プロポーズ(仮)
帰り道、駅へと続く遊歩道は、深夜の静寂に包まれていた。街灯が二人の影を長く引き伸ばし、遠くを走る電車の音が、心地よいリズムとなって夜気に溶け込んでいる。
「……ねえ、湊」
凪がふと、歩みを緩めた。彼女は俯いたまま、少しだけ俯き加減で、でもどこか上気した声で言った。
「さっき……お母さんの前で、あんなこと言わなくてもよかったのに」
「あんなこと?」
湊はあえてとぼけて、凪の横顔を覗き込んだ。
「『式に呼べるな』って言ったことだよ」
凪はさらに顔を赤くし、湊の腕を小突いた。その動作は、先ほどまでの「親と対峙した時の凪」とはまるで別人だった。ただの、恋する一人の女の子の顔だった。
「……だって、私、まだそんなの現実味なくて。お母さんもお母さんよ。否定もせずに『楽しみ』だなんて……」
「それは、凪が一生懸命頑張ったからだよ。俺たちを信じてくれたんだ」
湊は足を止め、凪の前に立ちふさがった。二人の距離がぐっと近づく。街灯の光が凪の瞳をキラキラと反射させ、彼女の鼓動が早まる音が聞こえてきそうだった。湊は彼女の肩に手を置き、逃げ場をなくすように優しく、しかし確固たる意志を持って言葉を紡いだ。
「凪、勘違いしないでくれ。あれはただの口先じゃない」
「……え?」
「俺は、本気だ。凪と、一生一緒にいたいと思ってる」
言葉は短かったが、その重みはこれまでとは違った。親の呪縛を解き、二人が初めて「自分たちの意志」で未来を選択した今、その言葉は契約のように凪の胸に響いた。
凪は目を見開き、呼吸を忘れたように湊を見つめた。夜風が前髪を揺らす。彼女の唇がわずかに震え、何かを言おうとして、また閉ざされた。
「……みーくん」
「言っておくけど、その場のノリだと思わないでほしい。これからの人生も――どんな困難があっても、俺は凪の隣にいたい」
湊の眼差しは真剣そのものだった。凪もまた、それに応えるように彼のシャツの裾をギュッと掴んだ。
「私も……湊と一緒なら、どこへだって行ける気がする」
「ああ。……だから、プロポーズは必ずする」
湊は少しだけ声を低くした。それは、誓いの響きを帯びていた。
「ちゃんとした指輪を用意して、凪のお母さんに改めて正式に頭を下げる。……だけど、それまで少しだけ待っていてほしい。今の俺は、凪を守り切れるほど、一人前じゃない。もっと自分の力でしっかり「家庭」を支えられるようになってから――必ず、俺の口から、最高の言葉で伝えさせてほしい」
凪の目から、不意に涙がこぼれ落ちた。それは悲しみではなく、あまりにも大きな幸福感と、彼からの誠実な愛に対する感謝の涙だった。
「それもうプロポーズみたいなもんじゃん。前にサファイアの指輪くれた時だってほぼプロポーズだったし……でも、待ってるから」
凪は涙を拭いながら、少しだけ照れくさそうに、しかし強気な笑みを浮かべた。湊は、彼女の言葉の裏にある「早く安心させてほしい」という願いと、それ以上に深い信頼を感じ取り、胸の奥が熱くなるのを覚えた。
「う……ありがとう。そんな風に言わせてしまって、情けないな」
湊は自嘲気味に笑ったが、その眼差しには確固たる決意が宿っていた。凪と一生を共にすると決めた以上、中途半端な姿勢は見せられない。一人前の男として、彼女を一生守り抜くという約束。それを形にできるのは、明日からの自分の積み重ね次第だ。
凪は、そんな湊の葛藤をすべて受け止めるように、一歩詰め寄った。先ほどまでの「恥じらう少女」のような面影は消え、今度は湊を試すような、少しだけいたずらな視線を投げかける。
「別に情けなくなんてないよ。……でもね、みーくん。そんなにじらしていたら、私の方からしちゃうからね」
「……っ、それは困る」
