第七章 願い
第七章 願い
1
十三年前。2000年6月。
「おふくろ、今から遊びに行ってくる」
学校から帰ってすぐに母親に言った。
「稜くんのところ?」
「おう、今日はキャッチボールするんだぜ」
「あんた、本当に稜くんと仲良いわね」
「まあな」
「夜ご飯までには戻ってくるのよ」
「わかってるって」
俺はグローブとボールを手に持って自分の家を出た。
稜とは別の中学だったが、俺の家とそれほど離れていない。遊びたい時はいつでも遊びに行くことができた。
背後に裏山のある住宅街。その通りを走って十分くらいで稜の家に着いた。
呼び鈴を鳴らすと、すぐに家のドアが開いて稜が出てきた。この時間に俺が来るのはもう分かっていたらしい。
「よお、稜」
「智彦、もう学校終わったの?」
「いつもより早く終わったんだよ。それより早くグローブ持って来いよ。今日はキャッチボールしようぜ、キャッチボール」
「うん、わかった。ちょっと待ってて」
稜は一度ドアを閉めた。稜が来るのを待っている間、改めてあいつの家を見回した。
どこの町でも見る二階建ての普通の家だった。けど、何回も足を運べばそれなりに親しみが出てくる。自分の家からここに来るまでの道のりも完璧に覚えていた。
「お待たせ、行こう」
「おう」
「あ、待ってお兄ちゃん!」
二人で公園に行こうとすると、家の奥から声が聞こえてきた。ドアが開いて女の子が顔を出す。稜の妹の歩実だった。
「お兄ちゃん、歩実も遊びにいきたい!」
歩実がそう言うと、稜はため息をついて腰に手をあてた。
「歩実、学校の宿題ちゃんとやったのか?」
「う、ううん、まだやってない……」
「だめじゃないか。また母さんに怒られるよ」
稜がそう言うと、歩実は目に涙を溜めた。
「う、だって、お母さんまだ仕事で帰ってないし、お兄ちゃんが遊びにいっちゃうと歩実一人になっちゃうよ……」
歩実は今にも泣きそうだった。なぐさめてあげようと思ったが、その前に稜が歩実の頭を撫でて言った。
「わかった、わかった。歩実、一緒に遊びに行こ。でも、終わったらちゃんと宿題やるんだよ」
「うん!」
歩実がすぐに笑顔になる。それを見ながら俺と稜はやれやれといった感じで目を合わせた。
歩実を連れて、俺と稜は公園に向かった。
この公園は一年前、稜と初めて出会った場所だった。
あの頃の稜は学校でのいじめが酷くなっていた。今は落ち着いているみたいだったが、稜はあまり学校に通っていないらしい。
俺は稜をいじめている奴に腹が立って、一度喧嘩を売りに行こうとした時があった。でも、そんなことを他校の俺がやればもっと大きな問題になる。何より稜自身からそれだけはしないでほしいと言われた。
結局、俺は何も出来ず、稜に対するいじめは今も続いている。だから、俺は少しでも力になるためにこうして毎日稜と遊ぶようにしていた。
この一年の付き合いの中で稜が本当に良いやつだとはっきりと言える。母親や歩実のことを第一に考えて、ずっと大事にしているこいつはとても優しいやつだと思った。
歩実がブランコで遊んでいる間、二人でキャッチボールを始めた。
「でさ、今日の先生が歴史の授業で鎧着て来たんだぜ。戦国時代の人たちはみんなこんな鎧を着て戦ってたんだぞって言ってた。みんな大笑いしてたよ」
俺が今日あった授業のことを話していると、稜の投げる球の速度が急に落ちた。
「どうした、稜? 急にゆっくり投げるなよ」
「ごめん。楽しい授業だったんだ。僕も受けてみたかったよ」
そう言われて罪悪感が湧いた。何だが申し訳ない気持ちになった。
「悪い、調子に乗った」
「ううん、気にしなくていいよ。僕は……」
ボールを持ちながら稜は歩実と俺を交互に見た。
「今のこの時間が一番楽しいから」
その時の稜は本当に嬉しそうな顔をしていた。
俺にとってこんな当たり前の時間が、あいつにとってはかけがえのないものだった。
俺の学校には友達がいるのに、稜には誰もいない。
こんな優しい奴なのに、こんなに良い奴なのに、学校の奴らは稜をひどい目にあわせた。
こいつにとって家族と今の時間だけが何より大切だった。
2
夕日が沈み、辺りがすっかり暗くなった。公園で遊ぶのをやめて、俺たちは稜の家に向かって歩いていた。
「智彦、明日も遊べるの?」
