寒明
先生がいない一日の始まりに、僕は手紙を読む。
正しくは、読もうともしていない。暗号の羅列にしか見えない文面を目でなぞりながら、唱えるのだ。
「先生、調子はいかがですか」
おそらくは先生の名前であろう、末尾に添えられている短い暗号に向かって。
先生から手紙が届いたのは、先生が出て行き、デイさんの胸にすがってひたすら泣いて、結局は疲れ果ててそのまま眠ったあの日から、三日経った日のことだった。デイさんに代読してもらった内容には、大まかな行先と帰る時期のほか、お金の場所など僕が生活していくために必要なあれこれが綴られていたようだ。
デイさんは一通り読み終えて、深いため息をついた。
「困ったひとだ、半月も家を空けるなんて」
「半月……」
手紙を読むために僕の隣に来ていたデイさんは一度立ち上がり、客用の椅子に掛けなおす。デイさんが視界に斜向かいに映るのが、数日ですっかり馴染んだ。
「長く子どもをひとりで置いておくのも問題だけど、その間俺が一緒にいるのも本来なら問題ですよ。先生にとってはともかく、リタさんにとっては得体の知れないおとななんだから」
僕は目の前に残された手紙に、なんとなく視線を走らせる。
読めるわけがないのはいつものことなのに、いつもよりこころが沈む。
「それに俺の休暇につけこんで」
「あれ、デイさんおやすみなの?」
「本当は。もちろん、取り付けたからには仕事はしてますけどね」
泣きはらした目で起きた朝、デイさんは滞在することになった理由を教えてくれていた。「先生の研究に必要な資料なんかを手配するための準備をする仕事を、半ば脅すようにして先生から取り付けた」のだということだった。滞在のための口実を、逆に利用されて先生が留守にするとは思わなかった、と付け足していた。
「でも半月もかかりません、俺がリタさんを適切に保護するだろうと、あのひとはつけこんでいるんですよ。どうして変なところで信頼してくれるかな……」
そしてデイさんはまた深々とため息をついたのだった。
僕自身は読めないけれど、確かに僕に宛てた手紙だからと、デイさんはそれきり手紙を読み直すこともなく僕に渡した。だから一日の最初にはその手紙に向けて、いつも通りの挨拶を僕は言う。
文字が書けるひとはそこに自分の言葉を、思いを宿らせることができる。
たとえ読めなくても、ここには先生自身が宿っている。
呼びかけたって何も返ってこないとしても、言わずにいると何もかも失ったような気分が深まってしまう。僕は先生がいない間も、あまり生活を変えないことにした。買い物に行き、家の周辺を整えて、デイさんにお茶を入れて。そうすると先生がいない痛みを、ぼんやりと誤魔化せる。
「デイさん、お茶飲みますか?」
「お気遣いを。ちょうど一息つきたいところでした、ありがとう」
先生にいつも声をかけていた時間に言うと、デイさんは本棚を確認する手をすぐに止めて応じた。先生が作業をすぐに切り上げることはあまりなくて、部屋から出てくるのはたいてい僕がお茶を入れ終えた後だったけれど、デイさんはいつもすぐに終えて僕の動作や茶器をまじまじ見つめている。
「リタさん。俺が言うのも変ですが、不自由していませんか」
「え。どうしてですか」
「きみの仕事は先生ありきで行っていたんだから。生活があまりに違って、困っていませんか?」
困る、という曖昧な言葉になんと返すか窮したけれど、案じてくれていることには応えたかった。
「いなくてもできることは多いし……困りそうなことも先生の手紙に書いていたし」
買い物や掃除、その他もろもろのことも、もう随分と指示を待たずにやってはなんとなく報告をしていた。ほとんどはその繰り返しで、先生が特別に言いつける仕事というのは、あまり多くはなかったのだ。そもそも先生は自分が留守にしている間、ひとりで過ごせるような配慮はしたにせよ、特に仕事はしなくていいと書いていた。
ただ、デイさんのいう困るとは、たぶんそういう意味だけではないことを、僕も知っている。
「けど……結局先生がいないんじゃ……」
毎日動いて誤魔化していても、実はだんだん水気を失って乾いていく。以前は枝葉まで水が行き渡り、瑞々しかったはずの僕の心身は、そのうちひび割れて、千々に散らばるのではないかと思う。
僕を乾かす無慈悲で冷たい熱が何なのか、ふいに口を衝いて知る。
「デイさんや先生みたいに難しくて立派な仕事じゃなくていいけれど、ちゃんと先生の役に立っていると思ってたい。でもほんとうは、先生がいなくたってできて、誰でも同じことができて、いちいちありがとうって、認めてもらったりするようなことじゃないのかなって思ってくる。ドレイがする、ことで……」
