表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
黒刀  作者: かとぶ
6/10

第五章 父と子

第五章 父と子


 1


 2013年12月20日 午後十時 湯田月港


 町から少し離れたところにある港。そこの海岸沿いに建てられた工場の一つに呼び出されたのは今から二十分前のことだった。

 この工場はずいぶん前に廃業し、今は無人の施設になっている。だから、俺たちが集まるのには絶好の場所だった。

「しかし、急に呼び出されるとは、面倒だな」

春樹(はるき)

 そばに立っていた野梨子(のりこ)がじっと睨みつけてきた。

「なんだよ」

 そう聞くと、野梨子はゆっくりと俺の体を見回して言った。

「あなた、また女と遊んでいたの?」

「はあ!? な、なんでだよ!」

「図星みたいね」

「う……」

 あっさりと見抜かれ、何も言えずにため息をついた。

 この女の勘が外れることはそうそうない。七、八年の付き合いになっても、油断することは出来なかった。

「それにしても、珍しいわね。これだけの人数を集めるなんて」

「確かにな」

 俺と野梨子以外にも町に潜伏していた『アゲハ』のメンバーが十数人集まっている。普段は仕事したり、バイトしたりして町にとけこんでいる連中ばかりだ。町ですれ違ってもわからないかもしれない。

「呼ばれたのはおそらく、五島(ごとう)のことよ」

「ああ、知ってるよ」

 木出(きで)さんが五島に黒刀の抹殺を命じたのは今から二週間前。しかし、ここ最近、奴からの連絡は途絶えたままになっていた。

「まさかとは思ってたけどな……」

「残念だが、五島は黒刀に殺された」

 奥の暗い場所から声だけが聞こえてきた。やがて、天井にある明かりの下に木出(きで)さんが現れた。他の連中と違って、大柄で厳つい顔をした中年のおっさんだから、町で会ってもすぐにわかりそうだった。

「部下も全員殺されてしまったぜ。ま、最初からそんなに期待はしていなかったがな」

「じゃあ、なんで五島たちを使ったんですか?」

「黒刀の逃げ場を無くすためですね」

 俺の質問に野梨子が答えると、木出さんが頷いた。

「その通り、奴の行動範囲を狭めるために五島を使ったのさ」

「そんなことをしてどういう意味があるんですか?」

「簡単な話だ。奴が俺たちの元へ来る可能性が高くなる。こっちから探さなくても向こうからやってくるってわけさ。それともうひとつ知らせがある」

「なんですか?」

「五島たちの他に何人か人が死んでいる。学校の関係者も含まれているらしい。近いうちに警察が介入することになるだろうな。もう奴に逃げ場はない」

「だけど、木出さん。黒刀の力は馬鹿にできないですよ。仲間に引き入れるのは簡単なことではありません」

 手加減していたとはいえ、野梨子と二人がかりでやっても押されていたからな。

「くく、だからこちらもそれなりの準備をするんだよ」

「どういうことですか?」

 木出さんはポケットから一枚の写真を取り出した。

「ようやくあの男から例の物をかっさらう方法を見つけた」

 にやりと笑って、俺たちにその写真を見せた。灰色のコートに身を包んだ長身の男が写っていた。

中西英樹(なかにしひでき)。この男を使ってアリナキサスを手に入れる」

 ああ、そうか。いよいよこの時が来てしまったのか。

 長年、木出さんが望んでいたことがまもなく実現する。

『アゲハ』が本格的に動き出す。


 2


 空が光っていた。正確に言えば、空の至るところで無数の星が輝いていて、それがまるで空全体が光っているように見えた。その光がどこまでも続く広大な草原を照らしている。

「父さん、母さん、見て。星が綺麗だよ!」

 雄二(ゆうじ)が空を指差しながら草原の中を走っていく。

「雄二のやつ、本当に元気だな」

「あなたが仕事でなかなか帰ってこないから、淋しがっていたのよ」

 そばを歩く夏帆(かほ)が言った。

「悪いな、あいつのこと、お前にまかせっきりで」

「気にしなくていいわよ。今日の雄二、すごく楽しそうじゃない」

「ああ、そうだな」

 その日、仕事で多忙な俺は珍しく連休が取れて、家族三人で都会から遠く離れた田舎に来ていた。

「二人でどこかに出かけるのも久しぶりじゃない?」

「ああ」

「じゃあ、昔みたいに手を握ってよ」

「な、急に何をいうんだ!?」

 その提案に思わず動揺した。夏帆がくすっと笑う。

「最初に会った時なんか必死にお願いしてたじゃない」

 昔のことを引き出してくるとは……。やはり、夏帆は俺のことを何でもわかっているらしい。

「わ、わかった……」

 俺はしぶしぶ夏帆の手を握りしめた。

「ほら早く行くぞ、雄二が待ってる」

「ねえ、あなた」

「どうした?」

 夏帆はしばらくその場でじっとしていたが、やがて口を開いた。

「私にもしものことがあったら雄二を頼むわね」

「急にどうしたんだ?」

「お願い」

 夏帆が俺の手を強く握りしめてきた。

「……わかった、約束する」

「ありがとう、あなた」

 その時、視界が急に暗くなっていった。

「なんだ?」

 前を走っていた雄二の姿が消え、夏帆もその暗闇に包まれていく。彼女の手を握りしめていた感覚も薄くなっていった。

「夏帆!」

 俺は必死に彼女の手を握り締めようとしたが、やがてその感覚は消えてしまった。そのまま、全てが闇に覆われていく。

「夏帆! 行くな、夏帆!」

 真っ暗な闇の中で、夏帆の名を叫び続けたが返事はなかった。


 3


「夏帆!」

 夏帆の名前を叫びながら、目を覚ました。冬なのに顔が汗で濡れていた。辺りを見回して、自分の住んでいるマンションの一室だと分かるのに時間はかからなかった。

「夢か……」

 窓のほうを見ると、太陽の光が射し込んできている。もう夜が明けたようだ。

「くっ……」

 どうして、今になってあの時のことを思い出したんだ? もう何年も前のことなのに……。

 手で頭を押さえていると、傍のテーブルに置いていた携帯電話が鳴り響いた。携帯を開くと、見慣れた電話番号が表示されていた。ボタンを押して、電話に出た。

「もしもし、中西だが?」

『久しぶりだな、中西』

 案の定、携帯から糸井の声が聞こえてきた。

「お前、もう怪我は治ったのか?」

『ああ、とりあえずな。二日ぐらい前から仕事に戻ってる。それより、休日のところ悪いが署に来てくれないか? 部長が大事な話をしたいらしい』

「わかった」

『じゃあ、また署でな』

「ああ」

 俺はそう言って携帯電話を閉じた。

 ふと、部屋の隅に置いていた写真立てが目に止まった。

 写っているのは俺と雄二、夏帆の三人だった。みんな笑顔で俺のほうに顔を向けている。その写真を手にとって見た。あの時に撮った家族三人の唯一の写真だった。

「もう三年か、夏帆」

 結局、俺はお前との約束を守れているのか、どうかわからないでいる。これから先も……。

 そう思いながら、写真を元の場所に置いて、俺は身支度をして部屋を出た。


 4


 2013年12月23日。午前九時。湯田月署


 薮内正明(やぶうちまさあき)の事件の後、『アゲハ』の連中も黒刀の行方も掴めない状況が続いていた。糸井が病院で治療を受けているこの一ヶ月の間、吉丘と協力して刀人のことを調べていたがその努力が報われることはなく、時間だけが過ぎていった。

 自分の家を出てから十数分ほどで湯田月署に到着した。

「中西、メリークリスマスだな」

 駐車場に停めて車から降りると、署の正面玄関に近くで煙草を吸っていた糸井が話しかけてきた。近くに置かれたゴミ箱から何本も捨てられたたばこの匂いがする。退院したあとも、すぐに煙草を捨てる癖は治っていないみたいだ。

「まだ二日前だ。気が早いぞ」

「俺たちはいつ死ぬかわからない仕事をしているんだ。今のうちに言っておいたほうがいいだろ」

「否定はしないけどな」

「部長が待ってる。早く行こうぜ」

 糸井に促されて、署に入り、菅原さんの待つ特捜課の部屋へ向かった。

「傷は大丈夫なのか?」

「ああ、一応医者から退院してもいいって言われたからな」

「しかし、お前も運が良いな。薮内正明(やぶうちまさあき)の事件以降、奴らの姿は確認されていないし、黒刀が絡んでいそうな目立った事件も起きていない」

 そう言うと、糸井は軽く笑って真顔になった。

「そして、これも運が悪いのかどうか、退院してすぐに部長から呼び出しだ。何か重要なことに違いないな」

「そうだな」

「あ、糸井さん、中西さん、おはようございます」

 菅原さんの部屋の前に行くと、糸井の部下の吉丘(よしおか)が待っていた。

「糸井さん、もう傷は大丈夫なんですか?」

「心配してくれたか、絢音?」

「当たり前ですよ! 仕事の時もどれだけ心配していたのか、わかっているんですか?」

「悪い悪い、世話をかけたな」

 糸井と吉丘が笑いながら話しているのを黙って見守っていた。

 この一ヶ月、吉丘は毎日のように糸井の見舞いに行っていたから、心配しているのはすぐにわかった。糸井の復帰を一番喜んでいるのは間違いなく吉丘だろう。

「早くしてください。もう部長が待ってますよ」

「はいはい、わかったよ」

 糸井が吉丘の肩をぽんと叩いて菅原さんの部屋の扉を開けた。

「待ってたわよ、糸井!」

 扉を開けたのとほぼ同時に、菅原さんが飛び出して、糸井に抱きついた。糸井はなんとか踏ん張って、倒れずに済んだ。

「いい加減にしてくださいよ、部長」

「いいじゃない、いいじゃない。糸井が無事に退院してくれたから嬉しいのよ」

「わかったから離れてくださいよ」

 糸井は心底鬱陶しそうな表情をしていた。

「前からこんな感じなのか?」

 糸井と菅原さんのやり取りを見ながら吉丘に顔を向けると、彼女は苦笑いを浮かべた。どうやらその通りらしい。

「離れてください、部長」

「何よお、せっかく糸井が退院したから、喜んであげたのに……」

 菅原さんは頬を膨らませながら自分の椅子に座った。

「それよりも用件を教えてください」

 糸井がそう言うと、菅原さんの表情が真剣になった。

「数日前、湯田月高校の生徒が二人殺されたわ。その事件に刀人が絡んでいることも判明した」

「え?」

 湯田月高校。どこかで聞いたことのある名前だった。それからすぐに雄二が通っている学校だと思い出した。

「被害者の名前は結城沙耶(ゆうきさや)ちゃん、十六歳。そして、川崎里菜(かわさきりな)ちゃん、同じく十六歳よ。二人のうち、里菜ちゃんには刀で斬られたようなあとが見つかっているわ。沙耶ちゃんのほうにはそんな傷はなく、手にしていたカッターナイフで喉を切ったみたいよ。でも、そうなった経緯はまったく判明していない」

 結城沙耶。その名前も聞いた覚えがあった。

 雄二が幼稚園の頃からずっと同じ学校に通っている幼馴染の名前だった。

 いったい学校で何が……。

 理解が追いつかない状態のまま、菅原さんは構わずに話を続けた。

「そして、この事件で重大な手がかりを掴むことが出来たわ」

「何がわかったんですか?」

 糸井がそう聞くと、菅原さんは一枚の写真を取り出した。

「この教師、二人が亡くなった事件から行方不明になってるの」

 それを見た俺たちは言葉を失った。

「稜……」

 一番驚いているのは糸井だった。

 写真に写っていたのは糸井がずっと探し続けている男。あげはの刀人を殺し続け、指名手配されている黒刀に間違いなかった。

「彼は湯田月高校で斎藤悠輔(さいとうゆうすけ)という偽名を使って教師をしていたわ。とても人気があって生徒たちからも慕われていたそうよ」

「どうしてあいつが……」

 糸井はまだ驚きを隠せないままだった。

「わからない。でも、彼が今回の事件に絡んでいる可能性は十分にあるわ。すでに彼が住んでいたアパートの場所も調べがついている。三人はとりあえずここから調べてもらうわ。用心してね、まだ彼はこの町に潜伏しているかもしれない」

