木枯
寒さのかたちがどんどん明確になり、季節はあっという間に冬と呼ぶにふさわしくなった。
このあたりの冬は首都に比べれば暖かく、雪はめったに降らないという。寒々と森が静まるばかりだ。落葉して遮蔽物がなくなっても陽の力は弱く、森も力なく見えるようになった。
ただ先生の体調は、先生が言っていた通りに落ち着いた。寒くとも、毎日同じだからだという。
「それに冬はからだもこころも、緩んでいられないしね」
冷たい空気は身を刺激する。心地よいものではないけれど、その刺激はある面では役に立つ、と先生は言った。
先生は依頼を受けて行う仕事のほかに、何か長く取り組んでいる研究というものがあるらしい。連日の頭痛で手が付けられなかったそれも、再開していた。
先生が仕事を行う時間は、僕がこの家に来た夏よりもずっと増えている。最初は事細かに時間を管理して体調を振り返っていたけれど、最近はあまりしない。先生はどれほどの仕事をするとどんな風に体に影響するのかを、ほとんど把握し尽くしたようだった。
「よし」
なので時間を計るという僕の仕事はかなり減った。とはいえ、なくなったわけでもない。細かく計ることがなくなっただけで、先生があらかじめ言った時間に声をかけるという点では変わらなかった。
腕時計の針の位置を確かめて、僕は先生の部屋の戸を叩く。
「先生、時間!」
「待って。もう少しだから」
「だめです! 先生ってばいつもそう」
むしろ先生はだんだんと時間通りに休憩しなくなってきて、そういう意味では仕事の手間は増えているとも言えた。
「はは。いつもごめんね」
だけど、悪びれずに笑う先生の表情にはほっとする。研究というものに取り組んでいる先生の顔はどこか満たされているように見えるし、秋の長雨の頃に感じた重く塞いだ感じが、少し薄れるからだ。
あれは一時的なものだった。先生が遠く冷たい場所でひとり泣いているような、あの感じは。先生の笑顔を見ると、少しずつそう思えるようになる。まして温かいものを、一緒に飲みながらであれば。
ぼんやりとそう思っていると、先生が僕を見て笑みを深めた。
「きみ、腕を上げたよね」
「……先生を無理やり休憩させること?」
「ちがうよ、悪かったって。お茶を淹れるのが上手になったってこと。お茶淹れるのは好きかい?」
「好き……って言われても」
「毎日、めんどくさいって思う?」
「ううん」意識する前にかぶりを振っていた。「美味しくできると、飲んでて嬉しいし」
「美味しくする工夫があるの?」
「えーと。温度とか、色とかを見てると。わかる気がする」
「うん、そうなんだろうね」
先生は頬杖をついて、卓上のカップを見つめる。緩く口元が弧を描いていた。
「いろいろな条件で観察する、研究と似ているよ」
「先生の研究と?」
「そう。興味ある?」
即答できなかった。いつもわけのわからないことばかりしていて、変な匂いや蒸気が部屋を満たしていることもある。正直少し怖いと思っていたからだ。
「その……」
「はは。含んだ言い方だったかな、別に言質にしたりしないさ。でもまあ、もし僕が何をしているのか気になったら、いつでも訊くといいよ」
ごちそうさま、と先生は席を立つ。
先生は休憩の時間には、なんとなくやることを決めているみたいだった。まずお茶を飲む。それから体をほぐしたり、外の空気を吸ったり。僕が先生と同じことをするのは、お茶を飲んでいる時だけだった。
僕は、ずいぶんと手になじんだ自分のカップの中身を飲み干した。
僕は仕事中だ、後片付けが待っている。
*
一段と冷え込んだ日、僕はいつも通りに郵便を受け取って先生に渡した。だけどこの日は、いつも軽い目配せで受け取るだけの先生が、目の色を変えた。
「先生?」
「ああ……。これ、きみ宛てだよ」