「ああ、大丈夫だ。ちょっと遅くなるかもしれないけど、時間はあるぜ」
「じゃあ明日もお兄ちゃんと智彦お兄ちゃんと遊べるんだね!」
前を歩いていた歩実が俺たちのほうに振り返って、嬉しそうにはしゃいだ。
「おい、歩実。家に帰ったらちゃんと宿題やるんだぞ」
「わかってるよ、お兄ちゃん」
歩実が笑顔になってそう言うと前に向き直った。すると、歩実が急に立ち止まる。
「歩実、どうし――」
稜が何かを言いかけるのをやめて立ち止まる。その表情からさっきまでの笑みが消えた。
二人の視線の先を見ると、稜の家の前に一人の男が立っていた。
稜の家には何度も来ているが初めて見る男だった。ぼさぼさの髪で眼鏡をかけている。
「お父さん! おかえりー!」
歩実がそう言うと、男はこっちを見た。歩実だとわかると笑顔になった。
どうやらあの男が稜たちの父親らしい。
「ただいま、歩実。元気にしてたか?」
「うん! お兄ちゃんと智彦お兄ちゃんと公園で遊んでたの!」
稜の父親が俺たちのほうを見る。稜の表情はまだ暗いままだった。父親と目があうと少し視線を逸らす。
こんな稜は今まで見たことがなかった。さっきまであんなに笑っていたのに、父親を見た瞬間に無表情になった。
何かあったのか……。
「あら、あなた帰って来たの?」
気まずい空気が流れる中、稜の家のドアが開いて、おばさんが出てきた。
「ああ、今日は休みがもらえたんだ」
稜の父親がそう言うと歩実はまた喜んだ。
「わーい、じゃあ今日はみんなでご飯食べられるね!」
「はは、そうだな」
稜の父親は笑いながら、歩実を抱えて家の中に入っていく。
「じゃあ、智彦。また明日……」
「おい、稜――」
さっきよりも暗い声だったので、呼び止めようとしたが、何を言えばいいのかわからなかった。稜は暗い表情をしたまま家の中に入っていった。
「今日もありがとう、智彦くん。今度良かったらお家にいらっしゃい。お菓子ぐらいなら出せるから」
「ありがとうございます、おばさん」
そう言うと、おばさんは笑顔で手を振って中に入り、家のドアを閉めた。
自分の家へ帰る途中、俺は初めて見た稜の父親とその時の稜の顔が気になって仕方がなかった。
あいつ、やっぱり親父と何かあったのか……。
今度聞いてみようと思って、俺はそのまま自分の家へ帰った。
3
数日後、いつものように学校の帰りに俺は稜の家を訪れていた。今日は雨が降っていたため、稜の家でゲームをしていた。
野球のようなスポーツなら俺のほうが上手いが、ゲームに関しては稜のほうが上手だった。格闘ゲーム、シューティングゲーム、レーシングゲームと色々やってきたが、こいつに勝ったことは一度もなかった。
「ちくしょう、また負けた!」
「また僕の勝ちだね、智彦」
この前とは打って変わって稜はかなり機嫌が良かった。
歩実は俺たちがゲームをしているのを楽しそうに見ている。だからこそ、俺はあの時のことが忘れられず、稜に聞いた。
「なあ、稜。お前、親父と何かあったのか?」
稜の握っていたコントローラーがぴたりと止まった。
「何でそんなこと聞くの?」
稜の表情が一気に暗くなった。俺は少し怯んだが、構わずに言った。
「親父と会った時に歩実はあんなに嬉しそうだったのに、お前はそんなふうに見えなかったからだよ」
「心配しなくていいよ。大したことじゃないから」
「でも、お前――」
「智彦には関係のないことだから大丈夫だよ」
その言い方に腹が立った。友達なのに自分だけが無関係な人間にされた気分だった。
「おい、俺には隠し事するなって前に言っただろ。本当は何かあるんだろ!」
すると稜のほうも苛立ちを隠せない様子で言った。
「これは僕と父さんの問題だ。智彦に心配されることじゃないよ!」
「何だと!?」
俺はゲームのコントローラを床に投げつけて稜を睨んだ。稜のほうも俺を睨み返す。
「お兄ちゃん、智彦お兄ちゃん、どうしたの? 二人とも、怖いよ」
歩実が心配そうな顔をして俺たちを交互に見た。俺はその視線が気になって仕方がなかった。
「もう心配しねえぞ! 勝手にしろ!」
俺はそのまま、稜にも歩実にも謝らずに家を飛び出した。傘を持ってきたのも忘れて、雨でびしょ濡れになりながら自分の家に帰った。
4
稜と喧嘩して三日が経った。その日は学校から帰って自分の部屋のベッドで横になっていた。