 菅原さんに念押してそう言われた。

「わかりました。まずは奴のアパートから調べてみます」

 糸井はさっきよりも落ち着いた口調で言ったが、まだ動揺しているように見えた。吉丘もそんな糸井を心配そうに見守っている。

 だが、俺は二人とは全く別のことを考えていた。

 このことを雄二は知っているのか……。


 5


 時間は午後六時を回っている。朝から降っていた雪は止み、真馬流(しんばる)山の裏へ沈んでいく夕日が見えた。冬だと、もう辺りは暗くなっていた。

 私――菅原井織(すがはらいおり)は湯田月の住宅街を歩いていた。行き先までの道のりは既に調べているため、目的地である米山医院に到着するのに時間はかからなかった。

 ここに来るのはずいぶん久しぶりのような気がする。最後に来たのはもう何年も前の話だった。

「じゃあ、気をつけて帰るんだ」

「先生、本当にいつもありがとう。おかげですっかり良くなったわ」

「さっき渡した薬をちゃんと飲むんだ」

「ええ、わかっていますよ」

 病院の扉が開き、先生と患者のお婆さんが出てきた。先生はお婆さんと少し会話をして、彼女を見送った。その時は穏やかな表情だったが、私に気がつくと一瞬で表情を変えた。

「お久しぶりです、米山先生。少しの間、お時間を頂いてもよろしいですか?」

 先生はしばらく私を睨みつけていたが、後ろに振り返って「中に入れ」と言った。

 病院の中には誰もいなかった。あとに従って診察室に入ると、先生はコーヒーを飲んでいた。

「何のようだ?」

 先生はいかにも不満のあるような口調で聞いてきた。昔と同じように私のことを気に入っていないようだった。

「既にご存知かと思いますが、川崎里菜ちゃんが殺されました。おそらく『アゲハ』の仕業です」

「……」

 先生は何も言わずにコーヒーの入ったコップをテーブルに置いた。返事がないと思い、私は話を続けた。

「先生は知っていたんですね。彼女が刀人の素質を持っていたことに。だから、彼女をこの病院に通わせて様子を見ていた」

「ただの偶然だ」

 先生は一方的に否定したが、私が話していることはほぼ事実と言ってよかった。

「十数年前に私たちの元から離れても、刀人の研究を手がけていた先生には彼女のことが放っておけなかった。違いますか?」

「私にはもう関係のないことだ。研究はとうの昔にやめている」

「先生が辞めたのは仕方ありません。もし最初から研究を辞めていたら、あんな悲劇が起こることも――」

「おい!」

 先生は私の話を遮った。その目に怒りがこもっている。

「その話だけは……絶対にするんじゃない」

「お気を悪くしたのであれば謝ります。ですが、私たちは先生の研究を引き継いでいます。すでにそのサンプルも完成していると研究部から報告がありました」

「な、なに……」

 先生は驚いた表情をして、聞いてきた。

「まさか、アリナキサスの量産に成功したというのか?」

「先生にはもう関係のない話だと、そうおっしゃいましたね。しかし、私たちには重大なことなんです。『アゲハ』に対抗する唯一の方法であるアリナキサス。あれを一番初めに使った先生ならわかるはずです。警察が研究を続けた意味が」

「やめろ!」

 先生は机を叩きつけて怒鳴った。

「もう出て行ってくれ、私には関係ない!」

 私は全く動じずに話を続けた。

「先生がそのつもりでも、あなたのやってきたことは今もこの社会に影響し続けています。アゲハの組織、そしてあなたの息子にも。その責任は忘れないでください」

 先生は何も答えなかった。

 やはり、あの時のことは負い目に感じてるのかしら……。

「失礼します」

 これ以上、先生は何も話さないと思ったので、私は一礼して病院を出た。

 外に出ると、もう日が沈んですっかり暗くなっていた。病院のほうに振り返ると、既に内部の明かりが消えている。

 先生は刀人の研究を辞めてから、ずっとこの小さな病院に閉じこもっている。本来の自分の名前を捨てて、自分のしてきたことと向き合わずに。

 それで本当に自分の罪が償えると思ってるの……。

 少なくとも私にはそう思えなかった。

 その時、携帯が鳴り響いた。知らない電話番号だったが、それでも誰からの電話なのか、すぐにわかった。

 電話に出てしばらくしても沈黙が続いたが、やがて彼の声が聞こえてきた。

『……俺だ』

「何かあったの、稜?」

『直に話す。いつもの場所に来い』

 私の質問に答えず、稜はそのまま電話を切った。

「……」

 このところ連絡がなかったから心配していたけど……。

 嫌な予感がしながら私はいつものバーへ向かった。


 5


 町の通りには既にクリスマスのイルミネーションが飾られていた。いつもより人通りも多い。明後日にはクリスマスをしてキリストの誕生日を祝い、それから一週間が経てば、初詣をする。これほど色々な国の行事が一緒になっている国は日本ぐらいかもしれない。

 そんなことを頭の隅で考えつつ、私は足取りを早めて町の裏路地に入った。

 バーに着いたのは稜から電話があって二十分ぐらいあとだった。店はいつものように夕方から開店している。

「もう来てるのかしら」

 店内にいると思い、中に入ろうとドアに手を伸ばそうとした。しかし、その前に誰かに肩を掴まれた。

「!」

「こっちだ。来い」

 すぐに稜の声だとわかった。振り返ると、稜はバーのそばにある小さな道に入っていく。

 あとに続いて道に入ると、稜は壁にもたれかかっていた。よく見ると、上に着ている黒いパーカーは薄汚れており、顔色も良くなかった。

「何かあったの?」

「問題ない。学校のこと、話したのか?」

 稜は私を睨みつけてきた。素直に答えたほうがいいと思った。

「ええ、刀人が絡んでいる事件が起きて、何人も殺されたのよ。言わないほうがおかしいでしょ?」

「……」

「稜、大丈夫?」

「奴らの狙いに目星がついたらしいな」

 稜が再び私に鋭い視線を向ける。何か違う。以前に比べるとかなり威圧的な感じがした。

「ええ……」

 私は手にしたバッグからメモリーカードを取り出し、稜に渡した。

「アリナキサス。彼らはこの薬を狙っているわ。でも、心配しないで。薬の保管場所は警察のネットワークに入らないとわからないし、盗み出すことは出来ないはずよ」

 稜は何も言わずにメモリーカードを受け取った。

「菅原」

「なに?」

 稜はまっすぐに私のほうを見つめた。思えば、その時初めて稜に名前を呼ばれたような気がした。

「もう俺に関わるな。これ以上関わればお前の命が危ない」

 あまりに突然のことに言葉を失った。

「急にどうしたのよ、稜。 約束と違うじゃない!」

 思わず大声で言ってしまったが、周囲に人の気配はなく、私と稜だけがそこにいたので盗み聞きされる心配はなかった。

「元々、俺とお前は敵対している。今までは利害が一致していたが、ここからはもう関係ない」

「落ち着いてよ、稜。今回の事件のせいで糸井たちが、あなたの潜伏先を調べ始めるわ。アゲハのアジトもどこにあるのかわかっていない。迂闊に動いたら、私たちがあなたを捕まえないといけないかもしれないのよ」

「その時は構わず、俺を捕まえろ。だが、俺は自分の目的を果たすまで、捕まるつもりはないし、死ぬつもりもない。邪魔をするならお前も殺す」

「稜……」

 稜は壁から離れて、町の通りのほうへ歩き始めた。少し進んだところで立ち止まり、背中を向けたまま言った。

「お前の妹は奴らの幹部だ」

「ほ、本当なの!?」

「俺はそいつを殺す。そうされたくないなら、自分の手で捕まえろ」

 言い終わると稜は町の通りへと姿を消した。

 どう呼び止めていいのかわからなかった。

 学校の事件で何かあったとは思うけど、今までよりもさらに憎悪が強くなっているような気がした。

 胸ポケットから一枚の写真を取り出した。そこには大学生だった頃の自分と幼い少女が写っていた。

 私、どうしたら良かったのかしら。

野梨子(のりこ)……」

 指で幼い少女をなぞりながら、そうつぶやいた。


 6


 午後七時。


 菅原さんから黒刀の情報を聞いたあと、糸井たちと捜査の段取りについて話し合いをした。後日、奴の潜伏していたアパートから調べることになったところで仕事を終え、俺は自宅のマンションに戻った。

 ドアの前に着き、ノブを回すと出かける前に鍵をかけていたはずのドアが開いた。

「帰っていたのか、雄二(ゆうじ)

 玄関で雄二と鉢合わせになった。いつもは夜遅くに帰宅するため、雄二は自分の部屋で眠っていることが多かったが、今日は早く仕事が終わったから、この可能性もあると考えていた。

 雄二は何も言わずに、右肩にかけた荷物を背負い直して俺の横を通り過ぎた。

「また、出かけるのか?」

「ああ」

 雄二は靴を履き終えて、立ち上がった。

「雄二、お前に聞きたいことがある。この前、亡くなった女子生徒のことだが……」

 すると、雄二は表情を変えて俺を睨みつけてきた。いつもより暗い目をしていた。

「親父に話すことなんて何もねえよ」

「死んだ女の子の名前が結城沙耶だった。お前の知り合いだろ。大丈夫なのか?」

「うるせえよ!」

 とたんに雄二が大声で怒鳴った。

「何だよ、今さら俺の心配をするつもりかよ! 今まで仕事のことしか考えていなかったくせに! 心配するなら、どうして母さんが死んだ時はそうしなかったんだよ!」

 雄二の言葉が心に突き刺さった。今でも後悔していることを真っ向から言われた。

「あんたは俺の父親じゃない。俺はあんたみたいにならねえよ! もうほっといてくれ!」

 言い終わると、雄二は家を出て行った。

「ふう……」

 俺はため息をついた。話をすればいつもこんな感じだが、今日は一段と酷かった。やはり、亡くなった二人のことで傷ついているんだろう。

 それを慰める役目は親にあるのに、今の俺にはそれができなかった。色々と考えたが、どうしたらいいのかわからなかった。

 やっぱりあいつはもう心を開いてくれないか……。

 もう俺にはどうすることも出来ない。

「夏帆、お前との約束、守れそうにない。俺はだめな父親だな……」

 しばらくのあいだ、深い自己嫌悪に陥った。


 7


 午後八時。


 全ての景色がいつもと違う場所に見えた。通りに建ち並ぶ店も。すれ違う人たちも。学校に行く時にいつも寄るあの公園も。何度も通ってきた場所ばかりなのに、まるで別のようなものにしか思えなかった。

 俺――中西雄二(なかにしゆうじ)はあの公園でいつものように沙耶のことを待っていた。だけど、もうあいつが来ることはない。遅れて「ごめん」と言っていつも謝るあいつの姿をもう見ることはできなかった。

 学校の生活も全てが変わっていた。いつも休み時間に話しかけてくる沙耶も、前の席に座っている川崎もいない。二人がいない教室で虚しい日々が過ぎ、冬休みに入った。

 自分の家を飛び出したあと、俺は夜の町を歩いていた。

 別にどこか行きたいところがあったわけじゃない。ただ、目の前の現実から逃げたかった。

 沙耶と川崎が誰かに殺されて、もうこの世界にいないことを認めたくなかった。

「沙耶……」

 今でもひどく後悔している。あいつはずっと前から俺のことを好きでいてくれたんだ。なのに、俺はあいつを突き放した。

 謝ることもあいつの想いに応えることもできないまま、あいつは死んでしまった。そして、川崎もいなくなってしまった。

 こんなのありかよ。あの時、ああしていれば、こんなことには……。

 また後悔してしまう。でも、どうすることもできない。沙耶と川崎はもう死んでしまった。冬休みが終わっても、もう沙耶と一緒に学校に行くことはないし、笑顔を見せてくれる川崎にも会うことはない。

 どうすればいい。二人のいないこの世界で俺はこれからどう生きていけばいい?

