127話 最果てへの決意――怠惰の神器を求めて
王都――。
それは、かつて「奇病」と呼ばれた呪詛に覆われ、死すら慈悲と錯覚させるほどの絶望に沈んだ都だった。
しかし今、空気は確かに変わりつつあった。
街路を満たす瘴気はほとんど消え、行き交う人々はまだ怯えの色を残しながらも、確かな希望の灯を胸に宿していた。
外壁に張り巡らされた「聖印の浄化層」は完全ではないが、以前のような崩壊の予兆はない。
まだ道端には治療院へ運び込まれる患者の列が見える。
それでも、かつての地獄に比べれば――誰の目にもわかるほど、王都はゆっくりと甦りはじめていた。
「……戻ってきたな」
アレフは聖浄の神殿から運び出したリシェルを抱えながら、大通りを見つめてつぶやいた。
その腕の中で眠るリシェルは、変貌から解き放たれたとはいえ、なお昏睡状態にあった。
災厄の魔女が残していった”神の呪いの残渣”と呼ばれる呪詛は、完全な回復を阻んでいるのだ。
「アレフお兄ちゃん。早く……治療院に行こう」
ライカが不安に揺れる瞳でアレフの袖を引いた。
「わかってる。急ごう」
アレフは頷き、仲間たちと王都北側の《白亜の治療院》へ踏み入る。
リシェルを預けた部屋は、外界の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
白い壁、薬草の匂い、魔法式の結界。
その中央、真新しいベッドに横たわる女性――黒髪の亡剣、リシェル。
「……本当に、大丈夫なんだよね?」
ライカはリシェルの頬に手を触れた。少しひんやりとしている。
「命に別状はありません。ですが、彼女が受けた呪詛は特殊です。あの状態から戻れたのは奇跡と言っていい。完全に意識が戻るには、時間が必要でしょう」
治療院の医師が目を伏せて言った。
アレフは深く息をつく。
(……災厄の魔女。絶対に、許さない)
彼の胸で眠る「暴食の魔剣グラトニー」が、主の怒りを感じてか、小さく震えた。
「リシェル……あんたがこの程度で終わるわけねぇよな」
アレフは握った拳をリシェルの枕元に置いた。
その横で、ライカが涙をこらえながら言った。
「ぼく……毎日来る。リシェルさんが寂しくないように」
アレフはライカの頭を撫でた。
「ああ。頼む」
「うん……!」
翌朝。
治療院に顔を出すと、すでにライカがリシェルのそばにいた。
彼女は魔導神書を膝の上に開き、療養魔法を淡く展開している。
「ライカ、無理すんなよ」
「してないよ。これは……ぼくが勝手にやりたいだけだから」
その言葉にアレフは小さく笑った。
そして同じ部屋の片隅では、シノが腕を組んでいた。
ジェームス、アスタロス、デュラ――三人は既に荷物をまとめている。
「アレフ様。我々はひと足先に、聖女ジャンヌ様のもとへ参ります」
ジェームスが礼儀正しく頭を下げる。
「アバンダスがまだ大変らしいからな。聖女だけじゃ手が回らない。俺たちで出来ることはやっとかねえと」
アスタロスが巨大な戦斧を肩に担ぎながら言う。
「首なしの騎士は、復興作業にも便利だからな……」
デュラが無表情に、手に持った自身の首を上下に振った。
どういう意図の頷きなのかは分からないが、真剣さだけは伝わる。
シノがアレフの肩に手を置く。
「アレフよ。こっちは任せて、お主はお主の道を進むがよい」
「……あぁ。気をつけてな」
竜姫が微笑むと、そのまま廊下へ。
続いて、仲間たちがおのおのの足取りで後を追う。
シノが振り返る。
「リシェルのことも、任せたのじゃ」
アレフは深く頷いた。
(仲間が、それぞれ自分の道を選んでる。俺も……立ち止まっている場合じゃない)
王城の地下、重厚な鉄扉を潜った先――
《禁書庫》。
ここに入るには厳格な手続きと認可が必要だが、アレフは“王都救援の英雄”として許可を得ていた。
「……今日も来たか」
番人の老人がアレフを見るたびに眉を上げる。
「はい。調べたいことがまだあります」
アレフとグリモワールは、呪われた神器の資料が集まる最深部へ向かった。
グリモワールは黒髪を揺らしながら、静かに隣を歩く。
「アレフ。貴方の目的は“怠惰の砂時計”なのね?」
「ああ。災厄の魔女を追うには、残りの神器が必要だ。あいつは“神の呪い”を完成させた。そして、俺に追ってこい……と。やつは魔界にいる……」
グリモワールは滑らかな指先で古文書をめくる。
「怠惰の砂時計――七つの大罪の中でも、もっとも異質で、もっとも行方が掴めない神器。
その所在が明らかになったのは、貴方が初めてでしょう」
アレフは目を細める。
ーー海の向こう、“最果ての地”
ーー孤島に広がる“迷いの森ユグドラシル”
ーーその奥にそびえる世界樹。
ーー“神域”
ーー“ヴァルハラ宮殿”
ページを閉じる音が、広い禁書庫に小さく響いた。
アレフは深く息を吐く。
「決まったな」
「ええ。行くのでしょう?」
「……ああ。最果ての地……Sランクダンジョンはそこにある」
