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妻を探す冴えない男 1

 非日常は、いつの間にか日常へと姿を変えていた。

 この空虚さもまた、今では私の一部になっている。


 いつも通り昼過ぎに目を覚まし、洗面所へ向かう。

 鏡には見慣れた、やつれた男が映っていた。その姿を見ていると、自嘲めいた笑みが漏れる。情けない姿だ。


 この家は、いつからこんなにも静かになってしまったのだろうか。

 今は仕事も辞め、ただ部屋に閉じ籠るだけの日々を送っている。


 がむしゃらに働いていた頃が、ひどく遠いものに思えた。


 あの頃は、この家も今ほど静かではなかった。


 ――それは、数週間前のことだった。


 いつも通り深夜まで仕事に追われ、静かな夜道を重い足取りで帰る。

 私の勤める不動産会社では、終電まで働くことなど珍しくもない。入社してから何度終電を逃したか、もう覚えていなかった。


 会社への愚痴を吐き出す気力すらないまま、ごくありふれたマンションへとたどり着く。


 家へ帰ると、リビングのテーブルにはラップのかかった夕食が用意されていた。食事を温めて遅い夕食を済ませ、その後は無気力なまま風呂へ入る。


 風呂から上がると、そのまま静かに寝室へ向かった。

 扉をそっと開けると、ベッドの上では妻が眠っている。


 その姿を見るだけで、張り詰めていたものが少しだけ緩む気がした。

 しばらく寝顔を眺めていると、気配を感じたのか、妻が重たそうな瞼をゆっくりと開く。


「……おかえり」


 迷惑な時間帯だというのに、妻はいつもそうして声を掛けてくれた。その優しい一言に、何度救われただろう。

 辛い仕事を続けてこられたのも、きっと妻がいてくれたからだ。


 ――しかし、その日は違った。


 食卓には、いつも用意されているはずの食事がなかった。


 一瞬、胸がざわつく。


 連絡は来ていないが、もしかしたら体調を崩してしまったのだろうか。

 それとも、知らぬうちに妻の機嫌を損ねてしまっていたのだろうか。


 心配になり、帰宅早々私は寝室へ向かった。


 その時になって初めて気づく。

 この家は、こんなにも静かだっただろうか。

 足音だけが妙に響き、胸のざわめきがさらに大きくなる。


 言いようのない違和感を覚えながら、ドアをゆっくりと押し開けた。


 ――誰もいない。


 人の気配など一切しない静かな寝室。

 いつもならベッドの上で眠っているはずの妻が、どこにもいなかった。

 頭が真っ白になる。


 慌ててスマートフォンを取り出し、着信やメッセージを再度縋るように確認する。

 だが、それらしい連絡は何もない。


 胸の奥に広がる不安が、疲労を一気に押し流していった。


 震える指で妻の番号へ電話をかける。

 コール音が、やけに長く感じられた。


 しかし、何度鳴っても繋がることはなかった。


 家の周囲を探した。

 最寄り駅へ向かった。

 妻が立ち寄りそうな場所を回った。

 その間も、何度も電話をかける。

 何度もメッセージを送る。


 だが、返事はない。


 気づけば、空はうっすらと明るくなっていた。

 それでも妻は見つからない。


 胸の奥では、嫌な想像ばかりが膨らんでいく。

 事故に遭ったのかもしれない。事件に巻き込まれたのかもしれない。

 だが私は、その考えを必死に振り払った。


 何か事情があって、外泊しているだけかもしれない。

 連絡が来ていないのも、スマホの充電が切れてしまった可能性だってある。


 そう自分に必死に言い聞かせた。

 そう思わなければ、立っていられなかった。


 やがて足が止まる。

 限界だった。


 慢性的な寝不足で身体は言うことを聞かず、思考も次第に鈍っていく。


 一旦、捜索を切り上げて家へ戻ることにした。

 帰宅すると、そのままベッドへ倒れ込む。


 妻のいない寝室は、ひどく広く感じられた。

 シーツの冷たさだけを感じた次の瞬間、意識は途切れるように沈み、ほとんど気絶するように眠りに落ちた。


 ――翌朝。


 深く眠ったはずなのに、意識はやけに鮮明だった。


 目を覚ますと、真っ先に家中を探した。

 夢であってくれと願った。だが、その願いが叶うことはなかった。

 家のどこにも妻の姿はない。


 急いでスマートフォンを確認するも、期待に反してメッセージは一件も届いていなかった。


 会社には事情を説明して休む連絡をした。

 しかし、案の定すぐには許可が下りなかったため、最後は半ば強引に話を切り上げて通話を終えた。


 会社のことなど気にしている場合ではなかった。

 私はすぐに警察へ連絡した。


 だが、返ってきたのは冷たく事務的な声だった。


「現時点では緊急性は低い。失踪として受理はするものの、すぐに大規模な捜索を行うことはできない」


 そう告げられた。


 何かに巻き込まれているのではないか、という不安。

 いや、ただ外泊しているだけで、何事もなかったかのように帰ってくるのではないかという期待。


 相反する感情が、まとまりのないまま頭の中を渦巻いていた。


 その間も私は、妻の行方を必死に探し続けた。

 妻が立ち寄りそうな場所を何度も回り、繋がらない電話を何度もかけた。


 数日後、ようやく警察の捜索が本格的に始まることになった。


 だが、状況が好転することはなかった。何の手がかりも見つからないまま、やがて捜索は打ち切られた。


 ――結局、あれから妻が帰ってくることはなかった。


 現実を受け止めきれないまま、気づけば数週間が過ぎていた。


 外に出ることはほとんどなくなり、生活は部屋の中だけで完結するようになった。

 時間の感覚は曖昧で、昼に起きては何もせず、また眠るだけの繰り返しだった。


 しかし、静かな部屋に一人でいると気が狂ってしまいそうで、どうしても耐えられなかった。

 内容などほとんど頭に入ってこないが、起きている間はテレビをつけっぱなしにしていた。


 その日も、同じようにぼんやりと画面を眺めているだけだった。

 流れていく言葉の中で、不意にひとつだけ耳に引っかかるものがあった。


 ――()()


 思わず顔を上げる。

 その番組では、探偵の特集が組まれていた。失踪者を見つけ出した事例がいくつも紹介されている。

 淡々と語られる内容のひとつひとつが、妙に現実味を帯びて胸に刺さった。


 警察が動かなかった案件でも、独自に調査を進めて真相へ辿り着いた――そんな話だった。


 その手が、まだ残っていたんだ。

 沈みきっていた意識の底に、小さな光が差し込んだような感覚だった。


 半ば衝動的にスマートフォンを手に取り、検索をかける。

 行ける範囲にも、いくつかの探偵事務所があることが分かった。食い入るようにレビューをひとつひとつ読んでいく。

 その中に一つだけ、やたら具体的で好意的な評価が数多く投稿されている探偵事務所があった。


 私は藁にもすがる思いで、その探偵事務所へ向かうことを決めた。

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