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理不尽の粉砕者:キャプテン・スマッシュ


「……あんたと、なんかもうやっていけない」


冷え切ったリビングに、その言葉だけが鋭利な刃物のように突き刺さった。


向かいに座る女は、もはやコウタの目を見ようともしない。

テーブルの上には、丁寧に折り目のつけられた離婚届。

それが、崩壊した家庭の墓標のように見えた。


「わかった……」


コウタは立ち上がった。


「……は?」


女が顔を上げる。あまりにあっさりした返事に、毒気を抜かれたような表情だ。


「わかったって……あんた、それだけ?」


「ああ。お前がそう決めたなら、それでいい」


コウタは離婚届に手を伸ばした——そして、その紙をテーブルの端に置き直した。


「でも、判はまだ押さない。その前に、ひとつだけ見せたいものがある」


「なにを——」


コウタは無言でテレビをつけ、ゲーム機の電源を入れた。


『アルティメット・バトラーズ』のタイトルロゴが、蒼く発光する。


「……ふざけないで。今、ゲームしてる場合!?」


「いいから見てろ」


コウタはコントローラーを握った。


キャラクターセレクト。選ばれたのは、キャプテン・スマッシュ。


画面の中のヒーローが、鋼鉄の装甲に身を包み、コウタを見つめ返す。


「……何がしたいの」


「教えてやる。これからお前と息子に訪れる未来を」


コウタの指が、スタートボタンを押した。


その瞬間——


リビングが、蒼い光に飲み込まれた。


「な、なに……っ!?」


女の悲鳴が、歪む。


空間がひび割れ、現実が捲くれ上がる。壁紙の向こうから、まだ見ぬ「未来」の断片が、濁流のように溢れ出した。


そこに映し出されたのは——


·


未来1:名義変更の審査に落ちる女


「そんな……どうして……」


銀行の窓口。女は憔悴しきった顔で、融資担当者と向き合っている。


「申し訳ございません。現状のご収入では、住宅ローンのお名義変更は承認できかねます」


書類を抱え、女がよろめくように銀行を出る。


駐車場で、彼女は泣き崩れた。


·


未来2:家を売る決断


「売却額は△△万円、ローン残債は□□万円。差し引き、およそ××万円のお手取り見込みです」


不動産会社の男が、にこやかに説明する。


女は唇を噛みしめ、売却契約書に判を押した。


自宅の前。荷物を積んだトラックを見送りながら、息子が小さく尋ねる。


「お母さん、もうこのおうちに帰ってこれないの?」


女は答えられない。


·


未来3:実家とネコアレルギー


「ただいま……しばらく泊めて」


実家の玄関。女は疲れ切った顔で母親に頭を下げる。


「おばあちゃん!」


息子が奥から走ってくる——と、そこに一匹のネコがすり寄った。


「かわいい〜!」


息子がネコを抱き上げる。


その日の夜。


「お母さん、かゆいよ……」


息子の腕が、首が、赤い湿疹に覆われている。


「ごめんなさい、ごめんなさい……」


女は泣きながら、夜間救急へ向かう車を飛ばした。


·


未来4:安アパートの孤独


ワンルームの薄暗いアパート。


女は深夜まで働き、帰宅はいつも午前様だ。


「ただいま……」


返事はない。


テーブルの上には、コンビニの袋。息子が一人で食べた夕飯の残骸が、冷たく固まっている。


布団の中では、息子がスマホの画面をぼんやり見つめている。


「お母さん、今日ね、学校でね……」


「明日にして。疲れたから」


女は振り返りもせず、台所で安いワインをあおる。


息子の瞳から、光が消えた。


·


未来5:面会の日に


「お父さん!」


公園で、久しぶりに会うコウタに駆け寄る息子。


「痩せたな。ちゃんと食べてるか?」


「うん……でも、お母さん、毎日遅くて」


息子の服は少し小さくなっていた。袖口がほつれている。


「学校は?」


「……楽しくない」


コウタは息子を抱きしめた。


何も言えなかった。


·


蒼い光が収まり、リビングに静寂が戻る。


女はソファにへたり込み、がくがくと震えていた。顔面は蒼白で、呼吸さえままならない。


「あ……あ……」


「これが、お前の選んだ未来だ」


コウタの声は、冷たく、静かだった。


「お前は今、悔しさと怒りだけで家を奪おうとしている。自分の生活を、子供の人生を、全部かなぐり捨てて。ただ、俺に一矢報いるためだけに」


「ちが……そんなつもりじゃ……」


「じゃあ、どんなつもりだ」


女は答えられない。


コウタはコントローラーを置き、ゆっくりと立ち上がった。


そして——彼の身体が、蒼い光に包まれた。


装甲が、次々と形成されていく。


鋼鉄のブーツ。銀河を模した胸部装甲。そして、燐光を放つ両の拳。


キャプテン・スマッシュが、現実に顕現した。


「な……なに、それ……」


女の声が震える。


コウタ——いや、キャプテン・スマッシュは、静かにテーブルの上の離婚届を見下ろした。


「Target: Unreasonable Future.(対象、理不尽な未来)」


システムボイスが、リビングに轟く。


「待って……何する気——」


「Smash——」


コウタの拳が、蒼い炎を纏う。


「——Obliterate!!」


振り抜かれた一撃が、空間そのものを粉砕した。


ひび割れた先から、さっき見た「未来」の断片が次々と現れる。


銀行の審査書類。


不動産の売買契約書。


ネコアレルギーの診断書。


薄暗いアパートの鍵。


そのすべてを、キャプテン・スマッシュの拳が——粉々に打ち砕く。


ガシャン!


グシャァ!


ドガァン!!


