エピローグ
「おでこなんかさすって、どうしたんです」
デイさんが言った。
僕はその何気ない、いつも通りのデイさんらしい支持的な声色にさえも動揺するくらい、ふつうじゃなかった。
これだから文字が読めないやつは、なんて思ってもいないとんちんかんな突っ込みを心中で入れる。
「えっと……」
街で浴びる光は森の中のそれよりも鋭い。人混みの喧騒も、家にはまず見つけられないものだ。駅舎の煉瓦は家の周りで見るものよりずっと新しい。
僕とデイさんは、都市に行くための列車を待っている。路面でなく、専用に敷かれたレールの上を走るという長距離の列車は、僕にとっては乗るのはおろか見るのも初めてだ。
でもこの慣れない環境に刺激されているから返事に淀んでいるわけではない。
「不安ですか?」
「あ、それは大丈夫!」
気遣わしげな声には反射的に返事ができた。表情こそ崩さないけれど明らかに僕の様子を訝しんでいるデイさんに、申し訳なくてひっそりとため息が出た。
家から離れても、僕のこころの構造は家にいるのと同じだ。先生のことばかり結局考えて、やっぱり僕は先生のてのひらの上にいるのかも。
「リタさん、先生のことを考えているんでしょう」
「えっ」
こころを見透かされたかと思って、つい「図星です」と表明するような応答をしてしまった。デイさんは今度こそ表情を崩した。
とても嬉しそうな顔をしている。
「それでいいと思います」
まるで幸せです、とでも語っているようだった。
理由なく、やっぱりこのひとはとても好きだなあ、と思う。きょうだいがいたらこんな感じなのかもしれない。気兼ねなく何でも言えて。
「あの……」
「はい」
「あのね、デイさんとの約束……」
「はい、ちゃんと問いただしてくれたんでしょう」
なんでもお見通しな気がするのは、怖いような心地さえ伴うけれど、安心する。
僕は短く頷いて続けた。
「それで。訊きたいことがあって」
「はい」
デイさんの相槌は深い。大きなてのひらが、いつも背中を支えてくれるみたいだ。
「あのね、家族って――」
さまざまなてのひらが僕の傍らにあることに、僕は深く感謝した。
*
お茶を飲もうか。
夜が一瞬で明けてしまった次の日、デイさんが来ると言った時間の少し前に先生がそう切り出して、お茶を入れてくれた。
先生が入れたお茶を飲むのは初めてだ。一年入れ続けた僕のほうが上手いのは明らかだけど、特別な味がした。
手になじんだカップに、ふと思う。
「先生、このカップ……」
「ん?」
「リタさんのなんだよね?」
自分と同じ名前を、今日は畏れなく言える。
「え? 違うよ」
先生の返事もあっけらかんとした声色だった。そして、僕の予想を見事に裏切った。
「そんなわけないでしょ。過去の恋人の持ち物を同じ名前の子どもに使わせるなんて、趣味が悪すぎるよ」
尤もな言い分だった。でもその趣味の悪さを僕は信じて疑わなかったので、その大いなる誤解を思い知ってひたすらばつが悪くなる。
「で、でもこんな使い込まれてるのに」
「あのねえ。そういう趣向なの、アンティークってやつだよ。よく見れば、名前の掘りは新しいってわかるはずだよ」
言われて僕は凝視してみたけれど、正直よくわからなかった。
「そんなこと、ずっと思いながら毎日使ってたの?」
「先生が悪いんでしょ!」
「まあ、そうだね」
居心地の悪さに語気を強めると、先生は愉快そうに表情を崩す。
その表情のまま、告げた。
「リタ」
「なに?」
「――帰ってきたら、家族になろうか」
「……え」
微笑みの優しさに、異議を忘れかけた。
こころとからだの一番深いところにぴたりと嵌まるような言葉で、ああそうかそれでいいのか、なんて平気で頷きそうになった。手の力が抜けてカップが机に触れ、かたと振動を伝えたので正気を取り戻せたけれど。
戻ってきた力を総動員して立ち上がる。渾身の力で机を叩いて音を立てるのも忘れない。ここは全力で異議を唱えないといけないところだった。
「なにいってるの、せんせい!」
「え、きみこそそんな反応する? さすがにやめてよ、ショックだから」
「ショックなのは僕だよ! 先生、家族と思ってなかったってこと?」
僕の怒号を、先生は見たこともないような純真な顔で受け止めた。
「ああ、ごめん。すれ違ってるみたいだね」
そして、やはり笑う。
「もちろんずっと思ってた。だからさ、手続きをしようかって話なんだけど」
「て……手続き?」
「そう、僕ときみのこころのつながりだけじゃなくて、社会的に、誰の目にも明らかな事実として『家族』であるための」
誤解を短時間でふたつも披露してしまった僕は、静かに鎮火した。燃えかすになって、座りなおすことさえできない。
「手続きって……どんなものなの?」
「何種類かあるけど、きみはどれがいいの」
「どれがって。なんにもわかんないよ」
「まあ、道すがらデイさんに説明してもらいなよ。けっこう距離あるから。考える時間もたっぷりあるはずだよ」
なぜか先生が立ち上がると、机の上に上体を乗り出した僕と同じような格好で、僕に体を近づける。
額の髪をそっと除けると、そこに唇がわずかに触れた。
あたたかみと、優しさだけがそこにあった。
呆気にとられた僕を残したまま先生は離れて、「いってらっしゃい、気をつけて」と言う。
その言葉は、出会った夏よりもずっと熱量のある風を呼び寄せる。