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⑥ 「地球には、知らぬが仏って言葉があるの」

「いつもオマケしてくれてありがと。また買い物くるね〜」


 そう言って俺は、店から陽気に手を振るオバチャンに愛想笑いを浮かべながらアテラヒグマのソリに戻る。買い物袋の中には、自宅の畑や牧場では手に入らない獣肉や魚類が入っていた。


「さ、家に帰ろうか。ピュアナも待っているしね」


 手綱を引くとソリが動き出した。徐々にスピードを上げるそれを操作しながら、俺は今日のメニューを考える。

 二人で食事をするようになってから、早くも十年が経とうとしていた。生活は変わらずで、アテラの情勢を見つつ心身を鍛える毎日だ。ちなみに俺達の生活費は、自宅で採れた野菜や穀物、酪農品などを街で売ることで賄っている。

 本当なら有名企業でエリートコースを進んでいる予定だった、と思い出すこともあるが、今が一番充実しているので問題はない。今の生活を支持し、時たま都市の情報をくれる腐れ縁のオーウェンとツエルには感謝もしているつもりだ。


「いつも干物だし、たまには焼き魚にしようかな」


 ニホン人は海に囲まれた生活をしており、よく魚を食べるとピュアナが言っていた。そんな彼女の喜ぶ顔を思い浮かべつつ、俺は遠く離れた自宅を目指す。


 しかし、帰路の半分程まで来た時、ソリがいつもの道から逸れ始めた。


「どうしたんだい、そっちはツンドラが多くて走りにくいんじゃ」

「ブルルル!」


 手綱を操作してもヒグマは戻ろうとはしない。時折耳を動かしながら走る様子に、俺は緊張感を高める。


「……そうか、何かいるんだね」


 アテラヒグマは優れた聴覚と嗅覚を持っており、その危機察知能力はアテラに生息する獣の中ではずば抜けている。特にこの個体は、ミトに辿り着くまでにも共に数多の危機を乗り越えてきた個体だ。それが今何かを感じてわざわざ悪路を進んでいるのだ。警戒しない訳にはいかない。


「そこか!」


 右手を離し、連なったツンドラを去り際に破壊する。一瞬で溶けたそこには、真っ黒の人間のようなものが見えた。


「ネグロ……! チッ、遂にここまで来たのか!」


 ピュアナが言うに、組織でイリスを監視したり逃亡者らを捜索したりするのが、この真っ黒のネグロと呼ばれる者だったらしい。ネグロは“アテラ人だったもの”であり、彼らに生はなく死霊のようなものだとか。

 俺達がこんなアテラの最果ての地に来たのも、ネグロから逃げるためだった。この十年なんとか会わずに過ごしていたのに。


「早く帰らないと!」


 自宅の周りには、用心の為の仕掛けを施している。数時間ならそれで何とか身を守れるだろうし、ピュアナ自身の能力が桁違いなのでどうにかなるだろう。

 しかし、どの規模でミトに来ているかが分からない以上は心配だ。


「ヒグマ君、全速力でお願い!」

「グルルラァァ!」


 先程のネグロが追ってくる気配はない。それが不気味にも感じるが、今は一刻の猶予もない。

 自宅の方向には煙などは見えなかった。けれど何だか嫌な予感がする。

 ヒグマのソリを全力で操作しながら、俺はツンドラが連なる帰路を急いだ。




 轟音と灰の臭いが広がる地に降り立ったのは、ソリを数分走らせた後だった。仕掛けた罠にかかって動かなくなっているネグロを見るに、数十体規模でここに来たのだろう。

 周りには焼けた跡がいくつもあり、遠くでは地響きがしている。更に、地下に作った自宅からは煙も上がっている。


「こんなになるなんて……。とにかくピュアナのところに行かないと……!」


 見渡す限り、ピュアナの姿はない。アテラヒグマも反応しないことから、地上にはいないのだろう。

 だとすれば考えられるのは一箇所。いざとなった時の為に作ったあの場所にいるはずだ。


「ここはもうダメかもしれない。ヒグマ君は自分で逃げていいよ」


 そう言って俺は手綱を外し、ヒグマを解放する。ブルブルと鼻を鳴らした彼は、名残惜しそうにしながらも走り去っていった。

 俺は自宅入口から巻き上がる黒煙へと飛び込む。煙でなんとか気配を誤魔化しつつ手探りで目指すのは、奥にあるロイさん家の湯だ。あそこはただのオンセンではない。浴槽の下には果てなき川へと繋がる道が掘ってあり、川辺に用意した避難所まで行けばひと月はそこで暮らせるように準備してある。


