薫風
森の草木が色とりどりの花を咲かせるようになり、風は甘やかな香りを孕んで駆けていく。陽光が眩しさを増すことと、伸びた葉が遮ってできる影の範囲が広がることが競い合う。瑞々しく湿った日陰は涼しく、日向では暖かな光の恩恵が心身に行き渡る。
先生と僕の家に、とても過ごしやすい季節が来た。
ただし僕も先生も、その心地よさに耽溺している暇はなかった。
「先生、これで合ってますか」
かごを置いて先生に声をかけると、是を表す短い返事が戻る。けれど急いで何事かを書きつけているさなかでは、一瞥もくれたか怪しいものだった。
立ち去るかどうか迷っていたら、かなりの間をおいた言葉が返ってくる。
「助かるよ、ありがとう。今の時期にしかできないことが本当に多いんだ」
そう言いながら植物のひとつを手に取り、光に透かして茎を眺めている。僕には先生が何を確認しているのかもわからない。先生に渡された資料の絵を片手に採取してきたのは僕だけれど、説明はやはり読めるわけがないのだから。
これまで仕事の手伝いを指示してこなかった先生はある時、「今だけ忙しくて」と僕に資料を渡した。この全容を知らない森の中でひとの手が入っている範囲は決して広くはないけれど、その範疇でも多様な植物が息づいているということを、僕は厚い束を形成している資料を眺めて知った。資料に記されているのは図鑑の中身のような、植物の絵と説明文だった。
そしてその資料のうち、今の季節だけ実際に生えているものがいくつもあるらしい。ここ数日は、それを入手するための暇もない先生に代わって、僕が絵とにらめっこしながら散策路を探っていた。
おかげで僕も、いくつかの植物を識別できるようになった。そのひとつが、先生の研究対象の「違法な植物」だ。注意深く見ると、散策路の片隅にも生えていることがあった。
「先生が研究しているのは、このあいだの葉っぱなんでしょ。こんなにいろんなものをどうして調べるの?」
「それはね……」先生は何かの液体を湛えた瓶に、また何かの植物の葉を入れる。その横にある瓶には、更に別の何かの花弁を入れる。名前を知らないものだらけだ。質問への答えも、謎の瓶の中に吸い込まれて消えたのかと思う。やっぱり邪魔かな、と思って今度こそ立ち去ろうとする。
だけど先生は、僕には判別できない区切りを繕って答えをよこし、僕を縫いとめた。
「別の研究をしているんだ、本当は」
「えっ」
「デイさんにはまだ伝えていないけれど」面倒だから、と含ませた表情をしていた。そして一度大きく伸びをすると、腕時計を指さすしぐさをして言った。
「休憩にする?」
僕がはっとして時計に視線を落とすと、いつもの休息をとる時間を少し過ぎていた。
そう言ったものの先生は椅子を立たない。ただ手は止めて、並んだ瓶がきらめくさまを眺めている。
「僕はこの一帯にある植物を対象に組成を調べているんだ。ここには首都のあたりで見ないものもあるし、きみに手伝いを頼んでいるように、今しか採取できないものもある」
「でも……この間は」
「あれは昔の話。研究所にお金を出している方がその研究を強く要請していたから、僕自身というより組織の一員として取り組んでいただけだよ」
得心がいったかと、先生の視線が問うている。僕はまだ是と答えられなかった。
「前は、嫌々やってたの?」
「知的好奇心がくすぐられるものではあったよ。けれど……そうだね、自分の考えに背く部分があった、それは嫌だったと言えるかもね」
視線が交われば、先生の薄く灰がかった瞳の中心、黒く吸い込まれそうな瞳孔に乗る光が、陽光を見つめたときのようにこころに焼きつくのを感じた。
瞳、そして先生の表情や挙措は、時折僕をたまらない気分にさせる。
「違法であるのは、危険だからだ。良い精製の方法を見つけて合法になった時、その本質が毒のままなのか、そうではなくなるのかわからない。だけど僕は、少なくとも今は確かに毒物であるものを、合法にしたいとは思っていなかった。それに、あんなものは過酷な現実を遠ざけるための虚構、本当の問題を問う代わりに行使されているに過ぎないのだから」
自分の手に負えないものにひたすら向き合うのは頭が痛くなるよ、とも先生は述べた。
先生の瞳はいつも灰のもやが立ち込めて、いろいろなものを隠し、惑わせるかのようだ。だけどその中心だけが黒く吸い込むように惹きつけてくることが増えた。そこに先生の核を見ることが、増えた。
「それに本当はね」先生は僕から視線を外し、頬杖をついて窓の外を見た。「僕は鎮痛薬の研究がしたいと思っていたんだ」
今日はない頭痛を思い出しているかのように、先生は表情をほんの少しゆがめる。
「けれど、製薬の研究にはかなり高度な設備が必要だ。個人で用意できるものじゃないし、僕は労働者であることは難しい。でも植物の組成についてデータを取ることは今の僕にもある程度できるし、必ず開発の役にたつ。いつか、どこかではね」
先生の語り口は、未練も悔恨も漂わせない。ただすべてを過去のこととして、決別して捨てようとする小さな鋭さはあった。風化したような渇きがあるわけではない。
