番外編:けだものどもの外のうち(芝園実編)
凪千海は生粋のトラブルメーカーだと芝園実は思う。
実と千海は家が近いからという理由だけで幼馴染と言う関係を築いて来た。そんな風に近くから見て来たからこそ言える。彼女はトラブルメーカーだと。
かといって彼女は目につくような行動はしない。客観的に見ればトラブルが執拗に千海を狙っている。そんな印象すら抱くほど、彼女は非のある人間には見えないのだ。
つねに笑顔で明るく振る舞い、困っている人間にはためらいなく手を差し伸べることができる。そんな快活ではあるが、しかしうっとうしくないというほどよい節介焼きの千海の周囲から人が途切れることはなく、大人たちからの信望も厚い。
だが、彼女の周りは同時にいつもトラブルだらけである。
仲良くしていたと思っていた人間が千海が入れば喧嘩をしだすのも珍しくはない。そういうとき千海は冷静な第三者の立ち位置から双方の出した矛を収めようとして来る。それはたいてい上手く行ったから、千海と言う人間の株はそのたびに上がる。
実もはじめは千海と言う人間は「よくできている」と思っていた。否、それは今も変わらない。その言葉の意味するところが変わっただけである。
千海は決して愚痴や暴言を吐くことはない。それでも実はそんな彼女に薄ら寒さを覚える。そんなことをしなくても、彼女は他人の悪感情を操れてしまうからだ。
このあたりの説明は非常に難しい。理屈ではない、もっと本能的や無意識域の部分に訴えかけて来る千海の言動が、彼女を表立った批難から守っていた。
すなわち千海と言う少女に対して悪感情を抱いたとて、それを言語化するのが難しく、結局は「性格の不一致」や「単に合わないだけ」で他者からは流されてしまうのである。あるいは不用意にそんなことを口にすれば人徳のある彼女のこと、反発は免れまい。
だから、千海に対して違和を抱いたものは皆口をつぐまざるを得ない。
千海は確実にそのことをわかっている。良く理解した上で他人を操って、そのうしろでにこにこと笑顔を浮かべている。実から見た千海はそんな得体の知れない不気味な少女であった。
それでも先述のように千海が積極的になにかをすることがない。だからこそ彼女を生理的に嫌悪したとしても、そのことに対して後ろめたさを感じてしまう。――千海はなにも悪くないのに、と。
実もそんな人間のうちのひとりである。千海と言う人間の不気味さを自覚しながらも、同時に彼女を批判することもできず煩悶としている。
千海は実に対してどこまでも優しい。音楽家の両親に推されてピアニストとしてのキャリアを歩んでいる実であるが、当然そこにはいく度となく障害が立ちはだかった。そのたびに臆病な実は両親に打ち明けることができず、結局は千海に手を貸してもらうことになる。
決して無理な励ましはせず、寄り添うように実の感じている苦悩や痛みを共有し、冷静で建設的な意見を述べる千海は現在の実を構成する上でかかせない存在であるのもたしかであった。
実は千海に対して尊敬の念や感謝を覚えている。だからこそ悩ましいのだ。他者を容易に操るトラブルメーカーという本質を持つ千海の存在が。
そんな千海が変わり始めたのは高校二年に上がってからである。より正確には咲木花菜恵が編入して来てからだろうか。千海の次のトラブルの先は彼女であった。しかも、今度の対立相手は千海本人である。こんなことは今までなかったために実は動揺した。
そして同時に咲木の身を、心を案じた。
その予感はほぼ的確に当たり、千海と親しくしていた人間が――特に千海に特別な好意を抱いていた人間が咲木に集まり始めたのだ。そして図ったように千海に対する悪評が流れ始める。
それでも実にはそれがどこまで千海の意図したものなのか図りかねていた。
悪い噂には根も葉もないことを実は理解していたが、もし仕かけたのが千海であればなんという手腕だろうと感服すると同時にぞっとした。
一度だけ、実はそのことについて千海を問い質した。ただし彼の意図せずして余計な人物が着いて来たために、深く突っ込むことはできなかったが。
淡々と感情を気取られぬよう事実確認を取ろうとするも、その余計な人物たちによってどんどん筋が脱線して行ってしまい、さすがの実も困った。
しかし彼らとのやり取りを見ているうちに、元来感受性の強い性質である実には千海の目的をうっすらと察することができた。
「いい加減にしなよ、幹。そういう根拠のないことばっかり言うの、やめてくれない? 千海先輩がどう思うか、考えたことないわけ?」
千海の身を案じて着いて来た氷室という後輩は、千海をかばい敵愾心をむき出しにしていた。そしてそれをただじっと身を固めるようにして見守る千海。それを見て気づいてしまったのだ。
千海が求めているのは「これ」なのだと。
さすがにあの糾弾とも言える様相をていしてしまったことのあとでは千海と気まずくなったが、それでも実はどこかでぼっとしていた。彼女と長く接していては、まるで遅行性の毒のように千海にやられてしまいそうだと、長じてからの実は危惧しはじめていたのだ。
しかしそれもそう長くは続かず、チャリティコンサートの小ホールで再会したときに、結局は「仲直り」のような形を取らされてしまった。
ちっぽけな実のプライドは、臆病な心は、結局千海を突っぱねることができなかったのである。
咲木の一件は思わぬ形で決着を見せ、また元の日々に戻るかと言えばそういうわけにもいかなかった。咲木をかばっていた面々は千海に近づくことはなかったし、なにより千海が歩み寄りを見せなかったのだ。
実は今までの経験から、また千海はすっかり元通りにしてしまうと思っていたのだからおどろいた。なぜそうしないのか。千海ならばできるだろうに。そう疑問に思っていたころ、千海からあることを告げられ実は合点が行った。
「あのね、雫くん……氷室くんて覚えてる?」
「ああ、コンサートにいっしょに来てたよな」
実の家の門扉越しにふたりはそんな会話をする。ちょうど、実の帰宅時間に千海が田舎からのおすそわけを持ってやって来た形であった。
実は表情を崩さないまま千海の言葉を待つ。そして千海は心底うれしそうな顔をしてこう言ったのだ。
「その氷室くんとつき合うことになったんだ。実には言っておこうと思って」
「なぜ?」そのひとことが実には言えなかった。どうしてかなんて決まっている。きっとこれは千海なりの実に対する「答え合わせ」なのだろう。
実は無理矢理口元に笑みを浮かべて千海に祝福の言葉を送った。千海はそれに照れくさそうな顔をして、恥ずかしさを隠すように実におすそわけの袋を持たせる。
その腹の底がどうなっているのか、実にはわからないし、わかりたくもなかった。
のぞいてしまったが最後、きっと元には戻れないだろうから。だから、これでいいのだ。
自宅へと帰って行く千海の背を見送り、実はそう思った。