 親父に頼るという選択肢はなかった。あいつは病弱だった母さんの見舞いに行かずに、仕事ばかりを優先して見殺しにした最低な男だ。そんな男を父親に持った自分が情けなかった。だから、 俺は自分一人の力で生きていくと決めたんだ。

 この状況になってもそれを変えるつもりはない。でも……。

 その時、通りの角のデパートの壁につけられた大きな液晶テレビにニュースが流れ始めた。

『今月の十一日に湯田月高校の女子生徒二人が殺害される事件が発生しました。この事件は今月の十一日の夕方頃に、公立湯田月高校に通う結城沙耶さん、十六歳が殺害され、同日の深夜0時頃に湯田月駅で同じく高校生の川崎里菜さん、十六歳が殺害された事件です。犯人は未だに捕まっておりませんが、同日に行方不明になっている湯田月高校の臨時教師、斎藤悠輔さん二十八歳が行方不明になっており、警察は事件と何らかの関わりがあるのではないかと考え、捜索を続けています』

 そのニュースを見ていてふと思った。よく考えれば川崎の様子がおかしくなったのは、先生とあいつが湯田月祭を回っていた時からだった。それに二人が死んだ直後に斎藤先生は行方不明になっている。

「まさか先生が……」

「そう、二人を殺したのは彼よ」

 その声に驚いて後ろに振り返ると、ひとりの女が立っていた。黒い髪を耳の下で切り揃え、白色のコートに身を包んでいる。長い黒のブーツを履いており、首筋にはあげは蝶の刺青が彫られていた。

「かわいそうにね。まだ高校生なのに」

「あんた、誰だよ?」

「ただの通りすがりの女よ」

 どう見ても怪しかった。しかし、女がさっき言ったことが気になった。

「どうして先生のことを知っているんだ? 先生の知り合いか?」

「それに近いわね」

 女ははっきりと答えず、液晶テレビを見上げた。

「斎藤悠輔は凶悪な犯罪者よ」

「どういう意味だ?」

「彼のことが知りたい?」

 俺はその女の聞き方に妙な不安を感じた。何か危ないような気がする

「いや、遠慮する。すぐに家に帰らないといけないから……」

「二人を殺したのが斎藤悠輔でも?」

 女の言葉に俺は立ち止まった。振り返ると、女は笑っている。それが妙に苛立った。

「そんなのでたらめだ」

「これを見てもそう言えるかしら?」

 女はそう言って一枚の写真を差し出してきた。少し警戒しながらその写真を手にとって見る。それを見た瞬間、驚かずにはいられなかった。

 写真に写っていたのは斎藤先生だった。だけど普段学校で見ている先生とはまるで違う。

 先生の顔は無表情で、着ている服が血に染まっている。何よりも目に止まったのは先生が握りしめている黒い刀だった。

「どう? 詳しい話を聞きたくなったかしら?」

 俺がどう答えるのか、もうわかっているかのように女はまた笑みを浮かべた。

 

 8


 女に連れられた俺は町の裏路地入った。そこから数分ほど歩いたところにバーがあった。女のあとを追ってバーの中に入る。店内は明かりがついておらず、暗くてよく見えなかった。うっすらと右端のほうにカウンター席があり、部屋の中央に丸いテーブルがいくつか置かれているのがわかった。

「こっちよ」

 女は店内の奥にある階段を降りていった。この店には地下があるらしい。

 そのあとについていって地下に降りると、店内に入ってきたところと同じ大きさの部屋があった。奥にカウンター席があり、中央にはビリヤード台が三つ並んでいる。

「ようし、これで俺の勝ちだな」

「ちょっと、木出(きで)さん、手加減してくださいよ」

「だめだ。これで賭け金は俺のものだ」

 そのうちの一つで、二人の男がビリヤードをしていた。

 一人は青色の髪をした若い男だった、そして、もう一人、木出(きで)と呼ばれたほうは赤茶色の髪にあご髭を生やした中年の男だった。がっちりとした体格で、背も高い。

「俺に勝つにはまだまだ練習が必要だな」

 木出は笑いながら、台の中央に置かれた白い球を打った。その白い球が他の球にあたり、四つの隅の穴に落としていく。

「木出さん、彼をお連れしました」

 女が木出に言った。

「ああ、よくやった」

 木出はビリヤードの棒を壁に立て掛けて俺のほうを見た。

 にやりと笑ったその顔はかなり不気味だった。

「お前が中西雄二だな?」

「どうして俺の名前を?」

 驚きを隠せずにいると、木出はまた笑みを浮かべた。

「今の反応だと間違いなく、中西雄二のようだ」

 とっさに口を閉じたが、もう遅かった。

 かまをかけられたのか。でも、この男どうして俺のことを……。 

 そう考えていることもわかったのか、木出は笑いながらビリヤードの台の上に座った。

「悪いが、お前のことはちょっとばかり調べさせてもらった。色々と大変な目にあったようだな」

「……」

「警戒するのも無理はない。だが、俺はお前のことを何でも知っている。この前、亡くなった女子高生、お前の知り合いだろ?」

「!」

 木出がまた笑みを浮かべた。

「大切な人間を失うのは辛いよな。その気持ちはよくわかる。お前と同じ目にあったことがあるからな。おっと、自己紹介が遅れたな。俺は木出拓馬(きでたくま)。そこの男は春樹(はるき)、そして、お前を連れてきた女は野梨子(のりこ)だ」

 俺は木出以外の二人を見た。春樹と紹介された青髪の男は大きなあくびをしてカウンター席に座っている。野梨子のほうは俺が逃げられないようにするためか、一階へ続く階段の近くで、じっとこっちを見ていた。

 周囲の状況を確認したあと、再び木出のほうを見た。

「なんで俺を呼んだんだ?」

「色々と気になっていると思ったんだよ。お前は真実を知りたくてここまで来たんだろ?」

 やっぱりはめられたのか……。

 冬なのに背中に冷や汗が流れ落ちた。

「まあ、心配することはない。俺たちは人を殺しはしないさ。警察は別だけどな」

「警察?」

「俺たちの目的は警察を潰すこと。そのために行動している」

 な、何を言ってるんだ、こいつ、警察を潰すなんて……。最初から変な男だとは思っていたけど本気でそんなことを。

 とても信じられないでいると、木出は話を続けた。

「お前だって聞いたことがあるだろ? 警察に捕まり、暗い個室での取り調べの尋問を受け、無実の罪を着せられてしまう話。下手をすれば死刑にされることもある。冤罪ってやつだ。こんな馬鹿なことを奴らはずっと前から続けてきた」

 木出はたばこを取り出して口にくわえた。ビリヤードの台に座り直して、白い煙を口から吐く。

「その犠牲になるのは捕まった本人だけじゃねえ。家族、友人、恋人。全ての関係者に影響を及ぼす。警察の歪んだ正義で捕まったやつの人生を変えてしまう。そんな理不尽なことがあっていいと思うか?」

「……」

「俺たちはそんなことがあってはならないと考えて集まった組織だ。奴らを潰してこの理不尽な世界を変えるのが目的さ」

「そんなこと人間が出来るわけないだろ」

「そうただの人間だったらな」

 木出が言い終わった瞬間、目の前に何かが現れた。驚いて見ると、ビリヤードをしていた若い男が長い槍を俺に突きつけていた。

「!」

 今までなかったのに、その槍をどこから持ってきたのか全くわからなかった。

「まったく面倒事なんて早く終わらせてくださいよ、木出さん」

 春樹がビリヤード台にもたれて言った。それを無視して木出が話を続けた。

「俺たちは刀人(かたなびと)と呼ばれる特別な人間さ。人間には怒り、憎しみ、悲しみなどいくつもの感情が備わっている。刀人はそれらの感情の一つに支配されるかわりに強大な力を手に入れた連中のことだ。この力を使えば警察を潰すことができるのは不可能じゃない」

 あまりにも常識離れした話に理解することができなかった。しかし、あることを思い出してそれを聞いた。

「じゃあ、この町で起こっている連続殺人事件はあんた達の仕業なのか?」

なるべく相手に動揺していることがわからないように、落ち着いてそう聞いた。

 木出はそこで初めて無表情になったが、やがて苦笑を浮かべながら答えた。

「残念だが、それは別の刀人だ。何年もの間、俺たちを追い続けている男だ。そいつは普段、高校で臨時教師として働いていて、少し前に行方不明になっている」

 もう木出は答えを言っているような気がした。

「ま、まさか……」

「その通り、それが斎藤悠輔(さいとうゆうすけ)だよ」

「せ、先生が……」

「奴が二人の生徒を殺したのは口封じのためだ。ま、何かのトラブルで正体がばれたんだろう」

「せ、先生が川崎も、沙耶も……」

 頭の中に沙耶の姿が思い浮かぶ。色々なことがあったけど、沙耶との日常に俺は満足していた。あいつと喧嘩して、勉強を教えあって、一緒に学校行く毎日。

 あいつを失って俺は初めて気づいた。沙耶はいつの間にか俺の中で支えになってくれる存在だった。でも、先生がそれを……。

 心の中で悔しさと怒りが募った。

「中西雄二、お前はあの男に復讐したくないのか? 奴のことが許せないだろ?」

 にやにや笑う木出から少し視線を逸らした。確かにこの男の言うとおりなら、先生のことは許せなかった。

 だけど、現実は甘くなかった。

「あんた達と違って、俺はただの人間だ。先生があんた達と同じような力を持っているなら勝てるはずがない」

「力がないのなら、力を手に入ればいいだけだ」

「え?」

 木出は俺の肩に腕を回してきた。逃れようとしたが、木出の腕の力は予想以上に強かった。

「確かにお前はただの人間だ。だが、それがどうした? 力がないなら、刀人の力を手に入れればいい。それで問題は全て解決する」

「そんなことどうやって……?」

 そう聞くと、木出はポケットから何かを取り出した。それは青い液体が入った注射器だった。

「これは人間を刀人に変えることができる薬だ。体内に注入すれば、すぐに力を手にいれることができる」

「信じられない。毒かもしれないだろ」

 疑うのは当然だった。人間の常識を超えた力をそう簡単に手に入れられるわけがない。

「わかった、じゃあ、俺が先に使おう」

 木出はその注射器を何の躊躇いもなく自分の首筋に刺した。中に入っていた青い液体が減っていく。

 注射器を抜き、木出は自分の首を左右に揺らしてごきっと音を鳴らした。 しばらくしても、木出は笑っているだけで変化はなかった。

「俺たちはすでに刀人だから、体に異変が起きることはない。しかし、お前がこれを使えば、同じ力を手に入れることができる」

 木出はさっきと同じ液体の入った注射器を取り出した。

「……」

「あの男が憎くないのか? 大切なものを奪われて悔しくないのか? その怒りをぶつけろ。恨みを晴らせ。刀人の力で俺たちと奴に復讐するんだ」

 男の言葉が俺の心に深々と突き刺さった。

 本当に先生が川崎と沙耶を……。

 信じられない気持ちはあったが、先生が沙耶と川崎の死んだ直後に行方不明になったことや、正体を隠していたことを考えると、疑うのが普通だった。

 許せない。先生を絶対に許すことが出来ない。

 そう思っていると、俺は木出が持っていた注射器を手に取った。

「俺は先生を許せない。絶対に許せない」

「そうだ。力を手に入れて恨みを晴らすんだ。野梨子」

 木出に呼ばれ、野梨子が俺の手から注射器を取った。そして、ゆっくりと俺の首筋にそれを刺した。軽く痺れが起きて、気持ち悪かったが、すぐにそれが消えた。

「終わったわ」

 野梨子が注射器を抜いてそう言った。俺は自分の両手を見つめた。

「これで俺も……!」

 その瞬間、視界が急にぼやけてきた。手足が痺れて力が入らなくなる。

「う……」

 俺はそのまま床に倒れ込んだ。

「その薬は刀人に効果はない。人間の体内に入って、初めて効果を発揮する特別な薬だ。残念だが、俺たちはまだ人間を刀人に変える薬を手にいれていない。だが、心配することはねえ。その薬はこれから頂く。お前を使ってな」