「先生は……幸せで、納得できるの?」
先生に詰め寄るものにならないよう、僕は必死で声色を調整した。ただ訊きたかったのだ、先生の幸せが、どこにどんなかたちでなら存在し得るものなのか。その希求は、もしここにいることがその顕現を妨げていると回答されたら――という恐れを認識していたけれど、それを超えた。
「そうだなあ」
先生は頬杖をついたまま視線だけを逍遥させ、そのうちのどこかには名状しがたいものが宿った。
「その言い方に対して、全面的に頷くことはできないけれど……。それなりに折り合いはついているよ」
僕の表情を捉えると、先生は目を細めて補足した。
「その折り合いというのが、決して一朝一夕には手に入らないもの、これまで僕の周りで起きてきたさまざまなことから織り上げられ、ようやく得られたものだということを僕は深く自覚している。だからこれはとても貴重な、奇跡的なものだ。妥協だけど、それはあくまで『良い意味で』なんだ」
先生とこんなに喋るのは、なんだか久しぶりだ。
先月、先生が僕を問い詰めても僕は答えなかった。先生の疑問は氷解していないはずだ。僕も胸のうちに抱えたもののせいで、先生に視線や声を向けるための胆力を奪われることがある。そういう態度はお互いにまだあるはずだけど、先生が今表出しているものは先生の深くに根差す思考や感情で、そこには確実に親しみが伴っているのも確かであるはずだ。その証拠に僕を安堵させ、優越感さえ生じさせる。
それでも喉が塞がったままなのは、その親しみの色を、確信をもって見定められていないからだ。
――先生。僕を、家族だと思ってる?
喉を詰まらせる戸惑いの正体を、僕はようやくつかんだ。
先生が僕を欺いたと、一緒にいたいと思う僕の気持ちもただ仕向けただけのものと言ったこと。それだけが唯一無二の真実ではないと信じる思いはあるけれど、反論もよぎる。僕の名前は結局――少なくとも家族にそうするようには――呼ばないのだから。
きっと先生の気持ちも、視界の悪い水の中に沈んで溶け込んで、その明確なかたちは杳として知れないのだろう。だからこそ、拒否されてしまうかもしれないという恐れが消えない。
「僕は恵まれているよ」
先生の瞳には、こころの核を見るような気持ちになる。たまらなく胸のあたりが疼くのは、その先生の瞳が偽物には思えないのに、最後の一歩が踏み出せないことに倦んでいるからだ。
先生はついぞ瞳を隠すことはなく、「今度こそ、休憩にしようか」と穏やかに言った。
*
机に置かれた便箋とペンを眺め、デイさんが僕の言葉を反芻した。
「手紙を書くんですか」
「うん。お父さんに知らせるようにって、先生が」
「かまいませんが、代筆するのは俺でいいんですか」
「デイさんに書いてもらうほうが良いだろうって。先生が」
先生が真意の汲めない表情をしていたので、僕はとりあえず黙って諾したのだった。
「あのひとまた、自分の利益のために俺をいいように使って」デイさんの軽やかな毒づきに、デイさんは先生の意図がわかったのだろうかと思う。教えてもらおうか、と一瞬迷ったけれど、やめた。
僕が話を聴きに行く日が近づき、デイさんは準備やいろいろな報告のため、以前より頻回に訪れるようになった。先生への用事ばかりではないので、僕と話すことも最近は増えている。デイさんは最初から話しやすいひとだったけれど、何度会っても朗らかで気さくだ。僕はデイさんの前では、よく独り言が出る気がする。
「お父さん。どうしてるかなあ」
「家族と仲が良かったんですね」
デイさんが目を細めるようにひっそりと笑うのは珍しかった。そう見えますか、と返事をしたけれど、デイさんはそれには反応を返さないまま表情を引き締めた。
「リタさん。きみはどうやって奴隷になったんです。親もいて穏便に暮らしていたきみが、一瞬で身を落とすのは想像がつきません」
デイさんは「嫌なら言わなくていい」と配慮を付け加えたけれど、僕はデイさんが急に声色を改めたこと、それから何に配慮されているのかわからないことから、きょとんとした表情を浮かべていたはずだ。だけどその後者の思いは、デイさんが想像がつかないという所以なのだろうと理解した。きっとふつうなら、それはすごく凄惨な体験なんだろう。僕にとってはあっけらかんと語れてしまうことであるのが、たぶん異様なのだ。
言葉は簡単に生まれる。かつては喉を切り裂くように思えたことさえも伴って。
「僕は字が読めないからだんだん学校についていけなくなって、そうしたら学校の先生が、僕は学校にもう来なくて良いと言ったんです」
記憶の糸をたぐっても、その先生の顔は思い出せなかった。
「僕みたいな勉強ができないひとには、代わりに行くところができたからって。それで……連れていかれちゃったの。ドレイを売るひと、に」
言葉にすると滑稽な話で、神妙な表情をしているデイさんが納得するか少し不安になる。あまりひどい体験と認識していない代わりに、詳細に語ることも難しかった。けれどデイさんは生真面目に応じた。