時間が過ぎて苛立ちがおさまり、冷静に考えることができるようになってようやく自分が馬鹿であることに気付いた。いくら友達と言っても家族のことで口出しするのはやっぱりおかしい。
すぐに謝りたい気持ちがあったが、こっちから会いにいくのは気まずいし、向こうからも電話が来なかった。
このまま、俺たちはあの喧嘩で顔を合わせない関係になってしまうのだろうか。
「何やってんだよ……俺」
今さら俺は深く後悔していた。
そんな時、家の電話が鳴り響いた。親父もおふくろも仕事で今は家にいない。しぶしぶベッドから起き上がってリビングに置かれた電話機を手に取った。
「もしもし?」
『もしもし、智彦くん!? 稜の母親だけど、わかる?』
電話の相手はおばさんだった。とても慌てているように思える。
「どうかしたんですか?」
『歩実が……歩実が行方不明になったの!』
「え!?」
詳しく話を聞くと、歩実は珍しく朝から一人で外へ遊びに行った。しかし、昼時になっても帰ってくる様子がなかったので稜が探しに出かけたけど、まったく見つからなかったという。
すぐに家を飛び出して稜の家に向かった。家の前に着くと、おばさんが玄関の近くで顔を覆って泣いていた。その周りで近所の主婦たちが「明日見つからなかったら警察に連絡しましょう」「大丈夫、きっと見つかるわよ」といっておばさんを励ましている。
「おばさん」
そう呼びかけるとおばさんは顔をあげた。目からたくさんの涙が溢れている。
「智彦くん、歩実がいなくなっちゃったの。近所の人たちが探してくれてるんだけど、まだ見つからなくて……。稜も歩実を探しに行ったきり戻ってこないの」
「稜が?」
おばさんはまた泣きはじめた。
辺りを見回すと、近所の人たちが歩実の名を叫びながら探している。
この辺りは一通り探し終えているんだろう。だとしたら、ここから少し離れた場所にいるかもしれない。
太陽も西へ傾きつつある。時間はそれほど残っていない。
公園にもきっといないはず。だとしたら……。
思い当たるところがあって俺は住宅地の通りを走り抜けた。
5
住宅地の裏にそびえる山。公園と同じようにこの山も俺たちにとっては絶好の遊び場だった。去年の夏は虫を捕まえに行ったし、冬は雪がよく積もるため雪合戦をしたこともあった。
歩実を連れて三人で何度も遊びに行ったここならもしかして……。
そう思って山の中に入った。山には木々が生い茂っていて夕日の光を遮っていた。
薄暗かったが、それでもまだ周囲を見渡すことができる。
「おーい、歩実! いたら返事しろー!」
大声で叫んだが、返ってきたのは木が風でなびく音だけだった。
「歩実、いないのかあ!」
俺は周囲に呼びかけながらどんどんと山の奥へ進んだ。
木が麓よりも生い茂っている場所。そこに足を踏み入れると、人の姿がちらりと見えた。
「歩実、そこにいるのか!」
人がいたほうへ走っていく。でも、そこにいたのは歩実じゃなかった。
「稜……」
「智彦?」
そこにいたのは稜だった。服が汗で濡れていて薄汚れている。その周囲には草を掻き分けたようなあとがあった。稜がここで何をしていたのかすぐにわかった。
俺としては何だか気まずかった。あの喧嘩以来初めての対面だったからだ。でも、その時の稜は怒っているわけではなく、真剣な表情で俺を見ていた。
「歩実を探すの手伝って欲しい、頼む」
「……わかった」
今は喧嘩のことを考えている場合じゃない。歩実を探すことだけに集中する。そう心に決めて俺は稜と一緒に歩実を探した。
それからまた時間が経った。俺も稜も体力の限界に近づいていた。もう日が沈んで視界も悪くなっている。
「歩実、いたら返事しろ!」
「歩実ー!」
それでも俺たちは諦めずに歩実を探し続けた。
すっかり日が沈み、もう家に帰らないといけない時間になった。でも、そんなことを気にしている余裕はない。歩実を見つけるまで帰るつもりはなかった。
「お兄ちゃん! 智彦お兄ちゃん!」
その努力が報われたのか、歩実の声がそばから聞こえたような気がした。
「歩実! どこにいるんだ!」
稜が真っ先にその声を聞いて走っていく。俺はもう大声を出す力も残っていなかった。体力は稜よりもあるはずなのに、今の稜のほうが何倍も力を持っているように見えた。
