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季節、名を待つ  作者: こうあま
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盛夏

 その瞬間だけ、言葉を出すことになぜだかひどく苦労した。

 もう何度か呟いた単語、話しかけた相手。だけど喉以外のどこかも震えた気がしたのは、きっと扉一枚へだてているからだ、と決めつけた。

「――先生。……その」

 深く息を吸って、やっとの思いで口にするけれど、その次の言葉を用意するのを忘れていた。

 先生はすぐに応答する。

「準備できた?」

 僕が用意できなかった言葉を汲み取って、扉を開けた。先生の部屋はちょうど日がたっぷりと射し込む時間らしく、扉の向こうがぼんやりと眩しかった。

「眩しかった? ごめんね。カーテン買わないとね」

 古くて破れてたから取っちゃったんだ、と続いた。

 明るさで一瞬輪郭がぼやけて見えた先生は、扉を閉めるとすぐに僕と同じ輪郭を取り直して、玄関へ向かった。

 その後ろ姿を窃視して、そっとため込んでいた息を吐き出した。

 ――あのまま輪郭が無かったら、この数日のこと、やっぱり夢だって思ったかも。

 僕にとってこの「先生」というひとは、数日前に出会ったばかりの得体が知れないものだ。ちゃんと見つめようとするだけでも本当は怖くて、後ろ姿だって凝視はできない。それでも先生の姿かたちは僕と同じだ。足はついているし、手指の数だって一緒。目も耳も、特に変わらない。僕が返事に窮しても、何も変わらない。

