36話 アネモネ
猫の姿でオズワルドの部屋で過ごすようになってから、数日が経った。
オズワルドはリリアンのために一室用意した。来客用の部屋のようで、高貴な家具が置かれている。猫には立派すぎる部屋だ。
彼の部屋にいる以上、外の情報は入ってこない。時折、彼の従者が食事を運んでくる。人間と同じ食事で猫が食べても問題ないものを用意してくれるため、食事に不満はなかった。
「リリアン」
オズワルドは部屋に戻ってくると、リリアンを愛でるように撫でながら話しかける。リリアンは抵抗することなく、彼の手を受け入れた。
「今日は何をしていたんだい?」
「にゃー」
人の言葉が話せない。だが、オズワルドはそれでも優しく話しかけた。
「今日は君の友達を見かけたよ。君たちは三人揃うとにぎやかだけど、二人だけでいると静かなんだね」
静かにオズワルドの話を聞いていた。彼はリリアンに他愛のない話をする。まるで子どもが一日にあったことを母親に話すようだった。
リリアンは時折、彼の言葉に返事をする。
「にゃー」
それだけで、彼は嬉しそうに微笑む。それがとても幸せそうで……どこか寂しそうだった。
「……リリアン」
彼は撫でる手を止めると、ぽつりと言った。
「一人で寂しくないかい?」
その言葉には返事をしなかった。
「…………」
彼はリリアンを抱き上げると、膝の上に乗せた。そして、覆いかぶさるようにぎゅっと抱きしめる。
「……君は俺のものだよ」
それだけ言うと、彼はリリアンをベッドの上に置いて部屋を出て行った。
「リリアン様、不都合なことはないですか?」
オズワルドの従者は相手が猫にも関わらず、丁寧にそう尋ねてくれた。
彼の顔を見上げる。いつもオズワルドと一緒にいる人だった。初老の男性で穏やかな顔をしている。黒い髪に白い髪が混じっており、きちんと整えられている。
「にゃー」
猫の言葉はわからないだろうと思いながら、返事をした。
早く帰りたいと。
「そうですか」
彼はまるで意味をわかっているようにうなずく。不思議な気持ちで見ていると、彼は立ち上がった。
「誰かに見られての食事は落ち着かないでしょう。食事が終わりましたら、またお皿を取りに来ますね」
彼はそう言って、部屋を出て行く。……部屋の扉は開いたままだった。
「…………」
扉に目を向ける。こっそりと近づいて、扉の向こうを見れば、誰もいないことがわかった。逃げるのなら、今だろう。
「…………」
だが、引き返して皿の前に座る。そして、食事を続けた。
食事が終わってから部屋に入ってきたのは従者ではなくオズワルドだった。
「……どうして」
彼は床に膝を付けて、見下ろすようにこちらを見る。
「どうして、逃げなかったんだ」
彼の言葉から、扉は意図的に開放されていたことがわかった。
「逃げれたはずだ。それに、君は帰りたがっていたはずだろう? なのに、どうして」
「……にゃー」
一声鳴いて、彼の膝に擦り寄った。彼はリリアンに触れようとし、ぎゅっと手を握り締めた。
「君は怯えることもしない。本当に軟禁されている自覚があるのか?」
彼は少し黙ると、こちらに手のひらを向けた。喉に温かい感覚を覚える。
「あ……」
そっと声を出せば、人の言葉が出た。彼はこちらの言葉を待っている。猫の姿のままオズワルドを見上げて、落ち着いた声で気持ちを伝えた。
「オズワルド様が、不安そうだったからです」
「どういう意味だ?」
オズワルドは理解できないというように、眉間に皺を寄せる。
「私の家族も不安なとき、私を抱き締めました。一人で不安なとき、私を呼びました。だから、オズワルド様もそうなのかなと思ったのです」
猫の手を彼の膝にポンと乗せる。
「オズワルド様はいつも私を助けてくださいました。なら、私もあなたを助けたいと思ったのです」
「では君は、俺が不安だ、離れないでくれと言ったらそうするのかい?」
目を細めて、当たり前だというように答える。
「オズワルド様が不安でなくなるなら」
彼は眉間に皺を寄せる。理解ができないのだろう。それを見て、少し視線を下げて小さく笑う。
「もちろん、帰りたい気持ちはあります。けれど、同じくらいあなたに笑って欲しいと思ったのです」
オズワルドはいつも気にかけてくれた。身分の低い相手……平民だとわかっていても、声をかけ、頼ってほしいと言ってくれた。
「オズワルド様はいつも私に優しかったですから」
だから、自分も彼に優しくありたかった。
「…………」
オズワルドは立ち上がると、彼女に向かって手をかざす。眩しい光に目を閉じる。
「……俺は君の願いをかなえるはずだったのに、自分の願いを優先してしまったね」
目を開けば、人間の体に戻っていた。
リリアンは座り込んだまま、しゃがんでいるオズワルドと目を合わせる。彼は眉を下げて笑った。
「君はいつも遠慮してばかりだ。そんな君が頼ってきてくれて嬉しかったんだよ」