木の間をくぐって稜のあと追うと、草木のない平たい場所に出た。
そこには湖のようなものが広がっていて、そのそばに稜と歩実がいた。
「勝手に一人で外に行ったら駄目だろ! 心配したんだぞ!」
「ごめんね……ごめんね、お兄ちゃん」
歩実は泣きながら稜に抱きついていた。とにかく見つかってよかった。しかし、一安心するとそれまでの疲労が一気に襲いかかって立っていられなくなった。稜も同じなのか、その場にしゃがみこむ。この山には何度も来ているが、こんな山奥まで入ったことは一度もなかった。日も暮れているため来た道を引き返すこともできない。
「これじゃ帰れないな」
「参ったね……」
稜が苦笑いをしながら俺を見てくる。俺も同じように笑った。
6
辺りがすっかり暗くなって、そばにいる稜も歩実の顔も見づらくなってきた。
三人とも会話らしい会話をしなかったので、木が風で揺れる音だけが聞こえていた。
「歩実、どうしてここに来たんだよ」
しばらくしてから稜が歩実に聞いた。そういえば、探すのに必死でそれを聞くのを忘れていた。
「実はね、あれを追いかけてきたらここまで来ちゃったの」
そう言って、歩実は湖のほうを指差す。その先を見て俺と稜は驚いた。
湖の上に浮かぶ一つの光。図鑑で見たことはあったけど、本物を見るのは初めてだった。
「ほたる……あれ、ほたるじゃないか」
「そうだよ、ほたるだよ!」
しかし、それで終わりではなかった。湖の周りの木々から同じ光が無数に飛び出してきた。それが湖の上で飛び交う。ここはたくさんのほたるが住んでいる場所だった。
「すごくきれいだねえ」
歩実が嬉しそうに言う。俺たちは何も言わず、ただ目の前に映る光景に惹かれていた。
「歩実とお兄ちゃんと智彦お兄ちゃん、三人だけの秘密の場所だね」
「うん、三人のとっておきの場所だな。なあ、智彦」
「そうだな……」
もう夜なのに、その湖だけが明るくなって周囲を照らした。その光で稜と歩実の表情が見える。二人とも笑顔になってそれを見ていた。
「お兄ちゃん、智彦お兄ちゃん、また三人で見に来ようね。約束だよ」
「今度は一人で行かずに三人で行くんだぞ」
「うん」
稜と歩実がお互いに笑う。俺もそれを見て自然に笑った。もう喧嘩のことなんてすっかり忘れていた。
その日、俺たち三人は生まれて初めて野宿をすることにした。次の朝になって何とか山を降りることができた。
当然、家に帰るとおばさんは泣きながら歩実を抱きしめ。ずっと心配させたことで俺たちを叱りつけたが、最後にはちゃんとお礼を言ってくれた。
もちろん、おふくろにも散々怒られたが、おばさんが事情を説明してくれたこともあって、怒られたのは帰ってきたその日だけに済んだ。
7
あの日以来、俺と稜はすぐに仲直りした。それまで以上に稜や歩実と遊ぶ時間が楽しくなったし、これからもずっとそうだったらいいと思っていた。
そんなある日、稜のおばさんにご飯を食べに来ないかと誘われた。もちろん断るわけがない。
俺はおふくろに連絡を入れて、稜の家で初めてご飯を食べることになった。
「おいしい! 俺のおふくろよりうまいよ、おばさん!」
「褒めすぎよ、智彦くん。ご飯はまだまだたくさんあるから、いっぱい食べてね」
「はい!」
「あー、お兄ちゃん、そのハンバーグ歩実のなの!」
「わかった、わかった。ほらあげるよ」
おばさんと話していると、対面のテーブルで稜と歩実がご飯を食べている。稜の家族はいつも楽しそうにしていた。
「ほら、歩実、口にハンバーグのソースがついてるぞ。もうすぐ十歳になるんだからしっかりしないとだめだろ」
「うー、ごめんね、お兄ちゃん」
稜がやれやれと言った感じでふきんで歩実の口についたソースを取った。まるで親子みたいな光景だった。
「あら、この家に私は必要ないかしら」
おばさんも同じ事を考えていたのか、苦笑いしながらそう言った。
夜ご飯を食べ終え、食器洗いを手伝った。時間を見ると少し遅くなっていた。おふくろが心配するのでそろそろ帰ることにした。
稜と歩実に別れを言って玄関のほうに向かう。おばさんが家の外まで送ってくれた。
「おばさん、ごちそうになりました。本当においしかったです」
「良かったらまた来てね。もっとおいしいものを作るから」
「ぜひお願いします。じゃあ……」
