深秋
しとどに降る雨に打たれて、窓枠越しに見える木の葉が落ちていく。葉を落とし、やがては雪となって、世界の色を統一しようとする秋の雨。過ぎ去る季節にすべてを壊し攫っていかせる、そんな気配を漂わせている。
灰色がかった先生の部屋の揺り椅子に腰かけて、僕は本を開いていた。お気に入りの一冊だ。一度先生に読んでもらってから、どれだけ眺めても飽きない絵本だ。
僕の読み書きのこと、そして先生自身の話に少し触れたあの日以降、たまに先生に本を読んでもらうようになった。
絵だけしかわからなかった本の内容が、先生の声でするりと頭に入り込む。それは、絵の色彩をより鮮明にし、絵の背景にあるものを僕に教えた。先生の声は不思議で、一度読んでもらえば本の内容はずっと頭の中に残る。一字一句は覚えられなくても、本を読むということがどんなことなのか、僕は初めて、そしてたぶん他のひとと遜色なく、実感した。
僕は物語の内容をつかむことが好きだ。
本の内容に思いをはせると、心浮くような気持ちが生まれる。そんな自分を知ったことは、生まれ変わったような心地を覚えることと等しかった。
絵の中を泳ぐ魚の、虹色の鱗をじっくりと眺める。知らず頬が緩む気がした。
たとえ世界がこの雨に濡れ尽くして色を失ったとしても、絵本の中の豊かな色相が、その雨水さえも伝っていつか色を行き渡らせていくだろう、そう思わせるような本だ。
この本を初めて読み聞かせてくれた日、「秋の夜長の供ができたね」と笑みを浮かべていた先生は、今日は寝台の住人だ。もぞ、とした布の摩擦音にはっとして僕が目を向けると、体は起こしているけれど、とろりとまどろんだ瞳で窓枠から外界を見つめ、その鈍色を確かめては目を伏せている。
最近の先生は、落葉の速さと呼応しているかのように、不調の度合いを深めていた。
「先生……つらそうです」
「うーん、そうだね」
体を起こしているぶん、寝たきりになっている日よりは穏やかとも言えたけれど、これ以上動くことはつらいと言う。
どんな基準かわからないけれど、そんな体調のときの先生の対応はひとつではなかった。たいていは何もしないで良いというけれど、稀に傍で過ごすように言う。願うような口調で。
今日は後者で、僕は先生に何ができるわけでもないまま、揺り椅子に収まっていた。
「不調の周期のようなものがあって。いつもならもっと早く、夏から秋にかけての長雨の続く頃がひどいんだ。今年はずいぶん遅れたから、ひょっとして上手くかわせたのかなんて思っていたんだけど。毎年のことだよ」
先生はもう一度、鈍色の外を眺めた。屋根からこぼれた大きな雨粒に打たれた葉が揺らぐ。落ちなかった。
「そろそろ秋も過ぎる。そうしたら楽になるはずだ、もう少しなんだけどね」
抑揚のない声や目の色も、鈍がかかっている気がした。
「冬は、楽ですか?」
「そうだね。冬の間は……そう困らない。春にかけてはもっと酷いけれど」
「えっ」
はは、と先生が乾いた声を漏らす。
「仕方ないんだ。ずっとそうなんだから。そういうふうに生まれついているんだ」
先生が頭の向きを変え、視線をこちらに寄越した。頭を動かすのは特につらいみたいなのに。案の定、少し表情がゆがんだ。その痛みが僕の奥から言葉を引き出す。
「……僕が文字がわからないのと同じように?」
「そうだね。良い例えかもね」
文字がわからないと言葉にすることは、依然として喉を傷つけるような心地のすることだった。だけど先生と話していると、たまにするりと誘われる。自分でもわからない言葉のありかを、先生は知っているかのようだった。そういう時に出る言葉は、前ほど禁忌のようには感じない。それでも落ち着かない言葉だ。
それきり雨音が言葉をさらい、沈黙を埋めもした。しばらくしてから先生はわずかに微笑んだ。
「少し、寝るよ。ありがとう」
