第3章:地下と星の下ー005ー
「なにやってんのよ、さっさと行くわよ」
今一歩の所まで迫っておきながら引き返せざる得なかった無念さで、黛莉は不機嫌そのものだ。
けれどもしゃがみこんだ雪南は動かなかった。
トンネルから出て、襲撃を受けた石碑の傍を行き過ぎかけた際だった。
雪南が急に走り出す。射撃手の屍体があっただろうと思われる地点で膝を折る。硬直したかのように動かなくなる。
「せ、雪南、どうしたの?」
円眞が訊く。屍体は黒き怪物たちが食しただろうから、何もないはずだ。
すまない、と雪南は一言を返して小走りで戻ってくる。一瞬だがポケットに手に入れた仕草を、円眞は見逃さなかった。
「あたしは無視するくせに、円眞には答えるのねー」
黛莉が憎まれ口を叩いてきたが、雪南は無反応だった。
円眞は、まず報告をしなければならない。不首尾ではなかったが、結果を出せたわけではなかった。とりあえず雪南に対する探りは後回しだ。
途中で拾ったタクシーに揺られること、数十分。本来なら経営上苦しい店主の円眞であるから使用を控えたい交通手段だが、依頼人を待たせるわけにはいかない。幸いにも黛莉が経費で落とせるから支払いを持つと車中で伝えられた。
アスモクリーン株式会社の事務所が入るビルの前で三人は降りた。
車内では黛莉がしゃべりっ放しで、雪南が押し黙りだ。円眞はなんだか気が騒いで落ち着かない。
円眞の得体知れぬ懸念は事務所のドアを潜った途端に、現実のものとなった。
ただいま、と先に入った黛莉の脇をすり抜けていく。
事務所奥へ辿り着いた白き髪の長い女性が戦斧を振り上げた。
相手はデスクに腰掛けた後ろで髪を結ぶ地味な女性だ。
「雪南!」
叫んだ円眞は発現させた短剣を振るっていた。名を呼んだ相手の首元へ向けて。
ビチビチッ、と爆ぜるような音が響き渡る。
「せ、雪南、やめろ! 夬斗くん、ごめん。頼むから、ここは堪えてくれ」
雪南の首に巻き付いた糸を切断した円眞は必死に訴える。
「親友、こればかりは聞けないな」
普段からは想像だに出来ない夬斗の凍てついた声だ。
「今すぐ、やめさせるから。雪南、やめるんだ!」
円眞も普段からは考えられない怒声を発した。
初めて見せる迫力に思わずといった態で雪南は代理人体を退かせた。
「夏波さん、大丈夫ですか」
椅子に腰掛けた事務員へ駆け寄った夬斗は、一転して優しげだ。
「大丈夫よ。さすがに、ちょっと驚いたけれど」
これほどの襲撃にも微笑むような夏波と呼ばれた女性事務員だった。
「あんた、なに考えているのよ!」
黛莉の張り上げられた声もまた震えている。手にした機関銃は小刻みに震えていた。円眞と夬斗のやり取りがなければ引き金は引かれていたかもしれない。
事務所で立ち尽くす雪南が答えた。
「なぜ、ワタシたちは言われた場所へ辿り着く前に襲われた。今日のことを知る者は限られていたはずだ」
それで? と答える夬斗は先ほどの冷たさへ戻っていた。
「ワタシたちが行くことを知っていたに違いない。やってきた黛莉が事務に教えてもらったと言っていた。それに襲ってきたヤツのポケットから、この名刺が出てきた。夏波と名前が書かれていた。だから……」
「もういい、なんだ、その短絡さは!」
雪南が出した名刺にも、夬斗は苛立つまま発言する立場を入れ替えた。
「名刺など会社をやっていたら、いくらでも渡す機会はある。それに漏らすとしたら、なぜ俺や妹を疑わない。事務が勝手にやるなんて考えるほうが、どうかしている」
「そうか、関係なさそうな者こそ疑うべきではないか」
雪南のほうも退く気配はない。
