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季節、名を待つ  作者: こうあま
9/16

浅春

 先生が帰ってきて、僕は先生との生活を無事に取り戻した。

 けれどそんな生活をともすれば置いていきそうなくらい、季節の変化は急激だ。底冷えする日々はあっという間に去って、春の気配をいっぱいに湛えた風があわただしく吹き荒れるようになった。

 冷えた空気を吹き飛ばしていく荒々しい春風に翻弄されて先生は、いつかの宣言通りにせっせと寝込むことになった。「春はひどい」という言葉に偽りはなかったことを、僕は日々実感した。

 秋の終わりに臥していたのとは、わけがちがった。

 先生はほとんど日がな一日寝台の中で唸って渋面を浮かべている。その気力さえ尽きてはまどろむように眠り、その最中でも表情が安らぐことがない。下手に頭を動かすと首の骨が折れるのかと僕に想像させるくらい、ろくに頭の向きを変えられない。僕の言葉に答えるような余裕はないどころか、僕の存在自体認知できないような状態であるように見えた。

 それでも先生は、頭痛は「調子の悪さ」の副次的なものに過ぎないと捉えているらしかった。ものを語れる程度に調子が良いときに先生は、何が不調の本質かを吐き出していた。

「こういう頃は、ひたすらにやるせないんだ」

 先生の視線は焦点をどこかに決めるのも煩わしいと言わんばかり、ぼんやりと彼岸を見つめている。

「閉塞感に、殺されそうだ。涙や言葉で輩出できるものはごく僅か。コップの水があふれるように許容量を超えたものが流れるだけで、常に満杯で、抜けない。流れ出た水さえ、それが何も変えない、何かに資することがない、そう思うことがいやで、思い通りにならないことの多さを思い知って、受け入れられず、生きることの難しさをうまく眠れない夜ごとに知る」

 僕はその毒々しさが増した言葉を確かに聞いたけれど、先生が僕に宛てたかはやはり知らない。それにどれだけ吐き出したとしても結局先生の体内にはどろどろと残っているのではないかと思う。そういう密度と、張り付くような粘度は、僕の喉をも詰まらせるような心地がした。



 半月ほどを経るとそんな不調がようやく落ち着いて、先生と僕は今度こそ、同じ机で向かい合う日常を取り戻した。

「世話をかけたね。昔よりだいぶ回復が早くなったんだ、これでも」

「先生、ほんとうに大丈夫なの」

 ほとんど飲まず食わずだったせいで、先生の頬がこけている。薄い皮膚は荒れて、目の下には隈ができていた。頭痛だって奇麗に消えたわけでなく、微細な痛みがずっと残っているらしかった。

「病み上がりはこんなものだよ、これから元に戻る」

「……でも僕、何もしてない。仕方ないのかもしれないけど……ほんとうはどうすれば良かったの? 先生がこんなに調子が悪くなるなんて、思ってなかった」

 先生は困ったような笑みを浮かべた。

「僕は、きみの対応は適切だったと思っているけど。手紙も返してくれたみたいだし」

 先生が今手元に遊ばせているのは、デイさんから来た新しい手紙だ。

 先生が伏している間に僕が唯一先生のためにやったらしきことは、デイさんから届いた手紙を送り返したことだった。何が書いてあったかはもちろん読めなかったけれど、ベッドで目を回しているひとの絵を描いて送り返したのだった。

「おかげでデイさん、無駄足にならずに済んだようだよ」

 僕が返送した手紙には、来訪する予定が書いていたらしい。新しい手紙には見舞いの言葉と、改めて設定した日程がつづられているようだ。

「何もできないと思わせたかな」

 僕が不服な表情を浮かべていたのか、先生は付け加えた。僕は頷く。

 先生の体にあっという間に回ってしまいそうな毒。冬のあの日には、そばにいれば少しは救われると思っていたけれど、春の圧倒的な風が考えを改めさせた。

「だってそんなの……本心なの? あんなに苦しそうだったのに。それでいいなんて」

 春は先生の頭蓋を破るが如くやってくる、そうでなくては生まれられないかのような振る舞いで。先生は春を孕んで苦しむさなか、土か水の底に埋まってひたすら嵐が過ぎ去るのを耐え忍んでいるかのようだった。

 その孤独な挙措がどこか淡々としていたことが、悔しいのだ。

 先生は弱々しく苦笑した。

「……本当は、助けを求められればどれほど良いだろうとは思ってるよ。でもそれは現実的な思考ではない。誰も僕の感情も痛みも代われない、代わってほしいわけでもないし、それでもただうつしてしまうという恐れはある」