「あ、智彦くん」
帰ろうとするとおばさんに呼び止められた。
「はい?」
振り返ってもおばさんはしばらく何も言わなかったが、やがて決心したように口を開いた。
「この一年で稜は笑うようになったわ。あの子が本当に笑うようになったの。それまで私と歩実が励ましてもあの子は泣くのをがまんしていただけだった。そんなあの子が笑うようになったの。あなたが来てくれたから」
「いえ、俺は友達だからいつも遊びに来てるだけですよ」
「でも、あの子にとっては今の時間が何より大切なの。だから、私の身勝手なお願いだけど、智彦くん」
おばさんは目に涙を浮かべて言った。
「ずっとあの子の友達でいてあげて。これから先、どんなことがあっても、あなたはあの子の味方でいてあげて。また遊びに来てね、必ず……」
それはおばさんのお願いだった。他の誰にも言えない、俺への頼みだった。
「当たり前ですよ。俺はずっと稜の友達です」
「……ありがとう」
おばさんは涙を流しながらそう言った。
8
数日後。俺たちはいつものように公園でキャッチボールをしていた。もちろん、今日も歩実がついてきて、滑り台で遊んでいた。
しばらくキャッチボールをしていたが、急に稜がボールを投げるのをやめた。
「ん、どうしたんだ、稜?」
「なあ、智彦」
「どうした?」
そう聞いても、稜は目を泳がせたまま、何も言わなかった。
以前のように俺が学校の話をしたわけじゃない。
疑問に思っていると、稜は決意したように口を開いた。
「僕の願いを聞いてくれないか?」
「願い?」
少し前におばさんの願いを聞いたばかりで、今度は稜からだった。いったい何を……。
「と、智彦に歩実の将来を頼みたいんだ」
「……はあ!?」
前置きも何もない頼み事に思わず聞き返してしまった。
「ど、どういうことだよ、それ!?」
「言葉通りの意味だよ。言わせないでくれ!」
なぜかお互いに顔が真っ赤になった。歩実のほうを見たが、遊びに夢中になっていて気づいていないらしい。
「急に何を言い出すんだよ!」
「急じゃないよ。ずっと考えてたんだ。僕が歩実を守りたい気持ちは誰よりも強いけど、兄だからできないこともたくさんある。だから、歩実をまかせられる人は智彦しかいないんだ」
「でも、俺たち中学生だぞ。そんなことはもっと先に――」
「今が良いんだ。お願いだよ!」
稜は真剣に言った。どうして真剣になっているのかわからなかったが、冗談で言っているわけではなかった。ふざけた答えを言うと怒られるかもしれない。
「わかったわかった! 歩実のことは俺にまかせろ! 絶対に幸せにしてやる!」
半ばやけくそだったが、嘘ではなかった。多少言い過ぎたような気がしたが、それは俺の気持ちに近かった。
「ありがとう、智彦!」
「二人とも何話してるの?」
突然歩実にそう聞かれて、稜と二人で慌てたのは言うまでもなかった。
こうして俺たちの日常は過ぎていった。高校生になっても、あまり変わらないだろう。
ごく普通の当たり前の日々。それでも、俺は稜と歩実の三人でいるこの時間に満足していた。これ以上求めるものは特に思い浮かばない。
ただ、この日常があればそれだけで良かった。
でも、俺は知らなかった。
当たり前に思っていた日常が、何の前触れもなく変わってしまうことを俺はまったく知らなかった。
9
その日は突然やってきた。
学校の帰り道、俺は稜と何をして遊ぼうかと考えていた。
「キャッチボールはそろそろ飽きたからな。今日はサッカーかな」
家にも帰っていないのにもうわくわくしていた。最近は学校に行く途中でも稜や歩実と遊びたくて仕方がなかった。
住宅地の通りを歩いていると、ふと何かの視線を感じた。前方を見ると誰かが歩いてくる。赤茶色のあご髭を生やした体格の大きな男だった。このあたりでは見かけない顔だった。
その男と視線が合う。男がにやりと笑ったように見えた。その瞬間、今までわくわくしていた気持ちが一気になくなって、不安がこみ上げてきた。
男はすれ違う時に何かしてくると思ったが、そのまま通り過ぎていく。それでも不安が消えず、むしろどんどんと強くなっているような気がした。
「ただいま……」
自分の家に着いてそう言ったが、思ったよりも声が出なかった。あの男のせいかもしれない。