 木出の声が二重三重に聞こえてきた。もう体を動かすことも、声を出すこともできなかった。

 沙耶……。

 意識が消える直前に、沙耶の顔が思い浮かんだ。


 9


 また同じ夢を見ている。夜空に輝く満天の星空。その下に広がる草原を雄二と夏帆の三人で歩いている。

「だめだ……行くな」

 そして、その幸せな夢の終わりは二人が真っ黒な闇に呑まれていくところだった。手を伸ばしても、力を振り絞って走っても、闇に包まれた二人には届かなかった。

「行くな、夏帆……行くな!」

 叫びながら目を覚ました。

「……またか」

 暗い部屋の中で時計を見ると、夜の十二時を過ぎたところだった。どうやら仕事から帰ってからずっと眠っていたようだ。

「雄二のやつ、帰っているのか」

 部屋のドアの鍵は開けておいたから、もう戻っていると思っていた。玄関に行くと、あいつの靴はどこになく、帰ってきた様子もなかった。

 しかし、特に違和感を抱くことはなかった。雄二はこれまでにも何度か家出をしたことはあるが、まだ高校生であるため、一人で暮らすのは難しい。いつも、何日かしたら家に帰ってきていた。だから、今回も近いうちに戻ってくると勝手に決めつけていた。

「一応、電話してみるか」

 また、怒鳴られるのは明らかだったが、この時の俺は連絡するべきだと思った。

 しかし、雄二の電話にかけても、あいつは電話に出なかった。

「あいつ、電源切ってるのか……」

 あきらめて携帯を閉じようとした瞬間、電話がかかってきた。あいつからかけ直すことはあまりなかったのでこれには違和感があった。だが、携帯を開いたら画面には知らない電話番号が表示されていた。

「もしもし?」

 電話に出ると少しの間、無音が続いた。

『よお、よく眠れたか、中西英樹』

 いたずら電話だと思っていると、いきなり機械で変声された声が聞こえてきた。口ぶりからして男のようだ。

『大変だよな、いつもいつも遅くまで仕事があってよ。ニートはいいぞ、一日中家でごろごろしても上司に怒られることはねえからな』

「誰だ?」

 俺の名前だけではなく、今まで眠っていたことも知っている。この男が誰なのか気になった。男の面白がるような笑い声が聞こえてくる。

『お前らが必死になって追いかけている連中のリーダーだよ、わかるよな?』

「なに!?」

 真っ先に『アゲハ』という単語が思い浮かんだ。刀人で構成され、警察へ報復しようと企んでいる組織。薮内正明の事件でそのことは知っていた。

「お前がアゲハのリーダーだというのか?」

『ははは、ご名答。さすが、特捜課の連中とつるんでいるだけのことはあるな。俺たちのことをよく知っているみたいだな』

「どうして俺のことを知っているんだ?」

『この町ではまだ特捜課の規模がそれほど発達していない。だから、お前らが何かしらの行動を取れば、すぐにわかるもんだ。特に刀人の事件が絡んでいると尚更だろ?』

「お前たちは何を企んでいる? どうして、俺たち警察に復讐しようとするんだ?」

『そういうことはあとでじっくり教えてやるよ。それより、玄関のドアを開けてみろよ。面白いものが見れるぜ』

 男に言われるがまま、玄関のドアに手を伸ばした。嫌な予感がする。

 ドアを開けた瞬間にはっと息を呑んだ。

「ゆ、雄二!?」

 雄二が倒れていた。顔から汗を流し、肩で息をしている。その表情は何かで首を絞められているように苦しそうだった。

「どうしたんだ、雄二!」

 そばに駆け寄って雄二の体を揺らしたが、雄二は苦しい声をあげるだけで何も言わなかった。原因はわからないが、明らかに危険な状態だった。

『見つけたか? お前の大切な息子さんが横たわっていると思うがな』

「お前、雄二に何をしたんだ!」

 もはや冷静さを保つのは不可能だった、俺のことを詳しく知っているということは近くで監視している可能性があった。だが、辺りを見回してもすっかり日の沈んだ住宅街は闇に包まれていた。

『見たらわかると思うが、お前の息子は危険な状態にある。少し前に特別な薬を打たせてもらった』

「なに?」

『まあ、しばらくは持つんじゃないか。ほっといたら死んじまうけどな』

「ふざけるな!」

 男の余裕のある言い方に苛立ちを隠すことができなかった。男のほうは少し笑って、今までよりも低い声で言った。

『お前の息子を助けるためには特別な解毒剤が必要だ。その解毒剤は俺が持っている。あることでぜひ、お前の力を借りたい。協力してくれたら、解毒剤を渡そう』

「お前たちに協力するだと!? ふざけるのも――」

『おいおい、落ち着けよ。怒りをぶつけても、状況は変わらないぞ。それでも刑事だろ? 少しは冷静に考えてみたらどうだ?』

 ぎりっと奥歯を噛み締めたが、目の前で苦しんでいる雄二を見捨てるわけにはいかなかった。何より、夏帆との約束を破るわけにはいかない。

「……俺に何をしろと言うんだ?」

『へへへ、賢明な判断だ。さすが俺が見込んだだけのことはある。お前にはな……』

 そう言ったあと、男が話した内容に言葉を失った。

「そんなことできるわけないだろ!」

『俺たちは本気だ』

「馬鹿なことはやめろ! もしその話が真実ならどれだけの惨事が起こると思っているんだ!」

『堅い男だな。お前がどうこう言う権利はない。息子を助けるか、自分を犠牲にして見捨てるか、二つに一つ。お前はそれを選ぶだけだ』

 男と話している間にも、雄二は苦しんだ声を出した。迷っている余地はない。

 俺は、俺は……。

 私にもしものことがあったら、雄二のことを頼むわね。

 頭の中に夏帆の声が響いてきた。

 どんなことがあっても、俺は雄二を守る。

「……わかった」

 それが苦しみ抜いた末に俺が決めた答えだった。


 10


 2013年12月25日 午前十時。湯田月市 住宅街


 クリスマス。日本にとって特別な日かもしれないが、この町の空はいつもと変わらない。灰色の雲に覆われ、雪が降っている。そして、一ヶ月ぶりに仕事に復帰した俺も入院する前と同じように、特捜課の仕事をしていた。

 黒刀として指名手配されている稜の手がかりをつかむために、俺――糸井智彦と絢音はあいつが潜伏していたと思われるアパートに来ていた。

 当然、アパートにあいつの姿はなかった。数日前まで住んでいたような痕跡は見つかったものの、今どこにいるのか手がかりは何もなかった。

 この町に来てからあいつはここで暮らしていたのか。

 どこにでもあるような普通の部屋だった。とても十年以上も復讐をしているような男が住んでいたとは思えない。

「こんな普通の暮らしができるのに、やってることは昔と変わらないな」

 半分、自虐的な意味を含めてそうつぶやき、部屋の外に出た。

 アパートの入口のほうを見ると、絢音が管理人に聞き込みをしていた。

「ご協力、ありがとうございました」

 煙草を吸いながらしばらく待っていると、絢音は管理人にお礼を言ってこっちのほうに戻ってきた。

「何かわかったか?」

「音坂稜は半年ほど前からあそこに住んでいたみたいですが、普通に生活していたらしいです。偽名を使っていたようですが」

「だろうな。他の奴らはみんなあいつのことを斎藤悠輔(さいとうゆうすけ)だと思っていたようだし」

「そうみたいですね……」

 どうやら他のアパートの住民たちの聞き込みでも満足な結果を得ることはできなかったらしい。結局、稜の捜査は振り出しに戻ってしまった。

 道路脇に停めていた車に乗り込み、深くため息をつく。そんな俺の様子を少し見てから、絢音は遠慮気味に聞いてきた。

「糸井さん、本当に黒刀が二人の女子高生を殺害した犯人なのでしょうか?」

「それはないと思う。だが、上の連中はあいつを犯人だと決めつけている。他に犯人の候補がいないし、何より事件が起きた直後に行方をくらましているんだ。疑わない方がおかしい」

「では、このままいけば第一課の人たちも黒刀を追うことになるんじゃないですか?」

「ああ、もうあいつは第一級の犯罪者として警察に追われることになるな」

 想像するだけで状況が悪くなるのは明らかだった。これまでも報われることのない捜査を続けてきたが、この町で起こっている一連の事件はこれまで以上に最悪な事態になるかもしれない。

 追い込まれたあいつが何を始めるのか……。

 考えただけで頭が痛くなってきた。

「とりあえず署に戻ろう。報告が遅れたらまた部長にどやされる」

「わかりました」

 車を走り出そうとした直前に、携帯電話が鳴り響いた。

 携帯を開くと、初めて見る番号が表示されていた。不審に思ったが、運転席に座ったまま、携帯に出た。

「もしもし?」

『糸井か? 俺だ』

 携帯から中西の声が聞こえてきた。

「中西か。どうしたんだ? 今日の捜査は急に休むって連絡が来たし、わざわざ俺の知らない携帯からかけてくるなんて」

『すまんな。今、自分の携帯で連絡が出来ない。盗聴される可能性がある』

 中西の口調はいつもよりも冷静に聞こえた。ますます、疑問が浮かぶ。

「何かあったのか? 盗聴されるって誰にだ?」

『頼みがある。今の状況で頼めるのはお前と吉丘だけだ』

 俺の質問を無視して中西がそう言った。こちらから何も言わずにしばらく待っていると向こうが口を開いた。

『俺の家にいる息子の面倒を見てくれ』

「息子の?」

 以前、中西に息子がいる話を聞いたことがあった。

『どうしても俺ひとりでやらなければならないことがある。雄二を助けるためにも、頼めるのはお前だけだ』

「何があったんだ、中西? 詳しく教えろ」

 話の意図が読めず、そう聞いたが中西は何も言わなかった。

「中西、何があったんだ?」

『雄二を頼む』

「待て、中西。最後まで話を――」

 そう言いかけたが、一方的に電話が切られてしまった。

「中西さん、どうかしたんですか?」

 ずっと中西との話を見守っていた絢音が心配そうに聞いてきた。

「わからん。息子のことを頼むとか言ってたが……」

「息子さんて……湯田月高校の生徒でしたよね。確か、雄二くんって名前の……」

「……」

 さっきの中西の会話はかなり深刻だった。いつもより言葉に重みがあった。直感で嫌な予感がした。

「絢音、署に問い合わせて中西の住所を今すぐ調べるように連絡してくれ」

「え?」

「早くしろ!」

「は、はい!」

 絢音は慌てて携帯を操作して署に連絡した。

「中西……」

 お前、今どこで何をしているんだ?

 

 11


 同時刻 湯田月市内 某所


「悪いな、糸井……」

 俺――中西英樹はため息をついて携帯を閉じた。

「終わったのか?」

 背後から声が聞こえてきた。振り返ると、青い髪の男がガムを食べながらこっちを見ていた。その首筋にはアゲハ蝶の刺青がある。

 数時間前に電話の男の指示を受けて、俺は市内にある古いビルの屋上に向かった。そこで待っていたのがこの男だが、電話の男とは別人のようだった。

 男は自分のことを井ノ坂春樹(いのさかはるき)と言った。糸井からこの男が薮内(やぶうち)の事件で接触した『アゲハ』の幹部であることは既に知っていた。

「ああ、終わった」

「よし、携帯を返せ」

 携帯電話を返すと、井ノ坂は携帯を素早く操作して誰かに電話をかけた。

「俺です。ええ、すぐに代わります」

 言い終わると、携帯を再び俺の方に差し出した。黙って受け取ると、変声されたあの男の声が聞こえてきた。

『警察のお友達にはちゃんと連絡したか、中西?』

「ああ。それで今度はどうすればいいんだ?」

『まあ、そうあわてるな。時間はまだある。ゆっくり話を進めようじゃねえか』

「俺にそんな余裕があると思うのか?」

『思わねえな。こうしている間にも、息子さんの命は刻一刻と終わりに向かっているんだ。慌てないほうがおかしい』

 その言い方で抑えていた苛立ちが膨れ上がった。

「それをわかっているなら、さっさとこんな馬鹿なことを終わらせて、解毒剤を渡せ!」

『落ち着けよ』

 今までよりも低い声で男がそう言った。

『頭に血が昇ると、成功するはずの計画も失敗する可能性が起こる。作戦を実行するときに重要なのはどれだけ己の感情を抑えて、上からの指示に応えるかだ。それに俺と協力すればお前にとって役立つ情報も手に入るぞ』