「この床を外せば」

「危ない!」


 浴槽に入ろうとしたところで、バリバリという大きな音と共に獣の呻き声のようなものが聞こえた。振り返ると斧を持ったネグロが後ろで痙攣しながら倒れていた。


「おかえりキース君。背後には気をつけてっていつも言っているじゃない」

「あぁピュアナ、良かった、無事だったんだね」


 声のする方を向くと、息を切らしたピュアナが苦笑いをしていた。長いスカートの端は所々焦げており、服にも破れた跡などがあった。既に彼女はネグロと何度かぶつかったのだろう。


「一先ず引こう。状況を整理しないとだし、君も休んだほうがいいよ」

「そうだね。ちょっとお腹空いちゃった」


 冗談めかして言うピュアナの様子に安堵しながら、俺達は浴槽の下から避難所へと向かう。


「あいつらとどのくらいやり合ってたの」

「小一時間くらいかな。外が騒がしかったから何かと思ったら、ネグロが罠にかかってたの。ぱっと見は二十体くらいだったから、家がバレるくらいならと思って行ったんだけど……思ったより数が多くて。結局家もバレて、牧場の子達は真っ先にやられちゃった」

「そっか。それは大変だったね。俺がもっと早く帰って来れれば良かったんだけど」

「ううん、私が油断していただけ。帰ってきてくれて助かったよ」


 不在の間の状況を確認しつつ、現状を整理する。

 自分もここに来る間に数十体のネグロを見た。ツンドラにいた監視役のネグロ、家の中で交戦したと思われるネグロも考えると、百体の規模でここに来たと考えるのが無難だろう。奴らは俺らの隠れ場所を徹底的に潰すはずだ。果てなき川の周辺にもうろついている奴がいるかもしれない。この道も注意して進まないと。


「ピュアナはどこか怪我してない?」

「してても自分で回復できるし、平気よ」

「回復できるくらいの怪我ならいいけど」

「もう、心配しすぎ。大丈夫だって」


 ピュアナはニッと笑ってみせた。心配させまいと振舞っているのだろう。一人で戦っていたのは彼女なのに。


「今度は俺がちゃんと守るから」

「うん、頼りにしてるよ」


 頭をくしゃくしゃに撫でられるのを嬉しそうにしている彼女を見つつ、俺達は歩き続ける。

 それにしても、こんな辺鄙な土地に百ものネグロを送ってくるとは。これは居場所の検討がついてこそのやり方だ。街を行き来する間に見られてしまったのだろうか。迂闊だったとしか言いようがない。

 しかし、疑問は他にもある。十年経った今でもピュアナを追う理由だ。イリスというものが絶大な力を持つのはよく分かる。だが十年にも渡って一人の逃亡者を追い続けるなんて非効率だ。逃げたイリスは始末するまで追わねばならないのか、それともピュアナだからこその追う理由があるのか。今回のネグロの規模を考えると後者にしか思えないが、だとするとピュアナの秘密とは何なのかが気になる。


「もう少しで着くね。ネグロがいないといいんだけど」

「先に俺が様子を見るよ。ピュアナは後ろを警戒してて」


 考えているうちに避難所の真下に到着したので、一先ず出入り口から少しだけ顔を覗かせて地上を確認する。

 食料袋や薬品箱を積んであるそこに、荒らされた形跡は見られなかった。異様な気配もない。今ならまだ休めそうだ。


「ご飯休憩くらいなら出来そうだよ。俺は外を見てるから、その辺の栄養剤食べてて」

「分かった」


 そうして食料袋を漁るピュアナを傍らに、俺は隙間から外を見る。

 この避難所はツンドラの密集地に石を積み上げただけの簡素なものだ。鉱石山の影になっているため見つかりにくいが、襲撃されればひとたまりもない。

 俺達が自宅にいないと分かれば、この辺りにもネグロが来るだろう。幸い今はまだここまで辿り着いていないようだが、次の戦いはどちらかが全滅するまで終わらないものとなる。それに備えて今は休みつつ、戦略を立てておかねば。


