陽炎
春風が収まって、穏やかに気温が上がる。土の下から柔らかな暖かさが生まれて、気づけば緩んだ空気と光が森を包摂する季節になった。
夜の訪れは遅くなり、冷え込みにさえしんみりとした優しさがある。どんどん陽が高くなっていくのは、少しだけ目かこころかを焦がすけれど。
先生にどうしても訊けないことがあるという事実に向き合っていないことを除いて、僕の生活は安寧に進行している。果物の皮を剥けるようになり、自分の本棚の絵本を見尽くしたので、図書館で借りるようにもなった。できることは確実に増えた。この家での生活や、先生のために。
先生は体調が安定して、最近また忙しく仕事をしている。だからなのか、先生と会話する時間や量は変わっていないけれど、先生は話をしていてもこころがどこか別のところに居座っているような様子であることが多かった。
頼まれていた仕事をひとつ片付けたという夜、僕はいつも通りの挨拶を述べに先生の部屋に行った。
「あ、ちょっと待って。話したいことがあるから、こっちにおいで」
決まり文句だけを口にしてすぐに辞そうとしたら、先生に引き留められた。ちょいちょいとした手招きは、なんとも雑だ。僕はこころの中で親しみと言い換えて部屋に入った。
「この間のデイさんの話だけど」
「このあいだ?」
「そう、本を企画してるって話していたでしょ」
先生は机に向かって何か書きつけていたらしい手を止め、上体だけ振り向いた。
「インタビュー、行くかい?」
その言葉が僕に染み込むまでに、ずいぶんかかった。
「……へ?」
「まあ、とりあえず聞いて」
先生が揺り椅子を指したけれど、僕は硬直してそれどころではなかった。
「デイさんの話、僕がとうてい御免だと思う理由の一番大きなものは……僕は都市まで行けないということだ」
都市ってどこなんだろう、というところで僕はもう理解につまずいていた。先生は淡々と続ける。
「体を壊すのが目に見えているからね」
「そう、なんですか」
わずかな相槌が挟まれた。
「ただ、きみが行くなら別だ。きみが聞いた話をまとめたものなら、僕も興味があるし」
圧倒的な説明不足だ。どこから聞き出せばよいのかわからず、とんちんかんな感想が口を衝いた。
「僕、子ども……です」
「きみはギリギリ働ける歳だよ」知らなかった。「それにデイさんが一緒に行くだろう」
「えーと、何をするんですか?」
「場の設定とかはデイさんがしてくれると思うから、きみは話を聞く。働いているひとたちの状況、非合法の植物を使う理由や背景なんかをね」
「む、難しそうです」
「そうでもないよ。基本になる質問は一緒に考えておけばいい」
明らかにおかしな話だと思う僕と裏腹に、先生は当然のことのように説明を加えていく。
「だって、先生だからデイさん、提案してるんでしょ? とにかく僕じゃ……」
「研究者として背景の補足や問題提起を加えることで本の質が高まる。その通りだけど、必要なら後からいくらでも加えられる。僕は、きみにはひとの話を聞く能力があると思って持ち掛けているんだ」
先生の言葉の勢いがなんとなく怖くて、ひるんだ。
「う……」
「いいかい。つまりね」
僕が消沈したのを確認して、先生は念押しする。
「インタビューに必要なのはまず、その現実の舞台へ出向くこと。それから、相手の内なる声まで拾うことだよ。表層的な言葉ではいけない。表情やしぐさ、醸し出される空気までこころを傾けて探っていけば、相手の本質に触れられる。それが必要なんだ」
ペンを机に転がして、先生は腕組みした。
「あのひとは僕を買いかぶってるけど、それって僕にはとうていできないんだよね。だけど、きみにはできる」
「なに言ってるの、先生むちゃくちゃだよ」
「無茶苦茶じゃないよ、本当のことだ」
視線にも、有無を言わせないものが宿っている。
「僕はね、きみの能力に敬服している。きみはひとの話をよく聴くし、相手の言語以外の表出もよく感じ取っている。そういう文脈も含めて、相手の伝えたいことをよく汲んで、それを正しく覚えている」
