閑話:魔王閣下の日常 6
狭い馬車の中でぎゅうぎゅうづめになりながら、男たちは猫と彼女にちらちらと視線を投げかけてくる。
彼女は馬車の固い壁に身を任せて目を閉じている。
リーフラムやガルフに比べてこの男たちは洗練した王都の雰囲気をまとっている。
王都騎士団の第一隊と言ったか。
実力の第三隊や実績の第五隊に比べるとはっきり見劣りする肉体。
第一隊は基本的に高位貴族の子弟がほとんどで、王のそばに侍り、普段は王宮から出ることもない彼ら。
目の前にいるこの三人も、いずれの公侯伯の次男や三男だ。
家督を継ぐ長男以外の次男三男は自分の腕で稼ぎ、爵位を手に入れなければならない。故に騎士爵を望める騎士団に入る。
見目のよい者がより王に近い位置に配置されるのだとクラウスが言っていた。
彼らの家名は、エランドル王国に住まう人間ならば一度は聞いたことのある名前ばかりだ。
それがなぜ、彼女の迎えに差し向けられたのか。
しかも王命だと言っていた。
あの辺境伯は父であるエランドル国王には彼女の事情を伝えているのだろう。でなければ、第一隊など動かせるはずもない。
それにしてもいつもの馬車より乗り心地が悪い。まあ、それでも彼女の膝にずっといられるのは僥倖ではあるが。
時折刺すような視線を向けられてちらりと片目だけをあけると、赤毛の男と視線があった。
さっきからさんざん観察されていることは気がついているが、殺気のこもった視線を向けられると落ち着いてはいられない。
むくりと体を起こし、背伸びをすると大きくあくびをした。
馬車の中は奇妙な沈黙で満ちている。騎士たちが彼女に興味を持っていないのは明らかだ。
ただの『将来有望な魔術師の卵』としてしか事情を聞いていないのだろう。
でなければ、彼らの微妙な立場から考えても、勇者である彼女と何らかのつながりを欲してもおかしくない。
無論、男三人が彼女に対して不埒な振る舞いをするようならば、今すぐ彼らの手から彼女を攫って隠すつもりではあるが。
それとも、王命で迎えにきたのが明らかに他国の小娘で、対応に迷っているのか。
彼らが王名で動かされたということは、余程の重要人物の迎えだと思ったに違いない。
確かに、辺境伯は王に取っては重要なポジションの人間である。私情を抜きにして軍事的意味合いに置いて。
ゆえに辺境伯をこの馬車に迎え、王都まで同席する栄誉な役目だと思っていたのだろう。
それが、何者かもはっきり知らされぬ彼女の護衛とされ、肝心の辺境伯とは直接の接触もない。
三人が静かなのもその辺りが原因なのだろう。
まあよい。
夜半には王都に着くという。今しばらくの眠りを猫が守るとしよう。
◇◇◇◇
迂闊だった。魔王としたことが。
まさか王命を受けた王国騎士団第一隊の隊長自らが彼女を騙したとは。それとも、迂闊にも誰かに惑わされたか。
王都の門で待ち構えていた学院の使いというのがそもそも怪しかったのだ。
いつ到着するとも知れない第一隊の馬車を、あんな遅い時間まで待つだろうか。しかも学院長自らが迎えに来ると言って王命を覆した。
学院長はたしか王に連なる者だ。だからといって、最高権限者である王の命を簡単に上書きできていいはずはない。
この場合、深夜といえども使者を送って王に指示を仰げばよかったのだ。
それをしなかったのはやはり、彼女がどういう存在であるかを知らなかったせいだろう。
学院長が出てきて、ただの学生を引き渡すだけだと思ってしまったのが今回の失敗の原因だ。
ソファに体を預けて憔悴しきった顔で眠る彼女の頬を舐める。
先ほど出ていったコンシェルジュはきちんと事態を把握しているようだ。彼女についてはおざなりにせず、話を聞いて使いも出してくれた。
ここからリドリス領主の館は遠くないのだろう。じきに迎えが来る。
彼女の顔を知っていて、俺のことも知っている人間が来てくれるといいのだが。一応、第三隊のメンバーならば皆、猫と彼女についてはわきまえてくれている。
最初の予定通りならば、リドリス領主たちは昨日の夜に王都に入ったはずだ。その後、今朝になって約束通りに荷物を学院に届け、彼女がまだ到着していないことを知ったのだろう。
第三隊は昨日の時点でお役御免だ。隊長職を除けばあとの者は皆今日から一ヶ月の休暇に入る。田舎に帰る者はそのまま出発しているかもしれない。
となると、迎えに来られる人数は限られている。隊長か、ガルフか。それとも……。
不意に魔族の気配がして猫は顔を上げた。ヴィルクの気配に違いないが、魔族としての気配がだだ漏れだ。相当焦っているのだろう。上空の高い位置にいるはずなのに、この俺にまで感じられる。
ヴィルクに続いてピートの気配も濃くなってきた。
こちらは喜びがにじみ出ている。どうやらこの二人が彼女の護衛役のようだ。他にこちらに向かってくる見知った気配はない。
