第1話 ハズレ職おばけきのこ
田中は、まず手を動かそうとした。
動かなかった。
いや、正確には動いた。ほんの少しだけ、地面の下で何か細いものがぬるりと伸びた。
指ではない。足でもない。湿った土の中を、白い糸のようなものが一本、二本、ためらいながら広がっていく。
その感覚が気持ち悪くて、田中は叫ぼうとした。
声も出なかった。
代わりに、頭の中へ文字が浮かんだ。
【種族:始原のおばけきのこ】
【ジョブ:???】
【表示レベル:1】
「……は?」
声ではなく、思考だけが漏れた。
始原のおばけきのこ。
田中はその名前を知っていた。MMORPG『エターナル・ファンタジー』のエイプリルフール限定イベントで、一日だけ実装されたネタ職だ。
公式の説明文もふざけていて、移動速度が遅い。見た目が地味。戦闘向きではない。パーティに入れると笑われる。
掲示板では「観賞用」「縛りプレイ用」「職業選択の事故」と呼ばれていた。
田中も笑っていた側だった。
ただ、一つだけ妙な話も見たことがある。
イベント当日の夜、掲示板に「おばけきのこ、表示レベルと内部値がズレてないか?」という書き込みがあった。
鑑定したらエラーが出たとか、火を当てたら逆に増えたとか、そんなバグ報告だ。
だが翌日にはジョブごと消えた。
一日限定のエイプリルフール職だ。運営も、わざわざ修正しなかったのかもしれない。
なのに、いま自分がそれになっている。
目はないはずなのに、周囲は見えた。暗い森。濡れた土。倒れた木。腐った葉の匂い。背の高い草の隙間を、黒い虫が這っている。
体は、キノコだった。
白い傘。太い柄。根元から地面へ沈む無数の菌糸。動こうとしても、傘が少し震えるだけだ。
会社の朝礼で眠気に耐えている時の方が、まだ自由に動けた。
最悪だ。
そう思った瞬間、別の文字が浮かんだ。
【内部演算値を参照できません】
【鑑定に失敗しました】
【鑑定に失敗しました】
【鑑定に失敗しました】
同じ文が三回続き、最後に画面のようなものが割れた。
田中は黙った。
表示レベルは1。
なのに、鑑定が壊れた。
ゲームの記憶が、頭の奥で嫌な音を立てた。
表示と内部値がズレる。
掲示板で見た、あの未修正バグ。
イベント用のネタ職。運営が一日で消した、妙に重いスキル処理。
「まさか、これ……見た目だけハズレで、中身が壊れてるやつか?」
喜ぶべきなのか、泣くべきなのか分からなかった。
少なくとも、普通ではない。
普通ではないのに、動けない。
そこが一番困った。
土の下で菌糸を伸ばす。十センチ。二十センチ。草の根に触れる。小石に触れる。腐葉土に触れる。情報がじわじわ入ってくる。
森の向こうで、金属の音がした。
鎧だ。
足音は複数。三人、いや五人。革靴がぬかるみに沈む音。誰かが舌打ちした。
「この森、本当に魔物がいるのか?」
「上の命令だ。調査して帰るぞ」
田中は、少しだけ安心した。
人間だ。
助けを求められるかもしれない。
そう思った直後、別の声が聞こえた。
「見ろ。変なキノコだ」
草が踏み分けられた。鉄の靴が近づく。視界の端に、剣を持った男が映った。
「気味が悪いな。焼くか」
安心が、すっと冷えた。
ああ、そうか。
俺はもう、助けられる側の人間ではない。
剣先が白い傘へ向けられる。
田中は動けない。
だが、地面の下の菌糸だけは、もう男たちの足元まで届いていた。
湿った土の中で、白い糸が静かに絡みついた。