決意が固まった瞬間、グリモワールの黒い瞳がわずかに揺れた。
(アレフ……貴方はまた危険な道を選ぶのね。そして――ライカは、貴方と共に行く)
それを声に出すことなく、彼女は静かに本を棚に戻した。
王都に戻って数日。
アレフは毎日、禁書庫と治療院を往復していた。
午後。
沈む陽を背に、病室の扉を開ける。
「……アレフお兄ちゃん!」
ライカが嬉しそうに手を振る。
その隣――ゆっくりとまぶたを開けている少女がいた。
「――リシェル!」
アレフは思わず駆け寄った。
リシェルはまだ弱々しいが、確かに意識を取り戻していた。
「……よぉ、少年。ずいぶんと世話になっちまったみてぇだな」
「俺は……借りを返しただけだ……!」
アレフの声は震えていた。
リシェルは苦笑しながら、アレフの額を軽く叩く。
「はは……泣くなよ。らしくねぇ」
「泣いてねぇよ!」
アレフは涙を必死に堪えていたが、誰も指摘しなかった。
ライカはうるんだ瞳でリシェルの手を握った。
「リシェルさん……よかった……!」
「おう、おチビ……じゃなかったな。嬢ちゃん、ありがとよ」
寝台に起き上がる気力もないはずなのに、リシェルはどこか強がって笑う。
アレフの青空色の瞳がまっすぐリシェルを見る。
「お前を救えて良かった……」
リシェルは一瞬だけ、泳ぐような目をした。それから――
「……ばぁか」
ぽつりとつぶやき、視線を逸らした。
ライカはその表情を見て、ふふっと笑った。
リシェルの回復を見届けた翌日。
アレフは治療院を出て、禁書庫で集めた情報を仲間たちに報告することになった。
部屋には、すでに全員が集まっていた。
そして、そこには聖女ジャンヌの姿もあった。
ジャンヌが杖を鳴らす。
「アレフさん。あなたが求める“怠惰の砂時計”について、確かに情報を確認しました。
あれは七つの大罪神器の中でも、神代の力にもっとも近ものです。
あなたは本当に行くつもりなのですか?」
「ああ、もちろんだ」
アレフは迷わず答えた。
「災厄の魔女が動いてる。止められるのは……俺たちだけだ」
ジェームスが腕を組む。
「最果ての地は、王国から最も遠い外洋の向こうでございます。また、そこに近づいた船の多くが消息を絶つという噂があります。
命の保証が出来ない場所へ向かうことになりますぞ」
「それでも行く。災厄をもたらす“呪い”の根源に近づけるなら、どんな危険でも構わない」
静寂。
それはアレフの覚悟を測るような沈黙でもあった。
ジェームスは深い溜息をつき、しかし誇らしげに言った。
「強くなりましたね、アレフ様。……この旅はアレフ様自身の選択であり、覚悟でございます」
アレフが頷くと、背後に立っていたグリモワールが微笑んだ。
「わたしも同行するわ。だって、ライカはきっとあなたに着いていくもの……」
仲間たちの視線が集まる中、アレフは堂々と言った。
「俺たちは一人じゃない。必ず……全員戻ってくる」
その後、
アレフは自分の部屋に戻り、ひとり荷物をまとめていた。
すると、静かに扉がノックされる。
「入っていいぞ」
扉の向こうから姿を現したのは、ジャンヌだった。
「アレフさん…その、明日……行ってしまわれるのですね?」
「ああ。でも……絶対に帰ってくる」
ジャンヌは小さく頷いたが、不安は拭えない。
「……わたくしも行けたらいいのに」
「ダメだ。ジャンヌは王都でリシェルのそばにいてくれ。お前の癒しの力は……あいつに必要だ」
ジャンヌは唇を噛んだ。
「……ええ。わかってます。でも……」
アレフを真っ直ぐ見つめる。
「絶対、帰ってきてくださいね。アレフさん」
アレフはその頭を優しく撫でた。
「帰るよ。約束する」
その短い会話に、ジャンヌは涙を落としながらも笑った。
翌朝――王都南門。
朝焼けが街を染める中、アレフたちは静かに歩き出した。
門の前には――リシェルが立っていた。
まだ完全ではないはずなのに、無理してここまで来たのだろう。
「……行くんだってな」
「ああ。行ってくる」
リシェルは表情を曇らせ、拳を握る。
「気をつけろよ。あの魔女……あたしが見た中で、一番ヤバい」
アレフは笑う。
「わかってる」
一歩近づき、彼女の肩に手を置いた。
「お前も無理すんなよ。……と言って聞くやつでもねぇか」
リシェルは反射的に目をそらす。
「……知った風なことを――」
しかし言葉の続きを言わず、そっとアレフの胸を拳で押した。
「……生きて帰れ。いいな?」
「ああ。必ずな」
リシェルの黒髪が朝風に揺れる。
アレフは振り返らず、歩き出した。
その背中に、リシェルがぽつりとつぶやく。
「……帰ってこいよ……少年」
ジェームスはそんなリシェルを見つめ、優しく微笑んだ。
「必ず戻りますよ。いまの彼には、待っていてくださる方々がたくさんおりますから……あなたもその一人では?」
リシェルは赤くなって吐き捨てる。
「うるせぇよ……」
次回タイトル:128話 貿易都市トレード――最果てへの出航前夜