「俺はお前の下っ端じゃない」

『いいね。そういう威勢の良い態度は嫌いじゃねえぜ。くくく』

 男の笑い声が(しゃく)に障って奥歯を噛み締めた。

『さて、まずは俺たちが何を手に入れようとしているのか、改めて整理してみようじゃないか。春樹にあれをもらえ』

 携帯を一度離し、井ノ坂のほうを見ると白いスマートフォンを差し出してきた。最近、大流行している最新の機種だ。

 それを受け取り、画面を見ると事細かに書かれた報告書のようなものが表示された。

 事前に男から話を聞いていたが、やはり驚きを隠すことはできなかった。

『人間を刀人に変える人体実験について』

 その題名を読むだけで身震いがした。ゆっくりとその報告書に目を通していく。

『1990年に開始された当実験から二年。刀人から特殊な細胞の抽出に成功。以降、この細胞を『アリナキサス』とする。研究の結果、アリナキサスには人間を刀人へ変化させる作用があることが判明し、投与実験を同年から開始する。1995年、被験体二十六号がアリナキサスによって刀人へ覚醒することに成功する。しかし、覚醒者の支配される感情は消失してしまい、オリジナルの刀人より戦闘力が劣化しているなど問題点も浮上した。今後、改善する必要がある』

 報告書には実験の主な概要が書かれてあり、そのあとは詳細が記載されていたが、とても人道的なこととは思えなかった。この投与実験で命を落とした被験者の数は少なくない。

「目は通したか?」

 井ノ坂にそう言われて頷き、再び携帯に耳を当てると、あの男の声が聞こえてきた。

『その実験、誰が指揮していたか知ってるか?』

「誰なんだ?」

『くくく、報告書の下のほうを見てみろよ』

 言われたとおり、スマートフォンを操作して報告書の最後の一文を見た。

『科学研究部所長 音坂成二(おとさかせいじ)

「音坂……成二?」

 ほんの一瞬で誰のことなのかわかったような気がした。だが、同時にそんな偶然があるとは思えなかった。

 だが、それを男が肯定する。

『その男は黒刀の父親だ。俺たち『アゲハ』は何年もの間、その男を追い続けた。警察を潰すためにはそれだけの戦力が必要になる。そのためにアリナキサスは重要な代物だった。そして、この町で奴が研究していたアリナキサスがあるかもしれないという情報を掴んだ』

「それを盗むために俺を使うのか?」

『そのとおり。町にあるとはいえ、アリナキサスの正確な場所はわかっていない。警察の極秘情報だからな。情報を手に入れるためには警察の関係者のIDを使ってネットワークにハッキングをかけるしかない』

「それで解毒剤はいつもらえるんだ?」

『アリナキサスを俺たちが手に入れた時だ。安心しろ、半分ふざけた性格の俺でも約束だけはきっちり守るさ』

 珍しく、男は笑い声を出さなかった。真剣に言っているのか、どうかわからないが、今は男の言うとおりにするしかなかった。

「わかった」

『よし、ハッキングは春樹にやってもらう。お前のIDを奴に教えろ』

 言い終わると、男は電話を切った。

「始めよう、刑事のおっさん。面倒くせえけど、大事な仕事だ。しっかりやろうぜ」

 井ノ坂がビルの中へ入っていった。おそらく、どこかの部屋にハッキングするための機材が用意されているのだろう。

 これで俺も犯罪者の仲間入りか。

 思わずため息をついてしまったが、今は雄二を救うことだけを考えることにした。

 糸井、雄二を頼むぞ。

 心の中でそうつぶやいて、俺は井ノ坂のあとに続いた。


 12

 

 午前十一時 中西英樹のマンション


 中西の住んでいるマンションに到着したのは、あいつから電話があってから一時間後のことだった。

 本来ならもう少し早く着くはずだったが、中西の自宅の住所を調べるのに少し時間がかかってしまった。

「ここだな」

「はい、間違いありません」

 俺は道路脇に車を停めて、マンションに向かった。絢音もそのあとに続く。

 階段を駆け上がり、廊下を進んで中西の部屋にたどり着いた。呼び鈴を鳴らしてみたが、返事はない。

「誰もいないのか」

 ドアに手を伸ばすと、異変に気付いた。鍵がかかっていない。

 口を閉じて、絢音に目配せする。絢音は頷いて拳銃を構えた。俺もドアの脇に体をつけて銃を手にする。

 再び絢音に合図を送って、ドアを開けて一気に部屋の中に踏み込んだ。

 玄関には誰もいなかった。周囲を見回しても、部屋を荒らされたような形跡もない。

「う、う……」

 その時、部屋の奥の方から人のうめき声のようなものが聞こえてきた。

 銃を構えながら慎重に進み、奥の部屋のドアを開けて中に入った。その部屋は広さ六畳ほどの和室だった。明かりはなく、窓から入ってくる太陽の光が内部を照らしている。

 その中央に敷かれた布団の上で少年が眠っていた。中西の息子の雄二だった。

「おい、大丈夫か?」

 銃を戻し、雄二にそう聞いてみたが、何も答えずただうめき声を出すだけだった。冬だというのに顔中に汗が浮かんでいる。

「糸井さん、この子が雄二くんですか?」

「ああ。絢音、救急車に連絡しろ。あまり良い状態とは言えない」

「わかりました!」

 絢音はすぐに携帯を操作して救急車に連絡を入れた。

「何があったんだ、中西……」

 苦しい声を出す雄二を見ながら、俺は心の中でそうつぶやいた。


 13


 2013年12月26日 午前九時


 翌日、中西雄二くんは救急車で湯田月病院に搬送された。しかし、応急処置が行われたものの、容態はあまり良くなっていないらしい。具体的な症状が判明しておらず、適切な治療が行えないと医師が言っていた。

 先ほど、病院からそう連絡を受けた私――吉丘絢音(よしおかあやね)は糸井さんの運転する車で署に向かっていた。菅原さんから重大な話があるから来て欲しいと言われたからだ。

「糸井さん、部長の重大な話というのはもしかして……」

「ああ、たぶん中西のことだろう。昨日の電話から全く連絡が来ていない」

「中西さんに何かあったんですか?」

「わからん。とりあえず、部長から話を聞いてみるしかないな」

 やがて、私たちは湯田月署に到着した。すぐに車を降りて、菅原さんの部屋に向かった。

「部長、糸井です」

 糸井さんがドアをノックすると、部屋の奥から「入っていいわよ」という声が聞こえてきた。糸井さんと共に部屋に入ると、真剣な表情を浮かべた菅原さんが椅子に座っていた。

 いつものように糸井さんに抱きつく気配はなかった。こういう時の菅原さんは何か深刻なことが起こったこと以外にない。

「部長、話とはなんですか?」

 糸井さんが聞くと、菅原さんはため息をついて言った。

「とても厄介な状況になったわ。警視庁のネットワークに何者かがハッキングをかけて、データが盗まれた」

「ハッキング!?」

「そう、でも問題はそれだけじゃない。警視庁のネットワークのセキュリティは高性能で簡単には破れないシステムで構築されているの。それに侵入するためには内部の者のIDが必要になる。どういう意味かわかる、糸井?」

 内部の人のIDってまさか……。

「そのIDは中西の物なんですか?」

 糸井さんが低い声でそう聞くと、菅原さんは黙って頷いた。

「そんな、何かの間違いじゃないですか?」

「いいえ、既に中西刑事がIDを使ったことは判明されているわ。言う必要はないと思うけど、これは決して軽い犯罪ではないわ。もう第一課の人たちは中西刑事を容疑者として逮捕する方針を打ち出しているところよ」

「信じられません! 中西さんがそんなことを――」

「中西刑事が盗んだのは刀人に関する重要な情報なの。特捜課の私たちも彼の逮捕に尽力しないといけないわ。どんな理由があってもね」

 私の言葉をさえぎって菅原さんはこれまで以上に厳しい口調でそう言った。

 確かに菅原さんの言っていることは正しいかもしれない。でも、中西さんがそんなことするはずが……。

「わかりました。中西の行方を追います」

「え?」

 糸井さんがきっぱりと言い切ったので一瞬頭が真っ白になった。

「まかせたわよ、糸井」

「はい。では、失礼します」

 でも、そのやり取りで糸井さんは反対も何もせず、中西さんの逮捕に向かうと言った。

「い、糸井さん!」

 私は慌てて部屋を出る糸井さんのあとを追った。

「待ってください、糸井さん!」

 廊下を歩いていく糸井さんを呼び止めた。

「本当に中西さんを捕まえるつもりなんですか?」

 糸井さんは立ち止まったまま、何も言わない。

「確かに中西さんがしたことは犯罪かもしれません。でも、何か理由があるはずです。中西さんがそんなことをするはずありません。ずっと私たちと一緒に捜査してくれた人ですよ!」

「あいつのことだ、理由はある。おそらく息子のことだろう」

「雄二くんが?」

「お前も聞いただろ。あれは何か特別な病気だ。中西はそれを治すために行方をくらましたのかもしれない。だが、本当にあいつがただの犯罪者になった可能性もある」

「ただの犯罪者って……。糸井さん!」

「可能性があると言っただけだ!」

 思わず苛立ってしまった私に対して、糸井さんはこちらに振り向いて大声で言った。

「どの可能性にしても、真実を知るためにはあいつを追うしかない。そうだろ?」

 それだけ言って糸井さんは再び歩き出した。私はそれ以上何も言うことができなかった。

 雄二くんを助けるために決まってるじゃないですか、糸井さん……。

 心の中で彼の背中に向かってそう言った。


 14

 

 午前十時。湯田月市内 某所


 警視庁が管理している研究施設。それは湯田月の町の北部にあった。全体が真っ白な壁に覆われた大きな建物だった。表向きはある会社の工場になっていたが、ただのカモフラージュだったらしい。

 昨日の深夜に警視庁のネットワークに侵入し、アリナキサスが保管されている施設を特定することに成功したらしい。侵入に使われたのは俺――中西英樹のIDだったが、実際にハッキングをかけたのは井ノ坂春樹(いのさかはるき)だった。こんな短時間で情報を手にいれるとは、この男はかなりの腕を持つハッカーらしい。

 そう思いながら屋上の手すりにもたれて誰かに連絡している井ノ坂を見た。おそらく、あの電話の男だろう。

「わかりました。じゃあ、予定通りにやるんですね。はいはい、わかってますよ。早くこんな面倒なことは終わらせましょうよ」

 言い終わると、井ノ坂は俺のほうに歩いてきた。「指示がある。話を聞け」と言って、携帯を差し出す。それを黙って受け取り、携帯を耳にあてると思ったとおり、あの男の声が聞こえてきた。

『協力感謝するぜ、中西。これでようやくアリナキサスを手に入れる準備が整ったってわけだ』

「もうアリナキサスはお前たちが手に入れたも同然だろ。早く解毒剤を渡せ」

『いや、駄目だ。解毒剤を渡すのはアリナキサスが俺の手の中に入る時だ。それまではしっかり働いてもらう』

「……どうするつもりだ?」

『もちろん、施設を襲撃する。中西、お前もだ』

「なんだと!?」

 信じられない。男は俺にアリナキサスの強奪を一緒にやれと言ってきた。

『万が一のためだ。最後まで協力してもらう』

「ふざけるな! これ以上犯罪に手を染めるくらいなら、お前たちのことを警察に――」

 思わずそう口にしたが、最後まで言い切れなかった。首筋に冷たいものを感じた。

 見ると、井ノ坂が手にした槍の先端が俺の首に触れていた。

「それ以上言ったら、面倒だから殺すぞ」

 あくびをしながらそういう春樹と今の状況に差がありすぎて、嫌な汗が流れた。

『安心しろ。当日は俺たちも援護に回る。お前はただ俺の指示に従っておけばいい』

「本当に……本当にそれで雄二を助けられるのか?」

『ああ、もちろんだ』

「……わかった」

 力のない声でそう返事すると、井ノ坂が槍を消した。あれが刀人の能力か。間近で見るのは初めてだった。

『作戦の決行は明後日の真っ昼間にやる。その時が一番警備が手薄になるらしい。白昼堂々と強盗だ。わくわくするな、くくく』

 男の笑い声を聞いても、俺は何も言うことができなかった。


 15


 2013年12月28日 午後二時 湯田月駅前広場


 第一課と特捜課による中西の捜索が始まって、二日目。念入りな捜査が行われていたが、有力な手がかりを掴めない状態が続いていた。

 この日の調べでわかったことは中西と雄二が不仲になった原因だった。

 三年前に中西は自分の妻を病気で亡くしている。その頃から家では口論が絶えないと、隣の部屋に住んでいた女性から話を聞いた。

 人の家庭の事情を詮索するのは好きじゃなかったが、捜査なら仕方がない。

 俺――糸井智彦は午前の調査を終えて、広場で休んでいた。思えばここに来たのは一ヶ月前に薮内(やぶうち)の事件で捜査して以来だった。

「糸井さん」

 ベンチで座っていると、絢音が呼びかけてきた。見ると、両手に焼き芋を持っている。

「どうしたんだ、それ?」

「そこのお店で買ってきました。どうぞ」

「悪いな」

 俺は絢音が差し出してきた焼き芋を受け取ると、彼女は隣の席に座った。

 お互いにしばらく黙ったまま、焼き芋を食べていると、絢音が口を開いた。

「糸井さん、中西さんのこと、まだ疑っているんですか?」

「ただの推測だって前にも言っただろ」

「それはわかっています。でも、私は中西さんが理由もなしに犯罪をするなんて考えられません」

 焼き芋を握る力を強くしながら、そう言った絢音の口調は強かった。中西といい、こいつといい、どうして俺の周りには真面目なやつが多いんだろう。よく考えれば、稜も結構真面目だったな。