「智彦、帰ってきたの!? 早くこっち来て!」
その時、おふくろが大声を出しながらリビングから現れた。寝坊しそうになって耳元で怒られたことはこれまでに何度もあったが、その声はいつもよりさらに大きかった。
「どうしたんだよ?」
その質問に答えずおふくろは俺の手をつかんでリビングに入った。部屋の奥に置かれていたテレビを指差す。
それを見た瞬間、頭の中が混乱した。
『先日、家族二人が殺害された事件が起きました。この事件は昨日午後八時、主婦、音坂真由子さん38歳と次女、音坂歩実ちゃん9歳が殺害された事件で、鋭利な刃物で斬られたような傷があり、警察では殺人事件として捜査されています。尚、この家に住む長男、音坂稜くん15歳は行方不明になっており、警察による捜索が行われています』
いつも見ている殺人事件のニュース。でも、それはこれまで以上に衝撃を受けるものだった。
「おばさんと歩実が……死んだ?」
「稜くんが行方不明って、もしかしてさらわれたんじゃ……」
おふくろも動揺を隠せない様子だった。いや、それよりも俺の中ですぐにやらなければならないことがあった。
「稜……稜!」
「智彦、どこ行くの!?」
おふくろの呼び止める声を聞かずに俺は制服のまま家を飛び出した。
おばさんと歩実が殺された。
なんで、なんで……。稜にとって二人だけが全てだった
のに。
頭の中で危険だと感じる。すぐに稜を見つけないと取り返しのつかないことになる気がした。
全速力で走って稜の家に着くと、稜の家は何人もの警官が出入りしていた。ニュースでやっていた通り、事件が起こったのは間違いないようだ。
「真由子さんも歩実ちゃんも殺されて、稜くんも行方不明だそうよ」
「あんなに幸せそうな家庭だったのに、かわいそうにね……」
稜の家の周囲には近所の人たちがたくさんいた。その人たちを一人ずつ見たが、稜の姿はどこにもなかった。
「ここにはいない……」
俺は稜の家から離れて別の場所を探し始めた。住宅地はもちろん、稜の中学校や近くの商店街、公園など、稜の行きそうな所はどこでもかまわずに探し続けた。
でも、どこにもいない。手がかりがなく、探す場所もどんどんと減って焦りが出てくる。早く稜を見つけないといけないのに、どうしても稜は見つからなかった。
やがて日が暮れて夜になった。学校に帰ってからずっと走り続けていたため、さすがの俺でも体力の限界が来ていた。いつもの公園のベンチに座り込んだが、疲れはほとんど取れなかった。
「くそ、どこにいるんだよ、稜」
時間だけが過ぎていく。これだけ時間をかけて探しても見つからなければ何の意味もなかった。探してきたところをもう一度行こうと思ったが、自分の体力と夜になっていることを考えると、それは難しかった。
「……」
一度深くため息をつく。あきらめたら駄目だ。あきらめたらずっと後悔する気がする。そんな気がしてならなかった。
その時、ふと目に止まったものを見て、馬鹿な自分を嘆きたくなった。
どうして、そこを探していなかったのだろうと思った。
ベンチから立ち上がって俺は住宅地の裏山に向かって走った。
10
ひどく疲れていたが、俺は何とか裏山を登り始めた。木々の間をくぐりながら奥へ進んでいく。
もしかしたら、ここにはいないかもしれない。でも、なぜか確信に近い予感がしていた。
三人でほたるを見たあの湖。あそこにきっと……。
湖に近づくにつれて胸騒ぎが大きくなっていく。心の中の確信を否定したい気持ちでいっぱいになった。稜がそこにいてほしい気持ちといてほしくない気持ちが入り混じっていく。
そして、俺はその湖にたどり着いた。
何かの匂いを鼻に感じる。鉄のさびたような匂い。自分が怪我をしたときにも同じような匂いがした。
間違いなく血の匂いだった。その匂いのする方向を見る。
湖のそばで黒い人影がゆらりと見える。誰なのかすぐにわかった。
「稜? 稜なのか?」
人影がまたゆらりと動く。空に浮かぶ月の明かりの下にその影が出てきた。
「智彦?」
思わず息を呑んだ。
暗い影の中から全身に赤い血を浴びた稜が姿を現した。その手には細くて長い真っ黒な刀が握りしめられている。目は光がなく虚ろだった。
「お前、どうしたんだよ……それ」
