月曜日の朝
五月の柔らかな風が校舎を吹き抜ける月曜の朝。校門から続く並木道を、湊と凪が並んで歩いてくる。
同じ屋根の下で目覚め、朝食の香りを共に楽しみ、何気ない言葉を交わして支度をした。そんな「日常」が、この週末を経て、二人にとって唯一無二の聖域へと変わっていた。
湊の足取りは穏やかで、凪の少し前を歩くことも、少し後ろを歩くこともない。二人の歩調は奇跡のような均衡を保ち、隣り合って進んでいく。かつて湊が纏っていた、周囲を寄せ付けない冷徹な優等生の鎧は、凪の隣でだけ見せる温かな素顔の下に隠されていた。
教室の扉を開け、いつもの席へ。
席に着くと、湊はふと振り返り、凪と視線を交わす。言葉は必要ない。ただ目が合うだけで、二人には昨夜の、いや、週末のすべての時間が共有されていることが伝わる。
ふと凪と目が合うと凪は嬉しそうに目を細め、前の席である湊の椅子の背に、自分の手先をそっと添えた。以前までのような遠慮はない。湊のすべてを自分の色に塗りつぶしたという独占欲と、湊が自分だけを見てくれている幸福感に包まれている。
「……みーくん。どうかした?」
湊が振り返ったまま、どこか満足げに自分を見つめていることに気づき、凪が小さく笑って顔をのぞいてくる。
「……朝からずっと、凪のこと考えてた。……本当に幸せだなって」
湊が真っ直ぐに伝えると、凪は顔を真っ赤にしながらも、その瞳に熱い幸福を湛えて見つめ返した。
そこへ、涼と千尋がニヤニヤしながらやってきた。二人は金曜の夜、湊と凪の部屋を辞去する直前、彼らの間に流れる濃密な空気を肌で感じていた。今も二人の間の距離感の変化に、涼は愉快そうに口を開く。
「よっ、おはよう!……おいおい、湊。なんかお前ら、朝から妙に仲いいな。……もしかして金曜日は、俺らが帰ったあと『お楽しみ』だったんじゃないの?」
涼がからかうように湊の肩を叩く。湊はいつもなら冗談で返すか、適当にいなすところだが、今日はふっと凪の方を見てから、苦笑を漏らしただけだった。
「そうそう。金曜の夜、私たちがあのまま帰ったあとさ……二人で何かあったんでしょ? なんか二人とも、空気がちょっと、こう……『大人』っぽくなったというか、密やかな感じがするっていうか……」
千尋の指摘に、凪は動じることもなく、さらりと鞄から教科書を取り出した。前の席にいる湊の肩に、凪が指先を軽く預ける。湊もそれに従うように、背もたれに体を預けて凪との距離を保った。席は離れていても、二人の空間は以前よりも確実に親密なものになっている。
「えー? 何もないよ。ただ……週末に少しゆっくり話せたからかな」
凪が湊を見上げる。その瞳には、親友たちには読み取れない、二人だけが共有する秘密の記憶が宿っている。湊もまた、自然な動作で凪の方を振り返り、彼女が今日一日困らないようにと、自分の手元にあった予備のプリントをそっと手渡した。
「……そうだな。ずっと一緒にいたおかげで、ようやく整理がついたというか」
「……なんだよ。湊のその顔、なんか凪ちゃんに全部お見通しって感じに見えるぞ。前までの鋭い感じが消えて、妙に穏やかというか……凪ちゃんにすっかり手懐けられてるような?」
涼の鋭いツッコミに、湊は涼を適当にいなしながら、背後にある凪の手の甲を、自分の手でそっと包んだ。
「手懐けられてるなんて、人聞きが悪いな。ただ、凪といるのが今は一番自然なんだよ。お前らだって、好きな奴といる時は自然とこうなるだろ?」
涼や千尋には「仲のいい幼馴染の談笑」にしか見えていないだろう。だが、互いの体温を確認し合う感覚は、間違いなく週末に深まった絆そのものだった。そんな二人のやりとりを、二人の関係をなんとなく察している涼と千尋もまた、微笑ましく楽しんでいる。
その様子を、近くでノートを広げていたサキという女子生徒が、ニヤニヤしながら眺めていた。
「ねえ、湊くんってさぁ、この前までもっとこう……氷の彫刻みたいだったよね? でも今の湊くん、凪ちゃんを見る目がとろけそうというか、完全に『凪ちゃん仕様』になってない?」
サキの言葉に、周囲の女子たちも一斉にこちらを向く。
「あー、分かる! 私も思った。湊くんって、あんなに凪ちゃんにベタベタしたっけ? ……ねえ、これって、そういうことだよね?」
