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季節、名を待つ  作者: こうあま
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夜長

「先生、調子はいかがですか」

 本格的な秋が訪れても、僕の生活――すなわち仕事――は変わらなかった。

「そうだね」最近めっきり居間に出てこなくはなったけれど、先生の最初の言葉も変わらない。「今日は、いろいろなことへの恨めしさを思い出していて、やるせない。時間にも空間にも置いていかれたような気持ちだ。どう切り替えるかが、今日の課題かな」

 先生のぼんやりとした視線は、徐々に日の入りが悪くなりつつある部屋のどこかを泳いでいる。

「じゃあ、僕は外を片付けてきます」

 少し変化があったのは、落ち葉掃除の仕事が加わったことだ。

 森は色づくにはまだ早いが、既に葉を落とす木は多く、家の周りにははらはらと木の葉の雨が降り注いだ。だから先生が仕事で使う散策路――植物の採取をするらしい――と家の周りを、何日かおきに片付けることとなった。

 僕は季節が変わるに合わせて、いくつかの発見をした。

 ひとつは、落ち葉掃きという仕事は存外に楽しいということ。

 かさかさ乾いた音が立つのは耳に心地良かった。たまに成果が風に吹かれて台無しになっても、それもまたどこか楽しい。それに、森の中の仕事は不思議と僕のこころを整える。

 そしてひとつは、先生は季節の変化に弱いということ。

 日々の気候の変化ほど激しく揺さぶられてはいないけれど、緩やかにずっと先生は不調で、作業の量が落ち込んだ。冬にかけて毎年そうなるのだと言う。

 先生についてわかったのはそれだけではなかった。

 たとえば、たぶん先生はたくさんのお金を持っているということ。

 だけどいつ仕事ができなくなるかわからないからと、ほとんど使わず溜め込んでいるのだ。だから、ずいぶん暮らしは慎ましい。僕はむしろ今いくらか使ってこの古い家を整えるほうが、長い目で見れば先生の体には良いような気がする。聡明な先生がそうしないのが不思議に感じたこともある。その時僕は、先生はたぶん僕が思うよりもひどく体調に怯え、とらわれているのだろう、とぼんやりと考えたものだった。

「あとは……」

 森の中では、考えがまとまる。独り言も言いたい放題だった。

 そう、あとわかったことは。

 先生は、やっぱりわからないひとだということ。

 先生はいつからこの家に住み始めて、それまでどこに居たのか。何をしていたのか。

 そして、名前。

 家にはたまに、先生に仕事を頼むらしい客が来るようになった。けれどどの客も「先生」と呼ぶだけで、名前を呼んでいるところを僕は見たことがない。

 理由はわからないけれど、先生は言えないことが多いひとなのかもしれない。

 先生はあの日以来、家族という言葉はまったく口にしていない。だから先生が今僕をどう思って手元に置いているのかはわからないけれど、先生には言いようのないさみしさのようなものが張り付いている。少なくともあの時の言葉はその孤独が言わせたんだと、森で時間を経るにつれて思うようになった。

 そして一番大きな変化は――。

「あっ!」

 乾いた木々を大きく鳴らして、風が吹き抜けた。僕は散り散りに踊る木の葉を見て、思考に一時停止を申し入れた。



 頼まれた仕事の期限が近いからと、先生はここ数日よく仕事をしている。体調との折り合いをつけることに、ひどく苦慮しながら。

「先生、時間、過ぎてます」

「そうか。もう少しなんだけど……」先生はそう言いながらも器具に何やら手を加えた。先生の隣でぼこぼこ、何かの液体が音を立てて煮えている。

「先生、今朝頭が痛いって言ってたでしょ」

「そうなんだけど」と、手元の紙にまた何事かを書き加える。

「お茶沸かしておくから、はやく切り上げてください」

「うん」

 仕事をしているときの先生はなんとなく、遊びに夢中になる子どものように見えることがあった。ため息なんて漏らしながらお茶を淹れていると、僕のほうがおとなになったような気分だった。

