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23:志向

 昔から、僕は自分の気分に従って動いてきた。

 とてもお腹が空いていて、目の前に蕎麦屋があったとして、それを食べる気分でなければしばらく歩いてでも他の店を探しに行く。

 誰にでもそのような経験はあるだろう。強制されていない意思決定など殆ど全てそのようなものなのだ。

 僕はおそらく人並みよりも、なんとなくで物を決めることが多かったが、まあ変わってるというほどでもなかったはずだ。


 人間は気分に動かされて生きている。

 当たり前のことだ。

 当たり前のことだが、今の僕の場合、それが人為的、正確には神為的に制御されたものである可能性から、その『気分』に逆らいたいという気持ちも同時に存在していた。


 可能性、という言い方に留めてしまうあたり、僕はもうほとんどこの気分に屈服しているのかもしれない。

 客観的に見れば僕は間違いなく洗脳されているのだろう。

 しかし僕自身からすると、これが僕が本来持っていた、あるいは自然と湧き出てきた感情であるという可能性を否定できず、それどころか半分以上そうであるのだろうと考えてしまっている。


 二つの志向がせめぎ合い、頭がおかしくなりそうだった。


 他の事への逃避を考えた僕は、千紗ちゃんを遊びに誘う連絡を入れた。

 折角エリアに貰ったこの指輪を外すなんて考えも既にほとんど消えている。

 もうどうにかして気を逸らす以外の対応は取れそうにない。



 ◯◯◯



 僕は人を待つ時間が好きだ。

 安い飲み物で店に居座り、外の景色に目をやり、通行人の顔や服装を観察し、店内の会話に聞き耳を立てる。

 他人の存在を感じられる、というところがいいのだろうか。わからない。わからないが、こうしているととても心地よかった。

 もっとも、最近ではスマートフォンを弄っている時間も長い。


 また店内に誰かが入ってきたようだった。

 まだ時間ではないはずだが、遠目には千紗ちゃんであるように見える。


 こちらに近づいてきて、どこか呆れたように口を開く。


「……悠一郎さん、いつから来てたんですか? 私は待ち合わせの時間より30分早く来たはずですけど」


「僕も丁度今来たところだよ。女の子を待たせるのも悪いと思ったんだけど、似たような事考えてたみたいだね」


 喜んでもらえる事であると考えてもいたのだが、顔が若干引き攣っているあたり、どうもそういうわけでもないらしい。

 30分も余計に待つつもりだったのか、ということだろうか。お互い様である。

 まあ相手を待たせてしまったと分かれば、根っから善人でありそうな千紗ちゃんは居心地の悪さを感じてしまうのかもしれない。僕としてもそのあたり一切考えないわけでもないので、今来たところだと言っているわけだ。実際には待ち合わせの一時間前からここにいた。

 そういう事は言わないのが美徳、と考えてもいる。


 美徳、道徳といった類のものは僕の感情を安定させる。


「じゃ、行こっか、デート」


「交際するってわけじゃないですからね」


「なかなか念を押してくるね」


 待ち合わせる場所を決めたりする時に、既に散々かけられた言葉だ。

 付き合うのは絶対にダメだけどデートはOKだと言うあたりどこかちぐはぐであるようにも感じるが、僕如きに彼女の全てを推し量ることは絶対に不可能であるとわかっているので、深く考えないようにする。



 千紗ちゃんは頭がいい。

 僕と比べてしまえばその差は歴然である。

 頭がいい、と安っぽく一言で表現してみせても、そこに伴う現実は残酷だ。

 特に現代において、脳の力の違いはそのまま生物としてのレベルの違いと言っても過言ではないだろう。


 出来ることの幅が違いすぎる、というのはこの際置いておく。

 同じものを見ていても考えてることがまるで違うだろうし、本能的なものに近い感受性もそれによってかなりバイアスがかかるだろう、ということが僕と千紗ちゃんの間における問題だ。

 感覚を共有できないこと。認識に齟齬が生じること。僕の理解が遅れること。

 二人で同じ時間を過ごす上で、それらは悲しいくらいに大きくて不快な障害になるだろう。

 特に、千紗ちゃんにとって。


 僕はあまり頭が良くない。

 昔は頭がいいつもりだった。テストの点数が良かった。人より物を多く知っていた。勘違いをしていた。それらは頭の良さではなかった。

 もちろん、それを頭の良さだとする人もいるのだろうし、僕もそれらのことは頭の良さというものを構成する要素であると思っている。だが本質ではない。


 ああ、言ってしまおう。僕はコンプレックスの塊なのだ。だからこんな譫言(うわごと)のような考えが延々僕の中を巡っている。

 頭のいい人間が羨ましい。

 頭のいい人間に憧れている。

 頭のいい人間に、才能に嫉妬している。

 僕が千紗ちゃんに抱いているものは最早当初のような単純な肉欲だとか、綺麗なものに惹かれる気持ちだとかではない。惚れているのは変わらないが、そんなものだけしかなかった時より余程気持ちが向いている。

