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季節、名を待つ  作者: こうあま
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特別編:エンの幻影随想録 ペンのちからとリタのかたち

H29年3月発行の製本版におまけとして書き下ろしたものです。

 久方ぶりに開けた窓から、和らいだそよ風が入り込む。カーテンとその傍らに吊り下げられた魔除けが音もなく動いたことを、エンは机上に落ちている影の揺らぎから知る。

 わずかな動きが自然に気に留まるほど、家が静まり返っているのは久しぶりだ。だが唯一ともに暮らしている相手といえば、おおむねいつも静かなものであったはずだ。だからこの静けさは音声的なものではなく、心情の反映によるものだな、と理解した。

 リタは今頃、車上の人となっていることであろう。

 昨日までと全く違った朝のひかりは、昼の高さまで昇った頃からは凡庸だ。心情というものがどれほどの色眼鏡をかけさせるのかを、そしてどんな心情もひとつの定まったかたちとはならないことを、興味深く得心する。

「ひとなみに、さみしいものだな……」

 胸のうちに虚無の霧が立ち込める感覚はよく知っているはずだが、いつものそれは激しく身を腐食するはずのものだった。比べれば今のおのれの呟きなどあまりに牧歌的で、間抜けなほどにのどかに感じられる。

 エンは知らず口元を綻ばせながら、一枚の白紙を手元に寄せた。終わったばかりの解析の記録をそこに書き付ける。

 清らかな喜びと同じく、さみしさのかたちもまた、無常だ。エンは、自分に長く染みついてきたその感情を懐かしむ。



 エンにとって「さみしさ」とは、「自分が外縁にあることを思い知る」という意味だった。

 自分と他者は同じ姿かたちをしていても、立っている場所が違う。そのことを感情のかたちにしたものがさみしさだった。

 エンの立つ場所からは不正義の大きさがよく見え、搾取と犠牲の構図がありありと浮かぶ。自己愛や保身に近づくと息苦しくて、よき方向を目指すことを放棄した生きざまに嘔吐いた。生命維持のために素朴に働く、合理的な思考のメカニズムであると理解していたし、自身とて清廉に生きているわけではないこともよく知っていた。だからこそ、その装置の働くに任せていることに腹の底からの怨嗟と嫌悪を抱いていた。

 さみしさはうらみでもあった。

 自分を外縁にやるものたちの、自分が内縁にあるがゆえの傲慢に対するうらみだ。

 そのうらみが、何より自分を追い詰めて疲弊させていることも知っていた。エンの突き詰めすぎる、うろのようなかたちをした思考は、他者を切ろうとすれば自分にも刃が向く厄介なものであった。ふいに自虐が去来すれば今度は、同じ状況の他者に牙をむく光景を見せる。何を考えることも認められなくなる苦しみに、ずいぶん長く支配されていたものだ。

 エンがいとおしさのようなものと結びついたさみしさを知り、その意味を改めることができたのは、ふたりのリタに出会ってからのことだった。



 どんな思考を巡らせても、慣れた仕事と使い込んだペンの進行は滑らかだ。いま記録できることはあらかた書き留めたと確認し、エンは息を吐いた。

 紙束を埋めるごと、そこにちからが宿る。知識があるべきところに集約されること自体のちからと、おのれにも確かな足跡があるという実感のちからだ。

「打ち込めることがあるのは幸運かな」

 固まった体を伸ばしているとまた柔らかに風が抜け、今度は外から一枚の木の葉が吹き込んだ。

 張りのある緑の葉は、森の豊かさそのものだ。葉脈を撫でると、まなうらに別の緑が想起される。

 それはまだ若く浅いこの緑色よりもよほど深い、緑色の髪だ。



 リタが来た日のことを、エンはあまり詳細に覚えていない。

「縁、縁よ。利他を連れてきた、おまえの求めるものを」

 断片的な記憶から、商人の声色はすっかりと欠落していた。不気味な笑みが添えられていたのはぼんやりと覚えていて、馴染んだ名が耳とこころを劈いたのも確かだ。

 だが、あの商人には足はついていたか。手指は、五本だったか? 目も耳も同じ姿かたちをして、正しく影はあっただろうか。目の光はあやかしのそれでなかったと、果たして言えるだろうか。

 決して答えは見つけられない。

 ただひとつエンが明確に覚えているものは、風もないのに商人の長い緑色の髪が揺れた瞬間のことだ。

 その流れは森の枝葉がさざめくように自然で、川のうねりのようにちからがあり、いきものの恩恵を湛えて見えて、そして。

「縁。生きよ」

 確かにそう言った。

 その後の記憶に、その緑に関するものはまったく見当たらない。ただその瞬間を境に、エンの手元にいつの間にか与えられていたものがリタであり、気づけばリタはエンの生活の一部分となっていた。



 エンは久しぶりに自分の懐中時計を開いた。

 いつも日の傾きで何となくの時間を見るばかりなのは、時計が苦手なために身に着いた習慣だ。絶対の正しさとは均一なる時間にこそある、と振りかざしてくるようであったし、何をするにも気が散った。

「休憩、しないとあとで怒られるだろうな」時計の針は、リタがいつも呼びに来る頃を指している。

 苦手でもリタに腕時計を渡したのは正解だった。行動の区切り目を設け、文字を持たないリタと強制的に話すことは、エンを癒すために役立った。時計を開くことが在りし日より容易くて、時間との付き合い方をいくらか知ることにも供していたようだと実感する。

 休憩だけでなく食事や整容もしなければ、怒られるどころか泣かれるかもしれない、とエンは居間に戻る。エンの不摂生を知ったらリタはどんな言動をするだろう。脳裏に浮かべるリタの姿は、どこかあいまいだ。



 リタは、エンの生活とこころのかたちにぴたりと当てはまる、奇跡のような子どもだ。それはどこか奇妙でもあり、その違和感が、リタが突然風に吹いてさらわれていく者であるという感覚をいくたびも想起させた。

 ふとした瞬間に思うのだ。

 この子どもの髪や目の色は?

