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だが、まあ。慣れないことはするものではない。
足場に移ったことはいいけれど、その次の足場までは想定より距離があり。伸ばした足が宙を蹴った。
試行錯誤しているところを見られていたのか、追いかけようとしていたはずのリュヒテ様が私の足元で慌てているのが見えた。
リュヒテ様は今にも落ちそうな私を受け止めようとしてくれているのか、手を伸ばしているのが視界の端で見える。なぜだろう。リュヒテ様が待っているなら、怖くなかった。
「いきますよ!」
予告から間もなく、えいっと飛び出した。
私の視界からは国内最高を誇る時計台の頂上から飛び降りるような決死の覚悟だったのだが、リュヒテ様は倒れもせず、なんなく私を受け止めた。
ぎゅっと目を瞑っていたが、見上げてみればなんてことはない。持ち上げられれば手が届きそうなところまで降りてこられていたではないか。
「ありがとう、ございます」
「ッ……、飛び降りるやつがあるか! それに、足が」
「足は大丈夫よ」
どこまで時間が戻ったのか、私には刺し傷も額の傷も足の痛みもなくなっていた。
それに、なんとなく。リュヒテ様なら受け止めてくれると思っていたから。だから、怖くなんてなかった。
そんな根拠もないものの名前は知っている。信頼だとか、期待という名前だったように思う。
”鍵はかかってない”
ローマンの言葉の意味を探す時、心の空洞に合うピースを探すことに似ていた。
私は納得して少し笑ってしまったが、リュヒテ様は形の良い眉をぎゅっと寄せている。
その緊迫した内面が、私に触れる部分から、彼の心臓の音を通して伝わってきていた。
こんなに激しく動いて平気なのかと、心配と好奇心のままリュヒテ様の胸に手を当ててみれば、私を抱えていた腕が固く強張った。
「こんなに速く動いて平気なの……?」
「落ち着かせたいなら、無茶しないでくれ」
「リュヒテ様が逃げるからじゃない」
「逃げ……逃げてなんてない」
「わたしたちのところに来ず、逃げたでしょう。だからこうして追ってきたの」
少し言い合いのようになってしまっていたのに、リュヒテ様はふと何かを思い出したように、小さく笑った。
「あの日も、こうやって私のところに気まぐれに飛んできたな」
あの日とは、リュヒテ様と初めて会話した日のことだろう。
私も同じことを考えていた。今は二週間も追いかける時間はないのだけれど。
「……ローマンから、聞いたわ。何かわたくしに言うことがあるのではないの」
「ある」
リュヒテ様は迷ったように口を開いたり、閉じたりと忙しい。
そして諦めたように、溜息をついた。
先ほどまで目を刺すようだった西日も消え、夜が辺りを薄暗く染めていくから。リュヒテ様の表情が見えにくくなっていた。
「ありすぎて、正直なにから伝えるべきか。きっとマリエッテは私を責めたいだろうと」
「責めるとは、なぜ」
「当然だろう。私はローマンに全てを押し付けた。私はマリエッテから大切な存在を奪ったのだから」
ローマンとの間にどんなやりとりがあったかはわからないが、私が聞いたのはリュヒテ様と私はアントリューズ国の宝剣に貫かれたことで適性を失ったということだった。
適性がないとしても、ローマン自身が最善だと判断し受け入れても。責任感の強い彼は背負うのだろう。
「私に適性があれば、証を受け入れることができれば、マリエッテは私をローマンと同じように愛したか?」
リュヒテ様は小さく零した。
「愛してるんだ。愛しているなら手放した方が良いことはわかっている……だが、性懲りもなく手を伸ばしてしまうから、顔を合わせたら、もう離したくなくなるから」
「わたくし、リュヒテ様のこと好きみたい」
リュヒテ様の言葉を遮り、伝えてみたが。「は?」と言ったきり、固まってしまった。
ぽかりと薄く開いた口に、瞳が丸く見えるほど驚いている。翡翠の瞳の中に星が映っているのが見て取れた。
彼の中では私はローマンのそばにいることを選んだようになっているが、前提が違うので早めに訂正させてもらおう。
持ち上げられたままでは恰好がつかないので、ポンポンと肩を軽く叩いて合図を送るが降ろしてもらえそうにない。
「……ローマンは『もう気付いているんだろう』と言うのだけれど、でも全然ピンと来なくて」
しょうがないのでこのまま話すことにする。
「以前の私はリュヒテ様に依存していたの。苦しいほど好きで、泣きたいほど求めていた。……でも、あの頃の感情を今は持っていないことだけは、わかる」
「魔女の秘薬を飲んだから」
一つコクリと頷いた。
「でも、私が恋心だと思っていた感情を忘れても、リュヒテ様が寂しそうな顔をしていると放っておけなかった」
「……だめだ、都合よく解釈してしまうよ」
私を見上げる翡翠の瞳がきらきらと揺れるのはなぜだろう。私の涙が、そう見せているのだろうか。
「どうしても消えなかった」
重ねて言えば、リュヒテ様の腕の力が徐々に抜けてストンと足が地面についた。
未だ私にゆるく巻かれた手は、拒まれることを恐れるように震えているような気がする。
嘘ではないことが伝わるように、肩に乗せたままだった手でリュヒテ様の上着を掴む。私たちはそれほど近くにいた。向かい合っているリュヒテ様の喉がヒクリと動いたことがわかるほどに。
きっと以前の私がリュヒテ様を愛しいと想っていた気持ちは、苦しいばかりの感情ではない。
ただ顔を合わせて話して、同じものを見て感情を揺らしたり、笑ったり。同じ時間を過ごすだけで愛しいという気持ちが降り積もっていったのだと思う。
魔女の秘薬を飲んだことで忘れてしまった感情はあるけれど、リュヒテ様のことを信じている気持ちも、大事に思う気持ちも変わらなかった。
ゆるりと回っていた腕が徐々に力を増して、引き寄せられる。決して強引ではない、逃げられる程度の力だ。私はそれよりも早く、両手を伸ばしリュヒテ様の首に抱き着いた。
「今、わたくしたちの目の前には色々な選択肢があるのだけれど」
「……あるかな」
「ありますとも」
耳のそばで話されると、少しだけこそばゆい。声が直接身体に響くようで、不思議な感覚だ。
視野が狭くなって見えていなかったけれど、今までもこれからも、様々な選択肢がある。どれを選べば正解なのか、全てが思わしくない結果になることだってある。正しい選択なんてどこにもない。
「リュヒテ様。わたくしに、協力しませんか」
「協力?」
「わたくし、約束したの。一歩、進んだ道が正しかったと胸を張るって」
──『マリエッテとリュヒテが幸せになるところを見せてくれ』
ローマンはそう言った。未来のローマンも私を救おうとしてくれた。
ならば、私が進むべき道は一つだ。
ローマンも、エルシー様も。長く生きる人も、今を生きる人も。
手が届く全ての人が、安心して暮らす場所をつくるのだ。
「二人で、乗り越えて……共に成長していきましょう。以前よりは気にかけてあげられないかもしれないけれど、いい相棒にはなるわ」
「……十分だよ、隣にいてくれるだけで」
それだけで。
肩に伏せたリュヒテ様の髪が頬をくすぐる感覚が、どうしてもこそばゆい。
私たちの間にある温度差はいつ埋まるのかなんてわからないが、きっと降り積もる感情が、思い出が、二人の間を覆い隠して、埋めるのだろう。
そう期待している自分がいた。




