鏡の向こうで僕が笑う。
「なあ、裏野ドリームランド、行かね?」
そんなことを言ってきたのは、親友の悠太だった。蒸し暑い夏の日の放課後。教室の唯一の冷房装置である扇風機は止められ、窓は閉められてカーテンが開いているので、教室に残っている生徒はまばらだ。
「なんだよいきなり。てかそこ何?遊園地?」
「うん、まあそんな感じ。ちょっと気になる噂聞いてさ…。」
話を聞いてみると、なんと言ったらいいのか、そこには何かと良くない噂が流れているらしい。すでに廃園になっていて、もう人は誰も寄り付かないらしいんだが、噂というのはいつまでも未練がましく残るものだ。それでその噂を悠太が耳にして、興味津々ってわけだ。
「ほら、オマエそういうの強いだろ?一緒にいてくれたら心強いなって…。」
「…そういう所はさ、行かないほうがいいんだって。何度も言ってるだろ?」
「そ、そうだけど…。」
悠太は黙る。僕はそんな所に行く気は無かった。僕はなんというか、少しオカルトが好きで、都市伝説とか迷信とか、そういうのを調べるのが好きだったりする。だからなんとなく知ってるんだ。遊園地みたいな人が多く集まっていた所には自然と霊が集まりやすくなるって。
「そもそも、なんでそんな所に行きたいんだよ?悪霊とかうじゃうじゃいるかもしんないし、取り憑かれるとかいう話も聞くし。」
「だから行きたいんだよ…。」
「はァ?」
「分かってるだろ、俺は…もう一度会いたいんだよ。兄貴にさ。」
悠太の兄貴。それは僕も仲が良かったから知ってる。双子の兄で、悠人って名前だった。二年前に、交通事故で亡くなった人だ。
「霊が集まってるなら、兄貴もいるかもしれないだろ?」
「……。」
まあ、そういう話は聞かないわけじゃない。死んだ人の魂は死んだ場所や思い入れのある場所に留まることもあるけど、他の霊が集まる場所に引き寄せられることもあるって。
「…分かったよ。今回だけな。どんな結果になっても、次はないからな。」
「マジで?ありがと、マジ感謝!」
…………ってわけで。来た。来ましたよ。裏野なんたらーとかいう所に。はぁ、何でこんな目に合わないといけないんだ…。
「そんで?どこ見るのさ。」
「それは今決める。」
「おい…。」
悠太はとりあえず入り口に置いてあった案内図をとった。懐中電灯で照らしながら、どこに幽霊(悠人)がいるか考える。
「あ、ココとかいいんじゃね?」
悠太が指差した所は、ミラーハウス。えっと、これはやばいんじゃないか…?
「マジで行く気?正直、ここが一番行きたくないんだけど…。」
「でも、いそうじゃん?頼むよー。一回きりのチャンスだろ?悔い残したくないんだよ。」
「仕方ないな…。」
とりあえずそこに向かうことにした。なーんとなく嫌な予感がするが、チャチャっと終わらせて出てくればいいか。
ミラーハウスってのは、なんだか四角い建物だった。看板に書かれたMIRRORの二つ並んだRが片方だけ鏡文字になっている所に遊び心を感じる。
悠太はそこにズンズン入っていく。僕もそれを慌てて追った。中は窓もないらしく、月明かりさえ入らず真っ暗で、懐中電灯で照らして辺りを確認した。なんだかものすごい広い空間があってびっくりする。だが、それはどうやら鏡に映っているだけのようだ。このアトラクションはミラーハウスなんていうしゃれた名前が付いているが、要するに鏡の迷路だった。
懐中電灯で照らしても鏡のせいで光があちこちに反射するからまっすぐに照らせない。仕方なく、僕らは壁に手をついて探りながら歩くことにした。
先頭に悠太が立って、その後を僕がピッタリとくっつくようにして歩く。こんなところではぐれたら大変だ。
「あれ、行き止まりか?」
悠太が正面の鏡に手を当てる。そこには少し怯えた表情の悠太が映っていて、懐中電灯の光がもろに反射して眩しくなっていた。ここは外れのルートのようだ。仕方なく引き返すのだが、その時、僕は何かを見た気がした。
悠太が引き返すために振り返った時、もちろん持っていた懐中電灯も後ろを向くために反転することになるのだが、その時、鏡の向こう側に、人影が見えた気がしたんだ。一瞬のことだったから自信なんてないし、はっきり見えたわけじゃないけど、日本人の肌ってどちらかというと白っぽいから光が当たると浮き出て見えるし、目は全体が濡れてるから光を反射しやすい。こっちを見てる人影が、確かにいた気がするんだ。
もちろん、怖いからそんなことを悠太には言わない。もし言ったら、兄貴だって勘違いして暴走しそうだし、霊に気づいたってことを気付かれるのもやばいって聞いたことあるから。ここは知らんぷりだ。少なくとも悠太が気付くまでは。
あぁあぁ。だから嫌だったんだ。特に鏡なんて。昔から銅鏡が祭りに使われてたみたいに、鏡ってのは特別な力があるものだ。合わせ鏡は冥界に繋がるとか聞いたことあるし…そんなアイテムがこんなにたくさん並んでて、しかもその中を歩かなくちゃいけなくて、おまけにここは廃園になった遊園地とか、一体なんのイジメ?