 正負の感情が、(あざな)える縄の如くごちゃ混ぜになって。


 この子と一緒に居られれば他の事など忘れられるだろうと考えるほどに、千紗ちゃんの存在は僕の中で大きくなっていた。


「どうします?まだ時間ありますけど」


 紫色の思考に嵌っていた僕は千紗ちゃんの声で我にかえる。


 本日のメインコンテンツは映画鑑賞なのだが、上映まで結構な時間がある。ある程度余裕を見て決めた待ち合わせの時間より更に早く会ったためだ。

 映画館はここと同じショッピングモール内にあるため、時間を潰す場所には困りそうになかった。

 少し考え、僕の気分のままに提案する。


「本屋に行こうか。君がどんなものを読むのか気になるんだ」


「いいですね。丁度買いたい本があります」


「へえ? 意外だね。わざわざ買うとは思わなかった。ぱらっと中身を見れば全部覚えられそうだけど」


「まあそうなんですけど、なんでしょう、紙の本を持ってると安心するんですよね。非合理的ですけど」


「いいね。そういう感覚は素敵だと思うよ」


 人間を人間たらしめているのはそういう非合理さだろう。

 そして圧倒的な才媛が見せる人間味はまた僕を惹きつける。

 ずっと気持ちが彼女から離れない。

 質こそ変われど、初めて会った時からずっとだ。


 この店の会計を済ませ、本屋まで歩く。

 無言でいるのもなんなので、適当な話題を振る。


「犬と猫、どっちが好き?」


「月並み過ぎる上びっくりするくらい非生産的な話題ですね。猫派です」


「ちゃんと答えてくれるあたりが好きだよ。ちなみに僕も猫派だ。今度猫耳とか着けてみない?」


「猫への冒涜になるので」


「斬新な断り方だね」


「普通の考えだと思いますけどね。恥ずかしいですし、そもそも私なんかに似合いませんよ」


「今君は猫耳を着けた経験のある全国の女性に喧嘩をふっかけたよ。謙遜も行き過ぎるのはよくない」


「謙遜ではないんですけど……」


 言葉通りだとするなら、千紗ちゃんが猫を神格化しているということなのだろうか。

 何も考えずに聞いたのだが、随分と根深い嗜好を引き当ててしまったようだ。


 雑談を続けるうちに本屋に辿り着いていた。

 自動ドアをくぐり、店内へ入る。

 昨今では活字離れがどうだとも言われているが、そこそこに人が多い。


「じゃあ、私は目当ての本を買ってくるので」


「折角だし一緒に回らない?」


「あー、いや、本当にすぐ終わるので待っててください」


「いや、でも」


「待っててください!」


 急に大声を出したので、衆目を集めてしまう。

 いや、元々千紗ちゃんはどうしてもその容姿から人目を引いてしまうので、僕が改めて周囲を意識したというだけの話で、実際にはあまり変わりはないのかもしれない。


「わかった。雑誌のあたりで待ってるね」


 そう言って、一度千紗ちゃんと別れる。

 何を買いに行くのか知らないが、そこまで強く拒否するのならそれなりの理由があるのだろう。無理について行くべきではない。


 要はバレなければいいので、こっそりと跡をつけることにする。

 男の子なら一度は探偵の尾行に憧れるものだ、 諸々調べた僕からすればお手の物である。

 千紗ちゃんは露骨に周りを意識しているが、こちらに気付いた様子はない。

 まあそもそもお互いのことを知っているため、尾行技術がどうというより、僕への信頼の賜物だろう。最初から僕がつけている可能性などほとんど頭にないのだ。考えなかったわけではないだろうが、その上でつけてこないだろうとしている。