「そうですか、つらかったでしょう」
「えっと……そうかなあ」
「学校が商人と癒着して奴隷を供給するとは悪質ですね、許しがたい虐待です」
僕の思考とデイさんの感想の乖離が大きいことは思った通りだけれど、その理由は僕への憐憫というよりも、ドレイを作る仕組みへの怒りがあるためであるようだった。
「それで、行った先では大丈夫でしたか」
「怖いことはあったけれど、すぐに……先生の元に来たから」
眺めていることはあったにしても、僕自身は折檻のひとつも受けずに済んだのは、幸いだったのだろう。短い期間しかいなかったために、あの床にこびりついたような陰鬱な怨嗟や諦めが、骨肉に染みることもなかった。終始語り掛けてくる声を呆然と聞いているうちにすべてが過ぎていったのだ。幽霊や、神や妖精の、浮世離れした語りにすべてを任せられているうちに。
「それに学校にいるの、やっぱりつらかったから。僕は今が一番良くて……いまが、とても恵まれているんです」
どこかで聞いた言葉だと思って、先生の言葉であることをすぐに思い出した。
恵まれている、という言葉には続きがあった。茶葉がひらくさまをぼうと眺める僕の耳に、ささめきのように届いた言葉だ。
「僕は恵まれているよ、そう思うのは事実なんだ。労働者であることに見切りをつけると、それなりに生きていける。見切りをつけては生きていけないひともいる。同じ頭痛を抱えていても、困難の度合いはひとによって違う、ひとが持つ資源に差があるからだ。僕は……恵まれている」
先生の独り言であるのかを考える前に、僕の口は訊き返していた。
「資源って、お金のこと?」
「それだけじゃないね、取り巻くもののすべてだよ。家族などのひとのつながりや、そこと不可分である経験、知識を得る機会。果てはそこから作られる思考までと考えると、ただ取り巻くだけではなく、やがて自分の内側となるものも含めて」
先生も極めて自然に返答をよこした。
僕が反芻したのは、あの時に先生が続けた言葉がまだ消化できていないからだ。
「僕の資源は実存するけれど普遍性がない。だから嫌になることがあるし、困窮の恐ろしさが拭い去られることもない。構造を変えない限り逃れられないジレンマだ」
先生は自分だけが状況を抜け出すことを、半ば憎む気持ちがあると言っていた。自分だけの特権であることがむしろ力を奪って、無気力になると。僕は自分が恵まれていると考えてもそう感じることはないけれど、それは先生の言葉を理解していないからかもしれないし、たとえ理解できていたとしても、どう感じるほうが良いのかはわからない。
僕は長く、先生は世の外縁にいることを良しとしているのだと思っていたけれど、そうではなかったのかもしれないと思った。受け入れているけれど、その隣接する場所から動けず、塵界をただ睥睨しているような気持ちもあるのかもしれない。
先生はひとでいたいのだ、ただひとりの、ありふれた。
僕は、そういう意味で先生の恵みであれるだろうか?
「そうですか。リタさん、教えてくれてありがとう」デイさんの声が僕の意識を引き戻した。「さて、手紙を書きましょうか」
デイさんの声はいつもそこに現実が宿っている。今でもどこか夢のようなこの家で、目覚めるように心地よく、手触りを得て安心できる。デイさんがいて良かったと思う気持ちと、先生がデイさんにどんな感情を向けるのだろうと恐れる気持ちは、いつも表裏一体であるような気がする。デイさんと先生自体、まるで裏と表のようだ。
「手紙というのはまず導入に、挨拶を書くんですよ。家族宛てであれば形式を気にせずとも良いだろうけど」
「挨拶?」
赤みのある髪や浅黒い肌はおよそ先生にない色彩だし、体格も違う。
「そう、季節ごとに用いる言葉があるんだ。それから相手が息災であるか言及します」
「季節の名前なの?」
「そうとも言えますね。今だと『薫風』などです」
デイさんのペンの動きは、先生より作法が正しくて、文字も角ばって見える。
書き出しの一文が終わったらしいところでデイさんが顔を上げた。
「あとは好きに書けますよ。なんて伝えますか?」
「ええと――」
そこでようやく思考を切り替え、実の親に向けた。
しっかりと考えるのは久しぶりだと思う。
折に触れてこころの端に思い出しては、孤独のない豊かな生活を送ってほしいと思ってはいたけれど。気持ちは言葉そのものとは違うのだと思った。言葉が、文字が大切である理由を改めて知るような思いをしながら、僕は必死に思いを構築した。
僕は無事に手紙を出し、デイさんと一緒に――実際にはほとんどお任せで――インタビューの準備も済ませた。そうしている間にも先生はひとりでせっせと研究を続けていたけれど、まったく終わりが見える様子はない。
デイさんが口にしたこの季節は、甘く暖かく吹く風を名としていた。けれど僕と先生に吹いていた風は、いろんなものを吹き飛ばしてゆくような慌ただしくて荒々しいものだった。
その風に名前がつかないままに季節は過ぎて、僕がこの家を離れる日は、もうすぐそこまで来ている。