体を横たえると表情が隠れる。僕は部屋を辞しながら、雨音だけが支配する部屋に先生を残すことが、なんとなくこころを塞ぐように感じられた。
先生の下がった目尻や、優しい呼びかけは好きだ。
先生は労働者ではなくとも仕事がある。そういう意味では「労働者ではない」なんて言っても、ドレイなんかとはむしろ逆で、何か特権を持っているというほうがふさわしい気がした。そう、労働者が「労働する力を持っているひと」だと先生が説明したことを当てはめれば、「労働する以外の力をもっているひと」というような。
とにかく、先生は労働者ではない。だけど穏やかな人格者で、たぶん世間からも認められるようなひとだ。誰かを幸せにして、決して誰からも奪わない、傷つけないような、そんなひとだ。
だけど、だけどたぶん。
先生は幸せではない。寝台で小さくなっている姿に張り付いた痛みを、誰も共有できない。痛みに覆われている先生の本心に、名前に、誰も手を伸ばせない。先生が「労働者ではない」ということをどこか自虐するように言ったのは、きっとそれが世の外縁に位置するものとして扱われることだからだ。
先生はひとりきりだ。それが秋を過ぎても変わることのない圧倒的な事実であるように感じられて、絵本を握る手に力が入る。
*
妙に高い位置にある陽射しに目を覚ました日、僕はある日の先生の声を思い出していた。
「今日は力が入らない感じがする。手が冷えていて、指が震えるようにぎこちないね」
毎朝の仕事に対する返事のひとつだ。その表現が今の自分にぴたりとあてはまっていて、だから思い出したのだった。
体の中を熱いものが巡ってうっとうしい。そのくせ寒さが手足の先から這い寄ってくる。
最近は雨が降るとずいぶん寒いけれど、晴れれば春のように暖かくなる。窓越しの様子からしたら、今日はぽかぽかと穏やかに暖かい日であるはずなのに。
頭がぐるぐる回されている気がした。あれこれ思い出した先生の言葉も、頭の中でぐるぐる回る。だけどそのひとつもつかめない。
そこにまた先生の言葉が湧いて、ようやくそれをつかんだ。
「入るよ」
「え」
それは頭の中の言葉ではなかった。部屋の扉が開いて、先生が僕を一瞥する。起き上がろうとしたのに、体は動かなかった。
「ずいぶん起きないと思っていたら、調子崩したみたいだね。顔が真っ赤だよ」
先生は寝台に近寄って、重ねて僕を観察した。最後に屈んで額に手を当てる。ひんやりと冷たかった。
「熱が出てる。今日はこのまま、休みな」
「ねつ?」
「そう。だいぶつらいでしょ」
目の前の先生の声に、正体の知れない音が重なって、ぐるぐるという音を立てている。
「どうして?」
「どうしてって」先生はなぜかちょっと噴き出した。「何がどうしてなの?」
「休んでたら……しごと、できません」
「どのみち今日は仕事にならないよ」
ぐるぐると、重なる。
ざらざらと、摩耗する。
「いいからこのまま寝ること。それがきみの今日の仕事。何なら本でも読もうか?」
「本……」その言葉は、此岸のようなどこかへ引き戻す言葉だった。「読んでください」
かすんだ視界の中で、先生が目を丸めたのがわかる。
「ひとりでいるの、いやだから……」
一瞬の沈黙が、先生の掌のようにひやりとした印象的な温度で、まなかいを渡っていく。
「……そうだね。ひとりはつらい」
先生の吐き出した空気の温度は、僕が捕まえる前に溶けて混ざり尽くした。
「でもまずは水分だ。食欲があれば、何か食べ物もね。食べれそう?」
いつも買ってくるものを頭に浮かべても、あまり気持ちは動かない。
「のどが痛いから、パンはいやです」
「風邪だね。じゃあとりあえず水だ、ちょっと待って」
先生が去り、焦点のぶれた天井は表情をなくしている。
ひとりはいや。ひとりはつらい。
僕のものか、先生のものかわからない声が脳裏でぼんやりと反響する。