「ここら辺はまだ大丈夫そうだ。ピュアナはたくさん消耗しただろうから、たんと食べておきな」

「キース君も一先ず何か食べなよ」

「そうしようかな」


 外の監視を続けながら、自分も栄養を凝縮した固形バーをかじる。パサパサとした無味のものに、口内の水分を取られる一方だ。


「あのさ、一つ聞きたいんだけど」

「ん、なあに?」


 ピュアナの方を見ないまま、俺は疑問をぶつけた。


「ピュアナは組織のどんな情報を握っているの」


 数秒の間が、俺と彼女の中を抜ける。それだけでも十分理解できた。彼女が何かとんでもない秘密を持っているということに。


「……私は大まかな組織の構造、人体実験の真の目的、組織の企みを知っている。それはただの囚われのイリスなら知らない情報よ。けれどそれを知る私が逃げたのだから、組織としては私の存在を消したいでしょうね。だからネグロはしつこく追って来ているのよ。キース君には全部話したでしょ」

「組織だって、捕らえたイリスの監視をしたり対外的な役割を果たしたりしているから、ピュアナ一人を探すのにここまでのネグロを動かすのは大変な筈だ。しかも君はこの十年、組織を潰そうと動くことはなかった。組織の裏がバレることはないと判断することだって出来る状況なんだよ」

「組織はそれほど甘くないってことよ」


 ピュアナは淡々と話すが、俺はどうも腑に落ちない。

 確かに彼女の言う通り、ピュアナは他のイリスよりも組織の事情を知りすぎた節はある。しかしたった一人の、十年間おとなしく生活していた逃亡者をここまで執念深く追うのは、どう考えてもやりすぎだ。

 もしかすると彼女は。


「ピュアナ。君は組織のトップを知っているんじゃないのかい」


 ゆっくりと振り向きつつ、ピュアナの目を真っ直ぐと見つめる。僅かに揺れるその瞳に、動揺を隠そうという努力が見えた。


「キース君。地球には、知らぬが仏って言葉があるの。世の中には知らない方がいいことだってたくさんある。もし私と出会わなければ、組織のことだって知らなくて済んだことよ」

「知るのを望んだのは俺だから、何が起こっても自分の責任だ。

 今俺が知りたいのは組織のトップが誰かってことじゃない。君がここまで追われなきゃならない理由だけだよ。組織のことは大体話してくれたんだし、今更隠す必要なんてないだろう」


 詰め寄るような言い方になったからか、彼女は少し困っているようだった。今の状況で自分達の間に亀裂が出来てはいけないと思うが、その反面この状況だからこそ全てを話してほしいとも思う。

 自分の中で押し問答しつつ、彼女の反応を待つ。


「ごめんなさい。やっぱり私」


 その時外から爆発音が響き、衝撃で避難所の石壁が一部吹き飛んだ。露わとなった壁から外を見ると、煙の立つ川辺を数体のネグロがうろついていた。


「もうここまで来たのか! ピュアナ、俺があいつらを引きつけるからここにいて」

「あの数なら二人でやった方が早いよ。一緒に」

「敵は見えている分だけとは限らない。長期戦になった時を想定すると避難所は死守しておきたいから、ピュアナはここを守ってて」

「……うん、分かった」


 そうして話半分のまま、俺は避難所に目が向かないよう遠回りをして敵の元へ乗り込む。

 未だ煙の上る中には、斧や槍を持った四体のネグロがいた。周りに影も見えないため、数体の班に分かれて俺達を探しているのだと予想がついた。


「さて、久しぶりに暴れようかな。

 舞い踊れ、炎蛇(えんじゃ)!」


 ふぅと一息ついてから右腕をゆっくり上げる。すると自分を囲むように青い炎が立ち上り、瞬く間に長い縄のようなものになった。

 そのまま腕を振り下げると、炎はネグロを目掛けて突っ込む。一瞬にして炎に包まれたネグロは咆哮した。


「イイイガァァアアアア‼︎」

「悪いけどここから先に通すことは出来ないから消し炭になってもらうよ」


 とぐろを巻くようにネグロを囲むと更に高く火柱が上がる。真っ黒の身体が少しずつ小さくなるのを確認しつつ、俺はもう一体の蛇を自分の背後に出した。瞬間、青い炎に黒い炎のようなものがぶつかる。