 先生が振り返った。

「どうしたの、行くよ?」

 視線がはっきりと交差する。先生の瞳が、内心で狼狽した僕をいともたやすく捉えている。

 このひとは幽霊でも神様でもない。

 このひとは「先生」、それ以外のことは何もわからない。わかるのは、先生は数日前に僕を買って、自分のことを僕の「コヨウヌシ」と言ったことだけだ。

 それは意味の分からない言葉だった。

 だから、これは夢じゃないし先生は幽霊でも神様でもないだろうけれど、結局はどうでも良かった。何もわからないということには変わりなかった。

 僕は先ほどの苦労も思考も忘れることにして、ただ追従する。

「はい」



 林冠に和らげられる光や、湿り気を帯びた土の柔らかさは気持ちが良い。

 先生の――そしていちおうは僕の――家は、森の隠れ家みたいな所だ。でも街は近いらしく、少し歩けば足元はすぐに石畳に変わった。

 街で先生はまず、手紙を出した。

「きみの家族にね」

 きみはドレイじゃないからと、何日か前にも言っていたことを再び言う。何を言いたいのかはよくわからなかった。

「じゃ、ここから仕事だ。僕がこれから、どこで何をいくつ買うか、覚えておいて。できれば値段も」

 先生の色付きグラス越しの目がこちらを見る。

「はい」

 僕の返事を確かめてから、先生は数日分の食べ物を買った。道の端に寄って僕に振り向く。

「覚えられた?」

「たぶん」

「言ってごらん」

 買ったものをひとつずつ口にすると、先生は満足したようだった。

「うん、合ってる。賢いね。じゃあ、次はきみひとりで来ても同じことができそう?」

 頷くと、満足の色を濃くした。

 昼を知らせる鐘が鳴る。

「もう少し買い物をしていくけど、それは覚えなくていいから」

 夏の強い陽射しが、ここではまっすぐに刺してくる。石畳から立ちのぼる熱気と増えてき人混みの騒がしさが、ざらざらと肌を撫でる。

 先生はカーテンと薄い羽織りを買い、羽織りは僕に与えた。

「外に出るときの仕事道具、だよ。こういうものを着ているほうが涼しいものだよ」

 そう言った先生が着ている上着は、僕に与えたものよりも少し厚手だ。

「……先生は暑そう。です」

「そうだね、自分のも買わないとな。僕が以前いた所は、ここより涼しかったから」

 でも、と息を吐きだした。

「それは今度にしよう、ずいぶん疲れたからね。……どのくらい外にいたかな?」

 僕は腕時計を見た。二時間、と確認する。数日つけていて少しだけ馴染んできたそれは、先生が最初に僕に与えた「仕事道具」だ。

 疲労が滲んだ顔をした先生に、時間を伝えた。

「わかった。じゃあ帰ろうか」

 先生は荷物を半分に分けると、軽そうなものを僕に持たせた。



 翌日も、朝から外はとても眩しかった。

「先生、調子はいかがですか」

 最初に先生から言い渡された僕の仕事は、毎朝同じ時間にそう問うことだった。居れば居間で、居なければ先生の部屋まで行って。今日は、先生は部屋に居た。

 先生は毎回その定型的な言葉を「そうだね」とじっくり噛みしめて、少しの間黙考する。

 窓から降り注ぐ光が、昨日苦労してつけたカーテンに透けてやわくなっている。そのせいか、寝台で背中を丸めた先生をずいぶんちっぽけに見せている。幽霊か神様かと想像したことなんて、どこか違う空間での出来事かのようだった。

 黙考のあと、先生は毎日さまざまに違うことを言う。

「今日は、視界がかげりがちだ。急性に動くと、頭の中を何かが通る感覚があり、目の前を黒いものが侵食する」

 それは僕に向ける言葉ではない。

 だけど、先生は決まって続ける。

「ありがとう。今日も一日、よろしく頼むよ」

 僕は今日も、自分に向けられるわけではない返事と自分に向けられる謝辞に、どう応じれば良いのかわからなかった。

「えっと……」

 買い物は、二日に一回と言われた。草むしりも一昨日やって、しばらく必要ない。

「あの、今日はどうすればいいですか」

 これまでに与えられたいくつかの仕事の中には、今すぐやれそうなことはなかった。

「そうだな……」先生は、部屋の片隅を一瞥した。「ここにもひとつ、きみの椅子を用意したいな」

 今後使うかもしれないからね、と付け加えた。

「倉庫にあるか見てきてくれるかな」

 倉庫と呼んでいるのは余っている部屋のことだ。先生の部屋と僕の部屋、共用の居間に加えて、この家にはもうひとつ部屋があった。最初に先生が部屋の中を見せてくれた時、淀んだ空気の中に用途がわからないものも含めていろいろなものが置かれているように見えて、ちょっと不気味だった。

 倉庫を覗きこむと、椅子らしきものがすぐに見つかる。

 近づいて観察すると、だいぶ使い込まれているように見えた。いろんな所に細かい擦り傷があり、塗装が少し剥げている。角をぶつけて欠けた跡もあった。その跡から覗く木片に指を軽くあてると、椅子がゆらりと動いた。

 驚いて、思わずうわっと声を上げた。

「このいす……揺れるんだ」

 物に隠れて見えていなかったけれど、椅子の足元が円弧状に曲げられた木で前後に繋がれている。だから少しの刺激で揺れるらしかった。

 初めて見るかたちの椅子は、僕のこころのひだを少しくすぐった。

 足元のよくわからない道具を避けて、椅子にそっと腰掛ける。後ろに体重をかけても受け止められず、そのまま揺れた。

「わわっ」

 自分の声が少し跳ねて高くなったことをはっと自覚して、かぶりを振った。仕事というものをしているんだから、わくわくしている場合ではないのだった。

「ええと、運べるかな……」

 大きな椅子ではないけれど、初めて見る椅子のゆらゆら揺れるさまが、どうにも運びにくそうに思えた。

「あった?」

 そう考えていると、先生がひょいと顔を出す。いつの間に寝台を抜けたらしかった。

「あ。あります」

 自分の浮足立った声を思い出して、内心ぎくりとする。

「機能は問題なさそうだけど、こんなに古かったかな」

 先生は素知らぬ様子で椅子を眺め、思案するような音で喉を鳴らした。

「ひっかけそうだから、欠けた所だけ削ったほうがいいかもね。とりあえず、そっち持ってくれるかい」

「え、はい」

 先生と同じように椅子の脚を抱えると、先生との身長差で椅子はずいぶん傾いた。焦ってもう少し下を抱えなおして、少し安定する。

 椅子を運び出しながら先生の顔をまた、窃視する。

 色付きのグラスは、外の陽射しの下に出るときだけかけるものらしい。今は透明のものをかけているから、先生の瞳がよく見える。それでも先生の灰色の目の色は淡く、髪も薄ぼんやりとしている。なんだかつかみどころがない、不思議な色だ。

