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季節、名を待つ  作者: こうあま
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特別編:共生の祈り

本編のいくらかあとの話です。例によって思い付きとノリと勢いで構成されています。

数ある可能性のなかのひとつの話です。

テキレボEX2のアンソロジーに参加するために書いたものです。テーマは「手紙」です。

 リタが、一通の手紙を持って帰ってきた。困った表情を浮かべて。

「おかえり。どうしたの」

 エンの問いかけに「これ、図書館で渡されたんだけど」と差し出してきたのがその手紙だ。

「先生の名前と、僕の名前が両方書いてある。……これは、誰宛て?」

「ああ、これはね」

 エンのフルネームに様方が付いており、それに続いてリタの名前が書かれている。エンの家のリタ宛という意味だと、文字をなぞりながら説明した。

「じゃあ、僕宛て?」

「図書館か……最近はきみの名前でメモを作ってたからかな」

 そもそも手渡しなのに住所や家主の名前まで書くなんて律儀だな、と思う。

 町のシンボルと言うべき大きな図書館は半分本屋みたいなもので、買い取るといえば取り寄せてくれる。以前はエンの名前で何度も本を取り寄せてもらっていた。そして、そのおつかいに実際に行っているのはリタだ。

 リタは図書館で開催される傾聴会にも度々行っているから、図書館の職員とは顔見知りになっているはずだが、職員はリタのことをエンの小間使いだと思っているらしい。一度エン自身が出向いた時は、親しみを込めた声色で「あんたがリタのご主人様か」と言われた。この手紙もそれの表れだろう。

 主人じゃなく家族だときちんと言っておけば良かった。そう思いながら封筒を眺める。リタとエンは家族であると自認しているけれど、つまりは他者にとっては、自認しているだけの他人だ。

「なにが書いてあるか読もうか。封を切るよ?」

 頷くのを待って封を開ける。リタはじっと覗きこみ、読める字を探して顔を顰めた。

 リタが読める字はごくわずかだ。エンとリタの、親しいひとの名前。数字。エンがリタに預けるメモによく書く単語。絵としてまるごと覚えているらしい。前後の文脈が読めていないから、少し癖字になるともう認識できなくなる。使っている筆記具でさえ変わる。書くのも似たようなものだ。

 リタはほんの少しずつ認識できる「絵」を増やしていっているものの、それはごく限られた変化に過ぎない。リタが読み書きを苦手とするのは、努力や機会が足りなかったからではなく、そういう頭を生まれ持っているからだ。かたや記憶力はよく、口頭の説明も文脈をよく捉えて理解する。

「絵本の件だな」

「絵本?」

「読み上げるよ」

 音読することは、どんな文章であってもなぜかどこかでこころが晴れるから不思議だ。

 リタがこの家に来てから、エンは声を出す機会を手に入れた。リタと意思疎通を取り、情報や知識を与えるには、とにかく声が必要だ。風邪をこじらせてエンが声を出せなくなった時など、互いに困り果てたものだ。

 エンが読み上げた内容を、リタは確認した。

「本の取り寄せに時間がかかるっていう手紙?」

「そう」

「絵本なんて取り寄せて、先生どうしたの」

「まあ、きみ用にと思って」

 リタは文字が読めないが、絵本は好きだ。書かれている物語は、一度エンが読み上げてやれば理解できる。傾聴会に行き続けていることといい、リタは誰かの語りに触れることが好きなのだろう。

「きみが好きな本の作者が新作を出したと、デイさんが教えてくれたものだから」

 先日デイから届いた手紙にそんなことが書いてあった。首都にいる編集者なのだから、実物も用意してくれれば良かったものを――エンは多大に彼に甘えている自覚があるので、そんなことも思う。

「どの本のひと?」

 そう尋ねるリタにタイトルを言ってやると、ほんのり目が輝いたのが見えた。

「好きな本でしょ」

 リタは素直に頷く。そして、「楽しみだね」と笑った。


 日々が過ぎ、本は無事に図書館へと届いたらしい。リタが引き取ってきた絵本の表紙は、美しい緑色をしていた。見覚えがあり懐かしい気持ちになる、でも決して見たことのない眩しい絵だった。

 居間の椅子に、いつもは向かい合わせに座るところを、ふたり並んで掛ける。テーブルの上、ふたりの間に本を開き、文字を読み上げては絵を追いかけていく。

 物語は、静かな森で暮らす動物たちが、迷い込んできた新たな生き物――人間に遭遇するというものだった。動物たちは、人間を受け入れるか迷う。当初ひとの世界に追い返そうとするが、その人間の苦境を知り、どうやってともに生きるか考えるようになる。

 食べるものも、眠り方も違う。価値観なんて言うまでもない。だが、言葉は通じた。

 やがて動物と人間は決意する。互いに変えられないものは受け入れ、変えるべきものは変え、そして変えられないものと変えるべきものを区別することを。

 そうして彼らはやがて、共生のすべを手に入れていく――そこで物語は終わる。

 リタは最初のページに戻って、もう一度本の隅々までをひたむきな眼差しで見つめはじめた。そういう時のリタを眺めることは、エンにとっていっとう心地よい瞬間のひとつだった。自分より小さいものを守り育てる、そのことへの圧力を、喜びが上回る時だ。