 その信頼を踏み(にじ)るようで悪い気もするが、好奇心を抑えられない。

 千紗ちゃんが僕から隠れてまで買うものがなんであるのか、どうしても気になってしまう。


 千紗ちゃんがBLコーナーに入る。


 僕は踵を返し、雑誌コーナーへと向かった。



「買ってきました」


 少しの間、封のされていない雑誌を適当に読み漁っていると、既に例の物を買ってきたらしい千紗ちゃんに声をかけられる。


「何買ったの?」


「小説です。好きな作者の新作です」


 紙袋から購入した小説を取り出し、僕に見せる。

 一見一般向けのものであるように思える。


 まあ買うところを見られたくないような代物を、買った後でなら見せられるというのもおかしな話ではある。おそらくこの小説は本当に一般向けで、千紗ちゃんの本命は袋の中にあるのだろう。いや、この小説もまた同様に本命として買いに来たのだろうけど。

 そう考えた上で袋を観察すれば、まだ中になにか入っていそうにも思える。結構しっかりした作りをしているので分かりにくいが。

 それについては言及せず、見せられた本について聞くことにする。


「どんな小説なの?」


「まだ読んでないのでなんとも言えませんが、暗黒小説(ノワール)らしいです」


「そういうの好きなんだ?」


「そんなにジャンルに拘る方でもないんですけど、好きではありますね」


 結構ヘビーな作品が好みなのだろうか。


「僕もその人の作品をひとつ買って行こうかな。どれから読むのがいいとかある?」


「初めて先生の作品を読むならやはり白痴裁判ですかね」


 少し早口になりながら応答する。ビジュアルこそまるで異なるが、オタクが自分の好きな作品について語る時の調子に非常に近い。余程好きなのだろうか。

 そしてやはりタイトルからしてなかなか重たい。そもそもあまり活字を読まない方ではあるのだが、僕はどちらかといえば軽い雰囲気の作品が好きだ。しかしまあ、歩み寄るならこのあたりからだろう。