コンシェルジュが戻ってきて声をかけようとしたが、ソファで眠りこける彼女にそっと毛布を掛けると、カウンターの向こうへ戻っていった。よくできたコンシェルジュだ。
二つの気配はどんどん近寄ってくる。もう大丈夫だろう。
猫は毛布の上に陣取って彼女の眠りを守ることにした。
◇◇◇◇
二人が案内されてロビーの眠る彼女のところまでやってきた。
猫が顔を上げてニャア、と声をかけてやると、安心したように二人は表情を崩し、猫の頭を撫でる。
「心配したよ、ほんと。見つかってよかった」
「ずいぶんよく眠ってるな。眠ったまま連れて行こうか」
「そうだな。ピートの背中に載せられるか?」
「ああ。任せろ」
「じゃあヴィルクは先に森に帰らせる。地面を歩くのは苦手だからな」
「分かった。ゆっくり歩くよう言うよ。……クロ、彼女を守ってくれてありがとな」
ニャア、と返事を返す。ウルクは毛布ごと彼女を抱き上げると振動を与えないようにゆっくり出口へ向かった。ジャックは俺を片手ですくい上げると、コンシェルジュの紳士に礼とかかった費用の支払いを済ませて外に出た。
少し離れた位置に待機していたヴィルクを帰らせ、ピートの横に立つ。ウルクはピートに騎乗して、眠ったままの彼女を腕で支えていた。
「俺も乗れると早いんだがなぁ」
「乗ってもいいけど落っこちると思うから勧めない」
「……だよな。ピート、護衛の俺がついていける程度にゆっくり歩いてくれ。でないと護衛の意味、ないからな」
ピートはジャックに鼻を押し付けている。
「こんなことならもう少し護衛をつけてもらえばよかったかな」
「それも考えたけど、人が増えたらその分立ち回れなくなるからねえ。……彼女をこんな場所に隔離して、一体何がやりたかったんだろうねえ」
「ああ、第一隊の隊長?」
「元・隊長だ」
ゆっくり歩を進めながら二人は語りだした。ジャックの肩に乗っかったまま、猫は話を聞いている。
そうか、あの男は即刻更迭されたか。
これは仕方がないだろうな。王命を全うできず、大事な優秀な魔術師候補生を失うところだったわけだし、リドリス領主がこうやっておおっぴらにした以上、何のお咎めもなしでは済まされない。
自業自得とまでは言わないが、普段は荒事も市井の人とのつきあいもない第一隊の高位貴族のお坊っちゃんには堪えたことだろう。
「学院の使いってのが本物じゃなかったって話だろ? 今後はいろいろと厳しくなるだろうな。模倣犯が出やすい内容の手口だし」
「まあ、どうせどこかの公爵家の三男坊かなんかでしょ? 食うに困らないんなら、騎士なんかやらなくてもいいだろうにねえ。そうでなくとも第一隊は家柄のよいとこの坊っちゃんばかりだし」
「騎士爵狙いだろ? 継ぐものがないから、貴族であり続けようとすれば、功績上げて授爵するしかないしな」
ジャックが大きく伸びをする。落ちないように頭にかじりつくと、片腕が猫の体を支えてくれた。
「ま、わたしたちには関係のない話だけどね。……一ヶ月は学院の先生だし」
「……お前はいいよな、もともと卒業生だし、ちゃんと魔術師としてやってるし、学院の先生ってのも変じゃないよ。でも、俺はなぁ……」
「まだうじうじ言ってんの? もう決まったことだし、これがペナルティなんだから、断れないのよ? いいじゃないの、教えるのはシオンに対してだけなんだし、ヴィルクもピートも学院に施設があるらしいから、いつでも会えるし」
「そうなんだよなぁ」
ジャックは肩の猫を腕に抱き込むと、喉のあたりを掻き出した。気持ちが良くてゴロゴロと喉を鳴らす。
「重要なのは、わたしらは彼女の専属護衛だってこと。寮には入れないけど、それ以外の場所では常に行動を共にするのが仕事。でしょ?」
「わかってるよ。……そういや学院で先生やってる間の給料の話、聞いたか?」
「そういえば聞いてないわ」
「無給だそうだ」
ひゅっと息を呑む音がした。
「うそ……。騎士団なら一ヶ月の休みでも給料出るじゃない! 学院ってそんなにケチなの?」
「いや、騎士団の給料がゼロだってこと。学院が払ってくれるんだとさ」
「ああ、なんだ……。びっくりさせないでよね。てことは何? 実質の減給ってこと?」
「……うげ、そういやそうだ」
「勘弁してよね……ピートの餌代、馬鹿にならないのに」
「……頭いてぇ」
くるりとジャックの腕の中で丸くなる。とりとめのない会話はリドリス辺境伯の館に着くまで続いたが、彼女が起きる気配はなかった。
◇◇◇◇
リドリス領主の館にたどり着くと、ジャックは毛布ごと彼女を抱きかかえ、ウルクはピートを連れて何処かへ行った。
ここは領地にあった領主の館に比べると遥かに狭い。前庭も大して広くなく、厩では馬が怯えるだろうから町外れか、魔獣を預かってくれるところまで連れて行くのだろう。