先生は宛名を僕に見せる。集中して探せば、確かに自分の名前だけは見つけ出すことができた。だけど先生の表情は、そういう驚きによるものには見えない。例えるなら頭痛の時に見せていたような、沈痛な表情だ。
「……文字よりも雄弁だね」
「え?」
「黒封筒に銀の蝋封……きみは知らないかな。これは訃報だよ、人が死んだという知らせだ」
ひと呼吸前には反射的に出せた言葉が、今度は音にならなかった。
吐息だけが喉を抜けて、わずかに空気を揺らす。
「中を確認しないとね。一緒に見ることになるけど、良いかい」
「も、もちろん……」そうするほか、内容はわからないのだ。拒否するという選択は存在し得ないものだった。それでも何かが侵襲してくるような心地があった。
先生が手紙を几帳面な手つきで開封して読む。読み上げられた名前は、僕のこころのやわい部分に食い込んだ。
「その名前は……おかあさん、です」
「……お母さんが亡くなったのか。それは、つらいことだね」
沈黙のほかに返事ができない。
つい先日思い浮かべた姿が、急速に色あせ、霧散していくような光景が脳裏に浮かぶ。
息苦しい。
先生の視線も喉に絡みつくようだった。けれど先生は、静かな口調で述べる。
「すぐに出れば、お別れに間に合うよ」
「え……?」
予想しなかった言葉に、僕の返事はほとんど吐息同然だった。
僕は何か、もっと恐ろしい言葉を思い浮かべていた気がする。先生の言葉に引き寄せられて手放したけれど、その形骸だけは胸の中に残ったまま、不穏な気配を放つ。
「行ってくるなら暇とお金を出すけど。どうする?」
「どうする、って……」
「行きたくない?」
「そ、そうじゃなくて」
先生の言葉は僕の恐れの正体を暴かず、むしろどこか大切に扱っているように感じられた。喉元ではなくこころに慈しみをもって手をかけられると、言葉は偽れない。それは既に先生から何度も感じて知っている。だから僕は、本心を晒した。
「ただ、怖いから……」
言葉がゆっくり染み込むだけの時間を経てから先生は返答した。
「怖いんだ?」
確認であり、肯定と受容でもあった。僕は無心で頷いた。
「そうか。そうだな……きみに教えてもらわないことにはその真意はわからないし、だからと言って教えろとも思わない。きみの恐れは僕にはどうにもできないけれど、僕の意見を言うよ」
先生が少しかがんで、目線の高さが同じになる。
「僕は、迷うくらいであれば行くほうが良いと思っている。きちんと弔う機会があるということ自体がとても尊く、価値があることと思うからだ。だけど、決めるのはきみだ。きみの恐れもまた、尊重されるべきものだから」
「恐れを……尊重する?」
僕は、受け止めきれなかった言葉を繰り返す。
「そう。無理に決着をつけなくてもいいんだ。どんな気持ちだって、きみの中にあるそのままのかたちでいい。それでよいと、他者が肯定し保障するべきことだと思う」
先生は言葉をかみ砕いてはくれなかったけれど、いっとう大切なものを扱う声色で述べた。その口調にこそ肯定と保障というものが宿っているように聞こえて、僕は安堵した。
安堵は、恐れの姿を少しつまびらかにする。その奥にある気持ちも。そしてそれを「尊重する」ということを意識させた。
「先生。行ってきます、僕……」
「それでいいの?」
「うん。お別れ、ちゃんと言わなくちゃいけないから」
別れ、と口にするのは震えるような思いがする。
「で、でも。すぐに帰ってくる。だから先生……帰ってきたら」
「ん?」
「えっと……」
どんな言葉がふさわしいのかわからなかった。
頑張ったと認めてほしい、恐れを慰めてほしい。そういう気持ちのように思ったけれど、その気持ちをどんな言葉であれば先生に伝えられるのか、わからなかった。
「あの。やさしくしてください」
「へ?」先生が吹き出すような間抜けな声を出したので、僕は言葉選びに失敗したと悟った。慌ててあれこれと付け足す。
