特別編:月下の落とし子たち
本編の数年後です。思い付きとノリと勢いで構成されています。
数ある可能性のなかのひとつの話です。
観察者のつもりで当事者だったことに気付くデイの話?
「デイさん、先生いま寝込んでるの」
到着したデイにお茶を出しながら、リタが言う。
リタはいつからか、デイに出すお茶だけちょっと冷ますようになった。熱いものが苦手だと悟ったようだった。
「はは、呼んでおいてですか」
「なんか思ったんだけど、先生ってデイさんの扱いひどくない? せっかく来てくれるのにね」
「いやいや、体のことはしょうがないよ」
「そうじゃなくて……」
リタは自分のマグカップにだけミルクを注いでいる。エンもデイも入れないのに、砂糖やミルクで味を変えることをどこからか覚えたらしい。
「休暇のたびに呼びつけて、デイさんの都合ってものを考えてないよね」
「俺はここにくることがいつも楽しみですよ」
デイの住む地は、変わらずこの家とそのわずかな周辺だけで世界が完結しているリタにとっては、まだあまりに遠いらしい。心情的にも、瞬く間に発達していく交通事情からしても、デイにしてみればさほど遠いと感じない。
「……僕、も来てくれるのは楽しみだけど」
不服げな呟きをカップに落として、中身をかき回し、ひとくち含む。ふう、と長く息を吐きだした。
「リタさん、見るたび大人っぽくなるね」
「へ? ……そう?」
「来年あたり成人でしょう、子どもの成長って早いなあ」
「……先生みたいなこと言わないで」
声から子どもっぽさが抜けた。出会ったころは目にかかっても放っておかれていた前髪は、いつからか整えられるようになったし、いまでは後ろ髪と同じ長さまで伸ばして、耳にかけられている。視線を伏せるさまには、言いようのない憂いなんかを漂わせるようになって、デイはそれらすべてを成長とか成熟という単純な言葉でしか呼べなかった。
本当に早い、と思う。
出会って数年の間に、リタも、リタの外にある大きな世界のあらゆることも、急速に変わっている。
特に、奴隷解放と未成年保護は目覚ましく進展した。特に家庭内保護とか教育という名目が奴隷的待遇の温床を保ち続けてきた反省から、教育機関の機能と、子どもを家庭内だけで過ごさせることへの風当たりはかなり強化されつつある。
ただ実際には、リタのような非定形な発達の子どもに対しては、十把一絡げな教育機関ではまだ手が行き届かないだろう。これから果てしなく長い道のりを経ないと、結局はリタのような子どもがきちんと学ぶことはできる日は来ない。
とはいえ、成人年齢が国全体の制度としてはっきり流布され、未成年の間は教育を受ける権利が優先されるというお題目は強く打ち出されている。リタが数年来こうして過ごしていることは、必ずしも望ましいとは、外からは言われない。
――などということは、リタとエンは全く気にしていないだろうな、と思う。むしろエンはリタにどこまでそのようなことを知らせているのか、怪しいものであった。
外接点ばかり多いデイからしてみれば、そこまでのんびりとした気持ちにはなれないが、口を挟むつもりもなかった。
ここがどうしようもなく居心地がよく、なるべく長くこのままのかたちで保たれてほしいという思いを持っているのは、きっとふたりと変わらない。
「あの、デイさん……最近さ」
沈んだ声だった。
「自分で文字を読んで、書けるって、いいなって思う。すごく」
目線がかち合う。不満げで、悲しげだった。
「誰かにあいだに入ってもらうことと、直接自分で読み書きすることって、厳密に同じではないなって思って。それに、誰にも知られたくないようなこともあるし」
リタの言葉に宿る率直さはいつも好ましかった。
リタはいつも、からだのなかに飽和した感情を、ゆがみのない言葉選びで空気に吐き出す。その言葉は溶けだして混ざりきっても空気を汚さず、むしろ浄化しているかのようだ。
デイにとって、そのような心地よさがリタの言葉――その後ろにある人格――にはある。
「……そうだね、俺や先生では満たせないこともあるだろう」
「そういう気持ちがすごく強くて、落ち着かない」
リタは言葉通り落ち着きどころをなくしたように、悩ましげで他動的な態度を見せる。
「そういう苦しいこと、先生には言ったの?」
デイが尋ねると、それが、ぴたりと止まる。デイは何か察するものがあるような気がした。
リタはずいぶん長く停止したままだった。緩やかに呼吸を取り戻して、表情はいっそうゆがめる。
「……口ではうまくいえないことを、書いて見せられるなんてうらやましい。たとえそのものを見せなくても、自分のために書いて整理できるの、ずるい」
エンは特にそういう手法を偏重しそうなタイプだから、間近で見続けているリタの葛藤は増すだろうな、とデイは想像した。