「う、うそでしょ」
「少なくとも僕にとっては正しい評価だ」
今だって、先生の考えなんてちっとも汲み取れていないのに。
「僕はね、きみがいたから気づけたことがたくさんあるんだよ。良いインタビュアーとは、鏡のように相手の内省を促すものだ。素直に、他の誰かのためにも使われるべき能力だと思う」
「で、でも……先生。お金、必要ないって言ってたのに」
僕はようやく反論を絞り出すが、それが限界だった。
「それはその通りだね。わざわざ世に名を晒すなんて御免だよ、今でも」
「じゃあどうして?」
「本はきみの名前かデイさんの会社の名義で出せばいい。僕はきみが作り出したものが見たいだけだ」
困り果てたという気持ちと、先生の言葉へのくすぐったいような喜びが相克して渦を巻いた。
「先生、どうしていきなりそんな……何を考えてるの」
僕が降参して項垂れたことを確かめるように、先生の視線が注意深く僕を撫でる。
そして視線が離れた一瞬の間に、先生は態度を変えた。
「つまり――きみはここから出ることができる。どうする?」
「えっ?」
下げたばかりの頭を急いで上げる。先生は体勢も声色のひとつも変えないまま、僕に触れる空気の温度を下げていた。
「帰る家はあるみたいだしね。あと必要なのは仕事くらいでしょ」
僕を冷やしているのは、先生の瞳の温度だ。物憂げに冷えた、薄い色の瞳だ。
「ちょ、ちょっとなんでそんな話に……」
僕の言葉をかき消すように先生が椅子から立ち上がるのが、やけにゆっくりと見えた。視線の高さが合わなくなり、距離は近づく。先生の口が動き始める瞬間、口元に視線が吸い寄せられて、周囲の景色も音も遠ざかる。時間と空間を操って先生が述べる魔法の言葉は――。
「リタ」
「あ……!」実際に声になったかはわからなかった。僕は先生の呪文じみた言葉に、とうとう僕の時間が止まったかという心地に呑まれていた。
――どんな思いで、その名前を。一体、誰のことを呼んだつもりで。
僕は、先生のそのたった一言に全身からめとられ、あっという間に深い海の底に溺れた。その間にも先生はまた一歩僕のほうへ寄る。
「きみは優しすぎるね。そこに甘えてきたのは僕だけど」
すぐ目の前で吐き出される言葉に惻隠の情のようなものがわずかに滲み出していて、僕は水底で凍りながらも、先生は僕を呼んだのだと理解することができた。
先生の片手が僕の肩をつかむ。
「きみが知らないはずがない、この名を言った僕がきみに何をしたか。僕がいかにきみを欺いて利用してきたか」
逃げ場のない視線がまっすぐに絡み、胸を締め付ける。これほど深く先生の瞳の底まで見えるような心地がするのは初めてだ。
それが、よりによってこんな場面で。こんなことを汲むために。
「なのに……きみは何の糾弾もしないね、身を滅ぼすほどに、優しいよ」
「ちがう……」
知りたいのはこんなことじゃない。
瞳の奥底にはうつしよへの猜疑や恨みが見える。諦めと厭世に染まっている。先生は、初めてそれを虚空ではなく僕に向けて顕示した。なのにそれが僕への拒絶とともにあることが、たまらなく悲しい。
「いい加減、きみの優しさに耐えられないよ」
「先生、なんのはなしをしてるの……どうして、追い出すようなこと」
言葉の行き先を知ることが何より怖いくせに、口を衝いてしまう。口にしてしまえば、どこへたどり着いてもそこに僕への拒否が横たわっている、そんな予感を独りでに呼び寄せる。
「きみは……探るような視線でずっと僕を見ている。なのにまったくあの日のことを尋ねない」先生はいっとう慎重な様子で言葉を吐いた。「僕をどうしたいんだ……」
先生の声に隠しきれず宿る悲愴さが雷鳴のように全身を穿って、僕は動きを取り戻す。
もともと拘束なんてしていない、ただ置かれているだけの先生の手から、渾身の力で逃げた。
「僕は、出ません! ここからどこにも……っ」
それだけ主張して先生の部屋から逃げる。
逃げたいのは手からではなかった。僕を穿った声、あまりに悲しい気持ちにさせる、声色からだ。
