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季節、名を待つ  作者: こうあま
2/16

残炎

「先生、調子はいかがですか」

 言葉は、ずいぶん滑らかに口を衝くようになったと思う。

「そうだね、今日は……昨日の寝付きが悪かったからか、けだるい感じが残っている。でも体が凝っているくらいで、頭は割合整理されている。作業はできそうかな」

 先生は、部屋の物を整理したり掃除したりすることを作業と言っているらしかった。

 この家に来てひと月が経ち、当初はかなりごちゃごちゃとしていた先生の部屋の物はだいぶ整理され、埃っぽかった家具も小奇麗になっていた。塗料をまだ塗りなおしていない僕の揺り椅子も、とりあえず片隅に置かれた。

「ありがとう。今日も一日、よろしく頼むよ」

 僕に向けられるものではない言葉への正しい応じ方はわからないままだけど、あいまいに頷くことを覚え、何となくやり過ごせるようにはなった。

「えっと。じゃあ……買い物に行ってきます」

「うん。ああ待って、今日は図書館に寄ってほしいんだ。メモを書くから」

 買い物は、たまにこうやって用事が加わることがある。

 先生は緩やかな動きでペンを持ち、手近な紙に何ごとかを書きつけた。

「蔵書が無いと言われたら、首都の本屋に発注するように頼んで。買い取ると言えばやってくれるから。……できそう?」

 先生の示したメモは、暗号が並んでいるようにしか見えなかった。でも要件はわかった気がしたので首肯する。

 外は、今日も炎天だ。先生の瞳と似た色の薄い羽織りが、陽射しの焼けるような刺激を和らげた。



「ディスレクシアか。うーん」

「あの、ありますか」

 受付の男がメモを読み上げたのを聞き、ああそんな音が書いてあったのか、と思う。

「無いだろうなあ、聞いたこともない。何か専門書か? ……まあ一応調べるから、ちょっと待って」

 男は、奥で本を整理しているらしい女性にメモを渡して戻ってくる。僕は先生に言われた通りの言葉を反芻して述べた。

「無かったら、首都の本屋に発注してほしいんですけど。買い取るので」

「そんなに必要なのか。一体誰が読むんだい? まさかあんたじゃないだろう」

 カウンターから乗り出すようにして――僕の背が小さいことによる会話のしにくさを補って――男は言う。

「うん」僕は首を振ってから、少し言葉に困った。「えっと。……ご主人様、が」

「ご主人様? ああ、あんた小間使いなんだな」

 とりあえず頷いたが、コマツカイという言葉は初めて聞いたので、男の言葉が正しいのかはわからなかった。

 そう、先生はそうは言わなかったのだ。先生は自分を「コヨウヌシ」とか言って、僕のことは「ロウドウシャ」と言った。そのあとで「固い言い方をすればね」と笑ったのだ。

 少なくともこの男から見た自分は「ドレイ」ではないのだな、という気色が頭をよぎり、すぐに消えた。

「あんたは本は借りないのか? 小間使いだって本を読むべきさ、せっかくこの街にいるならな。こんなに大きな図書館は、よその都市にはあまり無いんだぞ。まあ、あんたのご主人が厳しければ別だろうが」

「いらないよ」喉の辺りで空気がつかえた。改めて見回すまでもなくここは本当に本ばかりだ。それが喉を詰まらせる。「僕は、本なんか……嫌いだし」

「ふうん? 自ら学を遠ざけちゃあ、勿体ないぜ。まあいいか……ほれ調べたぞ。やっぱり蔵書は無いな」

 女性が戻ってきて、男にメモを返していた。男はそれを僕に見せる。先生がそうしたよりも、どことなく粗野な仕草で。

「ここにある名前が依頼人で間違いないな?」

「名前?」

「ああ。あんたのご主人様、聞かない名前のお人だなあ」

 僕の返事を待つまでもなく、何やら書類を引っ張り出して書き写していた。追及されなかったことと、仕事が無事に済んだらしいことにほっとする。

 メモに先生の名前が書いてあるなんて知らなかった。

 そしてもっと知らないのは、先生の名前だ。


 先生と出会ったのは前の新月の日だった。

「えっと……ご主人様」

 僕を売り物にしたひとが、そう呼ぶことが基本だと教えた通りに僕は言った。だが僕のたどたどしい物言いにか「ご主人様」は顔をしかめた。折檻――僕を売り物にしたひとが、同じく売り物であった誰かにそうしていた――を想像して思わず身構えてしまい、今度はその身構えたことに対して、眉を寄せているのが覗き見えた。

 帰ってきた言葉は、思っていたものではなかった。

「あ……いや、ごめん。きみが僕をそう呼ぶであろうことは、わかっていたんだけど……」ふうと息を吐いた。というよりは、吸い直したように見えた。「僕はそう呼んでほしくないな」