 思わず笑ってしまうと、絢音が心配そうな目で見てくる。

「心配するな。俺も中西がただの犯罪者になったって考えていねえよ」

 残りわずかな焼き芋を口にほおばる。芋の甘い味が口の中に広がった。

「あいつは恐らく息子をあんな状態にした奴に脅されているんだろう」

「脅されているってどういうことですか?」

「息子を助けて欲しければ、俺の言うとおりにしろ」

 口調を変えながら、そう言って絢音のほうを見ると、ぽかんとした表情をしていた。

「……みたいなことを言われたかもな」

「どうして中西さんにそんなことを……」

 悲しげな表情で聞く絢音の顔を見て、苦笑しながら答えた。

「部長が警視庁のネットワークにハッキングをかけたと言っていただろ。それをするためには警察内部の人間のIDが必要だって。犯人はそれで中西に目をつけたんだろう」

「でも、その犯人っていったい……」

「俺が想像している候補は二つだ。第一候補は稜だ。だが、その可能性は低い。あいつは警察に恨みを持っていないし、どんな情報かはわからないが、刀人に関係した情報を手に入れてもメリットが小さい。だとすれば、候補は別にある」

「もしかして、それって……」

 絢音もようやく気付いたらしい。薮内の事件で接触した俺は中西が失踪したあの時から確信していた。

「アゲハの連中が中西を脅して情報を盗んだんだ」

 焼き芋を包んでいたアルミホイルをゴミ箱に投げ捨てて、再びベンチにもたれかかった。

「その情報が何なのか、部長は言わなかった。何かやばい情報が盗まれたに違いない」

「特捜課の私たちにさえ隠す情報って何なんでしょうか?」

「それがわかったら苦労しないんだけどな……」

 その時、胸ポケットに入れていた無線が鳴った。

『緊急事態発生! 緊急事態発生! 市内六番地でテロ事件が発生! 犯人は複数、全員が武器を所持している模様。現在、市内の南方面へ逃走中。犯人は白い大型のトラック一台と二台の黒いバンで逃走している。トラックの積荷は政府の重要資料だ。付近の警官はトラックの積荷の確保を最優先せよ』

「テロ事件って……いったいどうして!?」

「わからないが、犯人が誰なのかわかるぞ」

「え?」

 驚く絢音のほうを見た。

「アゲハの連中だ。何人もの刀人の力を感じる」

「じゃあ、中西さんもそこにいるんじゃ……」

「そう遠くない。行くぞ!」

「は、はい!」

 俺と絢音は広場のそばに停めていた車に乗り込んだ。

『犯人は市内八番地を通過した模様、複数の死傷者が出ている。付近を巡回中の警官は慎重に対処せよ』

 無線から再び報告が入った。

「まずいな。すぐに向かうぞ」

「わかりました!」

 俺は車を出して、一気に湯田月の通りを走り抜けた。


 16


 二時間前。『アリナキサス』保管施設付近。


 表向きは某会社の工場になっている真っ白の施設。それを一番近くで見れる建物の角で、俺――中西英樹(なかにしひでき)が待機して一時間が経過していた。

「おっさん、準備はできてるか? そろそろ指示があるはずだ」

 そばにいた井ノ(いのさか)がガムを噛みながら言った。上半身には防弾チョッキを着込み、腰にはガスマスクと手榴弾のようなものをつけている。

「ああ、大丈夫だ」

 少し前にこの男からもらった防弾チョッキを着ている。奪われていた拳銃も返してもらった。万が一の時は仲間を撃てと言いたいらしい。

 もちろん、俺は同僚を撃つ気はない。それでも、井ノ坂の言うとおりに銃を持っているのは撃たれる危険があるからだ。今から最も危険な薬物を強奪する犯人になってしまう。

「ま、気楽にやれよ。おっさんはただ耳に装着したイヤホンの指示に従っておけばいい。面倒なことは俺たちが引き受ける」

「死ぬかもしれないのに、それでもやるのか?」

「今さら説得する気か。刑事らしいな、おっさん。しかし、答えはイエスだ。俺は面倒くさがりやだが、あの人の指示に逆らったことは一度もない」

 これまでとは違う口調で言う井ノ坂に少し驚いた。

「どうしてそこまで警察を憎むんだ?」

「もう知っているんだろ。俺たちがどうして警察に復讐しようとしているのか。一人一人が警察に何かしらの因縁を持っている。俺もそのうちの一人だ。だが、他の奴らに比べたら俺はまだましなほうだ。失うものなんて何もない。俺は自分だけが傷ついて苦しんだ。でも、他の奴らは大切にしていた何かを失って『アゲハ』に入っているんだ」

 井ノ坂を噛んでいたガムを捨てて、俺を見た。

「おっさんだって、その苦しみがわかるだろ?」

「刑事の俺に同意を求めるのか?」

 聞き返すと、井ノ坂は少し笑った。

「そうだった、忘れてたよ」

『楽しい話は終わったか?』

 突然、耳につけていたイヤホンから電話の男と同じ声が聞こえてきた。

「こちらの準備は大丈夫です。野梨子のほうは?」

『大丈夫、問題ないわ』

 別の女の声が聞こえてきた。この女の名前も知っていた。薮内の事件で糸井が接触した幹部の一人だ。

『他のグループも準備が出来たみたいだ』

 再び、男の声が聞こえてきた。

『さて、中西。いよいよ、この時が来たな。研究所は普段、警視庁直属の部隊が厳重な警備を固めている。当然、武装しているだろう。だが、以前話したように今日の昼間の警備はかなり手薄になる』

「なぜ、今日に限ってそうなるんだ?」

『連中は俺たちがアリナキサスのデータを盗んだことを知っているからだ。万が一、この場所を襲撃されるのを防ぐために、別の場所へ移送しようと企んでいる。その移送している時が襲撃するチャンスだ。施設内にあるものを奪うより楽な仕事だ。この情報もお前が手に入れた情報のおかげだ、礼を言うぜ』

「お前たちのためにやったんじゃない」

『わかっているさ。今日の作戦がうまくいけば、解毒剤は渡してやる』

 その後、雑音が入り、野梨子の声が聞こえてきた。

『輸送車が現れました』

 すぐに施設のほうを見ると、門が開き、何人もの武装した人間が現れてきた。一人一人が手に銃を持っている。しばらく周囲を見回すと、手で何か合図のようなものを送った。すると、施設から装甲車のようなものが現れた。それが数台正門を通り過ぎたあと、白い大型のトラックが続いて現れた。どうやら、あのトラックにアリナキサスが積み込まれているらしい。だが、警備が手薄と言っても、一般の警備よりはかなり厳重に見えた。

 これを突破できるのか……。

 そう思いながら、井ノ坂のほうを見ると、その目は真剣な光を放っていた。

「始まるぞ。遅れんなよ、おっさん」

 言い終わったとたん、施設から現れた車列のほうでざわめきが聞こえてきた。

「なんだ、何も見えないぞ!」

「緊急事態だ! 全員、銃を構えろ!」

 見ると、いつの間にか真っ白な煙が周囲を覆い尽くしていた。装甲車も白いトラックも、それを警備していた者たちも何も見えない。他のアゲハの連中が煙幕を投げたようだった。

『さあ、楽しいショーの始まりだ』

 男の声が聞こえてきた瞬間、煙の中から悲鳴のようなものが聞こえてきた。至るところで銃撃音が鳴り響く。

「よし、行くぞ、おっさん!」

 何が起こっているのか状況を理解できないまま、井ノ坂が走り出したのでそのあとについていった。持っていたガスマスクをつける。

 煙の中に入った瞬間に一瞬で視界が真っ白になった。ただ、目の前を走る井ノ坂の背中しか見えていない。

 その時、すぐ近くで誰かの悲鳴が聞こえてきた。煙の中で武装した男を、自分と同じガスマスクをつけた男が手にした刀で斬り裂いていた。アゲハの刀人に間違いない。途中で足元に何かがあたった。見ると、警備していた人間の死体が転がっていた。肩から腰にかけて斬り裂かれている。

 こんな残酷なことをこいつらは平気で出来るのか。

「何してるんだ、おっさん! 早く来い!」

 前方から井ノ坂の声が聞こえ、足を早めた。その時、背後から突然「止まれ!」という大きな声が聞こえてきた。

 振り返ると、銃を持った男が俺のほうを見ていた。煙幕のせいでひどく咳き込んでいるが、銃口はしっかりと向けられていた。

「お前ら『アゲハ』だな。こんなことをしてただで済むと思っているのか!」

「違う、俺は――」

 そう言いかけた瞬間に、男の背後に槍を手にした井ノ坂が現れた。男が気づく前に井ノ坂は何の躊躇いもなく槍をふるった。

 男の体から大量の血が噴き出して、そのまま地面に倒れた。

「ぼうっとするなよ、おっさん」

 男の返り血を浴びた井ノ坂が俺のほうを見た。

「他人を助けるのは面倒なんだ。さっさとトラックに向かうぞ」

「……わかった」

 この時の俺は井ノ坂に言われるがままだった。いま、逆らったら雄二を死なせることになる。俺は同僚を殺したわけじゃない。そう自分に言い聞かせるしかなかった。

 井ノ坂と煙の中をかいくぐり、白いトラックが目の前に現れた。

「よし、これだな。おっさん、運転席に乗れ」

「なに!?」

「聞こえなかったか? トラックを運転しろって言っているんだ!」

『早くしろ、中西! 解毒剤が手に入らなくなるぞ』

 イヤホンからあの男の声が聞こえてきた。

「……わかった」 

 俺は雄二を助けるんだ。

 もう一度自分に言い聞かせてトラックのドアを開いた。その瞬間、ものすごい衝撃が頭にはしった。誰かに殴られたようだ。

「この野郎、やっぱり盗みに来やがったな!」

 視界が歪んだまま、首を掴まれた。急に呼吸ができなくなる。

「この人殺しめ!」

「ち、違う、俺は……」

 必死に否定しようとしたが、うまく言葉が出なかった。そのまま、視界が真っ暗になっていく。しかし、それも数秒のことだった。

 男の悲鳴が聞こえ、生暖かい血がマスクに飛び散った。視界が回復すると、目の前に細い剣のようなもので首を貫かれた男がいた。

 その剣が引き抜かれ、男は血を流したまま地面に倒れた。

「早く立ちなさい」

 聞き覚えのある声が聞こえてきた。マスクをつけ、黒いスーツを着ているが、体格は細身で女だった。

「野梨子! 早く、おっさんをトラックに乗せろ!」

 近くで井ノ坂の声が聞こえてきた。それを聞いた女が俺の手を掴んで体を起こした。

「乗りなさい。こんな大切な任務を任せられているんでしょ!」

 そのまま、開いたままのトラックに乗せられた。まだ、視界が若干揺らいでいたが、意識は元に戻っていた。トラックのドアを閉めて、ガスマスクを外すと視界がはっきりとした。まだ、周囲は煙幕に覆われているが、それもだんだん薄くなっていった。