未来の破片が、ガラスのように砕け散り、蒼い粒子となって消えていく。


最後に残ったのは、一人で冷めたご飯を食べる息子の姿。


「それは——」


女が叫ぶ。


「それはやめてええっ!!」


キャプテン・スマッシュは一瞬だけ動きを止め、振り返った。


バイザーの奥の瞳が、女を射抜く。


「——『やめて』だと?」


その声音には、かすかな嘲笑が混じっていた。


「その言葉、お前が一番言う権利がない」


拳が、光る。


「自分の息子が一人で寂しい思いをする未来を『やめろ』と言うなら——」


蒼い炎が、天を衝く。


「——最初から、その未来を選ぶな!!」


拳が振り抜かれた。


孤独な夕食の断片が、音を立てて砕け散る。


すべての未来の欠片が消え去った後、リビングにはしんと静寂が満ちた。


テーブルの上。


離婚届だけが、無傷で置かれていた。


けれど、女の目は、その書類を見ていなかった。


彼女は、床に両手をついて、泣いていた。


「ごめんなさい……」


嗚咽が漏れる。


「ごめんなさい……私、私……ただ、悔しくて……」


キャプテン・スマッシュの装甲が、光の粒となって剥がれ落ちる。


そこに現れたのは、ただの疲れた中年男——コウタの姿だった。


「……俺だって、悔しいよ」


コウタは、ソファにどさりと座り込んだ。


「十年連れ添った女に『もうやっていけない』って言われて、平気なわけないだろ」


女が顔を上げる。


目が合う。


「でもな、それ以上に、息子が苦しむ未来の方が、一万倍悔しい」


コウタはテーブルの上の離婚届を手に取った。


「だから、これは——」


ビリッ。


一枚、破った。


ビリッ。ビリッ。ビリッ。


細かく裂かれた紙片が、宙を舞う。


「また出せばいい。お前がそれでもどうしても、って言うなら、その時は法的にきっちりやる。弁護士立てて、公正証書作って、養育費も面会権もガチガチに固めてな」


紙吹雪が、ひらひらと床に落ちる。


「でも、感情的になって、見境なく相手を傷つけて、子供を不幸にする——そんな離婚の仕方は、俺が絶対に認めない」


コウタは女を見た。


「それは、理不尽だ」


涙が、女の頬を伝う。


「……あんたって、ほんと……そういう人だったね」


彼女は震える声で言った。


「いつもそう。正しいことしか言わない。正しいことしかしない。だから私は——」


「だからお前は、それに苛立ってたんだろ」


コウタは苦笑した。


「わかってる。俺は不器用で、思いやりに欠けてて、家庭より仕事優先で。お前の寂しさに気づかないダメな夫だった」


「……自分で言うんだ」


「事実だからな」


沈黙。


やがて、女がぽつりと呟いた。


「……離婚届、もう一枚、引き出しにある」


「知ってる」


「……なんで知ってんの」


「昨日、お前が補充してるの見た」


「…………」


女が、ふいに噴き出した。


「あんた、ほんと……そういうとこ」


泣き笑いの顔で、彼女はコウタを睨んだ。


「——いやな奴」


「だろうな」


コウタは立ち上がり、キッチンへ向かった。


「コーヒー飲むか」


「……砂糖、多めで」


·


その夜。


リビングのソファで、コウタと息子が並んでゲームをしていた。


「お父さん、またキャプテン・スマッシュで遊ぶの?」


「ああ」


「今日、会社で疲れたんじゃないの?」


「疲れてるからやるんだ」


画面の中のヒーローが、蒼い拳を振りかざす。


「お父さんさあ」


「ん」


「キャプテン・スマッシュってさ、何と戦ってるの?」


コウタは一瞬、指を止めた。


「……理不尽と戦ってる」


「りふじん?」


「そう。理不尽。理屈が通じない、どうしようもない壁みたいなやつ」


「ふうん」


息子はコントローラーを握りながら、考え込むような顔をした。


「お父さんは、その理不尽と戦うの、嫌じゃない?」


「嫌だよ」


即答だった。


「すごく嫌だ。勝てる気もしないし、疲れるし、報われないことの方が多い」


「じゃあ、なんでやるの?」