 薦められた本を買い、僕らはカフェに向かう。

 本を購入した客が向かうことを見越してデザインされているのか、カフェは本屋と隣接していた。

 ショッピングモール自体は相当騒々しいのだが、カフェの中はかなり静かだった。こういう場所にある以上多少は騒がしいものだろうと思っていたので、少々意外だ。


「奢るから、適当に頼んでいいよ」


「あまりこういう場所に来ないので、よく分からないんですが……」


 僕もあまり頻繁に来るわけではない、が、折角なので見栄を張ることにする。

 笑顔を作り、ショートボブの店員に話しかける。


「おすすめを二つ貰えるかな?あまり甘すぎないものがいい」


「アールグレイのティーラテはいかがでしょう?シロップ抜きでご提供できますが」


「それでお願い」


 カフェ店員というものは結構質が高く、このようなちょっとした無茶振りにもちゃんと答えてくれたりする。


 ティーラテを受け取った僕らは席に座り、本を開く。

 白痴裁判というタイトルと中身の関連性がどのようなものか知らないが、ある大学の研究室での会話から物語が始まった。

 飲み物を口に運びながら読み進める。


 このうだつの上がらない大学院生とやらが主人公なのだろうか。

 研究室内での立場が悪いらしく、まだ冒頭であるはずなのに読んでいる僕の心まで痛い。

 本当にこの作者の作品を初めて読む人間に薦めるものなのだろうか。



「悠一郎さん、そろそろ時間です」


「あれ、そんなに読んでた?」


 読むのが辛すぎるなどと思っていたはずだが、気付けば没頭し、読み耽っていたらしい。

 携帯を見れば、確かに上映が10分前にまで差し迫っていた。


「気に入ってくれたようでなによりです」


 千紗ちゃんが嬉しそうにはにかむ。今日一番の笑顔だろうか。

 小説の世界から現実に引き戻され、僅かに虚脱感を感じていたはずだが、それを見ただけでたちまちのうちに心が満たされてしまった。

 僕はもう取り返しのつかないところまでこの女の子にのめり込んでいるのかもしれない。


「あー、栞とか持ってたりしない?」


「どうぞ。余ってるので、差し上げます」


「いいの?ありがとう」


 千紗ちゃんから紙製のシンプルな栞を受け取り、開いていたページに挟むと本を閉じる。

 紙袋に本を入れ、立ち上がる。


「手、繋がない?」


「ダメです」


「残念」


 ラインが未だによくわからないが、手を繋ぐのはダメらしい。映画を観てる最中にどさくさに紛れて触れることにしよう。



 話題の映画を選んだはずだったのだが、あまり僕が面白いと感じるようなものではなかった。千紗ちゃんも同じように感じたらしく、終始なんとも微妙な表情であった。

 ちなみに盛り上がるシーンで手を重ねにいったのだが、ぺしんと払い除けられてしまった。


 一応スタッフロールが終わるまでは鑑賞を続け、明かりが点いた後で席を立ち、映画館を出る。

 日が傾いていた。


「駄作でしたね」


 少し歩き、人が少なくなったあたりで千紗ちゃんが口を開く。


「やっぱりそう思う?」


「話題性だけの駄作です」


 そういうことをきっぱりと言ってのけるあたりもまた魅力的だ。二回も言うあたり余程気に入らなかったのだろうか。


「今度から映画は私が選びます」


 今度。

 どうやらまた僕と映画を観に行ってくれるらしい。


「どうやって選ぶの?結局実際に観てみないとわからなくない?」


「消去法です。スタッフの名前を確認すれば見るまでもなく駄作であるとわかるものも多いですから」


「なるほどね」


 映画についても僕より詳しいらしい。

 言動からして、話題になるような人気作品ではなく、所謂B級映画とかが好きなタイプかもしれない。


「まあ、なんだかんだ今日は楽しかったです。ありがとうございます。いい気分転換になりました」


 多少の疲れが窺える顔でこちらに微笑みかける。


「気分転換?何か根を詰めてやってることでもあるの?」


「まあ、色々考えることがありまして……」


「僕でよければ話を聞こうか?」


「いえ、自分で解決すべきことですから」


 力になれないのは残念だが、無理に介入すべきではない。

 しかしどうも満更でもなさそうなので、またデートに誘うことにしよう。


「なるほどね、まあ頑張って。それはそれとして、今日はもう帰っちゃうの? 僕としてはこの先のプランも立ててあるんだけど」


「あれ、まだ何かあったんですか?門限とかは特にないので、別に帰らなくてもいいんですけど」


「ホテルに行こう」


「帰ります」


「待って、冗談だから」


 本気で帰ろうとした千紗ちゃんを引き止める。


「もうちょっと考えてから発言した方がいいですよ」


「気をつけるよ。それはそれとして、ここから少し歩いたところで見られる夜景が綺麗だって評判なんだ。日が完全に沈むまでカラオケでもどう?」


「カラオケですか……私、行ったことないんですよね」


「本当?」


「本当です」


 千紗ちゃんももう現代の日本で17年程度生きているはずであり、その間一度もカラオケに行ったことがないというのはなかなか驚くべきことだろう。

 勉強しか頭にないのか、箱入り娘ということなのか。門限がないという発言もあり、千紗ちゃんの場合、どちらでもないように思える。

 友達が少ないようではあったので、単純に行く機会も興味もなかったという話だろうか。


「行くのが嫌、ってわけじゃないよね?」


「まあ、嫌ではないですけど……」


「じゃあ行こう。千紗ちゃんの歌、聞いてみたいんだよね。声がすごい綺麗だから」


 心からの発言だ。千紗ちゃんの透き通った声はただ話しているだけでも簡単に僕の心を揺さぶる。


「そんなことないと思いますけど……まあ、行きましょうか」


 同意を得て、カラオケ店のある方へと歩く。ショッピングモールから外れてはいるが、そう遠い場所ではない。


 黄昏時、赤と黒の世界を歩くうちに人影は疎らになっていた。車もほとんど通らない。

 ついさっきまで人で溢れかえった場所を歩いていたはずなのに、誰ともすれ違うことがなくなっていた。

 どこか郷愁をおぼえる、カラスの鳴き声が聞こえる。


 更に歩くと、僕ら以外に人はいなくなっていた。

 不自然だ。


 心当たりはないでもない。例えば人払いの呪術。

 あるいは、別種の異物。



 路地から、僕の脳に妙な刺激を与える黄色の光が差すのが見えた。


「……あー、千紗ちゃん、あれさあ」


「……栞と志木さんを呼びましょう。カラオケはその後です」


 千紗ちゃんは、恐らくこの先にあるであろうモノリスから向かえるはずのダンジョンを潰す気でいるらしい。


 あまり深く考えたことはなかったが、千紗ちゃんがダンジョンに潜る理由は何であるのだろう。無視して生活することだって簡単にできるはずだ。

 先程言っていた考え事とやらの中に、それも含まれているのだろうか。


 志木と栞ちゃんにはグループチャットで千紗ちゃんが既に声をかけていたので、僕はもう一人、戦力になりそうな人間に連絡を入れる。

 娯楽という面で見るのであればこういうものには低戦力で挑むのが好みであるのだが、僕はもう万が一にも死にたくないし、千紗ちゃんを死なせたくない。


 三人とも、そう時間をかけずにここに来られるようだった。

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