「言葉で言えないけど、先生に伝えたい。ということがあるんだよね、俺を介さず」
「……気を悪くした?」
「まさか。喜ばしいよ」
リタとエンには特別な紐帯がある。それは特になんのほころびも見せているようには思わないし、変化が起こるのはリタの成長を考えれば自然なことだと思う。
以前リタに、家族になる手続きはどんなものがあるのか、なんて質問をされたことがある。丁寧に説明してやって、リタはうんうん迷いながら帰り、そのあと結局どれを選んだのか――ひょっとして手続きそのものをしないことにしたのか――デイは知らない。相手が語らない限り聞かないのが、この紐帯に対するデイの筋であり、一線だった。それにしたって近づきすぎている自覚はあるけれど。
「それに、当然そうなっていく、という課題に向き合わずにきたのは俺や先生の怠慢だよ」
「……そうじゃないよ」
眉を寄せて口をとがらせる。
「デイさんも先生も、すごくたくさんのことをしてくれてるって知ってる。ふたりに足りないことがあるなんて思ってるわけじゃない。自分に足りないものがあることに腹が立つ。それを……自分自身ではどうにもしようとしてこなかったことが」
そうやって話せるのは上等だし、デイにはありがたいほどに聞こえるものであったが、そう返すのがリタの望みではないこともわかっていた。何を言うべきか少し思案する。
「その言葉もなかなか簡単にはかたちにできるものじゃないとは思うけど……リタさんは、そんなのとは比にならないほど、表現しにくいことを抱えてるんだな」
受け止めたリタの表情に、たぶん拒否されなかったと予想する。
苦しくて仕方がないというリタの顔に、途方もなく安堵するな、とふと気づいた。その理由を探っているうちに、リタが低く話し始める。
「……このあいだ、先生またふらっと出かけて。その時、いいなって思った」
「何が?」
「書き置き一つで、自分がいたって残せること」
艶めいた瞳の虹彩に、緑がかった影が混じる。リタの双眸にたまに浮かんで見える不思議な色だ。
そうだ、こういう色を見たとき、心がざわつくのだ――と思い出した。そして先ほどの安堵は、その対極だった。
リタが人間らしく、ここに実存する、という安堵だ。
リタだって、その気になれば書き置きくらい残せるだろう。図は描けるし、数字と署名も不格好ではあるが用をなすものを示せる。
ただ、そういう筋の通っていない話は、リタの混乱や葛藤を雄弁に表していて、それがやはり好ましいと感じる。
「僕も自分で本が書きたかったって思ったんだ。本が書けるってすごいことだ。そこに残ったものは、確かにこれが自分ですって、言える気がして」
リタが何に首を絞められているのか、わかるような気がした。
だがデイはいつも、それを表す言葉がうまく選べないな、と思う。
おまえはどこに立っているんだ、と鏡合わせの自分が問う。
この国だかほかの国だか、とにかく昔の話を思い出した。
人間にない生まれをして、養子として老いた夫婦のもとで育ち、あるとき娶られるかと思いきや、異世界へ帰っていく、というような筋書きだった。
――リタのいく先が学校や、あるいはほかの人間のもとあれば、それはまだエンにとって救いの残される話かもしれないな、とぼんやり思う。
デイには、リタもエンもふたりまとめて、浮世離れした領分に住んでいるように見えるからだ。
ふたりの実存を知っている。けれどそれを証明し続けるものは、デイが持ち合わせているものよりもずっと少ない。エンがいくつかの研究を残しているにしても、それが証明することができるのは「研究者」というごく一部分に過ぎない。そしてエン自身は、リタを失ったら輪郭がおぼつかなくなるようなところをずっと残している。
どうかずっとこのままで、と思う。
他方で、それはあまりに排他的で脆い。その脆さには、月の明かりが消えるのと同時にリタが影をくらませそうだ、という妄想がつきまとう。
そしてそのとき自分はどこに接しているだろう。何を覚えているだろう、という感傷がたまによぎることを、いつまでも止めることができない。
「……あ、デイさん着いてたの」
「先生、起きちゃったの?」
「いつまでも寝てられないよ」
扉の開いた音とエンの声に、意識を引き戻された。
リタとは逆に、このひとは何度見ても変わらないか、どちらかというと子どもっぽさを増して見えるなと思う。社会性――好意的に言い換えれば他人行儀な振る舞い――を捨てているさまがそうさせるのか、はたまた。
「お邪魔してます。……調子は、いかがですか?」
振り向いて挨拶をするデイに、エンは目元を緩ませる。
「それ、懐かしいな」
「は?」
「いやなんでも。まあまあだよ、頭痛は治まったから起きてきたんだ」