「はは、ネグロって自然型を操る奴もいるんだね」


 振り向くと、こちらに手を向けたネグロが数体立っていた。他の者より小柄なそれらは、ユラユラと揺れる黒い塊を次々とこちらにぶつけてくる。


「本人が黒いだけあって、炎も黒くなるんだね。ネグロはアテラ人だったものって聞いたから、同士討ちしてるみたいで嫌だなぁ。結局君達ってなんなの。実験の末に死んだイリスなの? それとも怨霊の塊みたいな感じ?」


 答えなんて返ってくる筈もないが、無言で対峙するのも変な感じがして試しに尋ねてみる。ネグロは意味不明な言葉を発しながら攻撃し続けた。


「ま、いいけどね。マナを使いすぎると俺も疲れるから、そろそろ終わりにしようか」


 そう言って両手を合わせると、二体いた蛇が一つになる。危機を察したのかネグロは更に激しく黒の塊を投げてくるが、そびえ立つ大蛇はそれを余裕で飲み込んだ。


「炎しか使えない俺に炎で勝とうだなんて無駄だよ」


 両手を開き、頭が八つに分かれて独立した動きをするようになった青の炎を披露する。今の俺は、世間でいう妖艶な笑みとやらを浮かべているだろう。


「全てを焼き払いゼロにする力、それが炎だ。死すらも忘れて彷徨う君達に、本当の炎の力でゼロを与えようじゃないか。

 秘技、八岐大蛇(ヤマタノオロチ)!」


 言うのと同時に八本の頭が特殊型ネグロの方へ伸びる。頭上から襲い掛かる炎の群に、抵抗の余地などない。逃げる間も無く焼失したそれは、黒い影すら残さなかった。

 そして青い炎の津波は瞬時に川辺へと広がり、たくさんのツンドラを溶かして広い平地を形成する。


「ふぅ、スッキリした土地になったね。これでかくれんぼは出来なくなったし、そろそろ出てきてくれるかなぁ」


 大蛇も消え、一見すると何もない更地だ。しかし、ここに来た時から感じる黒い気配はまだ消えていない。

 ネグロのような歪なものとはまた違った、けれど人間らしい温かみの感じないこの気配。気を抜いたら飲み込まれてしまいそうだ。組織のトップ、或いは幹部が近くにいるのだろう。