とにかく、僕らは出口を目指す。でも一向にたどり着けない。もしかして本格的に迷った?さっき見た(と思う)人影のことも気になるし、早くここから出たいんだけど…。
とうとうどこにいけばいいのか分からなくなって、僕らは立ち止まってしまった。どうすりゃいいんだよ…。
その時、僕は後ろから視線を感じた。背筋がゾッとする。どうしようもなく怖かったけど、それでも僕は振り返らずにはいられなかった。
振り返った僕の目の前に、すぐそばに、僕がいた。
ゾッとした。ドキッとした。心臓が止まるかと思った。でもよく考えたら、それは鏡に映った僕だった。僕はホッとする。だけど次の瞬間、僕はやっぱり心臓が止まるんじゃないかと思った。
だって、僕は後ろを振り返ったんだぞ?歩いてきて立ち止まった僕の真後ろに鏡なんてあるはずないじゃないか。これじゃまるで…。
まるで…僕が鏡を抜けてきたみたいじゃないか。
僕はしばらく呆然としていた。そしたら、鏡の向こうの僕が急に笑ったような気がした。口元を歪ませて、ニイッと。
僕は急いで悠太を振り返ってその肩を叩いた。
「おい、もう嫌だよ、帰ろうぜ?早く出口見つけないと…!」
見つけないとどうなるのか、それは僕には分からなかった。とにかく怖かった。でも悠太は落ち着いていて、正面を指差して言ったんだ。
「なあ、アレ…。」
呆然としたような声で指差した鏡の先には、また人影が見えた。今度ははっきり。表情や服の模様まで分かるほど。
「兄貴だ…。」
僕もそう思った。あまりに似てたから。でも、僕はついさっき見たばかりの『僕』のことを思い出す。アレは、悠太のそれなんじゃないだろうか。
「な、何言ってんだよ。あんなの、鏡に映ってるだけだろ…?」
「でもさ…ほら。懐中電灯、持ってないだろ?」
気付いてた。気付いてたさ。そんなことくらい。表情が違うってことも、姿勢が違うってことも、あんな遠くに見えるわけないってことも分かってる!でもこれは…このままじゃまずいんだって!
「なあ、これ以上はやばいって!」
そう僕が叫んだのと、悠太が走り出すのが同時だった。懐中電灯は一つしかない。それを悠太が持っているから、僕は真っ暗な中に取り残されてしまう。そんなのはごめんだ。僕は仕方なく悠太の後を追いかけた。なのに。
僕は何かにぶつかって進めなかった。鏡だ。なんで?悠太は確かにここを走って行ったのに…。
悠太が行ってしまって、僕の周りは真っ暗になってしまった。僕は怖くなって、目を閉じてしゃがみこんだ。
ツツー、パッ、…みたいな音がして、まぶたの裏が明るくなった。蛍光灯の明かりがついたんだ。ありえない。ここはもう電気なんて通っていないはずなのに。ゆっくりと目を開ける。まず床が見えた。そこから少しずつ視線を上げていく。正面にはやっぱり、鏡があった。
鏡の向こうに『僕』がいる。僕はしゃがんでいるのに、『僕』は立ち上がっていて、それで、ニヤリと笑ったんだ。
僕はもう怖くて立ち上がれなくて、尻餅ついて後ろにズルズル下がることしかできなかった。背中が何かに当たる。どうせ鏡だ。くそっ、なんでだよ!なんで閉じ込められてんだよ!