オズワルドは愛おしそうにリリアンの頬に触れた。
「君はもっと、自分の気持ちに正直になるべきだ。……こんなにも素敵な魅力があるのだから」
「……そんなことないですよ」
「あるよ。君は他人のために行動ができる。優しさがある。人の顔色を窺うんじゃなくて、自分がそうしたいと思ったから行動してきたはずだ。そんな君に俺は惹かれたんだよ。……君のことを思う人もいることを忘れないで」
オズワルドは少し視線をさまよわせると、そっと頬から手を離した。
彼は立ち上がって、こちらに手を差し出す。その手を取ってゆっくりと立ち上がった。
「……リリアン。君は人間と御使い、そして悪魔の違いを知っているかい?」
手は握られたままだった。握手のように手をつなぎながら、彼は問いかけた。
「違いですか?」
「ああ。君はどう考えている?」
その問いに考えながら、言葉を紡ぎだす。
「御使いは神に選ばれた方たちで、悪魔は……」
「御使いは神に選ばれた者であるのは間違いない。けれど、悪魔もまた、神に選ばれたようなものだ」
オズワルドはこちらをまっすぐ見据える。
「御使いが過去を見ることができるのだと言うなら、悪魔も過去を見ることができると言える。魔力を使うのも一緒だ。じゃあ、御使いと悪魔、何が違うのか……肉体があるかどうかだよ」
その言葉に目を大きく見張る。彼はそれを見て小さく笑った。
「オズワルド様には、体がないのですか?」
「あるのは魂だけだ。悪魔は、元は人間だ。そして、一度死んでいる。魂だけ、神に残されたんだ。肉体は魔力であるように見せているか、生きている人間の体を乗っ取っているかだ」
「それは……」
彼はリリアンの手を自身の胸元に当てた。彼の胸元からは心臓の鼓動を感じられた。
「俺の体は確かにオズワルドだ。……だけど、魂は違う。俺がこの体の持ち主が生まれた日に、その魂を喰らった。そして、この体を乗っ取ったんだ」
「そう、なのですね……」
この体は借りたものだと彼は言う。それは本当のことなのかもしれない。だが、それだけなのだろうか。
彼の手は温かかった。そして、鍛えるために剣を握るであろう手の皮は硬かった。……彼は生きている。
彼の手をぎゅっと握り、柔らかく笑みを浮かべる。
「では、あなたの名前を教えてくれますか?」
彼は少し驚いたように目を開いた。
「偽物だと、罵らないのかい?」
「生まれたときにはもう、あなただったのでしょう? 私はずっとあなたと接してきました。私に向けられてきた言葉も表情も優しさも……偽物だったとは思えません」
もう片方の手で彼の手に触れる。優しく包み込むと、ピクリと彼の手は震えた。
「リリアン……」
オズワルドがどのような日々を過ごしてきたかは知らない。だが、借り物のような暮らしに身に覚えがあった。
本当の身分ではない、本当の居場所ではない。次第に、自分が何者なのかわからなくなる。少し前の自分はそうだった。ずっと居場所を求めていた。
もし、彼にとってここが偽物の居場所でないのなら、せめて自分だけは本物の居場所になってあげたい。
「私にとって、あなたはあなただけですよ」
彼は眉を下げると「ははっ」と笑った。仕方なさそうに、嬉しそうに。
「……そうさ。俺はただのオズワルドだよ。君にとって、俺は俺だ。でも、そうだな……ある人にはアネモネとも呼ばれていたよ」
「アネモネ、ですか?」
オズワルドはぎゅっとリリアンの手を握り締める。
「君の近くにいる悪魔によろしく言っておいてくれよ。君にリリアンは渡さないって伝えておいて」
そう言って、リリアンの手をそっと放した。冷たい空気が手と手の間をすり抜ける。
「……自分の居場所にお帰り、リリー」
リリアンが家に戻ると、ナタリアが泣いて出迎えてくれた。
「リリー、あなた……どこに言っていたのよ! もう!」
彼女は口では叱りながらも、リリアンを抱きしめて離さなかった。
「養母様……」
子どものように泣きじゃくる養母に困っていると、アレクシスが険しい顔をして腕を組んでいた。
「連絡もせず、どこに行っていた? ずっとどこにいたんだ」
「えっと……」
オズワルドには自分の家にいたと言ってよいと言われている。だが、嫁入り前の女性が男性の家で寝泊まりしていたと伝えるのはどうかと思った。
返事に困っていると、アレクシスが眉間にしわを寄せた。
「……何もなかったか?」
その声は彼にしては珍しく、弱々しかった。
「はい。私は大丈夫ですよ」
彼は少し表情を緩めると「そうか」とだけ言った。
ナタリアは涙が止まらないようで、鼻をすすりながらリリアンにしがみついている。
「本当に、心配したわ。リリーがいなくなって、教会の象徴もいなくなったから……リリーも神様の元へ行ってしまったのかと思ったわ」
その言葉に驚きながら彼女の顔を見た。
「どういうことですか?」
「……数日前、教会の象徴メアリー様がいなくなったそうよ」