先生は寝込んでいるとき、いつもこんなにつらいのだろうか。たとえ寝込んでいなくても、世の中の外にいて、どんな気持ちで過ごしているのだろう。
体の熱が思考を溶かしはじめたところに、先生が戻ってくる音がした。
文机の付属品以外に椅子がないこの部屋では、先生が腰かける所がない。先ほどと同じように先生は腰をかがめた。
「お待たせ。とりあえず、少し飲んで」
言われるがまま喉に通した水は、喉を刺激して体のどこかへ消える。
「麦でも炊ければいいんだろうけど、炊事は得意じゃなくてね。果物でも買ってくるよ。好きなものはある?」
とっさに答えが出なかった。
「……先生の好きなものでいいです」
「え、そうなの」
「先生のこと……知らないのも、いや」
先生の好きなもの、つらいと感じるもの。そして、名前。
教えてもらえないことがいやだと感じていることを、日ごと思い知る。その強さが加速する。それは知りたいという気持ちが同じだけ増しているからだ。
僕の声を吸収した先生は、僕のカップをサイドテーブルに置いて立ち上がり、本棚へ近づいた。すぐに何かの本を出して戻ってくる。
「僕の好きな本、これだよ」
今度は寝台のふちに腰かけて、一冊の本を差し出す。けだるく震える指先でその本に触れた。
何の本なのかは、わからない。
でも先生のその振る舞いが、得体の知れない絵本への愛おしいような気持ちを引き出してくる。
「読むのは今度ね」
「せんせい」
「ん?」
「ごめんね」
「何に謝っているのかわからないけれど」先生が苦笑した。「とりあえずは少し休むことだね」
先生の声が、おやすみと言う。
記憶の中に毎日重なっていく同じ言葉が、ただただリフレインする。
僕の頭の中はずいぶんと先生の声に支配されているということを、僕は今更のように知った。
幼い日に聞き続けた声でも、僕に売り物としての生き方を説いた声でもない。数か月ほどでも毎日聞き続けている声が、僕の血肉に染み込んで、僕を作り変えている。
そのことを認め、とうとう意識は遠のいていく。
揺蕩う夢の中で先生の声を聞いた。
判然としなかったその声が、先生の名前であればよいと、思った。
*
もどかしい喉の痛みを残し続ける風邪から全快するのに、結局一週間かかった。その間先生は、体調の波に揉まれることは如何ともしがたいようだったけれど、それでも僕の様子をまばらに看続けた。僕がもう起きれると思っても、先生は「まだ仕事はできないから」と結局僕が全快するまで謹慎を言い渡していた。
熱に浮かされなくなった頃から、僕は寝台の中に思考の海を広げ、回復したあとのことをずっと考えていた。
麦を炊けるようになりたい。それか、果物を剥けるように。
これから寒くなるのだから、スープが作れたら、きっと一番いい。ここへ来る前、親が作ってくれていたような。
「お母さん、どうしているかな」
久しく考えなかったことにも、海域を広げて。
「手紙……きっと、読めなかっただろうな」
読めないのは母親も同じだった。字が読めないのはとてもつらいけれど、親と同じであったことが、ほんの少しだけ救いであり、それ以上に憎くもあった。でも今となってはその気持ちは、遠く色あせている。それに父親は読めるから、きっと内容はちゃんと伝わっているはずだ。
先生に言われたことだけやるのは、やめよう。
本当は、労働者はそれで良いのだろうけれど。
先生と僕の生活が、新たな季節を迎えても滞りなく続くようにしたい。できれば、今よりも豊かな色を持ったものとして。先生が語らないことの多さ、痛みの触れがたさ。おかしいとか悔しい、ずるいと思うことは捨てられないけれど、それでも。
――この気持ちは、なんというんだっけ。
思考の海をいくら渡っても、その名前だけをうまく思い出せなかった。
熱が下がって、秋が去っても。