「やあ、おかげで良いところまで進んだよ」

「先生。頭痛は?」

「今のところはそうひどくないさ。あ、そうだ」

 先生はようやく部屋を出てきたと思ったのに踵を返して、かと思えばすぐにまた現れた。手に何かを携えていた。

「きみのカップ」

「え?」

「つい、いつまでも客用だったから」

 机に置かれてことんと軽い音を立てたそれは、小ぶりなカップだ。

 古めかしく使い込まれたものに見えた。土のざらざらとした手触りはそっけないとも温かいとも言えず、底と取っ手だけは釉薬がぬらりと深く青緑に光る。そして、取っ手の内側には小さく文字が彫られている。

 それは、僕でも読める名前だった。

 僕は言葉を無くした。意識も手放してしまいそうな衝撃だった。

「良かったら使ってほしいな」

 すぐに先生の声が此岸へ引き戻す。けれど、どこか上の空だった。

「あ、はい」

 声はどこか遠くで聞こえて、お茶の味もよくわからない。

 先生がお茶を飲み干して部屋に戻ってから、僕はようやく息を吐くことができた。

「……先生、僕の名前知ってたんだ……」

 契約書とかいうものに署名をしたことを思い出せば、当然のことだった。

 だけど先生が僕の名前を口にしたことは一度もない。だから、先生は僕の名前になんて関心がないのだと思っていた。

 僕は知らず知らずのうちにカップを握りしめていた。



 数日経ち、頼まれていた仕事というものを誰かが取りに来た。

 客というものが来るようになってから、森の手前まで送り迎えすることが仕事に加わった。あとは、邪魔にならないように部屋でじっとして過ごす。客が帰る時間がわからないから外にも行けず、部屋ではたいてい手持ち無沙汰だ。

 僕に訪れた一番大きな変化は、その閑暇がもたらした。

 ある時から、本を手にするようになったのだった。

 最初に本に手を伸ばした時、大した意図はなかった。時間をあまりに持て余して、ずっと避けていた本棚まですっかり掃除することに決め、埃払いのために手に取ったついでと、ふと開いてみたのだった。読もうなんて気持ちはかけらほどもなかった。

 だけど僕は思わず感嘆するほどに惹き込まれた。

「わあ……きれい」

 色鮮やかな絵が、どの頁にも描かれていた。文字はほんの少し添えてある程度で、本というものを最初に知るときに読むような、小さな子どものための絵本のようだった。

「旅をする本かな」

 ある頁には猛き山、またある頁には深い海の絵が描かれている。文字はわからなくとも、楽しい本だった。

 だからそれ以来、客が来ると毎回本棚に向かっては、絵本を眺めるようになったのだ。今日も同じようにしていた。ただひとつ違ったのは、先生からあらかじめ聞いていた時間よりずいぶん早く用事が終わったらしいということだ。先生が部屋の扉を鳴らし、顔を覘かせた。

「お客さんが、お帰りになるよ。……あれ、本を読んでいたの?」

「あ……! は、はい!」

 先生が明らかに目を丸め、語尾を上げたのが無性に気まずくて、焦って部屋を出る。

 ――本を読んでみないか。

 秋がごく薄い色をしていたあの日の、先生の言葉が蘇る。あの時僕が返した言葉も、痛みも。

「もっ森の外までお送りします」

 客を先導して森を歩いても、先生から逃げてきたかのような心地が重苦しくてどうにもならない。

 ため息を呑み込みながら家へ戻ると、先生が視線を据える。

「おかえり」

 先生の落ち着いた声と下がった目尻に、僕はとうとう身の置き場を無くした。体を固めてただ黙していると、先生の苦笑が聞こえた。

「そんなに動揺しなくても。とにかくごくろうさま、座りなよ」

 言われるがまま、先生の正面に座る。いつも通りの定位置だ。顔を上げることは到底できなかった。

「ごめんなさい」

「どうして謝るの?」

「本なんて、いやだって言ったのに。先生は意地悪で、ロウドウシャなんていやって……言ったのに」

「よく覚えてるね」先生の声は笑い交じりで軽やかだ。一息吸い直してからは、真剣な色を帯びた。「それがきみの謝る理由であれば、謝らなければならないのは僕のほうだ。僕があの時何も言わなければ、きみは本を手に取ることに罪悪感など覚えなかっただろう」