あまりに衝撃的な稜の姿に言葉がうまく出なかった。そこにいる稜は今までの稜と全く別人のように思えた。でも、その姿も、声も稜に間違いなかった。
「これ? これは僕の血じゃないよ」
稜が無表情で足元を見下ろす。その視線を辿ると、ようやく血の匂いのもとがわかった。稜の足元に何度も切り刻まれた男の死体があった。
「こいつの仲間が母さんも、歩実も殺したんだ。この刺青をつけた奴が犯人だよ」
稜が刀の先端で男の首筋を指す。そこにはあげは蝶の刺青が彫られていた。
おかしい。何もかもがおかしかった。あの稜が人をこんな残酷に殺すなんて……。
「稜、どうしちまったんだよ……お前、人を殺したんだぞ! わかってるのか!?」
「わかってるよ、そんなこと」
それまでの稜の口調が一変して低い声になった。その表情が暗くなる。その表情は稜が自分の父親を見た時と同じものだった。
「母さんが何をしたって言うんだ。歩実が何をしたって言うんだ。二人共あの男に殺された。歩実なんてまだ九歳なのに……。歩実にだけは幸せな時間を過ごして欲しかったのに……」
稜の言葉には様々な感情がこもっていた。大切な物を奪われ悲しみ、怒り、そして憎しみ。俺が嫌な予感をしていたのはこれだったのかもしれない。
「この男には仲間がいる。母さんと歩実のために、僕にはもう奴らを全員殺すことしかできない」
稜の目から涙が流れる。それが顔についた血に混ざって赤くなった。
「やめろ……やめるんだ、稜。そんなことをしたら、もう後には戻れない。歩実との約束も――」
俺がそう言いかける前に首のあたりに何かを感じた。すぐそばで血の匂いがする。
気がつくと、稜が目の前にいて俺の首に黒い刀を突きつけていた。
「歩実はもういない。あいつの味わった苦しみを与えるために、僕は奴らを全員殺す。邪魔をするな、智彦」
そこにもう俺の知っている稜はいなかった。いたのはこれから先、何の幸せも喜びもない闇に進んでいくかつての親友の姿だった。俺は何も言うことが出来なかった。
稜が俺から刀を離し、後ろに振り返って歩いていく。追いかけたかったが、足がまったく動かなかった。
「行くな……」
ほとんど小さな声だった。
「行かないでくれ、稜……」
もう俺の声は稜に届かなかった。俺の親友は深い闇の中へ姿を消した。
11
それまでの日常が変わってしまったことを改めて思い知った。
稜の家に行っても、もうそこには誰もいない。公園に行っても、裏山に行ってもどこにもいない。
それまであったものを一瞬で失って、俺は生きていること自体にも苦しさを感じていた。
「俺は稜を助けられなかった……」
稜がいなくなって数日の間、俺は学校に行かず、ご飯もろくに食べることができなかった。おふくろが心配しているのはわかるが、すぐに元気になれない。自分の部屋にこもる日々が続いた。
これからどうすればいいのか、何も考えることができなかった。
ただ一つ頭の中に強く残っているのは稜を救えなかった後悔だけだった。
全てを失ったあいつのために、俺に何が出来るっていうんだ。
稜はもう戻ってこない……。
「智彦! 智彦!」
その時、おふくろの慌てた声が聞こえてきた。でも、それに返事する気力も残されていなかった。
「智彦、早く出てきて! 病院から連絡があったの! 歩実ちゃんが意識を取り戻したって!」
「え……」
それを聞いた瞬間、今までなかった気力が一瞬で元に戻ったような気がした。すぐに体を起こし、部屋のドアを開ける。おふくろが電話を持って立っていた。
「歩実ちゃんが智彦のことを呼んでるってさっき電話が……」
「歩実が……生きてる?」
「事件のあと病院に運ばれて、もう意識が戻らないと言われていたの。でも、さっき奇跡的に意識を取り戻したって。容態はかなり悪いみたいだけど……。早く行ってあげなさい、智彦!」
「わかった!」
そのあと俺はすぐに身支度をして家を飛び出した。家にとめていた自転車に乗って近くの病院に向かって全速力でこいだ。
歩実が生きてる。嘘かもしれない。でも、もし生きていたら稜を助けることができるかもしれない。
歩実はまだ死んじゃいない。歩実はまだこの世界にいる。他のことなんてもうどうでもいい。俺は力を振り絞って自転車をこいだ。
病院にたどり着き、自転車を正面玄関の近くに停めて、病院の中へ入った。
「すいません、音坂歩実は? 歩実の病室はどこですか!?」
