怒”が『箱』を開匣することを求めていない、という発言から、少なくとも“憤怒”が望む『終末の日』に『時間遡行』は含まれていない訳だ」
その通り、と帯刀は己の首筋を擦りつつ言い放った。彼がこの仕草を見せる際、決まって脳をフル回転させている。今回も例外でなく、彼はその頭脳で何パターンもの事象を想像しているのだろう。
「したがって、一番に考慮すべきは『第一回目』の遡行だと思われる。この遡行が繰り返し行われることになった原因は、大聖教のとある司教が大司教を唆し、『白髪の聖女』が『契約の箱』を開くように操作したからだと聞く。そうすると話がずれて聞こえないか?」
「……“憤怒”が望む『終末の日』は既に発生している、と」
「その通り。だからこそ、ここで俺はひとつ仮説を立てようと思う。“憤怒”が言う『終末の日』は、イコール『塩化』現象ではない」
あまりに帯刀がはっきりと言うので、三善は思わず瞠目した。
「というより、事象の収束地点が『塩化』現象より一歩向こう側にあるのだろう。“憤怒”にとって、『塩化』現象はただの通過地点だ」
そう考えるのが自然だろ、と帯刀は付け加え、右手で目の上を覆う。のろのろと息を吐き、疲労を少しでも軽減させようとしているのが見て取れた。
三善は立ち上がり、近くの自販機でソーダを買って帯刀に渡してやる。帯刀は礼を述べ、右手でボトルを開栓した。
「そう考えると、今回のみよちゃんの立ち位置は少し変わってくる。今までのみよちゃんは『契約の箱』を操る能力者という認識でいたから、正直なところ、君と橘君だけを見ていればどうにかなるような気がしていた。でも、今自分で話していて気づいた。違うんだ。もしかしたら俺たちは大きな勘違いをしているかもしれない」
「つまり、おれは『契約の箱』を管理するだけの存在ではないと」
「そう、その通りだ。だからこそ“憤怒”はみよちゃんと大司教を会わせようとしたのかもしれない」
あくまで“憤怒”が言うことが本当に正しい情報であるとすればだが、と帯刀は付け加え、ボトルを煽った。
「なんにせよ、大司教と会うという目的だけを見れば俺たちが目指すところと大差ない。いい情報だよ、みよちゃん。ありがとう」
そこまで言ったところで、帯刀は三善の様子がおかしいことに気が付いた。否、妙に物思いにふけっている時点で既におかしいとは思っていたのだが、それにしても今日の三善は口数が少ない。たいてい、このような話をするために三善と会うと彼はもう少し饒舌になるはずなのだ。
みよちゃん? と帯刀が微かに首を傾げると、三善は震える声で呟いた。
「ゆき君。おれは、どうするべきだろう」
ぴたりと、帯刀が動きを止めた。
「……ごめん。最近いろいろあったから、どうにも思考が追いついていないみたいだ。そうか、そうだよな。まずは親父に会うことを考えた方がいいんだよな」
はは、と三善は乾いた笑みをこぼし、それから手にしていた缶コーヒーのプルトップを捻る。一口喉へ流し込むと、中途半端な甘みが口内を刺激する。あまり美味しくはないが、缶コーヒーに美味しさを求めても仕方がない。微かに感じる鉄臭さに顔をしかめつつ、三善は突然黙り込んだ帯刀へ目を向ける。
「――ゆき君?」
不安になり、三善は帯刀の顔を覗き込んだ。しかし、相変わらず彼は口を閉ざしているだけだ。なにやら思案顔のまま真正面を見ていたが、その焦点の合わない青い瞳が突如三善へと向けられた。
「みよちゃん、本当は大司教に会いたくないんじゃないのか」
心臓が跳ねた。
帯刀の凛とした綺麗な横顔は、そんなことを言いながらも三善へは向けられていない。瞳が動くことすらない。濁った瞳の青色の中に、くっきりとした白の十字が浮かび上がっている。こんなに、彼の聖痕は色濃かったろうか。
「えっ?」
戸惑いのあまり、三善は妙に上ずった声を上げてしまった。
「前々からそう思っていた。それについてはごめん、多分俺が無理強いをしているからだ。みよちゃんは優しいから、自分の意見を主張しないようにしているんだろ」
「なにを言って、」
「君はどうして俺が言うことを一〇〇パーセント信じてしまうんだ? もっと疑えよ。君は、科学的方法と法律的方法により正しさを慎重に吟味すべき立ち位置にいるだろう。それが大聖教における聖職者のあるべき姿だ」
帯刀がいつになく真剣な面持ちでそのように言うものだから、三善はつい泣きそうになりながらそれを否定した。
そんなことはない、と。
だが、その一言を口にした刹那、胸の奥に深々と傷をつけられたような鈍い痛みが走ったのは事実だ。その痛みの正体が何か、考えるよりも前に、帯刀はさらに言葉を投げかける。
「いいかい、みよちゃん。どれだけ俺が事実と仮説を並べたとしても、君が検討してひとつずつ選ばなければなにも変わらないんだ」
三善はぐっと押し黙り、コンクリートで舗装された足元を見た。この灰色には、何も感じなかった。ただ冷たい色を以て、三善を責め立てていた。彼の耳には、不覚にも心地良いと感じるほど純度が高い声が響いている。あまりに綺麗過ぎて、逆に傷ついてしまいそうなくらいの鋭さを孕んでいた。
「みよちゃんは、昔の方がよかった。昔は自分で考えて、周りに笑われようが貶されようが、突き進んできただろう。今はどうだ。その地位にかまけて怠惰になっているだけじゃないのか」
たいだ、と三善が小さく呟いた。