湊は動揺を隠せないまま、思わず声を漏らした。凪のまっすぐな瞳と、ふわりと香る穏やかな日常の匂いに、自分の中の理性が音を立てて崩れていくのを感じる。
「……冗談だよ。みーくんが自信を持って、私を迎えに来てくれるまで。待ってるからね」
そんな話をしているうちに家の前に着いた。
しかしなぜか凪が小走りで先に玄関に入ってしまった。なんだかわからず湊も遅れて玄関を開けた。
「おかえりなさい、私の未来の<<旦那様>>!」
凪のいたずらっぽくも甘い「旦那様」という言葉が、湊の心臓を大きく跳ねさせた。
「……っ!」
湊は言葉を失い、顔を真っ赤にして視線を彷徨わせた。凪はそんな湊の反応を面白がるように、くすりと楽しげな声を漏らす。彼女の瞳には、湊への愛情と、これまでの抑圧が解けたことによる純粋な喜びが溢れていた。
「照れてるみーくんかわいい。……今夜くらい、そんな風に呼んだっていいでしょ?」
凪は一歩近づき、湊のネクタイを指先で軽く引いて、自分の方へ視線を向けさせた。ふだんの思慮深さが嘘のように、今の彼女の瞳には、湊への愛おしさが濁流となって溢れている。
「……ねえ」
「ど、どうした」
湊の問いかけに応えず、凪は湊の胸元に顔を埋めた。彼女の吐息が熱く、湊の肌を伝う。心臓の音が、まるで共鳴するかのように二人の間で重なり合っていく。
「今日は私にリードさせて」
「……っ、そんなこと言われても。……せめて、お手柔らかにお」
「いやだ」
即答だった。凪の手はネクタイをそのまま引っ張りソファーに押し倒し、湊のシャツのボタンへと伸びる。
「ちょっと! 凪、待って、心の準備が……」
「待たせるんだから、今くらい私に安心させて。……それじゃダメ?」
上目遣いに向けられた視線は、懇願というよりも、獲物を逃すまいとする熱を孕んでいた。湊は、自分の理性が凪という名の海に沈められていくのを感じる。
「……そう言われると、何も言えないよ」
「ふふ、冗談。意地悪してごめんね。……みーくんのことは誰よりも信じてる。だから気にしないで。でもね、もう抑えられないの。みーくんの匂いも、触れる温度も、声も、全部全部私のものにしたいって。好きすぎて、今すぐ飲み込んでしまいたいくらい、おかしくなりそうなの」
凪の手が湊の胸元を強く掴む。その指先には、彼を独占したいという狂おしいほどの渇望が宿っていた。彼女の甘い吐息と、震える指先が、湊の理性を完全に麻痺させていく。湊は、凪がこれほどまでに自分を求めてくれているという事実を突きつけられ、全身の血液が逆流するような衝撃を受けた。守るべき相手だと思っていた凪が、今は逆に自分を捕らえて離さない。
「……凪」
湊はもう言葉を探すのをやめ、彼女の腰を引き寄せて強く抱きしめた。凪は湊の腕の中で、安堵と喜びが混ざり合ったような切なげな声を漏らす。二人の間には、もはや言葉を介する必要などなかった。
「……今日は、寝かせないよ。みーくん」
耳元で囁かれたその言葉は、警告などではなく、愛の渇きそのものだった。湊は彼女の瞳を見つめ返し、この夜が、二人にとっての新しい物語の幕開け――そして、二人の距離が完全に溶け合う時間になることを確信した。彼はただ、愛おしい凪を、その腕の中に封じ込めるように強く、強く抱きしめ返した。
朝日がカーテンの隙間から差し込み、部屋の空気を琥珀色に染め上げていく。湊は意識の底からゆっくりと浮上してきた。瞼の裏に残る昨夜の記憶――凪の熱い吐息と、自分を独占しようと必死だった彼女の横顔が、鮮明に脳裏を駆け巡る。
腕の中では、凪がまだ深い眠りについていた。湊が少し身じろぎすると、彼女は何かを探すように湊を掴み、その胸元に顔を埋めた。
「……ん、みーくん……?」
寝ぼけ眼で凪が小さく呟く。その甘えたような声に、湊は胸が締め付けられるような愛おしさを覚えた。
