白露
先生と出会ってから三回目の満月を迎えた。細々と仕事は増えたり減ったりしたけれど、暑さはあまり変わらなかった。ただ日が落ちるのは早くなり、塗料で塗り重ねたようにぶ厚い質量を持っていた雲が、蜘蛛の糸や鳥の羽のような細く柔いかたちを見せるようになった。
そんな曇が空に浮かんでいた日、僕は買い物ついでに図書館に寄って、届いたという本を受け取った。僕の顔をすっかり覚えたらしい受付の男は、入手のためにどれほど渉猟したのかを僕に語りかけた。
「お前のご主人様は、たいそう頭が良いお方だなあ。ちらと覘かせてもらったが、難しそうな専門書だよ」
ずっしりと重みがある手ごたえに、僕は目を丸めた。しっかりした製本で厚みがあって、僕がこれまでに見たことのある本とは印象が違った。先生から預かっていたお金も、普段持ち歩くよりもずいぶん多い。本はとても高い、ということを僕は知った。
「お前も勉強しろよ」
男がちょいちょいと指さすのは、先月と同じポスターだ。日付だけ書き替わっている気がする。
「また参加するだろ?」
「……僕だって忙しいんだから。そのうち、暇だったら!」
愉快そうな視線から逃げるように図書館から出た。まるで捨て台詞だった、と後で思う。
*
先生、調子はいかがですか――。
ある日の答えはこうだった。
「今日は調子がいいよ。少し頭にだるさがあるけれどね」
たいてい良し悪しではなく状態を語る先生が、良い悪いとはっきり口にすることは珍しかった。
「そろそろ、仕事をしようと思うんだ。……結構前だけど、最初にきみと買い物に行った時、どのくらい外にいたと言っていたっけ?」
僕はとっさに思い出せず、記憶のひだを必死に辿った。
「ええと……。二時間くらい?」
「じゃあひとまずそのくらいからかな」
先生は一度伸びをしてから立ち上がり、居間を後にする。振り向いて言葉を付け足した。
「二時間経ったら、声をかけてくれるかな」
僕はうべない、腕時計を見る。
先生はとても疲れやすいひとらしかった。そして、何をどれだけしたら疲れるのか、ということを知りたがっているようだった。外へ出たときも、家で何か作業をするときも、先生の指示通りに時間を確認するのが僕の仕事であることには、そういう理由があった。
でも先生が「仕事」をすると言ったのは初めてだった。僕が先生に言われてやっているような「仕事」と同じようなものには思えなくて、その言葉の正体は見えない。
「あの。それだけですか?」
「ひとまずは。そのうち手伝ってもらうかも」
僕が追いかけて先生の部屋に入ると、先生は大きな文机によくわからない器具をあれこれ並べだしている。言葉もそれきりだったので、自分の部屋へ戻るほかにすることがなかった。
この家には僕の部屋がある。
寝台だけでなくて文机も本棚もあり、元々暮らしていた家よりもしっかりした作りのものに見えた。文机は先生の部屋のものより幾分小さいが僕には十二分だし、本棚にはたくさんの本があった。
「この部屋は、きみと同じくらいの子が使っていたそうだよ」
初めてこの部屋を見た時、先生はそれだけ説明をした。
以前の部屋の主を思い浮かべることもなく、寝台に転がる。先生の部屋ほどではないけれど、この部屋にも外の光や風が入る。今日は心地よい晴れの日で、さらりとした風が吹いている。その風で先生の部屋と同じカーテンが揺れているのを、今更見つめた。
外で梢が鳴る。
ここへ来たばかりの頃は、ここでの生活自体が怖いと思っていた。その怖さが思ったほどのものではないことを知ったのか、それとも慣れが上回ったのかわからないけれど、怖さはほとんど感じなくなった。だけど入れ替わるように次の思いが浮かんでくるようになり、それは決まって、こうして呆けている時だ。
――僕はどうして、こんな暮らしをしているんだろう。
この家には、毎日食べるものがあった。風雨にさらされることもない、森閑とした暮らしがある。僕にはいくつかの仕事があり、僕はロウドウシャなので、それをして過ごす。今のところ直接は手にしていないけれど、どうやらお金も出ているらしい。
他のひとができることをろくにできないから、まともには生きられないと言われたのに。
この暮らしは、「まとも」なんだろうか。
食べ物と家と仕事がある。それとも、それしかないのだろうか。