エンがよいしょ、とデイの隣――より適切に言えば家主の定位置――に腰かけた。多めに入れてあったお茶と、デイの飲み終えたカップが空いているのを見つけて「デイさんカップ借りて良い?」と言い放つ。
「いやです、自分で出してください」
「優しくないね」薄く笑った。
「優しさはそんなに都合の良いものじゃありません」
「もう先生! やめなよ」リタが手早くカップを出して突きつけた。エンがポットを傾けると、とぽとぽと平和な音を立てて液体が流れていく。
「ありがとね」
「先生寝ぼけてるの?」
「そんなことないって、リラックスだよ。また無事に頭痛が消えたことに、ほっとしてるんだ」
冷めたお茶をゆっくりと飲むさまは、確かに和らいでいる。
こんなひとだったかな、いやこんなひとだった。と、デイはひそかにごちた。
会うたびに確かめている。
本当は柔らかく繊細なひとだ。揶揄や挑発や無作法さは、彼を苛ませるものの多さの裏返しだ。頭痛との、社会との接点をいつも見つめている。その距離がもたらす生きづらさが本心を見えにくくさせる。
「先生起きたなら、買い物してくる」
リタがさっと席を立ち、空になったポットを下げた。エンは「わかった、気をつけて」と応答する。
リタが手早く片付けて出ていくのを、エンの隣で席に着いたまま見送った。玄関扉が閉まる音を聞いてエンが言う。
「大きくなったよねえ」
「そうですね」
予想通りの陳腐な言葉に、なるほど陳腐になるほど言いたくなるものだろうな、と思いながらデイもしみじみと返す。
「でも、変わりませんね。ここは」
「……ふふ、そうだろ。僕は驚くほど同じ。平穏無事な生活だよ」
飲み終えたカップを置いた手に、頬杖をつく。
「でもちゃんと変わってるんだ。リタは、僕が与えなくても知識や情報を拾うようになったし、隠し事もするようになった。この先のことを考えてるのかもね」
デイは思わず体ごとエンの方を向いた。細めた目は、達観しているがごとく思考が透けない。
「リタが自分で考えて、この先の自分のありようを選べるなら、僕はそれが楽しみだ」
「……意外」
「なにが?」
エンはデイから零れ落ちた言葉を聞き逃さなかった。デイの話を聞こうとするなんて、正直珍しいなと思う。
「いや……その。あなたは恐れていると思ってました」
「僕は、きみにはそう見えているだろうな、と思っていたよ」
返事はあまりに早く、声色は愉快そうでさえあった。
「リタが何を選んでもいいように、デイさんに会い続けてるんじゃないか」
デイは急激に、足元に座標が示されたのを感じた。
「……勝手なひとだなあ」
そして、なんだか笑いがこみ上げた。
知っていて三人きりの場所を保ち続けるエンの姿が、心底勝手だと思う。だが、たまらなく救われる心地がした。それはつまり、自分がどこに立って接しているのか知ることだった。
「そうだね。こんな勝手、誰にでも一方的に通すわけじゃない。デイさんの希望も叶えてるでしょ」
「希望?」
「つかず離れず。このままがいいっていう態度だよ」
言葉を奪われる。笑っていたはずの表情も、呼吸も。
「何も変わってほしくないっていう気持ち、わかるよ」
衝撃はあまりに大きい。
けれど、エンは穏やかな語りをやめず、デイの感覚器官はきちんとそれを拾う。
「これから変わってしまうことにきみが苦しむ日がきたら、そのときのきみの実存を、今度は僕が見届けて、支えてあげるよ。それで、勝手さとその見返り、お互い帳尻がとれるんじゃないかな」
よどみのない、偽りも隠していることもない言葉は、どうやって用意したのだろう。エンはどこかにそれを書きつけたのだろうか?
文字は途方もなく強大で、焦がれてやまない。
けれど触れる肉体の温かさは、それをはるかに上回る。月のない夜にも、まったく奪われることがない。
「……あなたはいつも俺を振り回してますから、ぜんぜん帳尻、とれないですよ」
「そう?」
そういう知覚の個人差は埋めがたいからなあ、とのんびりした声で言う。
「感謝も歓迎も、いつもしてるのだけど」
デイがエンから受け取っているものも、エンに向ける感情も、もっと密度も熱も大きなものだと、デイは感じ入る。でもそれらに救われて、すっかりそれ以上何も起きないでほしいと思っていたことに、同時に気づく。リタにもエンにも、それぞれ。
ふたりとも、ずっと同じ姿かたちで、同じ場所にいるわけがない。
それならデイもそれを追いかけて、変わっていかなくてはならないのだと知る。
エンはまだデイを見ていた。
「あの……やはり」
「何?」
「リタさんには、読み書きをサポートする第三者を探した方がいいかと」
「きみは無粋なくらい現実的でいつも頼もしいなあ」
エンが破顔するのに、デイも思わずつられた。
外では真昼の月が浮かんでいる。