「え」目の色は、柔らかく見えた。なので、容易に口を開いてはならないと教えられたのも、やはりあっさりと放棄してしまった。「……どうして?」

「僕はきみを、奴隷として扱うつもりはないからだ。そうだな……『先生』と呼んでほしいな」

「せん、せい」

「そう」

 復唱すると、目元とともに空気がふわりと緩んだ。

 その空気が作り物には思えなくて、同じ空気を僕も得ようとする。

「契約書もある。僕は雇用主、きみは労働者だ。固い言い方をすればね」

 けれど先生が出した紙を見て、その気持ちはみるみるしぼんでいく。

「せんせい……僕は」

「わかってる。なぜきみが奴隷という身にいたか、につながることなのだから。言っておくがきみに意地悪をしているんじゃないよ。僕はね……」目の奥を覗き込むような、柔和な目元は真剣だ。「それが、きみが奴隷になる理由になることだとは思わない。いや、どのような理由も、奴隷を正当化することはないと思っている。もう、これほどに労働者という身分が発展しているんだ。奴隷という制度は、時代遅れで、不条理なものだ」

 明朗な声に、なぜか目の奥が熱くなった。

 誰も詳細を教えてくれないドレイという言葉の意味を僕はあまりわかっていなかったけれど、それは恐ろしく、悲しいものだという予感を、ずっと募らせていた。胸にこびりついたその不安を先生の言葉が溶解させ、だから、目の奥に熱が出る。

 混じった視線の間にも、それと同じ熱さが漂っているかのようだった。

「さあ、契約書を確認しようか」

 先生はそう言って、僕を椅子に座らせる。対面する椅子に先生も座り、書類を示した。

 それから先生は書面の文字を一字一句読み上げて、僕の理解を確認した。最後に僕にペンを握らせ、自分の名を書かせる。僕のぎこちなく、ぎりぎり読めるかどうかという不格好な署名でさえ、先生のペンは実に滑らかに紙上に示した。

 確かに記した自分の名前を見る。後にも先にも、僕が文字を書くことはないのだろうと、奇妙な心地で思った。

 ――たぶんあの時も、紙の上のどこかには先生の名前もあったのだろう。

 僕がわからなかっただけで。


「なあ。あんた、今度また寄ると良い」

「え、どうして」

 ぼうっと回顧していた僕に、男がまた話しかける。注文の作業を終えたらしい。

「あんたは本は嫌いなようだが、子どものうちに言葉に触れないのはやっぱり勿体ないさ」

 男は再び身を乗り出して、カウンターに張られた掲示物を指さした。

「まあ、勉強がてらさ。ちょうど来週のこの時間だ、待ってるからな。ご主人様にかけあってみな」

「ちょっと、勝手に」

「難解そうな専門書を読み解くらしいお方が、学ぶことに反対するとは俺には思えんからなあ」

 男はそこまで言ったところで、他の館員に呼ばれて去っていった。

 不気味な暗号しか情報が得られず、僕は腹の底にたまったものを吐き出そうと息をして、すごすごと図書館を辞した。

 抱えた荷物が、いやに重く感じられた。



 家に戻ると、先生は机で何かを書きつけていた。本を注文してきたことを報告すると、口先だけの薄く笑みと、「ありがとう」という返事がくる。

「それで、あの……」

「ん?」

「図書館のひとが、来週来てって。勉強しに」

 先生は筆記を止めて、不思議そうに顔を上げた。

「本が……嫌いでも、言葉に触れろとかって。何するのか、教えてくれなかったんだけど……」

 正しくはポスターの指さしはされた、ということが言いにくく、僕は口ごもった。先生は僕の顔を見上げるように数舜見つめた後、手元のペンをくるりと弄ぶ。

「僕は、行ってくると良いと思うよ。学ぶのに反対する理由なんてない。きみがいやじゃなければね」

 先生の返事は男が予想した通りのものだったが、末尾にもう一言加えられていた。

「いやっていうか……」返事に感じた齟齬から、僕は自分が言えなかったことにためらいの本質があることを知った。「……ポスター、貼ってあったんだけど。そんなんじゃ、何するつもりなのかわからないから……」

 我ながら消え入りそうな声だった。その後の僅かな静寂が、なぜか耳につくような心地で落ち着かない。

「情報不足で躊躇するのは自然だし、堅実だね」

 他方、先生の口調はさらりとしたもので、僕の得体の知れない粘度のようなものを軽くしたように思った。

「その情報が手に入ればきみの躊躇が消えるというなら、次の買い物は一緒に行って、見てみれば良いよ」

「えっ」

「いやならいいけどね」

 先生はまた、口癖みたいに付け加える。僕がいやだと思うかが、大切なことだと思っているかのようだった。けれど、僕の気持ちに先生の行動まで委ねられてしまうのは、落ち着かない。それこそ、ポスターの内容がわからなかったことよりも。

「えーと」何かきちんと返事をしなければ、先生は本当に一緒に行きそうだ。急いで頭を回転させて、答えをひねり出す。「一緒に行かなくていいです。行ってみてこっそり見てれば、何をするのかわかるから……」