 先生の弱みよりも、僕の弱みに寄り添った笑みだった。

「絶望はうつる、希望がうつることとまったく同じことだ。だから何かこころを尽くされるより、よほどいい。少なくともきみに何かうつすという恐れを遠ざけていられる」

「そんなの……」何もできないどころか、慰めさせているだけだ。それに僕が先生に自分の無力を訴えずにいられないのは、先生の言う通り結局は「うつって」いるからなのだ。

「この言葉はきみへの慰めじゃない」先生は見透かしていた。「ひとに何も求められないことを諦めと呼べば、それはその通りだ。けれど諦めているのではなくて受け入れていると、僕は思っている。受け入れているからこそ……僕はこうして生き延びて日常を取り戻せるし、寝込んでいる間に感じることはまったくの絶望でもなかったと思う。これはまぎれもない本心だ」

「……言い返せないよ、そんなの。ずるい」

 僕は、先生と僕の間隙に互いに手を伸ばせない断絶があることを知った。秋の終わりに先生の孤独を見て、冬の初めにはそれを錯覚と遠ざけたあの時と同じように。先生に近づくほどに、その断絶の幅を測りなおす際に感じる苦しみはたぶん強くなる。

 僕の絶望はまだ拭い去られていないし、あの時と違って先生が嘘をつくことだって知っている。

 また歩み寄るときの安堵も同じだけ強くなることを祈りながら、僕は先生との距離にただひれ伏していた。そのあいだじゅう、受け入れる、という難しさが押し寄せていた。



 デイさんが改めて来訪した日、休憩の頃合いに僕が部屋を覗くと、ふたりは神妙に話し込んでいた。

「けっこう時間経ったから、お茶持ってきたんですけど……入っていいですか?」

 煮詰まった空気を割って入るのは、なんとなく気まずい。

「もちろん。ありがとう」

 先生がこちらに視線を向けて笑みを浮かべたけれど、一瞬だった。すぐ険しい表情で、デイさんに視線を戻す。

「なので先生。声を集めましょう、問題を提起して社会の関心を高めるんです」

「言ってることはわかるけれど、どうかな。変に刺激をしたら、研究さえ禁止になる可能性もあると思うけど」

 なんとなく熱のこもったデイさんの話しぶりに対して、先生はずいぶん冷ややかに応じている。

「何言ってるんですか! 実際、無視できない問題じゃないですか! 一番わかっているはずの先生がそんなことで、どうするんです」

「はいはい。そう言ってもね……僕の努力じゃどうにもならないよ。……まいったね、平行線か」

「もちろんです、譲りませんよ!」

 食ってかかりそうなデイさんにおっかなびっくり近づいて、傍らにお茶を置いた。

 先に置いた先生のお茶は、すでに手が付けられていた。ため息を流し込むために飲んでいるようにさえ見えたけれど。

「な……なに? 喧嘩?」

「まさか。議論ですよ」

「デイさん、子どもに妙な屁理屈を教えるのはやめてください」間髪入れず先生が苦言を呈する。

 あまり熱いものが得意ではないデイさんは、お茶をふうふう吹きながら続けた。

「研究費を工面しないといけないんですよ」

「研究費? お金が足りないの?」

「足りないというか、そもそも先生はここへ来てからは自腹を切ってたみたいなんですよ」

 僕の驚きの「えっ」と、先生のたしなめるような「デイさん」が重なった。

「先生、そうなの……?」

 先生の眉間のしわが深まった。「間違ってはいないけど、必要なかっただけだよ。それにそもそもさっきも言った通り、当分はたとえ補助金があっても、申請するつもりはない」

「そんなことばかり言って! 尽きてからでは遅いんですよ、それにあなたの研究は正当に評価されるべきことじゃないですか」

「聞き分けがなっていないのはきみのほうだと思うけどね……。さて、どうしようか」

 出ていくタイミングを逃した僕は、一方では絶好のタイミングであることに思い至った。

「先生、あの……」緊張で喉が鳴った。「先生の研究って、どんなのなんですか」

「え?」振り返って声を漏らす。ふたりともまったく同じ反応だった。その様子がどこかおかしくて、僕はわずかに緊張が和らぐ。

「い、いつでも訊いていいって言いましたよね?」

「言ったっけ。相変わらず記憶力良いね、きみ」

「先生、やっぱり結局何も話してないんですか!」

「デイさん、うるさいよ」

 先生はがしがし頭を掻いた。少しだらしないその動作は、とても新鮮に見えた。

「じゃあちょっと休戦かな。ほら、きみも座りなよ」

 先生は寝台を指さし、僕も頷いて従った。かつて僕専用だったはずの白い揺り椅子は、最近はデイさんと兼用で、今も使っているからだ。尤もデイさんは、揺れないようにいつも適当なものを足に噛ませて固定しているけれど。

 どこかふてたような調子を滲ませながら、先生は説明をはじめた。

「僕が研究しているのはね、ある植物の精製方法だ」

 精製っていうのは混じりものを取り除くことですよ、とデイさんが補足してくれた。

「その植物は、いろんな薬理作用……薬としての効果があってね。良い気持ちにさせたり、痛みの感覚を抑えたりすると明らかになっている。ほら、これだよ」

 先生は机の上から一枚の葉を掴んだ。細く分かれて八方に伸びるかたちをした、特に奇妙でもない青々とした葉だった。

「だけど適切な精製と摂取の方法をとらないと副作用が強く出る。こころにもからだにも強く影響して、身を壊しかねないんだ」

「だから精製方法の研究、をするの?」

「まあ、そうだね。ただこれ、その副作用を理由に本来は規制されてるんだよね」

 先生の言葉と、葉を弄ぶ手つきが釣り合っていない。僕はぎょっとした。

「だけど現実にはそこらじゅうに生えているし、質の悪い精製をしたものがいろんなところで使われている。特に……都市で過酷な生活をしている労働者には、蔓延していると聞く」