 それと同時に道路のいたるところで血まみれになって倒れている人間が何人もいた。

 アゲハの連中は目的を果たすためなら血も涙もないらしい。非情な集団だった。

『中西、目的地までのルートを指示する。南へ向かえ、大宮川の河川沿いをまっすぐだ』

「わかった」

 男の指示通り、俺はトラックを発進させた。


 17


 午後二時


『次の交差点を右に行け』

 アリナキサスを強奪してからどれくらい経ったのか考える余裕はなかった。

 雄二を助ける。そのために、ただ男の指示通りにするしかなかった。

 湯田月の市街地をしばらく走行していると、背後からサイレンの音が聞こえてきた。サイドミラーで確認すると、数台のパトカーが追いかけてくるのが見えた。

「このままだと、追いつかれるぞ」

『心配するな、手は打ってある』

 男の低い笑い声が聞こえてきた直後、脇の道からものすごいエンジンの音が聞こえてきた。

 二台の黒いバンが勢いよく飛び出してきた。

 バンがトラックの後方につくと、そのうちの一台の天窓が開いて、細長い剣を手にした野梨子が現れた。

「何をするつもりだ」

 次の瞬間、野梨子はバンを蹴って後ろを走行していたパトカーの一台に跳び移った。普通の人間では考えられない身体能力だった。

 パトカーを運転していた警官が慌てているのが見える。野梨子はその隙に手にした剣を運転席に突き刺した。

 車の窓に血が飛び散り、そのパトカーは激しくスピンしてガードレールに激突した。

 その間に別のバンからも刀人が現れて、他のパトカーに襲いかかっていた。

 奴ら、何の躊躇いもなく俺の同僚を殺している。

 連中の目的が警察への復讐だから、そうするのは当然かもしれない。だが、刑事として言わないわけにはいかなかった。

「やめろ! 目的はアリナキサスを奪うことだろ! 犠牲者を無駄に出す必要はない!」

 そう言うと、イヤホンから男の笑い声が聞こえてきた。

『おいおい、お前を捕まえようとしてる奴らを倒してやってるんだぜ。感謝してもらいたいぐらいだけどな』

「だが、あいつらは何もしていないだろ!」

 そう言うと、男の口調が冷たくなった。

『へえ、アリナキサスで人体実験を行って、何人もの人間を殺しまくっている連中が罪を犯していないと言いたいのか?』

「それは……」

『それだけじゃねえ。お前ら警察は俺たちの何もかもをめちゃくちゃにした。その報いを受けるのは当然だろ』

 男がそう言ってる間に後方で燃え上がるパトカーが何台も見えた。

『中西、お前に協力を頼んだ理由はな、お前が俺たちと同じ苦しみを味わっていたからだ』

「苦しみ?」

『そうだ、苦しみだ。家族や恋人、大切な者を奪われた苦しみだ。俺たちはみんなそうだ。警察の起こした冤罪のせいで全てを失った』

「だからお前たちは復讐をするのか?」

『それが俺たちに残された最後の選択だった。生き残った俺たちがこれからも生きていくための唯一の理由だ。その点では黒刀と似ている境遇にあるかもしれないがな』

「やはり、お前たちも黒刀のことを――」

『話は終わりだ。新手が来たぞ』

 男にそう言われて再びサイドミラーを見ると、見覚えのある車が一台走っていた。

 何度か乗せてもらったことがあったから見間違うことはなかった。

「お前も来たのか……糸井」


 18


「あれか」

 湯田月の市内を走行して、俺――糸井智彦はようやく無線で聞いたトラックを見つけた。すでにトラックは市街地を出て、大宮川の河川沿いを走っている。

 このまま行けば追いつくことは可能だった。だが、市街地を通っている時に至る所で燃えているパトカーの残骸のことを考えるとうかつに接近できない。

 トラック本体ではなく、その左右を走行している黒いバンからも複数の刀人の力を感知できた。

「近づけば、奴らにやられるな」

「でも、このままでは逃げられてしまいますよ」

 助手席に座っていた絢音が言った。

「絢音、あのトラックの周りにいる車を止めろ」

「でも、どうやって?」

「お前の射撃訓練の成績トップクラスだっただろ?」

 そう言うと、絢音は拳銃を取り出した。

「わかりました。何とかやってみます」

「よし、行くぞ」

 ペダルを踏み込んでトラックとの距離を詰めていくと、一台のバンがスピードを落として接近してきた。十メートル程の距離まで縮めてくると、バンの天窓が開き、刀を持った男が現れた。

 こちらに向かって跳び移ってくる構えを見せたが、絢音の行動のほうが素早かった。

 助手席の窓を開いてすぐに銃を構えて引き金を絞り込む。

 銃弾はまっすぐバンのタイヤに命中した。その途端に車はバランスを大きく崩し、激しく回転して河川のほうに落ちていった。

「ナイスだ、絢音!」

「糸井さん、もう一台が!」

 絢音が叫んだ直後に目の前にもう一台のバンが近づいていた。

 河川に落下したほうに気を取られていたせいで、気づくのが遅れた。天窓から現れた別の男の刀人が俺の車の前に跳び移ってきた。

「糸井さん!」

「わかってる!」

 車を左右に揺らして男を振り落とそうとしたが、男は車の淵にしっかりしがみついて離れなかった。

「くそっ!」

 思わず舌打ちすると、男が手にした刀を俺のほうに向けて構えていた。

「避けてください、糸井さん!」

 絢音の声を聞いて、咄嗟に頭を横にずらした。男が突き出した刀が車のフロントガラスを破って運転席のシートに突き刺さった。

「容赦なしかよ、こいつ!」

 男がシートから刀を引き抜こうとしている間に、片手で拳銃を取り出し引き金を絞った。銃弾が男の眉間を撃ち抜いた。手にしていた刀が消滅し、男は道路脇に落ちていった。

 ひびが入って見えなくなったフロントガラスを拳銃で割って、ようやく前方が見えた。

 すると、バンから顔見知りの女が出てきた。薮内の事件で出会った野梨子と呼ばれていた女だ。

「まずいな、あの女は連中の幹部だ。さっきの男より強いぞ」

 絢音は黙ったまま、銃を構えた。

 野梨子が身を屈めて俺の車に飛びつこうとしたが、なぜか急にバンの中へ戻った。それと同時に背後から激しいエンジン音が鳴り響く。

「なんだ!」

 サイドミラーで後ろを見ると、青いバイクに乗った男が見えた。そのバイクはあっという間に俺の車に近づいてくる。

 乗っていた男はヘルメットを被っていて見えなかったが、太陽の光で一瞬その顔が見えた。

 思わず息を呑む。

「稜……なのか?」

 どうしてここに?

 そう思っている間に稜は俺の車を追い抜いて前を走るバンに近づいた。そして、バイクから一気にバンのほうへ跳び移る。天窓から男の刀人が出てきたが、稜は手にした黒い刀で男を斬り、すぐに運転席の場所に刀を突き刺した。途端にバンは道路から外れて河川敷のほうへ落ちていった。

「あいつ……」

 無線を聞いて、追ってきたのか。それとも、刀人の存在を察知して……。

「糸井さん、早くトラックを!」

「わ、わかってる!」

 稜のことが気になったが、いまはトラックのほうを優先した。スピードを上げて、すぐにトラックに追いついた。

「止まれ、警察だ!」

 大声で怒鳴ったが、トラックは止まる気配はない。そのまま、運転席のほうを覗き込んだ。

「な、なに?」

 束の間、言葉を失った。

「ど、どうして……」

 絢音も目を見開いたまま、驚いている。無理もない、俺もあげはの刀人がそれを運転していると思っていた。

「中西なのか?」

「やっぱり糸井か」

 トラックを運転していた中西も俺に気づいた。

「どうしてお前がそれを運転しているんだ?」

「悪いな、糸井。今は何も言えない」

 それだけ言うと、中西はトラックの速度を上げた。

「ま、待て、中西!」

 呼び止めようとしたが、もう中西の姿は見えなくなった。

 あいつ、本当にあげはの連中の一味になったのか、それとも……。

考えられる可能性はあったが、今はそんなことをしている場合じゃなかった。速度を上げた中西のトラックがどんどんと距離を離していく。

「糸井さん、早くしないと、中西さんが!」

「絢音、運転を代われ」

「え、ここでですか?」

「他にどこでやるんだ? ハンドル握れ」

 返事を待たずに車のハンドルから手を離すと、絢音は慌ててハンドルを持った。そのまま、席も入れ替わる。途中、かなり車の走行が乱れたが、絢音は何とか車を操作して道路から外れないようにした。

「無茶しないでくださいよ、糸井さん!」

「トラックの後ろにつけろ。向こうに跳び移る」

「ほ、本気で言ってるんですか!?」

「早くしろ」

「……わかりました」

 絢音は他にも何か言いたそうだったが、車を加速させてトラックの後ろにつけた。

 俺はガラスがなくなった車窓から出て、車の前に立ち、トラックのトレーラーの後ろに跳び移った。

「くっ!」

 風の抵抗が思ったよりも強かったが、力を振り絞って何とかトラックにしがみついた。だが、それも時間の問題だった。

 俺は拳銃を再び取り出して、トラックのタイヤに銃口を向けた。

「悪いな、中西。嫌でも止まってもらうぞ」

 引き金を絞ってタイヤに銃弾を放った。その瞬間にトラックが大きく揺れて道から外れる。そのまま河川沿いの土手に落下し、車体が横に倒れていく。俺はすぐに車から離れたが、思いっきり体を地面に打ちつけた。

