125話 災厄の魔女と堕ちゆく灰域の亡剣
長い黒髪。
死人のように青白い肌。
全身に刻まれた深い傷跡。
《灰域の亡剣》――リシェル・ヴァルン。
「リシェル!? なんでお前がここにいる?」
アレフが叫ぶと、リシェルは薄く笑い、血の滲んだ唇を動かした。
「……そりゃ……こっちのセリフだぜ、少年。ま……大体の予想はつくけどよ……」
冗談めかして言おうとしたが、その声には明らかな苦痛が滲んでいた。
彼女は自力で立つことさえできないほど傷ついていた。
それでも――アレフを見る目だけは、昔と同じ闘志に満ちていた。
「何があった……誰にやられた?」
「なんて言うか……ちょっとばかし厄介な依頼を王都に押し付けられちまってよ……。最終的にここにたどり着いたんだが、ドジ踏んでこのザマだ」
強がりの笑み。
だが動かせるはずのない腕を無理に動かして、アレフへ手を伸ばそうとしていた。
「ちょ、ちょっと……リシェルさん!? そんな動いたら――!」
ライカが駆け寄るが、アレフが制止し、一歩前に出る。
「待ってろ……今すぐそいつをぶっ倒して助けてやる」
その宣言に、リシェルはかすかに目を細めた。
アレフの視線が鋭く向けられたのは――
祭壇の横で静かに待っていた“大神官セレーネ”。
深い皺だらけの老人。
だが、その両目だけは冷たい琥珀色の光を放ち、まるで別の存在が覗いているようだった。
アレフが剣を構える。
「てめぇがやったのか……!」
怒りの殺気が神殿の空気を震わせる。
しかしセレーネは、無表情のまま小さく口角を上げた。
「――残念ですが、貴方たちの相手はわたくしではありませんよ」
「は?」
アレフの眉が跳ねる。
セレーネはゆっくり懐に手を入れ、一本の銀色の注射器を取り出した。
透明な容器の中には、不気味な黒紫の液体が揺れていた。
「気をつけて……あの液体から、とても嫌な気配がするわ」
グリモワールが低く呟く。
その声には、普段見せないほどの警戒が宿っていた。
セレーネは躊躇なくリシェルの首元へ針を押し当てる。
「やめろッ!!」
アレフの叫びも、すでに遅い。
――ズブッ。
鈍い音とともに針が刺さり、中身が強制的に体内へ送り込まれた。
「ぐ……あ……ぁあああ……っ!!」
リシェルの体が跳ね上がり、全身に青黒い血管が浮かび上がる。
ライカが息を呑み、シノが爪を立てて叫ぶ。
「アレフ、リシェルの様子が……!?」
「てめぇ、リシェルに何をしやがったっ……!」
アレフはセレーネへ飛びかかろうと地面を蹴った――が。
パチ、と指を鳴らしながら、セレーネはアレフの動きを見もせず背を向けた。
「さあ……始まりますよ」
リシェルの悲鳴が聖堂に響き渡る。
その肉体が、骨が、皮膚が――音を立てて変形していく。
「あ、あああァアアアアア!!」
腕が膨張し、骨が砕け、黒い鱗が浮かび上がる。
胸元に刻まれるように、黒紫の呪紋が広がっていく。
「リシェルさん……苦しそう、助けないと……!」
ライカが魔導神書に手を伸ばすが、ページは開かない。
グリモワールが淡々と告げた。
「無理です。呪詛の侵食が速すぎます。魔法では止められない」
「そんな……!?」
ライカが泣き叫ぶ。
アレフは歯を食いしばり、リシェルへ近付こうと足を踏み出した。
しかし彼女の体から溢れ出した黒い呪力が、まるで触手のように周囲を薙ぎ払い、アレフたちを押し戻す。
「少年……いますぐ……にげ……ろ……」
変形途中の顔で、リシェルはかろうじて言葉を発した。
その瞳にはまだ理性が残っている――それが余計に痛々しい。
「バカ言うな……お前を置いて逃げられるかよ!」
アレフの叫びに、リシェルは苦痛に耐えながら――
それでも、かすかに笑んだ。
「……やっぱ……お前……バカ……だな」
そのとき――
「ククク。この姿も、もはや不要ですね」
セレーネの肉体が、ふっと歪んだ。
しわだらけの老人の皮膚がひび割れ、乾いた紙のように剥がれていく。
その下から現れたのは、全くの別人だった。
銀白の髪。
闇を思わせるような黒い肌。
そして、冷たい深紅の瞳。
全身から、凍てつくような呪力が溢れ出す。
「お前……誰だ?」
アレフが呆然と呟く。
女はたゆたう衣をまといながら、楽しげに微笑んだ。
「私は――あなたたちが“災厄の魔女”と呼ぶ者」
それは、アレフがずっと追い続けてきた“因縁の相手”の名だった。
「お前が……災厄の魔女!?」
予期せぬ形で唐突に出会った仇敵を前に、アレフの心臓が早鐘を打つ。
「セレーネは……私が用意したただの皮にすぎませんよ。
聖浄の神殿も、研究も、すべてはあの方……”黙示録“の計画のための箱庭にすぎない」
アレフの殺気が爆発する。
「てめぇ……!」
「怒らない怒らない。可愛い少年、そんなに睨まないで?」
災厄の魔女は軽く手を振ると――
変貌するリシェルの惨状を、愉悦そのものの瞳で見つめた。
「ふふ……すばらしい。
喜びなさい……“神の呪い”の一端を目にできるなんて、そうそう無いことよ」
「だまれッ!!!」
アレフの怒号が聖堂に響き渡る。
だが災厄の魔女は振り向かず、淡々と告げた。
「さあ、アレフ・カース。そろそろ――あなたの前に立ちはだかる“最初の門”が目覚めます」
リシェルの変形が加速し、もはや原型を留めなくなっていく。
そのとき、災厄の魔女はゆっくりと手を広げた。
「……私が憎い? なら、そいつを始末してから、私を追ってきなさい……アレフ・カース」
笑みを残したまま、紫の渦に沈むように――
災厄の魔女は消え去った。
「少年——もう、だめ……だ。
俺……じゃ……なくなる……ま……えに……」
最後に紡がれたリシェルの声は、人の声ではなかった。
背中が裂け、黒い剣状の骨が飛び出す。
腕は太く膨れあがり、鋭い黒刃が生える。
瞳は深淵のような漆黒へと変わった。
「う……あ……ああ……
アアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!!!」
狂気の咆哮が、神殿を揺らす。
アレフは、その叫びの意味を理解していた。
――“もう逃げろ”。
――“私を殺せ”。
理性を失う直前の、リシェルの願いだった。
アレフは剣を握り直し、低く呟いた。
「誰が、てめぇの言うことに従うか……お前には借りがあるんだ――」
青空色の瞳に、迷いはなかった。
「――この場できっちり返してやるよ!」
次回タイトル:126話 灰域の戦い