 唾棄するような声は、実際には侮蔑ではなく憂慮の響きをしていた。

 デイさんが首肯して、続きを引き取る。

「劣悪な環境にある労働者にとっては、今を生き抜くための薬になっているんです。取り締まりは実情として追いついていないし、必要悪と見逃されている部分もあるでしょう。それが無茶な使い方に拍車をかけているんですよ」

 デイさんの語り口も、似たような苦々しさを湛えていた。

「だから、簡素で良質な精製をする研究への需要があります。全面的な規制をするのは今のところ現実的ではないですから、安全な方法を生み出して、その方法以外での精製品は規制する、ということが目標です」

「う……難しい」

「つまりは、僕は違法なものの研究をしてるってことだよ」

「またそんな言い方をして! 何がつまりですかっ」

 先生のしれっとした物言いに、デイさんはすぐに異議を唱えた。どのみち僕は話についていけていなかった。

「先生、俺は何度でも言いますよ。あなたの研究には大きな意義がある、その価値を当のあなたが貶めてどうするんですか!」

「もうそれは聞き飽きたよ。それに堂々巡りだ、そこに戻るなら話は終わりだよ」

「だめです! インタビュー、先生が首を振るまで何度でも来ますよ」

 首を振っても来るでしょ、と先生は呆れたように突っ込みを入れていたが、とにかく僕が脱落している間に、結局話は気まずいところへ戻ってしまったようだった。

「そうだリタさん、説得を手伝ってくださいよ」

「デイさん」

 先生の荒い語気がすぐに飛んできて、正直怖かった。

「せ。説得ってなんですか……」

「俺はある本を企画してるんです。くだんの植物の常用者から話を聞いて、記録にまとめるんですよ。本というものは少なからず金になりますから、先生の名前で出せば資金になる。それに現状を改めて提起することで、しかるべきところに研究費を出せという社会的な圧力をかけることもできます」

 言っていることが全然わからないです、とは到底言えそうもなかった。

「えーっと……。それでインタビュー、なんですね」なんとなくわかった気がするところを返してお茶を濁す。

「デイさん。子どもを困らせるのはやめなよ」先生の声は終始低かった。

 デイさんは先生の低音を意に介す様子もなく、手元の時計を一瞥した。

「時間ですね、じゃあ今日は失礼します。俺は諦めませんからね!」

 てきぱき荷物をまとめて、前と同じように去っていく。見送った姿が消えた後で、先生は深々とため息をついた。

 ――先生は全然前と同じじゃない。

 不機嫌さが滲んだ態度や無遠慮な物言いは、僕がこれまでに見たことのないものばかりだった。

「先生。デイさんの言ってることって……むちゃくちゃなの?」

「むちゃくちゃっていうかね……」

 投げやりな声と、遠くを見るような視線も、慣れないものだ。

 物事を教えるのを疎むことなんて一度もなかった先生が、言葉を吐き出すことも億劫だと言わんばかり淀むとは。僕は内心おろおろした。

「彼の論理も筋は通るんだけど。前提というか立脚しているところがあまりに違うって感じかな……」

 くるりと踵を返しながらも、先生のまとう空気は気だるげなままだ。背中越し、呟きが聞こえた。

「……おとなの相手はめんどくさいよ」

 自室に消える先生の後姿を眺めながら、呟きというかボヤキってやつかな、と頭に浮かぶ。

 僕が先月デイさんから学んだ「まだまだ先生のことを知らない」という実感は、実際にデイさんと話す先生を見ていっそう強固になった。

 先生はたぶんこれまでに僕が思っていたよりもよほど、だらしなかったり、めんどくさがりだったり、人の扱いが適当だったりするのだろう。つまり僕は「僕に向き合う先生」という一面しか知らなかったし、その「先生」がいかにだらしない面もめんどくさがりの面も隠して丁寧に僕を扱っていたのか、ということをなんとなく感じた。

 僕は先生の嘘や不調に対する割り切れない心情を引きずっていたし、デイさんの提案もまだ果たせずにいたけれど、先生は墓参りから戻って以降も血肉とこころが実在する応答をしているし、先生との生活は思いのほか綻ぶこともなく続いている。こうして新たに先生のことを知る。

 歩み寄る安堵は結局目の前に確かにある。こんなにあっさりと戻ってきて押し寄せる。大事なことを誤魔化したままの安堵なんて胡散臭いはずのに、どうしようもなく嬉しさが込み上げて浮かされることが、とても浅はかに思えて苦しかった。

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