「……おはよう、凪。もう起きてるぞ」
湊が耳元で小さく囁くと、凪は長い睫毛を震わせ、ゆっくりと目を開けた。寝起きのぼんやりとした瞳が湊を捉え、すぐに昨夜の出来事を思い出したのか、彼女の頬がみるみるうちに赤く染まっていく。
「……っ! お、おはよう……」
凪は慌てて布団に潜り込もうとしたが、湊がそれを笑いながら引き止める。
「隠さなくていいよ。昨日の凪、すごく可愛かったから」
「や、やめてっ! ……もう、記憶が消えてほしいくらい恥ずかしいんだけど」
彼女は布団から顔だけを出し、上目遣いで湊を睨む。湊は彼女の乱れた髪を優しく梳くように撫でる。
「消えてほしくないな。俺にとっては、凪がそれだけ俺を必要としてくれていたって、最高の証拠だから」
「……バカ。そんな真っ直ぐに言われたら、また顔が火照っちゃうでしょ」
凪は口を尖らせながらも、嬉しそうに湊の腕に額を押し付けた。
「ねえ、みーくん」
「ん?」
「昨日のこと、……本当にいいの?」
凪の瞳が少しだけ揺れる。それはまだ彼女の奥底に残る、消し去れない不安の名残なのかもしれない。湊は彼女の顔を両手で包み込み、真正面から見つめた。
「後悔なんてするわけないだろ。凪と、一生一緒にいたいんだよ」
「……うう、またそんなプロポーズみたいなことを」
「本心だから」
湊が真剣な表情を崩さないので、凪は観念したようにふふっと笑った。
「そうね。……じゃあ、私も覚悟決める。これからどんなことがあっても、みーくんを信じて、離さないから」
「ああ。……俺も、凪を守り抜く。一人前の男になって、必ずしっかりプロポーズするから」
「うん。……でも、あんまり待たせたら、また昨夜みたいに私がリードしちゃうからね?」
凪のいたずらっぽい視線に、湊は思わず苦笑した。
「それは……お手柔らかにお願いしたいな」
「ふふっ、努力する」
凪は楽しげに笑うと、するりと布団から抜け出した。伸びをする彼女の背中を見つめながら、湊は思う。彼女のその自由な振る舞いこそが、自分たちが勝ち取った勝利の証なのだと。
「さて、旦那様。朝ごはんのお味噌汁、作りに行こうか」
凪が振り返り、茶目っ気たっぷりにウィンクする。湊はその言葉の響きに、またしても顔が熱くなるのを感じた。
「……呼ばれ慣れてないから、まだ照れるな」
「<<あなた>>の方がいい?」
「今まで通りの方が好きかな」
「じゃあそうする」
湊は布団から起き上がり、凪の手を引いた。
窓の外では、街が活気を取り戻し始めている。電車の音、鳥の囀り、近所の生活の気配。すべてが、二人の門出を祝福しているかのように響いていた。
キッチンへ向かう道すがら、凪がふと足を止めて湊のシャツの裾を掴む。
「ねえ、みーくん」
「ん?」
「……これ、夢じゃないよね?」
湊は彼女の頬に触れ、優しく指でなぞった。
「夢じゃない。ほら、温かいだろ?」
凪は湊の手を握りしめ、その手のひらの温かさを確かめるようにギュッと力を込めた。
「……うん、あったかい。みーくんの温度だ」
彼女の瞳から、嬉し涙がポロリとこぼれる。湊はそれを指先で拭い、彼女を抱きしめた。
「泣くなよ。まだやっとスタートラインに立ったようなもんだろ?」
「うん……私、頑張る。湊が私を支えてくれるみたいに、私も湊を支えられるようになる」
「俺も頑張らないとな」
二人は並んでキッチンへと足を進める。昨日までの迷いや葛藤は消え、そこには確かな信頼と、未来への希望だけがあった。湊は凪の手を、先ほどよりも少しだけ強く握り直す。彼女もまた、湊の指をしっかりと絡め返してきた。
読んでくださってありがとうございます。
面白いと思っていただけたら、
★評価やブックマークで応援していただけると更新の励みになります!