 先生は少し笑って頷いた。

「そうだね。じゃあ来週、気をつけて行っておいで」

 先生は新しい紙を引っ張り出して、また何かを書きはじめる。



 くだんの来週はあっという間に訪れ、僕は後悔や戸惑いをどこかでは捨てきれないままだったけれど、図書館へ出向いた。先生に宣言した通りに隠れて内容を見定めるつもりだったのに、受付の男は目敏く僕を見つけた。

「おお、来たのか」

 こっちだ、なんて手を引こうとするので慌てて抗議する。

「僕、勉強なんて」

「まあこの間は勉強などと固く言ったが。なに、話を聞くだけさ」

「話を聞く?」

「そうさ。本嫌いのあんたでも難しいことでもない、やっていけよ」

 結局、情報不足のまま手を引かれ、部屋に放り込まれたのだった。

 まばらに人が集まっていて、大小さまざまな輪をいくつか作っている。机と椅子が並んでいる所もあれば、床にそのまま座っているひともいた。記憶の端に、先生の家に来る前、固く冷たい床に転がっていたことが思い浮かぶ。

「おっと、ここは土足厳禁だ」

「どそく、げんきん?」

「靴を脱ぐんだよ。ほれ足元、気持ち良いぞ」

 僕の記憶の光景と違うということは男に言われるまでもなく気づいていた。床には絨毯が敷かれていた。男に靴を奪われて靴下越しの足を下ろすと、柔らかくて温かいような感触が足の裏に伝わる。

「ここはな、寝っ転がってもいいんだ。みんなが持ち寄ってるから、そのへんのものを食べてもいい。あ、床にはこぼすなよ」

「待ってよ、結局なんなの?」

「だから話を聴くんだよ、傾聴というやつだ。まあこの通り井戸端のようにもなりつつあるがな」

 僕の背中を押し込みつつ、男はようやく説明らしいことを述べた。

「本も素晴らしいが、ひとが語る言葉も価値がある。本を書くのはほんの一握りの人間だが、体験や思考はひとの数だけあるんだ。それを表出することも、じっくりと聴くことも、濃密な学びであり、生きる糧となるはずだ」

 僕の瞳が揺れたのが、男の瞳に映っていたかもしれない。

「あんたくらいの年なら、いろんなことを考えるだろうし、何でも学びにできる頃だ。自分のことを話すのも、ひとの話を全身で聴くことも、できないやつにはできないんだぜ」

 男の説明は頭の中に吸い込まれ、落ち着くところを探していた。

「あんたはできそうだし、もし今できなくても、できるようになるだろう」

「決めないでよ、なんでそう思うの?」落ち着きどころはまだ見つかっていないのに。

「今まさにそうしている」男は笑った。「目を見て、呼吸やしぐさを合わせ、わからないことを訊き返す。そういう動作が、こころを傾けて聴くということの一部さ」

 その瞬間、男の説明は僕の頭の中にはまるところを見つけ、僕は傾聴という単語を知った。

「そら、あのへんに混ぜてもらえ。子どもは歓迎されるぞ」

 男が僕の背を押した点から、不安だけではない緊張が、体の中に波を広げて伝播した。



 先生の部屋に行って帰宅の報告をすると、先生は読んでいた本を閉じて「どうだった?」と目を向けた。

「えーと。傾聴、っていうのをしてて……」

 先生が言葉の切れ目に頷き、それが促しともなることを、自覚した。

「いろいろ話を聞きました」

「へえ」単調な感嘆にも興味が含まれていることがわかるのは、つながる言葉と視線が裏打ちしているからだ。「どう感じたの?」

「どう?」

「そう、例えば楽しかったのか、疲れたのか。またやりたいとは思った?」

 訊き返すことが話を深めていくらしいという、数時間前に芽生えた仮説もすぐに確信になった。

 僕は頭の中を探る。

「ちゃんと聴くのはすごく疲れた、けど……」

 まっすぐな答えを用意するのは難しい。

「……実はここに来る前、あんなにちゃんとじゃないけど、ずーっとひとの話を聞いてて……」

 そうなんだ、と先生が相槌を打つ。

「幽霊とか神様の話を、ずっとしてるひとだったんだけど」陽の光に透けた先生を錯覚してその言葉を連想したことを、遠く思い出した。「あと妖精? とか、そういう……。僕が聴こうとしてたんじゃなくて、そういうことをずっと話しかけてくるひとがいたの」

 先生が、塗装が剥げたままの揺り椅子を勧めた。

「そのひとは言ってることもすぐ変わるし、よくわからなかったんだけど、何をしても話しかけてきたから、僕もたぶん実は、聴いてた。不気味だったから訊き返さなかったけど、食い違うことを探したり、とびとびの話をつなげたり、して」

 刻々変わる視界の角度のどこかには、あの時の音が見える。

「結局わからなかったけど、よく覚えてる。それで」その角度や移り行く重心の先に、先生への返事を改めて探した。「その時と比べたら、今日は良かった……と思う」

 先生は少し目を細める。

「そう。良かったんだ」

 僕の頷きがぎこちなくなったのは、揺り椅子の心地ではなく話を聞かれることが、くすぐったいと思ったからだ。

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