「そう思いますか?」
「わからない」
先生は奴隷は時代遅れで不条理だと言った。奴隷を正当化するものはないと。先生が言うのであればそうだろうと思えたのは、それを絶えず言動に示す先生が、常にそばにいたからだ。僕自身は先生がなぜそう断じるのか、世の中が本当はどう断じているのかを、知らない。先生がそばにいないなら、途端に世界に暗い霧が立ち込めていることを思い出す。
「字が読めないならドレイだって、僕はそれしか知らない、それしか言われたことがなかった」
デイさんは少し唸ってから言った。
「俺の意見を言います。きみは、字が読めないという自分の属性が身分を作ると聞かされてきた。俺は、身分を作り出しているのはきみの外にあり、きみを取り巻いているものだと思います」
怪訝な表情を返すと、デイさんは言い換える。
「社会というやつです。昔から不条理な身分というのは当事者じゃない誰かの都合で作られて、適当な理由できみのようなひとに押し付ける。そういうものだったのではないかと、俺は思ってますよ」
「……どうして?」
僕の言葉が染み込んだデイさんは少しだけ時を止める。ゆっくりと吐き出された息は、僕に読み解けないものが滲んでいる。デイさんの知識や経験、思想がかたちなく込められて漂う、答えのかけらであるはずの吐息。
「さあ……それがうまく語れないから、俺は自分で本が書けないんでしょうね」
デイさんの瞳は、痛みとともに笑っている。
僕はしばらく思考に埋もれて、芳しい成果が得られないまま、ただひとつの思い付きを口にすることにだけ至った。
「あの、デイさん……。りんご、好きですか?」
デイさんはその面妖な言葉も、宥和な様子で受け止める。
「はい。それが何か」
「前に僕……風邪をひいて、先生が買い物に行くって言うから、先生が好きな果物を買ってほしいって言ったんです。けど先生は考えつかなかったよって、病人に良いだろうからって言って、りんごを買ってきて」
デイさんは興趣深い話を聞いているかのような態度で、相槌をひとつ挟んでくれた。
「僕は……単に先生が好きなものを、知りたかったんですけど。わからなかったけれど、もし次に先生が風邪をひいたときのために、りんごを切れるようになりたいなって思って。買ったのに先生が出て行っちゃって、食べそびれてたんです。お店のひとに切り方も教わったのに」
「……先生、加工していました?」
僕は思い出して少し笑ってしまった。
「一応ヘタはとってた。食べるの、たいへんだった」
デイさんも楽しそうに笑い声をあげた。
「ではそんな悲劇の再来を防ぐべく、ご相伴にあずかります」
そうして僕は乾きつつある指先で、りんごの切り方を習得した。
先生がいなくても先生の帰りを待ちながら、先生のためにできることを増やせる。それを示すように指先からしみ込んだ甘い果汁が潤いになるのか、一層僕を焦らして乾かしていくものになるのか、ひとつに見定めることはできない。
*
僕が何をしても、また何もしないとしても、先生が帰ると告げた日は着々と近づいてくる。その日が明日に迫った夜、デイさんは僕がお茶を入れている間ずっと僕のカップを凝視していた。そして僕が椅子に戻ったのを見計らったように口を動かす。
「リタさん。言うべきかずっと迷っていたけど……」
「はい?」
「先生、恋人がいたんだよ。……きみと同じ名前の」
衝撃は全身を穿った。宙に掲げたカップを落とさなかったのは、上出来だった。
一拍遅れて息を吐く。
「――え?」
「詳しいことは存じ上げないが、その方はもう亡くなっているらしい。俺は、先生が隠逸したことはそれと無関係であるとは思えないし……だから同じ名を持つきみがここにいるのも、たぶん偶然ではないだろうと思っている」
険しい表情は僕を責めるためのものではないとわかっていても、不安を掻き立てられる。
「で、でも。先生は一度も僕の名前を呼ばなかったし、自分の名前も言わなかった。僕が、あの時先生の名前を呼んじゃうまで……」
「そう……みたいだね」
デイさんは深いため息とともに思案する。
「まあ。先生がリタさんの名前を呼ばなかった理由、リタさんに名前を教えなかった理由も……どんなに足掻いても俺には解き明かせないでしょうね」
どこか超然とした調子だった。あとに続く声も、明るい。
「リタさん、問いただすといいと思うよ」
「ええっ、そんな」
「ひどいのは先生のほうだからね、きみにはそうする権利があるし……」何でもないことのような軽い声色のまま続ける。「それでもやはり、先生がきみをここに置いていることには意味があるはずだ」
リタさん。
デイさんが呼ぶ僕の名前は、少し痛みの混じった、だけど気丈な、頼もしい応援だ。