 トラックはまた大きな音を立てて、横に倒れて、そのまま動かなくなった。

「う……」

 重傷を負わずに済んだが、地面に落下した衝撃で左肩を痛めてしまった。

「くっ……」

 横転したトラックの運転席のドアが開き、中西が姿を現した。額を切って、血が流れていたがそれ以外に怪我はしていないようだった。

「そこまでだ、中西!」

 そう叫ぶと、中西はトラックから飛び降りて、俺に向かって拳銃を構えた。反射的に俺も右手で銃を構える。

 お互いに肩で息をしながら、見つめあった。

「邪魔をするな、糸井。これは俺の問題だ」

「悪いな、仲間の個人的な問題を邪魔するのが趣味なんだ」

「俺はこのトラックに積まれた物を連中に渡さなければならないんだ」

「息子を助けるためか?」

 そう聞くと、中西の表情がはっきりと変わった。

「……雄二は今どうしてる?」

「病院だ。容態はあまり良くないらしい」

「そうか……」

 それからしばらく沈黙が続いた。まだ、互いに銃を向けあったままだった。

「糸井さん! 中西さん!」

 土手の上から絢音の声が聞こえてきた。もうすぐ応援が来るかもしれない。

「銃を下ろせ、糸井」

「中西、お前は取り返しのつかないことをしたかもしれないぞ」

「雄二を助けるためだ。そのためなら、俺がどうなろうとかまわない」

「どうする? 俺を撃つのか?」

「撃ちたくはない。だが、雄二のためなら撃つ」

 中西の引き金にかけた指に力がこもるのがわかった。

「やめてください、中西さん!」

 そばで絢音が叫んだ。その直後、背中にものすごい衝撃がはしって息ができなくなった。そのまま、地面に倒れ、大きな力で痛めた左肩を押さえられた。

「久しぶりだな、刑事のおっさん」

 顔は見えなかったが、聞き覚えのある声だった。

「お前は!」

「覚えていたんだな、井ノ坂だよ、井ノ坂春樹」

 顔は見えないが、やはりあの青い髪の男の声だった。

「い、糸井さん……」

「動かないで。さもなければ、殺すわ」

 絢音とさっき稜に襲われていたバンに乗っていた野梨子の声が聞こえてきた。絢音も身動きが取れないらしい。

「ご苦労だったな、中西。おかげで作戦は成功した」

 この声は聞いたことがない。男の声だった。

 何とか顔を動かすと、視界の端に中西を足で押さえつけた男の姿を見ることができた。

 赤茶色の髪にあご髭を生やした中年の男だった。体格は大きく、首筋に例の刺青が彫られている。

「はじめましてというべきかな、くくく」

 男の笑い声だけが周囲に響いた。

「特捜課の諸君、はじめまして。俺がアゲハのリーダーの木出拓馬(きでたくま)だ」

 アゲハのリーダー……。こいつがそうだというのか。

 改めてその男を見ると、笑みを浮かべて俺のほうを見ていた。

「ほう、お前が糸井か。野梨子から聞いてる、刀人の力を感知できるんだってな」

「名前を覚えてもらえているとは光栄だな。こんな事してただで済むと思ってるのか?」

「思ってないさ。俺たちはそれなりの覚悟を持って行動している。お前もそうだろ? 十年近くも大事なお友達を探しているんだからな」

 ごく普通に言われたので、思考が停止した。だが、男のにやけた顔を見ていると俺のことだけでなく、稜のこともよく知っているようだった。

「お前、いったいどこまで知っているんだ?」

「悪いな。今はちょっと時間がない。機会があれば、またじっくり話をしよう」

 男はそう言うと、ポケットから何かを取り出した。見ると、それはビニールパックに入った注射器だった。

「中西、よくやってくれたな。約束通り、解毒剤だ」

 男は中西の近くにそのビニールパックを落とした。それを中西は見て、男を睨みつけた。

「本当にこれで雄二は助かるのか?」

「言っただろ、約束は守ると。信用しろ」

「木出さん、全ての積み込みを完了しました」

 木出の背後から別の男が現れた。その後ろに大型の車が停車していた。そこでようやくトラックのトレーラーの扉があいていることにも気付いた。

「よし、春樹、野梨子。引き上げるぞ」

「はいはい」

 頭上で春樹の声が聞こえた直後、首のあたりに強い衝撃を受けた。急速に視界が暗くなっていった。


 19


 意識が再び元に戻ったのは、それから時間があまりたっていないように思えた。

「くっ……」

 首と肩のあたりが痛む。肩を押さえながら周囲を見回すと、木出たちの姿はどこにもなかった。さっき見た大型車で逃げたのだろう。

 横転したトラックもそのままになっていたが、トレーラーの中には何も残されていなかった。

 中西はトラックの近くに倒れていた。気を失っているようだったが、その手にはさっき木出が落としたビニールパックが握り締められていた。

「糸井さん、大丈夫ですか」

 後ろから絢音の声が聞こえてきた。

「ああ。お前は?」

「大丈夫です。中西さんは?」

「そこで倒れてるよ」

 そう言って中西のそばにしゃがみこんだ。

「中西、しっかりしろ!」

 しばらく体を揺らすと中西はゆっくりと目を開けた。

「糸井……」

「怪我は大丈夫か?」

「俺のことはいい。それより、早く雄二のところに……」

 ひどくかすれた声だったが、中西はビニールパックをさらに強く握りしめた。

「糸井さん、どうするんですか?」

「湯田月病院に行くぞ。奴らのことは後回しだ」

「わかりました」

 俺は倒れた中西を起き上がらせた。

「……」

 改めて周囲を見回しみたが、あいつの姿はなかった。

 野梨子がいたということは殺されたかもしれないが、その可能性はほぼ無いと思った。

「稜……」

 すぐにまた会うことになる。

 確信に近いものを感じながら、中西の腕を肩に回し、河川の上に停めていた車に向かって歩き出した。


 20


 午後四時 湯田月病院


「お前の息子は六階の205号室だ。肩、貸そうか?」

「大丈夫だ。急ごう」

 糸井の車で病院に到着した俺はすぐに雄二の病室へ向かった。

 あの木出といった男から話を聞いた限りでは、雄二はかなり危険な状態にあった。

 廊下を歩き、病室に入るとベッドの上で眠っている雄二の姿が見えた。体に点滴がつけられ、顔色は悪いままだった。

「雄二!」

 呼びかけても雄二は眠ったままだった。ずっと手にしていたビニールパックから注射器を取り出した。

「待ってろ、今、治してやるからな」

 そして、注射器を雄二の腕に刺した。雄二は最初、苦しそうな声を出したが、しばらくして呼吸が落ち着いた。顔色も少しずつ良くなっているように見えた。

「呼吸が安定している。どうやら、あの男が渡したのは本当に解毒剤みたいだな」

 そばにいた糸井が言った。

「よかった……」

 ほっと一息入れた瞬間に体にたまっていた疲れが襲ってきた。そのまま、ベッドのそばに置かれていた椅子に座った。

「良かったですね、中西さん」

「心配かけてすまなかった、吉丘。糸井も迷惑をかけたな」

「気にするなよ」

 糸井がそう言った直後、病室のドアが勢いよく開いた。咄嗟に反応する前に、黒いスーツの男たちの銃口が俺たちに向けられていた。

「動くな。全員、手を上げろ」

 スーツの男の警告で糸井と吉丘は互いに顔を見合わせて、両手をあげた。他に取るべき行動を見出すことができなかった。男の言うとおり、俺も手をあげた。

「やっぱりここに来てみたのは正解だったわ」

 スーツの男たちの間をかいくぐって菅原(すがはら)さんが姿を現した。菅原さんは糸井と吉丘のほうを見た。

「ご苦労だったわね、二人とも。あとでじっくり話は聞かせてもらうわ」

「いつもあの部屋に閉じこもっているのに、行動するのが早いですね、部長」

「こう見えても私は特捜課の課長なのよ。刀人に関する案件を見逃さないわ」

 糸井の皮肉な言葉にあっさり答えると、菅原さんは俺のほうを見た。

「どうして私たちがここに来たのか。わかってるわね? 中西刑事」

「ええ、わかっています」

「誤解です、部長! 中西さんは……中西さんはただ雄二くんのために――」

「いいんだ、吉丘」

 俺を庇おうとしてくれた吉丘の言葉を遮った。

「し、しかし!」

「全部覚悟していたことだ。雄二を助けられたのなら、それでいい」

「中西さん……」

 吉丘に続いて糸井のほうに視線を向けた。

「色々とすまなかったな、糸井」

「謝るな。お前は仕事よりも息子の命を優先した立派な父親だ」

「ふ、お前の口からそんな言葉を聞けるとは思わなかったよ」

 久しぶりに素で笑ってしまった。もう忘れていたような心地よい気分が全身に広がった。

 この感覚は夏帆と雄二の三人であの場所に行った時以来だな……。

「中西刑事、署まで来てもらわうわよ」

「はい」

 さっきよりもはっきりとそう返事して、俺は菅原さんとスーツの男たちに連行された。


 21


 2014年1月3日


 意識を失って数日しか経っていないのに、窓から見える町の光景は新鮮に見えた。

「もう年が明けたんですね」

「ああ、2013年も終わってしまったな」

 車内の後部座席に座っていた俺――中西雄二(なかにしゆうじ)がそうつぶやくと、車を運転していた刑事さんが言った。

 刑事さんの名前は糸井さんと言った。昨日、俺が意識を取り戻したことを知って見舞いに来てくれた刑事だ。糸井さんから俺の身に何が起こったのか、詳しくはまだ話してもらっていない。でも、今の俺がこうして生きているのは誰のおかげなのか、何となくわかっていた。だから、糸井さんに無理を承知で頼んだ。

 親父に会いたい、と。

「わかった。明日、会えるように何とかしてみる」

 無茶なお願いだったけど、糸井さんは引き受けてくれた。そして、約束通り今日、糸井さんは俺を親父のところに連れて行ってくれた。

「ようし、着いたぞ」

 町の景色をしばらく眺めていると、親父の捕まっている湯田月の警察署に到着した。

「俺の部下が面会の手続きを取っている。すぐに会えるはずだ」

「ありがとうございます」

「なあに、礼には及ばないさ。よし、早く行くぞ」

 糸井さんに続いて車から降りて、署の中へ入った。

「あ、糸井さん、雄二くん。こっちです!」

 入口付近で待っていた女の人が駆け寄ってきた。

絢音(あやね)、手続きは済んだか?」

「はい、すぐに会えると思います」

「よし、上出来だ」

 女の人と話していた糸井さんが俺のほうを見た。

「雄二くん、これから中西と面会だ。30分ぐらいしか時間が取れなかったが……」

「それだけあれば充分です。ありがとうございます」

 そう言うと、糸井さんは頷いて署の廊下を歩き始めた。それに続いてしばらく進んだところで面会室と書かれた部屋があった。

「中西英樹との面会に来た。準備はどうだ?」

 糸井さんが部屋の前にいた警官に手帳を見せて言った。警官はそれを確認して「中でお待ちください」と言った。

「雄二くん、俺たちは外で待ってる。部屋の中で待っていれば、あいつに会える」

「わかりました」

 俺は部屋のドアを開けて中に入った。

 部屋で待っていて十分ぐらいで親父が部屋に入ってきた。映画とかで観たのと同じように面会室は中央をガラスのようなもので仕切られている。親父はその向こう側に座っていた。ここ数日見ない間に親父は少し老けたように見えた。目も虚ろになっているように見える。しばらく互いに黙っていたが、親父のほうから口を開いた。

「雄二、俺はお前に憎まれて当然のことをした。夏帆(かほ)を見捨てた事実は変わらない。罪滅ぼしをしていたわけじゃない。俺はただお前の命を救うために――」

「俺、本当は知っていたんだ」

 親父の言葉を途中で遮った。親父は目を見開いて俺を見た。

「母さんから聞いていたんだ。親父は俺や母さんのために必死こいて仕事をしているんだって。不器用なだけで、俺たちのことを大切にしてくれている立派な父親だって」

「雄二……」

「でも、母さんが死んで、俺は親父のせいだと思い込んだ。母さんが話してくれた親父のことを何一つ忘れたまま、ずっと親父を嫌っていた」

 意識を取り戻して考えていたことを、ゆっくりと言葉にしていった。

「俺、この数日何があったのか全くわからない。でも、親父がこうやって捕まっているのは俺を助けるためにやったことだっていうのは何となくわかる。そのお礼を早く言いたくてここに来た」

 目を見開いままの親父を見つめた。

「親父、こんな馬鹿な息子を助けてくれて、ありがとう。俺、また親父に会いに行くよ。絶対に会いに行くから、ここから出るまで頑張ってくれ」

「雄二、すまない……こんな父親で……本当にすまない」

 親父は顔を下に向けた。その目から涙が溢れていた。

 面会時間が終わるまで、俺はずっと親父とそこにいた。


 22


 中西と雄二のやり取りを面会室の隣にある部屋から、マジックミラー越しで俺――糸井智彦は見守っていた。

「ここのいたのね、糸井」

 部屋のドアが開き、部長が入ってきた。

「話があるの、私の部屋まで来てもらえる?」

「あいつはどうなるんですか?」

 そう聞くと、部長は隣の部屋にいる中西に視線を向けた。

「脅迫されていたとはいえ、中西刑事のやったことは重大な犯罪よ。今回の事件は公にはしない。警察内部の情報を奪い、極秘の資料まで盗み出された話を報道しても、混乱を招くだけだから」

 自分の組織に不利になることは認めようとしない。現代社会で企業や組織が取る傾向のその態度に怒りがこみ上げてきた。

「部長には守りたい大切な人はいないんですか? その人を守るためなら自分がどうなろうとかまわない。たとえ罪を犯しても、刑事としてではなく、一人の父親としてあいつのやったことに間違いはあるんですか? その気持ちを理解できないんですか?」

「私にはわからないわ。親になったことは一度もないから」

 あっさりとそう答え、部長は「待ってるわよ」と言って部屋を出て行った。

 また怒りが募ってきた。中西は間違っていない。あいつはただ息子を助けるためにやっただけだ。

 その思いを聞き入れてもらえずに、あいつを裁くのはあまりに理不尽じゃないのか。

『言葉で解決しないのなら、力で解決するしかない。警察によってつくられた理不尽なこの世界を変えるには『アゲハ』の力が必要なのよ。あなた一人でどうこう言える問題ではないわ』

 薮内の事件の時に野梨子が言った言葉を思い出した。今となれば、その意味が何となく理解できる。

 理不尽な苦しみを受け、それを力で復讐するか……。

「お前も同じなのか……稜」

 俺はかつての親友にそう聞きたかった。

 

 第五章 終



次回 第六章 邂逅

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