086話 聖女ジャンヌ
帝国最大の穀倉地帯は、季節を問わず金色の大地が広がる街である。
四方を穏やかな丘陵に囲まれ、無数の小川が街中を流れている。
風は柔らかく、陽光はあたたかく、空にはいつも白い鳥たちが輪を描く。
人々は皆、土に感謝し、収穫を祈り、そして慈しみを分け合って生きていた。
街の中心にそびえるのは、《慈愛の神殿》
その白亜の尖塔は雲を突き、金色の鐘楼からは、昼夜を問わず祈りの音が響いている。
──しかし、今その空を裂くように飛ぶ影があった。
漆黒の翼を広げ、風を裂きながら舞うのは一体の魔竜。
その背には、修道院の母マザー・エレーネが、深紅の外套をたなびかせて座っていた。
「……まもなく見えてくるぞ、あれが“豊穣の街”じゃ」
魔竜の背で低く唸るのは、元人間の剣士シノ。
今は魔竜の姿へと変じているが、その瞳の奥には確かな理性が宿っていた。
「……本当に、あそこに“聖女ジャンヌ”がおるのかや?」
「はい。わたしたちが呼ばねばならない、“最後の光”です」
マザーの声は穏やかだったが、どこか悲しみを孕んでいた。
王都を包み始めた呪詛の気配——それは、人間たちの“信仰”すら侵食し始めていたからだ。
慈愛の神殿の敷地内。
陽光に照らされた一角に、小さな畑があった。
その畑の真ん中で、ひとりの少女が土に手を埋めていた。
透き通るような白い肌。金糸の髪。
風が吹くたび、髪が光を弾き、周囲に淡い輝きが散る。
少女の名は——ジャンヌ・セイン。
帝国が誇る“慈愛の聖女”にして、奇跡の代弁者。
だが、その姿はあまりにのどかで、威厳とは程遠かった。
「ご機嫌よう、アンソニー。調子はいかがですか?」
ジャンヌは、目の前のサツマイモの蔓にそっと手を触れた。
すると——
「やあ、ジャンヌ。今日の僕はスイートポテトにするのがいいと思うよ」
自ら声色を変え、作物の“返事”を演じ始めた。
「まあ、それは楽しみね。他の子たちも元気に育ってくれて、ありがとう」
「ジャンヌが愛情を込めてくれるおかげさ」
——完璧な一人芝居だった。
神官たちは、聖女が農園にいる間は誰一人近づこうとはしない。
聖女が“何かと会話している”時間は、神聖にして不可侵とされているのだ。
その静寂を破ったのは、低く響く地鳴りのような足音だった。
シノの魔竜の姿が、神殿の庭園に降り立つ。
「……マザーよ。ほんとにここで合っとるんかの」
「ええ、間違いございません。あれが——聖女ジャンヌ様です」
竜人の姿に戻ったシノは、半信半疑でその少女を見つめた。
どう見ても、世界の命運を握る存在には見えない。
しかも、一人芝居を演じる彼女を目にしてしまったシノは、尚更声をかけるのが躊躇われた。
「取り込み中のところ悪いんじゃがの……」
躊躇いを振り切り、聖女に声をかける。
「ひゃああぁっ!?」
ジャンヌが悲鳴を上げた。
顔を真っ赤にして、くるりと振り返る。
「い、いつから聞いていたんですかっ!?」
「ご機嫌よう、アンソニー……のところから、じゃの」
しれっと答えるシノ。
竜の聴覚は人間の何倍も優れている。
「さ、最初から……!? ち、違うんです! 今のは決して、わたくしに友達がいないからとか……そういうのじゃないんですぅぅぅ!!」
両手で顔を覆ってうずくまる聖女。
後ろでマザーが苦笑を漏らす。
「まあまあ、聖女様。昔からお変わりありませんね」
「マ、マザー・エレーネ!?」
ようやく顔を上げたジャンヌは、突然現れた予期せぬ訪問者に目を見開く。
神殿の応接室。
ジャンヌは紅茶を差し出しながら、まだ頬を赤らめていた。
「まさか、マザーがここに……! いったい、どうされたのですか?」
「王都が……“呪詛”に呑まれようとしております」
マザーの声に、室内の空気が一変した。
「王都が……!? それは、一体……」
ジャンヌの手が震える。
その瞳の中に映るのは、まだ信じたくないという迷いだった。
「お主の“聖歌”が必要なんじゃ。王都を癒やせるのは、そなたしかおらぬ」
「わたくしが……?」
ジャンヌは唇を噛み、目を伏せた。
その姿に、シノが低く笑う。
「……聞いてたより、随分と普通の嬢ちゃんじゃの」
「な、なんですって!?」
「聖女というのは、もうちょっとこう……神々しいもんかと思うとったんじゃが……」
「な、なんて無礼な……!? あ、あなたこそ、誰なんですか!」
ぷんすか怒る聖女。
「こう見えて、この方は竜人族の姫にございます」
「こう見えて……は余計じゃ」
シノはふて腐れたようにそっぽを向く。
「竜人族の……!?」
ジャンヌは先ほどとは打って変わって、目をキラキラと輝かせながらシノを見つめる。
マザーはそんな二人のやり取りに、小さくため息を漏らした。
「聖女様。王都では、すでに多くの人が“命”を奪われています。あなたの祈りが届けば、まだ間に合うかもしれません」
「……!」
その瞬間、ジャンヌの瞳が真剣な光を帯びた。
事情を知った聖女は、事態の重さに青ざめながらも、一刻も早く王都に向かうことを決意する。
「……わかりました。行きましょう、マザー」
「本当に、よろしいのですか?」
「聖女の名は、民を守るためにあるのでしょう? わたくしの農園は、また帰ってきたときに話しかければいいだけですもの」
そう言って微笑むジャンヌ。
その笑みは、どこまでも穏やかで——しかし、芯の強さがあった。
彼女の周囲に、淡い金の光が漂い始める。
風がやさしく渦を巻き、草木が一斉にその方向へと頭を垂れた。
「やはり……あなたは本物の“聖女”なのですね」
マザーの呟きに、シノも口元を歪める。
「見直したの。どうやら、おぬしに賭けてみる価値はありそうじゃ」
シノの瞳が細められ、低い唸りを上げる。
彼女の背から、漆黒の魔力が立ち上り、瞬く間に竜の姿へと変わる。
神殿の鐘が鳴り響く。
空は金色に染まり、豊穣の街の人々が手を振る。
「聖女様! どうかご無事で!」
「ジャンヌ様、祈りをお忘れなく!」
ジャンヌは振り返り、微笑んだ。
「大丈夫。みんなの笑顔が、わたくしの力ですから」
その瞬間、風が舞い上がり、光が溢れる。
魔竜シノの背に乗った聖女とマザーが、空へと舞い上がった。
大地が見下ろせるほどの高さ。
広がる黄金の畑が、まるで祈りのように揺れていた。
「まいりましょうーー王都へ!」
ジャンヌの声に呼応するように、風が鳴る。
その風に乗って、聖なる旋律が流れ始めた。
——それは、のちに「王都を救った大聖歌」と呼ばれることになる、
ジャンヌ・セインの“祈り”の始まりであった。
次回タイトル:087話 聖女の祈歌