「そんな」

 思わず顔を上げると、先生の瞳が大きく見えた。こころの底までのぞき込もうとする、圧力のようなものの大きさだった。

 言葉が被さった。

「おとなの顔色が、気になるかい?」

「え?」

「僕や、きみを売った商人や、きみの親のことは。怖い?」

 言葉を返せなかった。

 それを雄弁な返答と先生が受け止めたことを、一瞬遅れて悟った。

「ち、ちがうの。そうじゃなくて、僕が怖いのは……」その先の適切な言葉をつかめずにいるのは、僕自身だ。合わせたはずの視線がまた離れる。「……文字が読めないなんて、嫌われるって……」

 それだけ言うのが精一杯だった。

 沈黙が重苦しく、つぶされてしまいそうだ。

「ねえ。きみは、文字という記号以外の手段であれば、じゅうぶんに言葉を扱っているよね」

 先生が唐突に述べた。

「ここでの生活で、文字が読めないから困ったことある?」

「えっと……」つい、先生の名前が読めなかったこと、と頭をよぎる。

「まずは、もし困っていることがあれば教えてほしい。言った通り、僕はきみが文字を読めないことについて、意地悪を……何かそれによって不利益が起こることを放置する、そんなつもりはないんだ」

 先生の声が、溺れかけの僕に船を渡した。重たく水が張り付いているような心地のまま、それでもすがるように思考を試みる。

「あの、特に思いつかないです。先生は……全部説明してくれてるから」

 先生が頷いた。

「声で伝達したことをきみはよく理解しているし、物覚えも良い。それに自分の置かれた状況や、役割の文脈……全体像のようなものをよくつかんでいるように見える」

「でも」

「でも、と言うべきことかはわからないけれど――きみは読み書きができない。そう言いたいんだろう?」

 そうです、とこころの中でだけ言う。到底声にならない。

 僕はその事実にいつも平伏し、操られてきた。誰かがそれを口にすれば、身を裂かれる思いがした。そんなことを自分で口にするなんて、どうなってしまうことか。

「……勉強したけどできなかった」

 別の言葉を選んだって、すぐに喉がぎゅっと締まり始める。口にすることを、からだもこころも拒否していた。

 ただ、それは口にするにはあまりに恐ろしいと思いながらも、その恐ろしさを内に飼うことのほうがよほどぞっとする、と思うことでもあった。できるのであれば、呪いのように張り付いた脳裏から、切り離してしまいたい。その気持ちが、窒息しそうな心地の中で、声を押し出した。

「僕はどんなに努力しても、できない! た、たとえドレイだって、きっと勉強すれば僕より……」

 そこで声は絶えた。長年僕を侵襲した呪縛は、それ以上の言葉を許さなかった。

 頭の中を、その罪戻のように思えてならない事実が、やはり支配している。たまらない気持ちになった。

「……その思いを言えずにいたのは、つらいことだっただろう」

 優しい声とともに、先生の手が僕の頭を撫でた。

「せんせい」

「ディスレクシア、って知ってるかい」

 唐突な言葉だけど聞き覚えはあった。でも、思い出すどころではない。

「知らない……」

「読み書きという能力が得られないひとのこと。いや、そういう能力の発達による、生きにくさを指す言葉とも言えるかな」

 頭を撫でていた手が、頬のあたりをぬぐった。目から涙が伝っていたのだった。

「そういうひとは、いるんだよ。そして、苦しみを抱えている。きみのように」

 先生の手は、僕の両肩に落ち着いた。

「僕はきみと過ごして、それは能力の一側面に過ぎないと理解したつもりだ。他の優れたところがちゃんとあるし、いくらでも補える。自力で読めないというだけで、代わりの手段さえあれば理解できるはずの学びが得られないのであれば、むしろそれが大きく祟るんだ。だから僕はきみに本を読ませたいと思った」