まずい、と声にせずとも叫ぶ円眞だ。
夏波のこととなると、夬斗が見境なくなることを薄々感じていた。それがはっきり証明されそうな気配が濃厚に立ち込めてくる。両手を握りしめた和須如の兄に、ぐずぐずしていられない。
頭上へ白き女性を従えた雪南へ、円眞は慌てて言う。
「雪南、風間さん……この事務員さんは、そんなこと出来る人じゃないよ。能力を持たない一般人なんだからさ」
「だからだ、円眞。能力を持たないからこそ、策略を巡らせるんじゃないか」
「違う、違うんだ。そういう意味じゃない」
能力について持ち出した点に、円眞は己れのミスを感じた。説得どころか余計にこじらせてしまった。
キャスターの転がる音がした。
すっと立ち上がる夏波の背筋は綺麗に伸びていた。姿勢の良さは腰掛けている時と同様だ。佇まいに気品を感じさせる。
夏波がメガネのレンズの奥にある目を光らせてくる。
円眞の緊張は一気に高まっていく。面識がある程度でしかないからこそ、不安が尚のこと過ぎる。もしかして能力を持たないなど早合点だった可能性もある。
夏波の両手が動いた。
円眞は手にした短剣を握り直さずにはいられなかった。
「えー、やだもうー。なになに、ちょーかわいいんですけどー」
突然に上がった鼻息も荒いミーハーな声は、品の良さを一気に吹き飛ばした夏波だ。両手で雪南の頬を挟めば、目がらんらんとしている。性的興奮かと思わせるほど上気していた。
円眞ばかりでなく接近を許した雪南も、唖然だった。
始まった、と言いたげな黛莉の顔つきである。
こめかみを押さえて夬斗は、たしなめるように言う。
「夏波さん、分かってます? 今その雪南と呼ばれる女が、なにをしようとしていたか」
「夬斗くん。この街では、よくあることじゃない。それより見て見て」
まるっきり頓着せず夏波は、雪南の頬を挟んだまま向けてくる。
生命を奪おうとした襲撃者の顔を見せられても、夬斗が乗れるわけがない。むしろ気持ちはほぐれるどころか緊張が高まっていく。
雪南という謎の少女が殺人に躊躇しないことは、この場にいる全員が承知している。夏波におかしな仕草が少しでもあったら、白い戦斧を首へ喰い込ませるだろう。
夬斗だけでなく円眞に黛莉も、用心の意識が研ぎ澄まされていく。
夏波だけが興奮冷めやらずといった調子だ。
「これは逸材だわ。しかも黛莉ちゃんと違って胸もある」
「ちょ、ちょっとー、それ言う、夏波姉さん」
さすがに黛莉は懸念を忘れて抗議せずにいられない。
まごついたのは雪南もである。顔を押さえさせたまま、もじもじした口調で訊ねた。
「ワ、ワタシはかわいいのか?」
「当たり前じゃない。でも何といってもプロポーションよね。黛莉ちゃんのたいら……スレンダーも悪くはないんだけど、やっぱりポヨヨンな娘もラインナップに加えたいの」
これまでとは一転して夏波は真面目な表情で返す。
夏波の意見を受けて、円眞はついつい見惚れてしまう。
雪南は顔立ちもさながら女性が憧れる体型でもあるようだ。言われるまで気付かなかった。そして雪南がグラマーとする一方で、もう一人に対する評価は……。
考えなく目を向けてしまった失敗に、円眞はすぐさま気がついた。
視線がかち合えば、これまでにない殺気が放たれる。
円眞は怯え、黛莉は怒り心頭だ。
夬斗は諦めたかのように息を吐いている。
ふと、夏波が雪南へ顔を寄せた。
怒髪天の黛莉を相手にしながらも、雪南の耳元へささやかれる唇を読んだ円眞だ。でなければ間に合わなかっただろう。
刃同士ぶつかり合う重い響きが、室内の隅々まで行き渡っていった。