「うう、えーっとその! うまく言えないけど、ただ帰ってきたら、ああよかったって思えたらいいなって思って……!」
「ああ。なるほど」
先生は僕の必死の弁明にも笑ったままだ。肩を震わせてさえいる。
「うん、まあたぶんわかったよ。気をつけて行っておいで。帰ってきたら、とりあえずゆっくりしよう」
先生の表情や声色に、言葉選びはともかく、ちゃんと伝わっていると気づいてほっとする。
それらに宿った温もりこそが、僕がほしいものだからだ。
*
先生に教えてもらった通りの手順を守れば、生まれた家へは大した難も無くたどり着けた。さほど遠くもないし、難しい道のりでもない。帰りも同様だ。とても静かでささやかな別れを捧げたあとは、先生に言った通り、できる限りすぐに帰路についた。
それでも、数日ぶりだ。
先生の家まではあと少し歩くだけ。だけど気がかりなことがあった。
僕が先生の家を出てから連日雨が降っていた。今日も、今は止んでいるけれどいつ降り出してもおかしくない空模様だ。
「先生、寝込んでないかな……」
――調子はいかがですか。
こんな天気の朝には、先生はどんな返事をしていただろう。
「今日は、頭の中央がじくじく、きりきりと痛む。考えるのも笑うのもできる、だがそのひとつひとつが疲れるし、けだるい眠気が伴っている」
「今日は、胸がざわつき、動悸のような鬱いだ重みがある。手や口許が、実際にはそうでもないのに震えるような心地になる。とても重要な、致命的な憂いを放置しているような、それをまざまざと知る絶望が去来する。瞬間で忘れては、また次の波がやってくる」
今日は、
今日は。
いつだって、淡々と虚空に吐き出されるだけの言葉だ。
だけどこういう天気の日には、聞いているだけで具合が悪くなりそうな内容もちらほらあった。口調の恬淡さとは裏腹に、暗く重苦しいものが滲みだしていて。
憂いも喜びも、毎日聞き続けてきた。
希望も、絶望も。
誰にも聞かせず、滲みだすことさえなく閉じ込めていたら、先生の体中にあっという間に回ってしまいそうな、過激なものだ。
「せんせい……」
ざわざわとした風に吹かれるように、歩みが早くなる。
せんせい、せんせい。と何度も呟いて、時々小走りになりながら帰る。
不安だった。
誰にも何も語らずにいるであろう先生のこと、あるいは先生の言葉を聞けずにいる自分のことが。
「先生!」
扉を乱雑に開け、靴の泥もろくに落とす前に声を張った。
家は静かだ。
荷物を下ろして先生の部屋の扉を叩いた。
「先生! 開けますよ」と言い終わる前に、扉が勝手に開く。取っ手にかけていた手ごと引っ張られ、体勢を崩しかけた。
「うわっ」
「おっと、ごめん」
「せ」んせい。
やや頭上から降る言葉に、声が奪われる。板一枚向こう側から先生の顔が半分覗いていた。
「ずいぶん慌てて帰ってきたね」
「先生っ、体調……」
「ああ」言葉が途切れたと思ったら、顔をしかめる。「よくわかるね、確かに悪いよ」
「ベッドに戻ってくださいっ」
「そんなに……慌てて、どうしたの」
先生の言葉が不自然に途切れたり、大げさに息を吸い込んだりして聞こえる時は、ひどい頭痛がしている表れだ。痛みのタイミングで呼吸さえ奪われるのだった。
僕は先生の背中を押して、先生を寝台へ戻らせる。きっと今までだってそこにいたのだろう。ぬくもりが残っている寝台に先生を押し込んで、布団をかけてようやく息を吐く。
「お帰りとも言う前に、ため息をつかれるとはね」
先生は苦笑していた。何をするにも痛みが付きまとうはずなのに、何事もないような振る舞いで。
胸が詰まりそうなその姿に、僕はようやく何を恐れたのかを思い出した。先生が手紙を読み、実の家へ行くかを尋ねたあの時の。
「先生。調子は……調子は、いかがですか」