「いやぁ実に素晴らしい。君が炎帝と呼ばれていたのも納得できますね」


 拍手と共に男の声が聞こえてきた。しかし、声のする方向には誰もいない。

 身構えていると黒い影が急に足元に現れる。直ぐに後ろへと下がると、その影から眼鏡をかけた男が出てきた。


「ふむ、察しもいい。帝王の名は伊達ではないようです」

「それはどーも。さすがに俺のことは調べているみたいだね。その雰囲気、さしずめアンタは組織のボスってところだろう。確か、そう、ツヴァイとかって名前だ」


 眼鏡男の声色は紳士的だが、彼から出るオーラは凍てつくほど冷たい。挑発にもさほど動じていないのがまた厄介だ。


「そこまで知っているとは。ナンバー55にでも聞きましたか」

「いや、彼女には秘密で俺が調べたんだ。でもやっぱり、彼女もアンタのこと知っているんだな」

「そうでなきゃわざわざこんな所には来ませんよ。

 それで、私と対面してどうするつもりです。私をここで討ちますか」

「出来ればそうしたいんだけど。どうも一人ではアンタに勝てる気がしないなぁ」


 軽い口調で言うと、ツヴァイはクスクスと笑った。こちらを馬鹿にしているように見えるが、演技とも捉えられる。

 彼はその気になれば俺なんてすぐに消せるのだろう。それをせずにいるのは、こちらの出方を探っているからなのだろうか。


「君は愉快な人間ですね。勝敗が見えていながら私を呼び出すとは。その度胸を認め、君の目的を聞きましょう」


 眼鏡の位置を直すと、ツヴァイは両手を広げた。金色の瞳を細めて笑う姿は実に不気味だ。


「単刀直入に言おう。彼女を解放してほしい」

「頼み事ですか」

「いや、タダで解放してもらえるとは思っていない。解放と引き換えに俺に出来ることをしようと思っている」

「例えば」

「アテラの表から裏までの、アンタが欲しい情報を集める。とかどうかな」


 それでも俺は怯まずに噛み付く。ツヴァイはふむ、と顎に手を添えて考えているようだ。

 手には汗が滲む。待っているほんの少しの時間でさえ、気を緩めたら殺されてしまいそうだ。

 しかし、今提示した条件は悪くない筈だ。俺を殺すよりも有益であることは、この男ならきっと分かる。


「確かに、私の名前に辿り着けるほどの情報収集力は認めます。ネグロを焼き払う炎の力も厄介ですね」

「褒められるのは悪い気がしないね」

「しかし」


 瞬間、凍てつくほどの空気が更にピリついた。ニヒルな笑みを浮かべる彼からは、バケモノのそれとしか思えない程の悍ましさを感じる。


「それでは物足りません。彼女の持つ力は、この世界を天秤にかけてようやくつり合う程のものなのですから。それほどの力をどうして手放せるのでしょう」


 動かぬまま言う彼に狂気を感じるが、それよりも今の言葉の方が衝撃的だった。

 ピュアナが世界と同等の力を持っている、だって? イリスが皆そうなのか。いや、それであればアテラはとっくに滅んでいるだろう。

 ……ピュアナだけが、とんでもない力を秘めている。彼女はそんなこと、俺に言わなかったのに。


「初めて知った、という顔ですね。当然でしょう、本人も気付いていないのですから」


 そんな俺を見てツヴァイは静かに笑っていた。反応を一々楽しんでいるようで不快だ。

 しかし、とそこで俺に疑問が浮かぶ。


「ならば何故今なんだ。わざわざアンタが来てるってことは、少し前から居場所は知ってたってことだろう。けど、今まで手は出して来なかった。その理由は何だ。何を企んでいるんだ」


 世界征服を企む組織にとって、力を秘めたピュアナはすぐにでも欲しい筈だ。しかしミトに移住してからの十年間、彼らは全くと言っていいほど干渉して来なかった。このツヴァイという男なら、俺を殺してピュアナを捕らえることは出来るだろうに。

 敢えてそれをしなかったのには、必ず理由がある。


「全てを知ることは、時として身を滅ぼしますよ」


 ツヴァイは目を細めて言うが、俺はきつく睨み返すだけで何も言わない。


「ふふ、君はやはり面白い人物だ。では二つだけ教えましょう。

 ナンバー55が覚醒した時、それは即ち彼女の死を意味します。そして我々はその力を制御するための装置をようやく完成させました」


 そこまで言って、彼は再びニヤリと笑ってみせた。ここまで言えば分かるだろう。そう言われている気がしてならない。


「くそっ、お前ら……!」


 強い怒りが込み上げてくる。本当は今すぐにでもこの男に飛びかかりたい。しかし、それよりも今は別にやるべきことがある。


炎膜(えんまく)!」


 指を鳴らし、ツヴァイの周りを球状の青い炎で囲う。地面ごと囲っているので、足元の黒い影がすぐにこちらに伸びてくることはないだろう。

 そして俺は走り出す。幸い先の戦いで全ての雪を蒸発させたので、足跡は残りにくい。更に川に入って移動すればより痕跡を残さないでおけるだろう。

 一先ず今はあの男よりも先にピュアナの元へ行き、彼女を守るための策を練らないと。組織の企みの為に彼女が命を落としていい筈なんてない。


 走れ、走るんだ俺。俺は彼女を守ると決めた。その為に強くなった。

 だから走れ。今ピュアナを支え守れるのは、俺しかいないのだから。




「おや、行ってしまいましたか。まぁいいでしょう。覚醒には彼の力も必要ですから」


 炎に囲まれながらも眼鏡の位置を直すだけで悠然と佇むツヴァイ。炎の青が反射したレンズに、蠢く黒い影が合わさって一層怪しさを引き立てる。


「さて、私も参りましょう」


 一歩踏み出すと同時に炎は消え去った。

 そして彼は、足元に影を携えたまま何もない大地を進む。まるで何かを感じ取っているかのように、迷いのない足つきで。


「楽しませていただきますよ。リマナセの炎帝、キース・ロイ」

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