*
永遠のような宵闇に臥床した挙句に明け方の薄い空を見た。そんな記憶が薄ぼんやりとどこかにあるのに、ふと気づけば眩しすぎる陽光が降り注いでいる。
「――あれ?」
頭の中に渦巻いているのは、先生の声だ。明かりを灯しても夜の帳を遠ざけきれない、先生の部屋の光景だ。
なのに現実の景色は、明るい昼の僕の部屋だった。
ぜんぜん寝れないと思っていたのに、実際には寝ていたらしい。急いで腕時計を確かめると、昼を過ぎていた。
しまった。
そう胸中で呟き、急いで起き上がろうとする。なのに体は夜の海に沈んだままだと言わんばかりに重い。仕方なくゆるゆると起きて、意を決して部屋の扉を開けた。
居間に先生はいない。
深く息を吸いなおしてから、先生の部屋へ向かった。仕事をするときの、器具や紙をいじる物音がわずかに漏れ出ている。
「先生……入ります」
珍しく先生がすぐに手を止めてこちらを見た。
「おはよう」
「おはよう……ございます。ごめんなさい、寝過ごしちゃって」
「いいよ」その応答は僕を拒否していない。けれど、いつもと同じでないことは明らかだ。「昨日の続きを言いに来た?」
質問は予想通りでも、答えが見つけられているわけではない。
黙っていると、先生が言葉を続けた。
「昨日の言い方、悪かったと思ってるよ」
「え……」
思ってもいなかった言葉に、なお返事ができなかった。
「あんなこと、器用な言い方はできなくてね。ごめん」
「な、なんで謝ってるの……? 昨日のこと、うそなの?」
先生はちょっと苦慮した様子を見せた。
「嘘、ではないね。けれどきみをここから出すのが本意ではない……」平素にない言い方に、言葉の選択にひどく苦心しているのが見て取れる。だいぶ間を挟んで「うまく言えるかわからないけれど」と前置きして続きを述べた。
「昨日の言葉は、きみが偽りなく話すための条件として……ここから去るという選択肢を提示した、つもりだった」
僕の表情が先生を促したようだった。たどたどしく言葉が続く。
「いい加減、居心地が悪くて」
「いごこち……?」
「きみは僕に何も訊かない。だけど、探るような視線でずっと僕を見ている。いい加減つぶされてしまいそうで。本音を聞き出さないことには、これ以上はまともな心地でいられない、と思って」
昼の光に透かされて先生の声に浮かび上がっているのは、拒絶とは別の色だ。はっとして改めて見つめなおすと、僕がほしいと思っていたものの片鱗が見える。
隠したいものさえ開示して、わかりあいたい、という思いだ。
「あの日、きみは僕の名前を呼び、僕もまた名を口にした。きみにはとうてい理解し得ないような行動も、言葉も残した。きみはなんでそれを問いたださないの。そう訊きたかったんだ」
「えっと……」
先生の意図は僕を追い出そうとすることではないらしい、とようやく僕は理解した。
とりあえず安堵して冷たい海の底から脱出し、返事を何とか考える。
僕が先生の名を呼んだ時、先生は恋人のことを思い出した。もういなくなってしまった、僕と同じ名前だというそのひとのことを。問いたださないのは、デイさんの説明からそう自分なりの納得を導いたからだ。
「とにかく、それは気にならないんだけど……」
だけどそれが表層的なものに過ぎないことに、自分でも気づいている。思い出すだけであんなに動揺して、何かに憑かれたかのような様子になるなんて。先生から聞かない限りわからない理由や背景が、本当はある。それが確かに今も気になって仕方がなかった。態度に出ているとは思っていなかったけれど。
そしてそれは、どうしても口にできない問いだ。それがどうしてなのかさえ、わからないままだ。
それを言えないのに、デイさんから聞いたことだけを打ち明けるのはいやだった。先生が隠してきたもののかけらを勝手に知ったのに、自分はそこに向き合う準備ができていないなんて、ずるい態度だ。その狡さを先生に見せるのは、いやなのだ。
だから先生に満足な答えができないのは明白だった。