先生は、わずかに虚を突かれたような表情をした。
「僕、不安だった……」
言いきってしまわないと、どうにもならない。
先生の代わりに寝台のふちにすがり、握りしめた。
「せんせいがひとりきりでいること」
声とともに、知らず涙が出た。
「い、いない間に……せんせいが困っていたら、いやで……。それにもしも、僕が家へ帰って、ここへ戻ってこれなかったら。先生が困らなくて、やっぱり僕と暮らさなくて良いって、思ったら。だって」
滂沱は止めるすべもないどころか、先生が僕をじっと見ていることでむしろ促された。おかげで僕は、たくさんの少しずつ異なる思いのどこに最も言いたいことがあるのかを、決河した言葉の流れの中からでも探ることができた。
気持ちを肯定し保障する。出かける前に先生が言った言葉を正しく体感した気がする。
奔流の中にようやく、恐れの正体、そして熱で休んでいた時、寝台の中に見つけられなかった言葉を見つけた。
「先生は……僕の『家族』です」
先生が息を呑み込んだのが見えた。
「あの家より、ずっと。僕はここにいたいです」
「……家で、何かあったの?」
気遣わしげな声には、ぶんぶんと首を横に振った。
「何もなかった。何も。ふつうにお別れを言って、おとうさんと久しぶりに話して」
「ここのこと、何か言われなかったの」
「居たいと思う場所にいると良いって。でも僕にはここのほうが環境がいいだろうって。だからほんとうに何もなかった。けど、僕……先生のことばかり考えていて、僕は……」
それきり、しゃくりあげることしかできない。先生は黙したまま僕を見ていた。
少し経って息苦しさが収まるころ、外で雨が降り始める。その音を眺め、重ねるように先生は言った。
「とりあえず……せっかく仕事してくれたみたいだから。調子ね。今日は朝から頭痛がする。だけどどこか他人事だったな。……僕もたぶんきみのことばかり考えていたよ」
少し呻きながら、先生は上体を起こした。
慌てて先生に手を伸べようとすると、先生はやんわりと僕を制する。
先生の表情は、頭痛ではない苦しみにゆがめられて見えた。自嘲するように口の端がわずかに上がっていた。
「きみがいない間、僕はいかな手管できみを手元に置いたかを、ようやく正確に実感した。少し留守にされるくらいでこころが落ち着きを無くすのは、卑劣な手段を用いたといううしろめたさや、このまま帰らないかもしれないという恐れがあるからさ。そして、そのことに本当に動揺するくらいに、きみをそばに置いておきたいと思っていたことも、これ以上なく思い知ったよ」
暗い響きは、背筋に冷たく感じられる。その冷たさと難しい言い回しに言葉を返せずにいると、先生は表情を緩めた。
「……わかりにくい言葉だったね。とにかく、僕にとっては願ってもないことだ。どのようなかたちで迎えたものであれ……きみは、僕の家族だよ」
ふいに、頭に手が置かれる。
「おかえり」
先生の手は温かかった。その手にすがりたくてたまらない気持ちが、再び喉を詰まらせた。
ただいま。
その言葉は、音にならない。
たまらず、先生にしがみついた。腰のあたりに腕を回し、夢中で頭を擦りつける。どんな顔をすればよいのかわからず、ひどいことになっているであろう表情を隠したくて、同時にすべてを伝えたくて。
ただ、安穏に季節を運んでいければいいわけではない。
確かに先生にすがっていたいということ。
離れるのはこころに穴が開くように恐ろしいことだと感じること。
先生がどんなに「うしろめたさ」を感じることであっても、どのようなかたちであっても、それはまるで遠い誰かの事情であって、僕にとってはただそばにいることが望みだと、こころの奥底からそう思うことを。
先生は僕を引きはがすことも抱きしめ返すこともせず、ただ僕の頭を何度も撫でた。
心地よいぬくもりが、雨音を遠ざけた。