横に逃げようと思った。僕はなんとか首だけ右に向けた。だけど、今度は不意に手首を掴まれて、後ろに引っ張られた。
「うわあぁっ!?」
僕は悲鳴を上げてそのまま鏡の中に引きずり込まれた。思わず振り返ると、そこには『僕』がいる。コイツ、鏡の中ならどこにでも現れるのかよっ?
しかも、掴む力がめちゃくちゃ強い。血が止まりそうなほど強くて、どんなにもがいても解けそうにない。
どれだけ引っ張られただろう。『僕』は急に僕の手を離した。僕は床に投げ出されて、それから慌てて見ると、『僕』は僕がさっきまでいた場所に走って向かっていた。そこだけ蛍光灯がついていて、スポットライトで照らされているみたいになってた。
僕はとっさに『僕』の足首にしがみついた。一瞬、すり抜けちゃうんじゃないかと思ったけど、思ったよりしっかりした感覚があった。
『僕』を向こうに行かせちゃいけない。なんでかは分からないけど、そんな気がする。でも、どうすりゃいいんだ?
突然足首を掴まれて、僕は掴んだ手を離しそうになった。僕はビクビクしながら、ゆっくり振り返った。
「わっ!」
人がいた。何人も、何人も。数えきれないほどたくさん。そいつらが僕の足にすがりついているんだ。
帰りたい…
出してくれ…
助けて…
そんなうめき声みたいな声も聞こえた。こいつら、ひょっとして僕と同じようにここに来た人たち?『僕』らに入れ替わられたやつら?
もう訳が分からなかった。
「い、嫌だー!ふざけんなっ!帰せよっ!勝手に入れ替わんなよぉっ!」
全身が震えてた。ああ、ダメだ。震えのせいで力が入らなくなって…。
バン!っていう大きな音が聞こえた。そしたら、蛍光灯の明かりが消えて、手で掴んでたものも、足を掴まれてたものも無くなった。おそるおそる顔を上げると、目の前に誰かいるのが分かった。でも『僕』じゃない。
「ゆ、悠太…?」
声が震えてたし、涙が止まらなかった。悠太は無言で僕の手を掴んで立たせると、そのまま僕を引いて走り出した。
「あ、おい。ちょっ!」
僕の声を聞かないで悠太は走った。あちこち曲がって、もうどこがどこだか分からない。真っ暗な通路に何度も体をぶつけながら僕らは走った。
目の前に、ぼんやり明るいものが見えた。出口だ。やった!出られたんだ!
外に出ると、僕はヘナヘナとその場に座り込んだ。外に出た。外に出られた。帰れるんだ…。
「悠太…。」
ありがとう、と言おうとして、僕は言葉を詰まらせた。出口に立ったままの悠太が、違う人だってことに気づいたから。
「悠人…?」
間違いない。悠太にそっくりだけど、彼は悠人だった。悠人はほとんど表情なんか変えなかったし、やっぱり一言も喋らなかった。
しばらく呆然としてると、突然出口から大量の手首が出てきた。
出してくれぇ…
助けてくれぇ…
誰か…
手首はあっという間に悠人をがんじがらめにして、暗闇の中に引っ張り込んでしまった。
「ゆ、悠人?悠人ぉ!」
僕は叫んだけど、暗闇はもう何も答えなかった。かといって追いかける勇気も、僕には無かった。
「んん…おい、どうしたんだ?」
そんな声がして、振り返る。悠太がいた。
「ゆ、悠太…。」
「俺たち、どうなったんだ?確か兄貴を見つけて、追いかけて…。それから?」
どうやら何も覚えていないらしい。悠太は鏡に襲われたわけではなかったのだろう。
「悠人が…助けてくれたんだ。」
「へっ?お前、兄貴に会ったのか?」
僕はもう一度出口の暗闇を見た。この闇に、悠人は捕まってしまったんだ…。
「もう、ここに来ちゃいけない…。」
「何なんだよ一体?なんか見たのかよ?」
「帰り道で話してやるから、とにかくもう出ようぜ。」
僕は悠太の手を掴んで立たせると、まっすぐ出口に向かった。取ってきた案内図は入り口に戻しておいた。
帰るまでの間、体の震えは止まらなかった。鏡の向こうで笑う『僕』の顔が、いつまでも頭から離れなかった。