 性別は?

 ともに過ごして、どんな変化を、成長をしていた?

 いずれにも用意できるはずの答えに、確信が持てない。答えを口にした瞬間、それにあわせてリタのかたちが変わってしまいそうに思えて。

 すでにリタのかたちには何度か、肝が潰れる思いをしてきた。

 亡き恋人が頭から離れないとき、静かな子どもの眼差しにその片鱗を感じられて仕方がなかった。普段はまったく似ていると感じないのに、そういうときだけは彼女の亡骸を修繕したのかと本気でよぎるほど、よく似通って見えた。

 亡くしたリタを重ねれば、この子どもは本当にその姿になってしまいそうだ。

 エンのその恐れは、リタに決して語ることはない、名前を呼べる日を遠ざけてきた理由のひとつだ。



 食事を求めて戻った居間の机上には、リタが一枚のメモを残していた。

 そういえば後で読めと言われていたな、と思って手に取ると、例によってデイの几帳面な字で、短い文が綴られている。

「先生が説明した今朝の調子の意味がよくわからないので、留守の間はそのことを考えます」

 末尾の暗号のような署名はリタの直筆だろう。文字のちからは偉大だ。のたくった象形にも万感が宿る。

 リタが書いている「今朝の調子」とはなんと語ったっけ、と脳内で時計の針を巻き直した。

「ああ、そうだ」

 エンは自らの述べたことと、同時にその源泉となったやりとりを思い出す。



「あなたのいる世界を、俺は美しいと思っています」

 ある時デイはそう言った。自分よりほんの少し若い男は、脅しつけてでも外縁に来ようとする、奇妙で厄介な人物だった。

「詩的だね、編集者さん」

 揶揄するように言うと生真面目に眉をしかめる。

 エンにしてみれば、デイは内縁に胡坐をかくに最適なかたちをしているように見えた。気丈で健康で、どんな感情も他者に実直に伝わるかたちに表現できる。いくらでもうまく生きていけるだろう。

 リタがあっという間に懐いたことをまったく不思議に感じなかったし、エンもデイのわかりやすさは好ましく思う。

「……俺は」

 ただ、見るものに不安をまったく与えないはずの押し出しの中にひとつだけ、エンがどうしても直視しがたいと思うのは、外縁ではなくエン自身に寄せるような視線だ。

「あなたの見ている世界のかたちがわからないことが、悔しいです。あなたが過ごす季節の名前が呼べないことが、すごく無力で。だから……少しでも近くにいたいと思っています、エンさん」

 デイがせっせと外縁に来ようとするのは境界線を蹂躙するためではなく、たぶんエンを追っているからだ。その追いかける足取りと視線には、デイが誰にも打ち明けようとしない彼自身がわずかに漏れいでている。それが直視しがたいのだった。

 あんなにうまく生きていける風情をしているのに。その実、デイにも。

 自分自身に向けられる感情でさえなければ、彼がそれを打ち明ける最初の相手となってこちらに手招きしてやれるのに。エンは何度そう思ったか知れなかった。それほど、デイは必死で真剣だ。

「わからなくても、きみは近くにいるさ。きみの助けに感謝してる、デイさん」

 内縁で生きているはずのデイの、外縁に追いやられているこころのかたちは、いつもすぐそばに見えている。

 だからエンは、デイがどれほど奇妙で厄介であっても、決して拒否することはない。



「きみとたどった季節の名前を呼びたい」

 それが、リタに述べた「今朝の調子」だった。意味を考えて口にした言葉ではなかったが、様々な思いをまとめていく言葉だったと思考を織る。

 季節の名前、というデイの表現はとても親しみが持てた。己に吹く風、照らす光、こころの温度。それが自分の世界であることを、よくとらえていると思ったのだ。名をつけて書きとめれば、正しく世界のかたちを浮き彫りにするだろう。

 世界のかたちは、己の手に収まる名をつけなければ無秩序だ。

 デイはエンに出会った季節に、きちんと名前をつけてきたのだろう。だから世界が美しいと言った。

 エンの知る世界は、特におとなとなってからは、まったく美しくなかった。全知の存在による創造物なんてものではないし、いい加減で、身勝手で、排斥が横行していて。

 リタがおとなになり、自分と同じ生きにくさ、絶望のようなものを感じることを想像するのは、痛ましい気持ちになる。

 しかし。

 あの緑の影がよぎるたび、それでもおとなになってくれと願う。

 幻影ではなく。幽霊でも、神でも妖精でもなく。

 己と同じひとであってほしい。

 だから、共有できる季節の名前が必要だと思った。

 ひとつは、自分が世界の美しさを知るために。

 そしてひとつは、ともに思い出して、振り返って、そのたびリタというひとへの確信を深められるように。どれほど薄くしか刷けなくとも、その積み重ねがいつかは明確な色を持つように。その色を見て、エンが決めたものではなく、リタ自身が決めたリタのかたちが作られる――そんな遠い日を、いつかは見るために。

「やはり僕は変、かな」

 幻影を見て、妄想を深めていく研究者なんて笑えてしまう。だがそれも一笑に付せる些末なことだった。

 大切なことは、季節の名前をつけること。

 自分にはペンがある。記すことができるのは、託すことができるということだ。

 ペンのちからは、幻影とていつか実体とするだろう。

 さあ。

 リタのかたちを縫いとめるその季節の名。何と名づけ、呼ぼうか。

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