僕は思考の渦に巻かれながら、二時間が過ぎるのをひたすらに待つ。
*
腕時計を確認してから、先生の部屋に向かった。
「先生、時間です。入りますよ?」
部屋の中から喉を鳴らすだけの返事が聞こえた気がした。そっと扉を開けて、思わず声が出た。
不思議なにおいがする。
においの元らしき方向に目を向ければ、玻璃のような陽気の中で何かが煮立っている。
「せ、せんせい」
「びっくりした? ごめんね。時間ありがとう」
「これが『仕事』?」
「そうだよ。植物の中身をね、調べるんだ」
先生は、何かを記録していた手を止め、顔を上げた。何をするものかさっぱりわからないたくさんの装置と、山積みの本に埋もれながら。
「でも今日はこれで仕舞いだ。はは……やっぱり疲れたよ。頭痛が増してきた。何か、飲み物を用意してくれる? きみのぶんもね」
「え? は、はい」
先生の視線は、なぜかいつもより色濃く見えた。仕事というものに寄せる視線の色だと思った。
図書館の男と僕の仕事がまったく違うように、仕事というのは多種多様なものらしいとは知っていたけれど、先生の仕事は僕が考える多様さを易々と超越していた。
どこかぽかんとしたまま湯の準備をする僕に遅れて、その謎の仕事を切り上げたらしい先生が居間に来る。出し抜けに言った。
「そういえば、きみのカップが必要だね」
先生の視線はふたつ並んだカップに向いている。ひとつは先生のもの、もうひとつは僕がずっと使っているけれど、本来は客用のものだ。
先生の視線が僕の目へと移った。
「夜はたぶん雨だよ」
「え?」
「そういう頭痛がするんだ。だから今夜は、僕がろくな返事をしなくても気にしないでくれ」
僕の仕事には、夜に先生に挨拶をすることも含まれていた。
先生の口調は淡々としているけれど、僕はなぜか返事に窮した。ただうべなうだけの、ロウドウシャとしての返事に。
「……先生は、いつも頭痛がするの?」
「いつもではないけれど、よくある。ひどいと動けなくなる。今後も」
仕事の時には濃く見えた先生の瞳が、今は薄く見える。いつも通りでありながら、何かが抜けているようにも感じた。
「だから僕は、労働者になれないんだ」
それは独り言のようだったが、僕のこころにいやに深く刻まれた。
その夜は本当に雨が降り、先生は返事をしなかった。寝台に横たわっているらしいことは見えたけれど、寝付いているのかはわからなかった。
雨の日なんて、ここに来てからいくらでもあった。そんな日も先生は、喉を震わせるだけのようなもののことはあったにせよ、ずっと返事をよこしていたのに。
先生の瞳の色、先生の声。
これまでとは明確に違う今日に、僕は眠りにつきながら、自分の歩いてきた跡を振り返ろうとする。そのどちらが偽物の先生なのかを探りたかった。だけど目を瞑って浮かんできたのはこれまでのことの手触りで、それがただの布団の肌触りであると疑う前に、僕は睡魔に身をゆだねていた。
*
それから更に日を経て、先生はどこからか塗料を取り出した。ずいぶん日が経っていたので、僕はそれが椅子を塗るために用意したものであることに気がつくまで時間を要した。先生はそんな僕の様子を見て、どこに売っているか見当がつかなくてね、と笑った。
僕は椅子を研磨した日と同じように――正しくは、今度は下に先生が外した古いカーテンを敷いて――椅子を外に出し、向き合う。
虫の鳴き声も、あの日とは変わっている。
塗料を塗るなんて初めてすることで、やり方がさっぱりわからない。先生は「細かい場所から塗って、薄く何度か塗るらしいよ」とだけ言った。
何となくぐるぐると塗料をかき混ぜてから、そのまま筆を椅子に押しつけて撫でていく。椅子の継ぎ目に塗料がたっぷりついて、慌てて何度も往復させて薄く伸ばした。
塗料は僕が先生に言った通り、白い色をしている。好きな色だと思っていたわけではないけれど、すがすがしくてきれいな色だ。先生に問われた時、絵を描くなんて無理だけど、何かを塗りつぶすとしたら真っ白にするのは楽しいかもしれない、そう思ったのだった。それは間違っていなかったように思う。残っていた下地の色や細かな傷もすべて、塗料は真っ白く呑み込んでいく。
「あ、垂れちゃった」
だけど色を塗るのは難しくもあり、薄く均等にはなかなかならない。厚ぼったい箇所を伸ばせばその筋が跡になって残る。苦戦しながら全体を塗り終えて、改めて椅子の全体を眺めた。