 肩に伝わる重みと温かさが、少しずつ染みて僕を安堵させる。

「先生は……僕に、勉強がさせたいの?」

「勉強に限らないけれど。言ったろう、……家族のようにと。ひとつ苦手なことがあっても、なるべく困らず生きられるよう、できることを増やしてやりたいという気持ちを持つものだよ」

「……それ、ずっと思ってたの」

「そうだよ」

 先生のその思いに対しては、正直窮してしまう。

 ひと月前には言えなかった理由が口を衝いた。

「それ……困るっていうか、ずるい。だって先生は名前さえ教えてくれないのに、家族なんて。おかしいよ」

 先生は一瞬動きを止めた。

 こごった息を吐き出す時、言葉も一緒に漏れ出たのが聞こえた。

「……そうだね」

 肩から手が離れる。

「言えない理由があるんだ」先生の声色が変わった。「いや……勇気が足りないだけだ」

 ごめんね、という声が、記憶の中にいくつもあるそれと重なる。

 僕の頭の中はずいぶんと先生の声に支配されているということを、僕は今更のように知った。

「名前ももちろん言うべきことだけど……じゃあ少し、僕の話を聞いてもらおうかな」

 先生は何かに観念したようにも見える表情を浮かべながら、座り直した。軽く組んだ手を机の上に置き、そこを見つめるようにして語る。

「僕は昔から体が弱くてね。少し心身に無理をしたらすぐにひどい頭痛がする。それに、なんというか……ひとよりもいろいろなことを考えてしまうところがある。言葉や表情の裏側に示されているもの、物事の別の側面が目に付くんだ。そうして考え込んでは、動けなくなるということを繰り返していた。僕も以前はいち労働者だったけれど、体調を仕事に合わせないといけないから、どうにもできなかったよ」

 虚空に向けて呟かれているようにも聞こえる言葉だった。体調を説明するときのような。

 だけど先生は、聞いてもらおうかな、と言った。

 僕の今の仕事はきっと、しっかりと聴くことだ。だからわからないことは、ちゃんと訊かなければ。

「ロウドウシャって、結局なんですか?」

「ああ。そうだね、労働する力を持っているひと……というところかな?」答えのようでいて、実際にはよくわからなかった。「そして奴隷のような『身分』じゃない。使用者と約束を交わして、その範疇でだけ働く。だから、搾取されない権利を持つ主体でもある。本来ならね」

「約束?」

「そう。何時間働きます、とかね。まあ僕はそういう約束は到底守れなくて、だから誰かと一緒に働くことをやめたんだ。いや、できなかったというほうが正しいね」

 先生はやはり自分の指先を見ながら続けた。

「労働者は今の世の中の主流だけど、僕はそこには入れない。それはもうわかりきったことで、認めているつもりだ。でも……ある理由があって、そういう自分を許しがたいという気持ちもある。僕が名乗れないことは、そのこととつながっているんだけど」

 視線が交差した。

「それはまだ言えそうにない」

 何か迫るようなものが先生の内側にあるということが、その視線には浮かんでいた。

 正体はわからないけれど、それは痛みを持った、傷だ。

「ごめん」

 先生の声に、僕はたまらない気持ちになった。

「先生! あの、本……」

「え?」

「本、読んでください。お願い!」

 言い捨てて、僕は席を立つ。自室に逃げるように駆け込んで、放り出していた本を胸に抱えた。

 すうっと深呼吸して気持ちを落ち着けてから、僕は恐る恐る居間に戻って、先生に本を差し出した。先生は特に何も言うことなく、本を受け取る。表紙をひと撫でしてから、僕を見た。

「隣においで。見ながら聞きたいでしょ」

 泣いてもいないし、笑ってもいない。だけど、どこかにぎこちなくも温かいものを見た気がした。その表情と、本の文字を読み上げていく声に宿った熱が、先生の言った「家族」に向けるようなものなのかもしれない。

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