第四話
今日こそは、辞意を伝えよう。何度も決意を噛みしめながら、玄関の前まで辿りつく。
あの土曜日から一週間経っていた。先週とはうって変わって、大雨の降る暗い朝だった。
月曜日に出勤すると、馨様はいつものように美しい女の人と眠っていて、起こすと「おはよう」と涼しい声で告げた。シャワーを浴び、朝食をとり、スーツに着替えて出掛けて行った。
まるで何もなかったみたいに。
火曜日、水曜日と繰り返され、今日に至る。このまま何も言わなければ、たぶんこのまま続いていく。馨様はよく、私を「プロだ」と言ってくれた。でも、どんなときでも平然と自分の業をこなすことをプロと呼ぶなら、本当にふさわしいのは馨様なんじゃないかと思った。
安倍さんにだけは、辞めることを先に報告した。驚いていたけど止めはしなかった。具体的な理由については口をつぐむ私に、「ひどい男に振り回されることないよ」と声をかけてくれた。
慰めてくれたことはありがたかった。でも、そうじゃなかった。馨様を非難したいわけじゃない。じゃあどうしたいのかと自問すると、行き詰ってしまう。胸の奥で、古くなったタオルのように感情がごわついている。
どちらにしろ今日の勤務が終われば、馨様には二度と会うことはないだろう。
7時になって、ベッドのあるメインルームのドアを開く。電気はついていなかったけど、人が起きている気配がすぐわかった。
馨様もお客様も、服を着ていた。馨様は窓際で煙草を吸い、お客様はベッドに腰かけていた。
「やあ、おはよう」
馨様は私に微笑み、煙草を消して立ち上がった。
「じゃあ、そういうことだから。雨に気をつけて帰って。沢、車を呼んであげて」
お客様と私が部屋に取り残される。お客様は、以前玄関で私に「分をわきまえろ」と話しかけた女性だった。
普段の朝とは違う沈黙に包まれていた。
「完全に振られちゃったわ。もう会わないですって」
テラスのほうへ目をやったまま彼女は言った。
「2年付き合ってたのよ。私だってもう若くないし、子どもも欲しい。それでもずっと我慢して尽くしてたの。でも、勇気を振り絞って結婚の話を切り出したら、これよ」
大粒の雨が、窓を叩きつけるように降り注いでいる。
「私もメイドになろうかしら。それなら毎日会えるし、合鍵だって持てるものね」
「お客様、そろそろお帰りの準備を……」
「あなたみたいな経歴の子がメイドをするくらいなら、私のほうがずっとマシじゃない?」
薄暗い部屋で、視線がかち合った。彼女の口元は笑っていたけど、目は笑っていなかった。
「知ってるわよ沢絵実子ちゃん。調べたの、あなたの前職」
息が止まりそうになった。
「大病院の院長宅なんて、馨さんの実家に負けるとも劣らない名家じゃない。同じく家政婦だった母親が亡くなって、15歳から仕事を始めたのよね……。泣かせるわね」
塗り固めていた記憶が、手入れされた長い爪でめりめりとはがされていくようだった。彼女の口ぶりは、私以上に私の過去に詳しいようでさえあった。
「真面目に働いて、家主である院長先生にずいぶん可愛がられたってね。孫娘より可愛いと言うほどだったって。でも普通、孫娘とはセックスしないわよね?」
覚悟していたはずなのに、他人の口から改めて言われるのは、心臓に杭を打ち込まれたような衝撃があった。
15歳から3年間、赤坂に代々病院を構える由緒正しいお宅で、私は住み込みで働いていた。唯一の肉親だった母を亡くした私に、院長先生はとてもやさしくしてくれた。最初は孫のようだと言い、次に小さな恋人みたいな存在だと言われた。「デートだ」と言って、院長先生の趣味の写真撮影に出掛けるようになった。冗談だと思っていたけど、次第に身体に触れられることが増え、気付いたときにはそういう関係になっていた。
「お前は本当にいい子だ。私が心をゆるせるのはお前だけだ」
そう言って私を求める院長先生の姿がせつなくて、同時に嬉しかった。
だけど――。