「同じ名前だろうが奴隷だろうが、ここにいるのはきみだ。きみが先生と過ごしてきたことは嘘にはできない。きみは、先生と家族のように過ごしてきたはずだ」
「……家族みたいに? ほんとうに?」
「そうでしょう。リタさんはそう思わないんですか」
思わず逃げたくなるような問いなのに、デイさんの言葉はまっすぐで温かい。
その温度に引き寄せられて、あっという間に過ぎ去った夏の強い陽射しを思い出す。本を読んでもらった秋を。家族のように、という言葉を。
思い出せば思い出すほど、答えは確かなものになった。
「ううん……デイさんの言う通りだよ」
その言葉は、すうと僕に染み込み、ずっとつっかえていたものを癒した。
「僕、大丈夫な気がしてきた」
「それは良かった」
相好を崩しても、先生のようにふにゃりと目尻が下がらない。デイさんの笑みは、頬の筋肉が隆起する力みたいなものが見えるかのようだ。
「きみがそう思うなら、俺も安心です。リタさん、きみ自身のことももちろん大切だけど……どうか先生を頼みます。きみが問いただすことが、きっと先生のためだ」
先生のことをいうデイさんの声はいっとう暖かく、そして痛みが増す。僕はそれを聞いて、痛みの正体がようやく少しわかった。
デイさんが先生の家族じゃない、ということだ。
「あの、デイさん……。デイさんは先生のこと、大切なんでしょ? デイさんは家族になれないの。僕に頼んで、それでいいの?」
言葉として表すことは難しかったけれど、デイさんは僕の言いたいことを正確につかんだようだった。
「さすが、先生と暮らしてきただけあって敏いひとですね」困ったように眉根を寄せて笑った。それにさえ、透徹とした活力がある。「いいんですよ。家族になりたいくらいだなんて言いましたが、俺は大の男です。こうして押し掛けて仕事をしているように、他の立ち位置がいくらでも行使できるんです。だけどきみは子どもだし、それに……」
デイさんは途切れた言葉の先を言わなかった。
「まあ。とにかく、十分なんですよ」
ごちそうさま、とデイさんがカップを置いた。
「明日、朝のうちに引き取ります。今度は資料を揃えて来ますから、先生によろしくお伝えください」
赤みがかった茶色い瞳の内側には、ひとを温める炎が燃えている。
「デイさん、ありがとう。僕に先生のこと教えてくれて。僕は先生のことをまだ全然知らないって、ちゃんとわかった」
炎に照らされて、いびつなかたちで見つめていたものが、本当はむしろ「ちゃんと」欠けていたことを知った。足元が揺らいでいた理由がわかるのは、確かに気持ちが和らぐことだった。
*
翌日の朝にデイさんは引き取り、昼過ぎにはまた玄関が開く音がした。
僕は慌てて音の発信源へ駆けた。
「先生っ!」
玄関の鍵をかけていた先生が振り向いて目が合う。
色付きグラス越しで、虚を突かれた丸い目をしているけれど、僕が知る通りの先生だ。少しひんやりとした手触りなのに心地よいぬくもりを与える温度があって、周りを何だか緩やかなものが漂う。すぐに言いたかったはずの言葉を、その感覚に浸って手放しかける。はっとして取り戻した。
「あっ先生、その、おかえりなさい」
「ああ……ただいま。どうしたの、忙しく出てきて」
確かに僕に向けた先生の声がしみ込んで、僕はようやく力が抜けるのを感じた。
「先生……」
言いたいはずの言葉は、枯れかけていた総身に流れていき、口から出てこない。
先生を見て僕は、わかっていたはずのことを、だけど改めて確信した。先生と一緒にいると、僕の中心から水が湧き、総身に行き渡る。このひとは僕の活力のよりどころで、源泉だ。
ぎこちない驚きを浮かべていた先生は、僕をしばらくまじまじと観察してから、同じように力を抜いたようだった。
「急に悪かったね。……墓参りに行っていたんだ」
たぶん、デイさんが言っていた「先生の恋人」のことだとなんとなくよぎるけれど、僕はそのことを口にしなかった。より言いたくて、伝えないといけないことがあるからだ。
「『弔う機会』……ちゃんとあって、よかった。ちゃんと帰ってきてくれて。よかった」
先生は優しい瞳で僕を見返した。
「きみには敵いそうにないね……。きみがそう言ってくれるなら、僕も帰ってきてよかったと思うよ」
荷物を置いてくるから、と先生は僕に背を向けて、部屋へ入っていく。
僕はいつも優しい先生の、なのに聞いたことがない柔らかさを湛えたその声色に、身動きが取れないほど驚いた。
驚きは波のように押し寄せて、嬉しさと混じり合う。
その波涛の表面に漂いながら僕は、本当はその背中を追いかけて抱きつきたい、という思いを遠い水の底に垣間見た。