帯刀はおもむろに首を縦に動かすと、そのまま立ち上がった。茶色の髪が風に流されて、さらりとなびく。昔よりも幾分短くなったそれは、今も風に愛されているのだ。
「きつい言い方をして、ごめん。本音を言うと、少し寂しくなったんだ。決して俺が言えたことではないけれど、俺は、君にとってよい友人でありたい。だから困ったことがあればなんでも言ってほしいと、そう思う」
君はいつでもひとりで抱えて無理をしてしまうから。
そう呟いたとき、帯刀は上着の裾を引く感覚を覚えた。三善が裾を聞いていると気が付くのにそう時間はかからなかった。
――このとき、三善は帯刀の前で初めて涙をこぼした。
***
それから何時間もかけて、三善は帯刀に今までのことを話した。決して誰にも話すつもりがなかったヨハンのことですら、帯刀の前では簡単に話せてしまう。帯刀はそれを聞いた刹那微かに戸惑いを覚えたようだが、すぐにそれを受け入れた。
帯刀からは特に何も言わなかった。言う必要がなかった。ただ黙って三善の背中をさすってやると、堰を切ったように次から次へと新しい情報が三善の口からついて出てくる。この嫌な職業病に、帯刀はつい苦虫を噛み潰したような表情を浮かべてしまった。
――これではまるで、友人の痛みをダシにしているみたいじゃないか。
そうは思うが、聞いてしまったのならしょうがない。まずは三善の気が済むまで傍にいてやることにした。
次第に空はほの暗くなり、気が付けば一番星が夜空にきらめいていた。さすがに病人がこんな時間まで外にいるのはよくない。しかし、三善はまだ手を離してくれない。
さてどうしたものだろう、と考えた矢先、彼らの前に一人の男が現れた。
はっとして、帯刀は顔を上げる。
「こんなところにいた。長く外にいるのは身体に毒ですよ、司教」
聞き覚えのある声。見覚えのある出で立ち。
その正体はヨハンだった。否、帯刀は彼とは初対面だったので、正確には「これが噂の男か」という感想が第一に脳裏に浮かんでいる。その金髪の男は帯刀の表情を見るなり、何かを察したらしかった。
「……ああ、坊ちゃんは喋っちゃった訳ね。久しぶり」
帯刀がとてもよく知る口調で、その男は帯刀へと話しかけたのだった。
帯刀はヨハンへそっと問いかける。
「面会時間は、あとどれくらいある」
「もうすぐ終わる。だからそいつを連れ戻したい」
「そうか」
帯刀は逡巡し、それから三善をゆっくりと立たせた。
「俺が連れて行った方がいいか」
「いや、この暗がりだとお前さんは目が見えないだろ。危ないからここで預かるよ」
「分かった」
帯刀は三善の耳元でそっとその旨を伝えると、しぶしぶ三善は帯刀から手を離してくれた。続きはまた明日聞くことにし、帯刀ははっきりとその時間を三善へと伝える。彼は小さく頷いただけだったが、それだけでなんだか安心してしまう自分がいる。
「それと――あなたとも、一度は話しておきたい。構わないだろうか」
帯刀の問いに、ヨハンは微かに首を傾げて見せる。
「……、同じ時間に行けばいいのか?」
「それで構わない」
承知した、とヨハンが短く返し、二人は病室へと戻ってゆく。その背中を見送りながら、帯刀はようやく落ち着いたと言わんばかりに長く息をついたのだった。
病院の門を抜けた所で、帯刀は待機していた慶馬の姿を発見する。片手を挙げると、車から慶馬が降りてきて帯刀の左肩に触れた。ここに自分がいる、という暗黙の知らせである。
「今日はまだ見えているほうなんですね」
「いや……、悪い。本当はあまり『見えていない』」
自分が『青の瞳』の所有者で本当によかった、と帯刀は呟いた。
近くにあるものに同調すれば、何となく物の気配は察することができるのだ。三善と二人でいた時は、彼に申し訳ないと思いつつも勝手に三善の感覚と同調し、無理やり歩いてきた。しかし、本来は赤の他人。彼の横にいる慶馬ほどぎりぎりまで感覚を汲み取ることはできないし、体力も余計に使う。だから三善の話を延々と聞いていたあたりには、既にほとんど動けなかったのだ。
そう、まだ、三善には言ってはならないのだ。『聖痕』が己の眼球を完全に侵食してしまった、だなんて。
もう『釈義』は使えない――『喪失者』になり下がってしまった、だなんて。
慶馬が身体の後ろから手を回し、優しい手つきで眼帯を施してくれた。まだかろうじて視力の残る左目はそのままに、右目だけ黒のそれで覆い隠す。痛みすらも感じることはなかった。
「――慶馬」
なんですか、と優しい声が頭上から降ってきた。それだけで、何となく安心するものだ。
「みよちゃんが、いよいよ動き出す。『その時』が来たら俺の代わりに手伝ってやってほしい」
俺はもう、多分、直接手伝うことはできないから、と。細い声でそう言った。囁くような声色の語尾は微かに震えている。慶馬は、それを聞いてようやく理解した。彼は泣いているのだ。
そんな帯刀の肩に手を置き、右手の熱を彼の細い肩に移してやる。それが、彼の返事の代わりだった。
「……神様とやらは、どうして、こんなに試練ばかり与えるのでしょうね」
唯一放った慶馬の言葉に、帯刀は大層驚いたようだった。左目を一度大きく開いたが、後にゆるゆると細めて行き、そして首を横に振った。
「でも、決して越えられない試練は与えない」
己らがそうだったように。彼もまた、きっとここへ戻ってくる。そう信じていた。
そして帯刀は懐から携帯電話を取り出し、どこかへ連絡を取り始める。短い単語をいくつか話したのち、終話した。