「幼いふりしてとんだ食わせ者ね。それが原因で追い出されたくせして、のうのうと馨さんのそばで働いているなんて、身の程知らずもいいところよ。同じ手口で馨さんの気も引こうとしたんでしょ?」
彼女は美しい顔を、これ以上なく醜く歪めた。
「馨さんが知ったら、どう思うかしらね」
「秘密にしてください。お願いします」
床につく勢いで私は頭を下げた。
「もともと、今日でこのお仕事は辞める予定でした。家政婦紹介所にも話してあります。私なんかのことで、馨様を煩わせたくありません。それにもしこの話が公になったら、下手すると馨様の評判にも関わってしまいます。私はどう言われても構いませんが、馨様に迷惑がかかることは避けたいんです」
「ご主人様思いのメイドってわけね」
でも甘いわよ。そう言うと、彼女はおもむろにテラスの窓をあけた。強い雨風が吹いている。指輪を外し、放り投げた。
「拾ってきたら、考えてあげてもいいわよ」
言い終わる前に、私は走り出していた。だがテラスは広いうえ、大粒の雨が視界を遮って、あっという間に金属の輝きを見失ってしまう。私は四つん這いになった。床すれすれに顔を近づけて、虫のように這う。雨が容赦なく首筋に打ちつける。
そう、こうやって四つん這いになって床を掃除していたら、院長先生に声をかけられたのだ。「お前ほどよく働く子はいない」と労わってくれた。それが嬉しくて、もっと必死に働いた。私には両親も学校もなかった。お屋敷が世界のすべてだった。ご主人様である院長先生の期待にこたえたくて、喜んでもらえることは何でもした。
身体の関係に罪悪感がなかったわけじゃない。でもそれより何より、嬉しかった。必要とされることが。
「あった」
テラスの端、柵の下に指輪は転がっていた。手を伸ばす。だがその瞬間強い風にあおられ、マンションの外壁のひさし部分に落ちた。
柵と床のすきまに、肩を滑り込ませる。ほとんど寝そべった姿勢になっていたので、メイド服はずぶ濡れだった。小柄な体格でよかった、と思った。タワーマンション最上階からの眺めはさすがに迫力があった。
「ちょっと、もういいから! 冗談よ!」
自分で意地悪したくせに、悲痛な叫び声をあげる彼女が可哀想だった。そもそも、私なんかに嫉妬すること自体が馬鹿げている。だって私はただのメイドだから。あちら側とこちら側、一見同じ次元のようでいて、本当に交わることはない。
「メイドなんかと本気で付き合うわけがない」
「この恩知らず」
「子供のくせに、とんだ女だ」
院長先生との関係がほかの家族にばれたとき、ご家族はもちろん、使用人仲間にもさんざん糾弾された。私はすがるように、院長先生を見上げて彼の言葉を待った。だが、彼は私を一瞥すると、何も言わずに扉を閉じて出ていった。
私が愚かだった。そのことを、私は散々思い知ったはずだった。
指先にリングがひっかかる。女性らしい華奢なデザインの指輪だった。きっと馨様からもらったんだろうな、と思った。
頭のてっぺんからぼたぼたと水滴を垂らしながら窓まで戻ると、いつの間にかお客様と並んで、馨様が立っていた。
やっぱり今日も馨様は美しかった。手足の先まで冷え切っているにもかかわらず、その顔を見ただけで胸が熱くなった。
「バカだね、君は……」
ええ本当に。
尊敬と恋心を取り違えて、お情けを愛情と錯覚して。
ご主人様に好かれたくて好かれたくて、どんどん都合のいい存在になってしまう。
このままではきっと、私はまた同じことを繰り返すだろう。
「メイドは所詮メイドです。どれだけそばにいても、どれだけ一緒にいる時間が長くても、雇い主と対等になれるわけじゃありません。勘違いするほうがバカなんです」
私の目から、雨粒に似た水分があふれてはこぼれ落ちた。
「キスされたこと、ものすごく嬉しかったんです、本当は」
だから辞めます、と告げた。
馨様は引き止めなかった。
* * * * *
あれから6年経った。