 視線をすぐに椅子に戻して、抱える腕に力を入れた。

 先生を見るのは苦痛ではない、たぶん怖さもだんだんと和らいでいく。

 だけどさっきのわくわくしたような気持ちは、この椅子が唯一の対象になるかもしれないと思った。しばらくそんな気持ちをどこかに置いていたことを、腕にかかる椅子の重みとともに自覚した。



 一週間ほどして、僕は研磨紙を片手に椅子に向き合っていた。

 玄関に置いていた椅子を外の木陰に出して、木が欠けた部分に研磨紙を当てる。すると摩擦音を繰り返すたびに、ちくりと刺さるような手触りだった部分が、だんだんと丸くなっていった。欠けていない部分も紙を当ててゆくと塗装がまんべんなく薄くなっていく。

 先生は今朝、どこからか道具を持ってきて、僕に椅子を整えるように言った。研磨紙の使い方を僕に説明して、「まあ僕はやったことがないんだけど」と付け加えていた。

「削ったらたぶん上から何か塗り直さないといけないから、今度塗料を手に入れないとね」

 僕は日ごと、先生の姿を見ることへの恐れを捨てていた。けれど先生がふいに視線を合わせたとき、わずかにその恐れのようなものを揺さぶられる。

「きみの好きな色でいいし、なんなら好きな絵でも描いていいけど」

「へ?」

 正しくは、恐れではないような気もしていた。

「そういうのは好きかい?」

 お金で買ったコヨウヌシ。

 僕はその言葉の意味を知らないし、それに対する振る舞いもつかみかねている。だけど先生はこんな風に、たぶんこれは仕事の指示じゃないだろうということも言うことがあって、そういうときに目が合うのは、何となくぞわぞわとするのだった。

「やったことないです」

「じゃ、やってみるといいよ。何色にしたい?」

「ええ……」

 間延びした戸惑いは、たぶん質問への答え自体だけへのものじゃなかった。

 僕は何とか色の名前は口にしたけれど、あの時の戸惑いの正体を、まだ椅子を削りながら探っている最中だ。

 夏の虫が鳴いているのはなんとなく騒がしいけれど、木漏れ日と梢の音は悪くない。

 仕事――本当はよくわからない言葉だけど、たぶん命じられたことをやることを指すのだろう――をするのは、いやじゃなかった。先生はちゃんと説明をするし、できそうな内容かをいつも確認していたので、困らない。それに何かに取り組んでいると、耳の奥でざわざわと黒く揺れているようなものが少し遠のく。こういう梢の音を聞いていると、手の動きも思考も、少し精度があがる。

 仕事はいやじゃない、だから仕事のことを言う先生も怖くない。

 だけど、それ以外は怖いのかもしれない。

 ゆらゆら揺れている椅子が唯一の楽しみになるかもしれないと思ったのはきっと、ここで生きることには本来楽しみがあると思えないからだ。その楽しみの無さが、きっと恐ろしさだ。

 買われる前の生活よりも今の生活のほうが断然怖くないのは確かだ。あの時は、ドレイというのは恐ろしいものだって、何となく聞いていた。だからそうなっていくことが怖かった。今の自分は、きっとそうではない。だけど。

「……だから、なんだっていうんだよ」

 呼びかけのひとつも、うまく出ないときがあるのに。

 最初に買い物に出た日、扉越しに先生に呼びかけるのがうまくできなかった理由を、ふいに理解した。初めて自分から明確に呼んだからだ。

 楽しみを失うこと、月明かりと隣り合わせの暗がり、レンズに遮られて底の見えない先生のまなざし。

 そういう恐ろしいと感じるものの中に僕がいることを、僕自身が発したあの呼びかけが突き付けた。僕はここで生きるしかないのだ。ドレイかそうではないかなんて、関係なく。

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