サキの隣の女子が、含みのある笑みを浮かべて凪に詰め寄る。
「……ねえ、凪ちゃん。白状しちゃいなよ。二人、週末に何があったの? その幸せオーラ、隠せてないよ?」
女子たちの執拗な追及に、凪は涼しげな笑顔を崩さず、湊の背中を愛おしげになぞった。
「……みんな、やっぱり少しだけ感づいてるみたいだね」
「ああ。だが、俺たちの関係は誰にも邪魔させない。俺は凪と、このまま歩んでいきたいだけだ」
湊は周囲の冷やかしを気にすることなく、淡々と、しかし力強く言い放った。
「……もう、何を言っても無駄だね。湊くん、顔に出すぎ!」
千尋が呆れ笑いをする中、予鈴が鳴る。
「……授業、始まるな。凪、教科書は?」
「ここにあるよ。……また後でね」
湊は、後ろの席にいる凪と軽く視線を交わす。窓から差し込む朝の光が、二人の横顔を等しく照らしている。誰に何を言われようと、この瞬間、すぐ後ろに凪がいるという事実だけで、湊の心は満たされていた。
窓の外を見やると、新緑が揺れている。湊は自分がかつて、凪以外の存在にどれほど心を通わせようとしていたのか、あるいはどれほど閉ざしていたのかを思い返した。だが、今となってはそれすら遠い過去の出来事のように思える。
今、自分の背後には、世界で最も大切な人がいる。その事実が、湊の日常を色鮮やかに染め上げていた。
「……みーくん、授業中に私のこと考えちゃだめだよ?」
「……無理だな。凪が後ろにいる限り、集中なんてできるわけがない」
湊が小さく呟くと、凪はクスクスと笑い声を漏らす。その声が湊の背中をくすぐるように伝わり、彼はたまらなく愛おしい感情に包まれる。
授業中、先生の声が遠く聞こえる中で、湊はノートにペンを走らせる。だが、その意識の大部分は、後ろの席で凪がどのように座り、どのような表情で黒板を見ているのかという想像に割かれていた。凪の気配を感じるだけで、湊の心は静かに、そして確実に満たされていく。
休み時間になると、また周囲が騒がしくなる。女子たちがまた、凪の席の周りに集まり、二人の関係についてあれこれと探りを入れているようだ。
「凪ちゃん、やっぱり湊くんと何かあったでしょ? 週末、二人で何してたの?」
そんな問いかけに、凪は時折、視線を湊の方へ向けて、いたずらっぽく笑う。その視線を受けた湊は、何も言わずに軽く会釈を返すだけだが、その眼差しには凪への深い愛情と、彼女を守ろうとする静かな意志が込められている。
「秘密。……でも、一つだけ言えるのは、私は今、とっても幸せだってことかな」
凪のその言葉を聞いたとき、湊は胸が締め付けられるような幸福を感じた。自分が彼女の幸せの源であり、彼女が自分の幸せの源であるという、この何にも代えがたい関係。二人の絆は、誰にも解くことのできない、永遠の鎖として、お互いの心に結ばれているのだ。
放課後の図書館。
二人は約束通り、静かな図書館の席で並んで座った。ここでもまた、二人の世界が広がる。
「……みーくん、ここの問題なんだけど」
凪がテキストを指さすと、湊は彼女の肩越しにその問題を見つめる。二人の距離は物理的には近いが、決して一線を超えない。だが、その空気感は、どこからどう見ても恋人同士のそれだった。
「ここはね、こうして式を立てると解きやすいんだよ」
湊が穏やかな声で解説すると、凪は真剣な表情で頷きながらも、時折湊の顔を覗き込む。
「さすが、みーくん。分かりやすいね」
「凪が真面目に聞いてくれるからさ」
そんな二人の様子を、図書館の司書が少し呆れたような、でも温かい目で見守っている。この静かな場所で、二人は二人だけの時間を紡いでいく。
外が暗くなり始め、図書館が閉館の時間を告げる。
「そろそろ帰ろうか、凪」
「うん、帰ろう。……今日は本当に楽しかったね」
帰路につく二人の背中は、夕闇の中に溶け込んでいく。明日になればまた、学校という舞台で仮面を被ることもあるかもしれない。だが、その裏側で、彼らは今夜の記憶を糧に、より絆を強固にしていくはずだ。
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