受付の女性は突然そう聞かれて動揺しているようだった。
「もしかして君が智彦くん?」
その時、そばにいた看護婦が俺のほうを見て言った。
「はい、そうです! 歩実はどこにいるんですか!」
「こっちの病室にいるわ。ついて来て!」
看護婦の人が廊下を小走りで行く。そのすぐあとに続いた。
三階に上がり、廊下を再び走る。「ここにいるわ」とさっきの看護婦の人が言って
『304』号室と書かれた病室を差した。
病室に入ると、部屋のベッドの上に歩実は眠っていた。顔以外のほとんどの部分に包帯が巻かれ、点滴がつけられている。
でも、歩実の体が小さく上下している。間違いなく歩実は呼吸して、今も生きていた。
「歩実、大丈夫か? 歩実?」
そばに来て、そう呼びかけると歩実がゆっくりと目を開けて俺を見た。「智彦お兄ちゃん?」と小さな声で言った。
「歩実、良かった、良かった……」
俺は歩実の手を掴んで思わず泣いてしまった。歩実が生きていてくれて本当に嬉しかった。
でも、そこで歩実の体を巻いている包帯がどす黒い血で染まっていたことにようやく気付いた。
言葉を失った。おふくろが歩実の状態がかなり悪いと言っていたことを思い出した。
歩実の命は消えかけている。
「智彦お兄ちゃん」
体中に痛みがはしっているはずなのに歩実は俺に話しかけた。
「お兄ちゃんは……どうしたの?」
「……」
歩実から目をそらしてしまった。本当のことなんて言えるわけがない。稜が歩実とおばさんの仇を討つために復讐を始めたなんて言えるわけがなかった。
「りょ、稜は久しぶりに学校に行くって言ってな。ほら、歩実を心配させないようにちゃんと学校に行くってはりきってさ。大丈夫、今度はあいつと一緒に来るよ」
「そうなんだ……」
歩実が一度目を閉じて何も言わなくなった。その表情を見て自己嫌悪に陥る。でたらめなことを言って歩実を安心させて何になるって言うんだ。歩実は本当の稜のことを知らないまま死んでしまうかもしれないのに……。
「智彦お兄ちゃん」
「どうした?」
歩実が目を開けてまた俺を見た。その表情に笑顔が見える。
「嘘だよね、今言ったこと」
「え?」
「お兄ちゃん、本当はどこかに行っちゃったんでしょ?」
「どうして……」
俺のその言葉を聞いて歩実はもう確信したのかもしれない。それでも歩実はずっと笑顔だった。
「お兄ちゃんを最後に見た時、今までで一番泣いてて、怒ってた。いつものお兄ちゃんじゃなかったから……」
「歩実……」
俺は歩実の手をさらに強く握り締めた。
「ごめんな。俺、何も出来なかった。あいつの友達なのに、あいつのために何一つしてやれなかった。あいつは、あいつはもう……」
「ねえ、智彦お兄ちゃん」
そう呼びかけた歩実の声はひどく小さな声だった。思わず顔をあげて歩実を見る。
歩実の手の力もどんどんと抜けていった。
「歩実のお願い、聞いてくれる?」
こぼれる涙を止めることができず、ただ頷くことしかできなかった。
「お兄ちゃんを助けてあげて。お兄ちゃんを助けてあげられるのは智彦お兄ちゃんだけだから。どんなことがあっても、お兄ちゃんを助けてあげて。それが歩実のお願い」
そうだ。
稜のために俺が出来ることがあった。
こんな簡単なことにも気付けなかった馬鹿な俺に歩実が教えてくれた。
「助ける、絶対に稜を助ける。どんなことがあってもあいつを見捨てずに、必ず助けてみせる。俺はあいつの友達だから、親友だから!」
歩実はもう何も言わなかった。手の力も完全に抜けていて、呼吸もしていなかった。それでも歩実は笑顔のまま目を閉じていた。
「患者の心肺が停止しました!」
「早く、早く先生を呼びなさい!」
看護婦たちが病室に入って騒ぎ始める。でも、歩実がもうこの世にいないと俺にはわかっていた。看護婦たちと入れ替わるように病院をあとにする。
病院を出ると、真っ赤な夕日が俺を照らしていた。
お兄ちゃんを助けてあげて。
歩実の声が響く。また目から涙が流れた。
「歩実、俺が稜を助けるよ。絶対に」
右手に現れたものをしっかりと握り締める。それは稜の刀と同じ形をした真っ白な刀だった。
第七章 終
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