メイドを辞めたあと、私はスーパーの調理とカラオケ受付のアルバイトを掛け持ちして、専門学校の学費をつくった。とはいえメイド時代のお給料はほとんど貯金していたので、それほど大変ではなかった。
バイトをしながら学校に通い、簿記や事務系の資格を取った。最初は小さな工場に経理の契約社員として雇われ、現在はやはり別の小規模の会社で、社長秘書兼雑用みたいなことをしている。
ヘッドハンティング会社を名乗る人から突然電話があったのが3日前のこと。そして今日、面接のためホテルのラウンジにいる。
私を指名してきたのは、聞いたことのない会社だった。でもどこかで予感がして、昨日久しぶりに家政婦紹介所に顔を出した。
「あらあ、ひさしぶり。元気にしてたの」
安倍さんは相変わらず、テレビの前のパイプ椅子に座ってお茶を飲んでいた。
「ご無沙汰しております」
お土産のお菓子を差し出すと、「手、綺麗にしてるじゃない」と目ざとくみつけられた。爪をシンプルなベージュのフレンチネイルにしていた。
社長の秘書として人前に出るので一応、と言い訳すると、安倍さんはうんうんと頷いた。
「結構さまになってるよ、なかなか」
おせっかいだけど嘘は言わない人なので、その言葉を信じることにした。かつての私を知っている人に、そっと背中を押してもらいたかった。
「というわけで、独立して新会社を設立することになってね。少人数だけに、ぜひ優秀な秘書をと思ったら、君以外に思いつかなくて」
ホテルのラウンジがよく似合う38歳は、少し髭を伸ばして、ますます格好良くなっていた。一応、私にお願いしにきている立場なのに、王子のような立ち振る舞いは変わらない。
でもそれが本当に稀有な才能であることを、私は社会に出てから改めて実感していた。自然に人の上に立てる人間、人からまぶしく見上げられることが似合う人間は、そうそういるわけじゃない。
ただ、その人だけで何もかもが成立するわけではない。サポートする人間がいてこそ、彼らの輝きは強くなる。プロにはプロを。上に立つ者とサポートする者がお互いにプロでいるとき、その関係はきっと対等なはずだ。
それは、この6年間で私が得たなかで一番大事な答えかもしれなかった。
「もちろん、最終的には沢の意思だけど――」
もしかしたら、私はまた傷つくかもしれない。
でもそうならないために、あの選択があったのだから。あのとき泣いた少女のためにも、私は信じてみたいと思った。彼を、そして自分自身を。
コーヒーカップから口を離して、私は言った。
「ベッドメイキングは、業務に含みませんよ」
あははははと、馨様は涼しい声で笑った。
了
お読みいただきありがとうございました。
この作品は、第14回文学フリマに出展した喫茶マリエールの新作『少女にしか向かない職業』に収録したものです。
タイトルどおり「少女と職業」がテーマだったのですが、私はメイドという職業を選びました。
沢が馨の職場の人間に「メイドさんだ~」って寄ってこられるシーンがあるんですが、メイド=一見可愛くて商品価値のある存在だけど、社会的には実際は何も力を持っていない、というアンビバレントな部分を書ければと思っていました。
あと、男の人の無意識的なずるさと、一度好きになってしまうと言いなりになりがちな女の人の弱さ、みたいなものも書きたかった部分です。
私のフェミニストっぽい要素がこれまでで一番出ていると思います。地味な作品ですが、個人的には大切にしたい話です。
執筆中はAlanis Morissetteの「Hands Clean」という曲をずっと聴いていました。10代の少女(過去のアラニス自身)と、妻子持ちの年上の男との恋愛を歌った曲です。さわやかなメロディーにビターでシニカルな歌詞が乗っていて、とても好きな曲です。
余談ですが、この話のアイデアは結構前からあったのですが、実は馨はもともと「識」という名前でした。結局ペンネームに使ってしまったので、今回新たにつけ直しました。
ここまでお読みいただき、どうもありがとうございました。
ご意見・ご感想などお待ちしております。