「ちょっと厚すぎるのかなあ」
ムラがあって多少不格好だけれど、塗り残しはないはずだ。
今は何かに慣れて、気分が高まるのはこの椅子だけだとは思わない。むしろ、こんなものにしか喜びを託せなかったのだとしたら、それが本当に身の助けになるものだったのか怪しいくらいだ。すべてを塗り隠したぶ厚い白は、すがすがしいようでいてその実、野暮ったい。
ふいに風が吹く。
研磨紙を片手にしていた頃よりも、乾いている気がした。風の変化は、塗りつぶされた希望が希望ではなくなり、同じように恐れさえもいずれ色褪せることに似ている。
*
「本を読んでみないか?」
しばらくした日、買い物から戻った報告をすると、先生は本から顔を上げて突然に切り出した。
とっさに表情を動かせなかった僕に、先生は顔を柔らかくする。僕の触れたくないものを、あやすための顔だった。でもどのように優しい顔をされても、先生の言葉と表情は、すでに僕を切り捨てていた。
「いや、読むということではなくて良いんだ。きみの部屋にある本のほとんどは、物語なんだ。僕も昔いくつか読んだ。それを僕が読むから、一緒に見ないか?」
だから、先生の言葉はとても恐ろしく、怪しくさえ思った。
「い、いや……です。どうして?」
「ふと読みたくなったというのがひとつ。もうひとつは……きみがもし気に入ってくれたら嬉しいと思ったからだ」
逃げた視線の先、厚塗りの白が僕を見ている。先生の部屋に落ち着きなく鎮座する揺り椅子だ。希望がかたちを変えたもの、そう思いかけて、違うと思った。本当は、変わったのは僕のほうなのだ。
「そんな理由……わからない」
「自らで文字が読めなくても、本の中身を知ることはできる」
先生の言葉が切り刻んだのは、僕の核心だ。
「やめてよ! やっぱり意地悪をするんじゃない、ドレイじゃないって言ったのに!」
字が読めない、それなら、ドレイだ。
字が書けない、それなら、まともには生きられない。
そんな言葉を何度も聞いてきた。そうじゃないと先生が言ったから、その言葉が大切だった。だから、よく知らない仕事というものをして、ロウドウシャというものでいようと思っていた。買われたからではなくて、こころのどこかでそう選んだのだ。誰にも知られず、何にも懸けず、だけど確かに僕には選んだ瞬間があった。自覚さえしないままに。
なのに。
「それなら、ロウドウシャなんていや」
それを自覚するのは、その選択を恨みたい気持ちになったからだ。そのことが更に、なぜだか悲しい。
何を責めたいのかつまびらかにできないことが、悲憤を加速させた。
今にも目から何かこぼれそうな僕に対して、先生は凪いだ顔のままだ。
「……意地悪を、したつもりはないよ」
そして、同じく凪いだ声で言う。
「僕はね。きみを買った。それはまさに、奴隷を買うということだ。労働者は身分や生活丸ごと売るものではないからね、きみの言ったことは正しい」
先生は本を閉じて傍らに置いた。
「それでも僕がきみを労働者と呼ぶのは、僕がそうしたいというだけのこだわりだ。きみの実態が奴隷であるからこそ、僕は自分のしたいようにしている」
椅子に座ったままの先生には、うまく顔を上げられない僕の表情でも丸見えだった。たぶん、僕自身にはつまびらかにできない気持ちも、先生のほうがよほどわかっていた。
「僕がきみに求めていることは、理解しろとは言えないだろうが……そのように過ごしたいと思っているからなんだ。奴隷でも、労働者でもない。いうなれば……家族のように」
「かぞく……?」
「そうだよ」迷いのない言葉が、毒のようでありながら甘やかだった。「自分より弱いものを守り、知っていることを教え、慈しみながらともに生きたい、そういう思いのことだ」
頬に何か伝ったのは、悲憤のせいではない。何もかもよくわからなかったからだ。
「奴隷を買いながら言うことではないけれど」
「せ、先生もういいです。もうやめて、あの……わかったから」本当に、何もわからなかった。それだけがすべてだった。
「少し休むと良い、……ひどいことを言った。悪かったね」
言われた通りに部屋に逃げ込んで、寝台に身を投げる。本棚がいやに気になって休まらなかった。
――この家に来て初めて泣いた。
それを自覚したとたん涙が止まらなくなり、声を殺して泣き続けた。