コウタは画面を見つめた。


キャプテン・スマッシュが、今日も正義の拳を振りかざす。


「——誰かがやらなきゃいけないから」


「え?」


「理不尽ってやつは、誰かが立ち向かわない限り、ずっとそこに居座り続ける。だから、俺みたいな不器用で馬鹿な大人が、時々は立ち上がらないといけないんだ」


息子はしばらく黙っていた。


やがて、ぽつりと言った。


「……お父さんは、かっこいいね」


コウタは、息子の頭をくしゃっと撫でた。


「お前こそ、かっこよくなるんだぞ」


「え、僕?」


「ああ。お前が大きくなったら、今度はお前が誰かの理不尽を粉砕してやるんだ」


息子は、きょとんとした顔で——それから、はにかむように笑った。


「うん、わかった」


その笑顔を見て、コウタは思う。


(今日、あの未来を粉砕してよかった)


テレビのキャプテン・スマッシュが、今日も勝ったか負けたかわからない戦いを続けている。


コウタはゆっくりとコントローラーを置いた。


「今日はここまでにしよう」


「えー、もっとやりたい!」


「明日、またな」


「約束だよ!」


息子がコントローラーをしまいに行く。


その背中を見送りながら、コウタはテレビの電源を切った。


画面が暗転する直前。


キャプテン・スマッシュが、一瞬だけ、こちらを見た気がした。


蒼い光が、悪戯っぽく瞬く。


「——またな」


コウタは、声に出さずに呟いた。



システムボイスが、どこかで満足げに囁く。


「Target: Annihilated.(対象、殲滅完了)」


「Mission: Accomplished.(任務、達成)」


窓の外では、満天の星空が広がっていた。


静まり返ったリビング。

テレビ画面の主電源が落ち、漆黒の静寂が部屋を包み込む。

先ほどまでそこにあった蒼い閃光も、空間を引き裂く咆哮も、今はもうどこにもない。


「……お父さん、寝るね。おやすみ」


息子が自分の部屋へと続く廊下へ消えていく。

パタパタという軽い足音が遠ざかり、ドアが閉まる音がした。

コウタはソファに深く沈み込み、天井を見上げた。

視界の端、ゴミ箱の中には、細かく裂かれた離婚届の残骸が、雪のように積もっている。

それは、かつて彼らを飲み込もうとした「絶望の未来」の抜け殻だった。


「……ふぅ」


長く、重い溜息がこぼれる。

キッチンからは、妻が明日の朝食の準備をする、規則正しい音が聞こえてくる。

カツカツとまな板を叩く音。

冷蔵庫が閉まる音。

そこには、かつての「冷え切った沈黙」とは違う、どこかぎこちない、けれど確かな生活の脈動があった。

彼女が何を思い、何に納得したのかはわからない。

けれど、あの蒼い光の中で見た「地獄」を、彼女もまた共有したのだ。

「正義」は、すべてを解決してはくれない。

明日になればまた、些細なことで言い合い、互いに背を向ける夜が来るかもしれない。

ローンの支払いは続くし、仕事のストレスが消えるわけでもない。

けれど、少なくとも。


「……未来は、まだ白紙だ」


コウタは自分の拳を見つめた。

英雄の装甲はもうない。

銀河を焼く炎も宿っていない。

けれど、その拳には、大切なものを守り抜いた確かな熱量だけが残っていた。

ふと、真っ暗なテレビ画面に、月明かりに照らされた自分の顔が映る。

その背後。

画面の奥、深い闇の向こう側で、蒼い光が一瞬だけ、名残惜しそうに揺らめいた。


「Target: Daily Life.(対象、日常)」


幻聴のようなシステムボイスが、優しく脳内に響く。

コウタは小さく微笑み、リモコンをテーブルの定位置に戻した。

理不尽は、いつだってそこら中に転がっている。

けれど、それを粉砕する意志がある限り、世界はまだ、壊れずに回っていける。


「おやすみ、スマッシュ」


コウタは立ち上がり、リビングの明かりを消した。

暗闇の中、家族の寝息だけが、静かに、そして力強く部屋を満たしていた。


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