僕のしどろもどろな回答に、先生は怪訝そうな表情を浮かべ、それはむしろ僕を少しほっとさせた。
「気にならないっていうのは明らかに嘘という顔をしているけれど……じゃあ、その件は気にならないはずのきみは、他に僕の何を探ってるの」
「それは……」
どうしたって言えないということだけが明らかで、次善の策を必死に探す。結局見つからず、僕の頭は急激に諦めを知った。やけっぱちのような言葉を放つ。
「……言いません! けどとにかく、僕は何も訊かなくて良いし、あの家に帰るつもりもないから!」
先生の瞳がゆっくりと瞬いて、少し呆れたような驚きを映し出した。
「それ、本心なの」
「と、当然でしょ!」
自棄を貫くしかない僕が眉を吊り上げて言うと、先生は「ふうん」と喉を鳴らした。
「それ、もう嘘って言っても知らないからね」
「言うわけないでしょ!」
同じ調子で強行突破しようとする僕が滑稽だという風に、先生はついには小さく笑う。
「わかったよ。悪い冗談だから忘れて……とも言えないけど、きみの気持ちに背く言葉だったらしいことはよくわかった」
先生が口元を綻ばせ、僕の内に未だわずかに残っていた恐れや緊張もきれいに洗い流す。
「それでどうするの? インタビュー」
「え。それ、嘘じゃなかったの?」
「昨日僕は適切な言い方を選べなかっただけで、嘘はひとつもつかなかったよ」
先生はペンを指で遊びはじめる。
僕の答えを待つ和らいだ押し出しが、思考の手綱を再び僕に握らせた。
先生はあの日の出来事を気にしていて、向き合い開示しようという気持ちを持っている。僕は訊けないし、先生も問わず語りに話せるようなことではないらしいけれど。ここを追い出すつもりもなく、僕に能力があると言ってくれる。
それらが、僕に一歩踏み出させた。
「僕、やります」
その一歩の先に、今は言えない問いを口にできる未来が、見たいと思った。
だからこれだけはちゃんと言っておかないといけない。僕は急いで付け足した。
「それで、終わったらすぐここに戻ってきます。だって、仕事って終わったら帰るものでしょ、自分の家に」
「わかったよ。念押しありがとう」
先生はどこか困ったように眉を下げて笑った。
「あ、あと……」
「ん?」
もうひとつ大切なことがあるのを思い出す。
「僕、文字書けないけど……」
「うん、そうだね?」
先生の口調は「それがどうかしたのか」という様子だった。
「きみなら覚えていられるだろ。きみが説明して、誰かが書き起こすだけだ。でもまあ自信がないなら、デイさんに概要のメモを作ってもらうといいよ」
「そういうもの?」
「そういうものでしょ」
「でも、僕が書くこともできれば……」口からこぼれ落ちてから初めて、それがまぎれもない本音であったことに気づく。
ここで生活をするにつれて僕は読み書きができないことがほとんど気にならなくなっていたし、その気持ちを深く自覚もした。そのつもりだった。だからこそ、そんな言葉が口を衝いたことに、驚いた。
先生は僕の驚いた表情を、相好を崩して受け入れた。
「……今のきみの気持ち、わかるな」
苦悩が裏打ちした優しさが、その声には表れていた。「長い時間をかけて奥底に染み付いた意識は、ふとしたときに出てくるものだ。あんまり気にしないことだね」一言だけ添えて、すぐ話を戻す。
「きみは、僕が直接出向けないことを責めようと思う?」
「そんなわけ……」返答を最後まで言う前に、あ、と気づく。
「同じことだよ」
説明のかたちをとらない説明は、だけど僕を納得させた。
「僕らはそれぞれ、できることとできないことがある。だけど助けて補いあえば、確かにできるようになることがある、それでいいんだよ」
それに、と付け足した。
「技術はひとを置いていくほどに早く進化してるよ。いつかは、音をそのまま記録する技術が開発されるかもね。そうしたらむしろ、助け合うまでもなくなってしまうけど」
その想像は喜ばしいことに思えながらも、その裏側で同時に少しさみしさを感じた。
そうか、これでいい。
ふたつの気持ちが、僕にそう思わせた。