 リタは着実に世界に触れ、豊かに生きている。そのことは、エンに安堵を呼び起こす。

 リタは本を閉じると、顔を上げて言う。

「先生、嬉しそうだね」

 顔に出ていただろうかと思っていると、思わぬ言葉が続いた。

「先生が好きな本の作者の、新作だものね」

 虚を突かれたのが、今度こそ顔に出たはずだった。

 いつだったか、エンが好きなものを知りたいとリタに言われた時、一冊の本を差し出したことがある。実家にもあった絵本だ。この家に引っ越してきた直後、懐かしさを覚えて開いてみた記憶があったから、リタにその本を見せたのだった。

 そしてリタは、その本がお気に入りだ。それは単純に、ただそうというだけのことだと思っていたけれど。

「僕は、先生が好きな本だから好きになったんだ」

「……そうだったの?」

「そうだよ。ねえ先生、新しい本もすごく良いね」

 やわらかくほほ笑んだ瞳が語り掛けてくる。

「……そうだね。確かに好きだ」

 幼き日に読んだ、そしておとなになって再び開いた本は、子ども向けだけれども子どもだましではなく、おとなが読んでも学びのあるものだった。そして今回の本もそうだ。

 ――神よ、与えてください。変えることのできないものを静穏に受け入れる力を。変えるべきものを変える勇気を、そして、変えられないものと変えるべきものを区別する賢さを。

 今のエンは、この言葉はある神学者が残したものであると知っている。病気の回復プログラムや自助会でさかんに用いられている言葉であることも。

 奥深い、自己と社会への対峙のしかたを語った言葉であると思う。そういう生きることの糧となる言葉を、子ども向けの本にそっと載せておくことに、おとなの葛藤と祈りを感じる。

 そしてその祈りを受け取ったエンが、今度は祈るのだ。

「あの本は昔、僕に物語の楽しさと世界の広大さを教えてくれた。今回の本もそうだ。……とても好きなもののひとつだ」

 エンは祈る、自己が勇気と賢さを手放さずにいられることを。

 世界が静穏であることを。

 のちに続いていく子どもたち――リタに幸福があることを。

 そして、子どもだった自分に寄り添ってくれたものの豊かさに感謝する。リタに寄り添う自分が、そうあらねばならないのだと思うとともに。

「僕のためにも、この本は必要だね」

「じゃ、この本はこのまま居間に置こうよ。好きなときに読めるように」

「きみがそうしたいなら」

 リタは大きく頷いて笑った。

「デイさんにも読んでもらおう」

「もう覚えたでしょ」

「何度聞いても楽しいし、デイさんが読んだらまた違うから。ねえ先生、デイさん次はいつ来るの?」

 お茶を入れるつもりらしく、立ち上がって茶器を準備しながらリタが言う。声が弾んでいた。

 エンはその姿が愛おしく、同時にほんの少しだけ居心地が悪くて、ぼやいてみようかという気持ちになった。

「リタ」

「ん?」

「きみは僕よりデイさんが好きなの?」

 リタは茶器を手にしたまま動きを止めた。

 たっぷり五秒は数えたあと、ため息をつく。

「……なに子どもみたいなこと言ってるの、先生」

 子どもに言われた、と思う。

 否、リタはまったくの子どもではなかった。幼さを残し、だが働くことができる年齢で、自律的に生きることを選んでゆく青年期にある若者だ。

 エンはリタを未来に送り出す責任がある。

 でもどこかで、まったくの甘えであるのかもしれないけれど、リタは対等な家族だった。だからこんな言葉をかけてみたくもなる。エンの孤独を埋め、エン自身の未来を作ってくれる、かけがえのない人間だから。

 リタは茶器を置き、ひと呼吸ののちにきっぱりと言った。

「エン、僕にはあなたが一番」

 言葉は簡潔で、まっすぐだった。

「デイさんのことも、これまでの家族も好きだけど、先生とは違う種類の『好き』なんだ」

 リタは呆れも諭しもひとつとして滲ませない。ひたすら、慈しみにも似た親愛だけがある。

 リタはめったにエンの名前を呼ばないが、リタの呼ぶエンの名前にはいつも魔法が宿っている。くだらない気持ちのすべてを氷解させる温かさに満ちた、特別な魔法だ。

「……わかってるくせに」

 そう付け足す瞬間だけちょっと不満そうに眉を寄せ、それから気を取り直したように茶筒を手にした。

 謝るのがおとなの態度だろうな、とエンは思って、だからこそそうはしなかった。

「ありがとう、リタ」

 茶葉を量っている姿に、続けて声をかける。

「――今度、墓参りに行くけど。一緒に行かないか」

 リタはまたぴたりと動きを止め、だが今度はすぐに、何事もなかったように手を動かすのを再開する。

「行く」

「ん」

 エンは頬杖をつき、リタを眺める。

 墓参りより先に、図書館に行かなくてはと考えた。リタは家族なのだと、訂正をするために。


作中に出てくる神学者の言葉は「ニーバーの祈り」と呼ばれる言葉です。

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