館の護衛には話が通っているらしく、猫込みですんなり通してくれた。館の中は領地の館と同じく結界と魔力を少しずつ掠め取る魔法陣が敷かれていたが、今の猫の体には魔力が漏れ出る傷もない。さほど影響を受けずに済みそうだ。
家令の案内で彼女の部屋へと通される。今回は、客用の大広間に面した一室だ。彼女を寝台に降ろして毛布をかけ直すと、ジャックはさっさと出ていった。やはり幼いとはいえ女性と同じ部屋に長くいるのはまずいと思っているのだろう。
「あとでウルクがくるから、それまで見張り、よろしくな」
そう猫に言って、出ていった。
俺は寝台によじ登ると彼女の頬をぺろりと舐めた。昨日からの気疲れのせいか、ぴくりともしない。
何をやっても起きそうにない、と諦めた頃、隣の部屋から音がした。続いて扉の開く音。
「あら、クロ。看病してくれてるの?」
顔をのぞかせたウルクにニャア、と返事をしてやる。ウルクは俺をそっと撫でるとベッドに腰をおろし、彼女の顔色をうかがった。
「だいぶ調子悪そうね……顔色も悪いし。この様子じゃ食事時にも起こさないほうがいいわね。クロ、お腹空いてない?」
ニャア、と返事をしてウルクに身をこすりつける。
「そっか、じゃああとで持ってくる。ここでおとなしくできる?」
ニャア、とまた返事を返すと、猫の頭をなでてウルクは出ていった。耳を澄ませていると、近くの扉が開閉する音がする。おそらくこの部屋と同じように、さっきの広間に面した部屋を割り当てられているのだろう。
そういえば彼らも学院に派遣されると話していたな。
しかもシオンと一対一での授業を行うという。
となると、クラウスの一時的な同僚となるわけだ。
一応クラウスの耳には入れておくか。
彼女の足元にとぐろを巻いておいて、俺は隠れ家に飛んだ。
◇◇◇◇
まだ日は落ちていない時刻だというのにクラウスは珍しく隠れ家にいた。
「珍しいな、王都の家じゃなくてこちらにいるとは思わなかった」
「そうなんだよ、ちょっと学院で問題が起こってさ。今日は一時的に休講」
「問題?」
畑に水をやりながら、クラウスはしかめっ面を俺に向けてきた。
「そう。今日入るはずだった学生が来なくてさぁ。学生自体は見つかったって連絡が来たんだけど、その来なかった原因がさぁ、学院の使いを名乗る人物が学院長が迎えに行くとか嘘ついてたらしくて。生徒も含めて全員の聞き取り調査とか、いろいろ大変だったんだよ。俺は比較的最近入ったから、一番に疑われてさ。しかも教員用の寮に入ってないじゃん? だからもう、取り調べがしつこくてしつこくて。ここの出入りを記録してる魔具まで提出させられたよ。いやもう」
「ああ、お前の方にも影響あったのか」
「え? なんか知ってんの?」
「行方不明になった学生が彼女だ」
クラウスは目を見開いた。
「え! 何があったんだよ、一体。てか、お前、ついてたんじゃなかったのか?」
その言葉に俺は眉根を寄せた。
「ついてたけど、その偽の使者は彼女の護衛についていた騎士団の人間に接触したんだ。俺が事情を知れるはずもないだろう?」
「ああ、そりゃそうか。でもあっさり見つかってよかったよ」
「それより、お前の方は大丈夫なのか? ここへの出入りとか、疑われたりしないのか?」
クラウスはしばらく手元のじょうろを見つめていたが、やがて水撒きをしはじめた。
「大丈夫だろ。たぶんだけど。館の魔力の変動とか魔法の発動とかまで事細かに監視されてたらまずいかもしれないけど。それに、使者を名乗った人物は話に聞くと俺よりは小柄だったそうだ。女性だったんじゃないかという話も聞いたし、明日からはいつもどおりの授業予定が入ってるし」
「そうか。それならいいけど。その他に何か聞いてないか?」
「何かって?」
「新任の教師とか」
「ああ、聞いた」
そう応じたあと、クラウスは顔を上げた。
「二人、いや三人だっけ。臨時講師が入るって。魔具の公開講義も検討中らしい」
「その三人だが、彼女の護衛兼専属教師として入る。現役の魔術騎士団と王国騎士団のメンバーだ」
「……専属?」
「すまん、どうやら彼女の護衛のために、初級クラスとは別に別室で授業を受けるらしい」
「ちょっと待てよ。じゃあ、俺が初級クラスに潜入してるのは……」
「予定とは変わったが、三人とうまく接触すれば彼女との接点は作れるだろう。三人の情報は要るか?」
クラウスは水撒きを終えて部屋の方に戻って来ると、ソファでくつろぐ俺の向かいに座った。眉根を寄せ、不機嫌を隠そうとしない。
当然だ、クラウスには怒る権利がある。だが、俺を詰ろうとはしない。相変わらず読めない奴だ。
「そうだな……。情報は貴重だ。教えてくれ」
「まずは魔術師の女。ウルク。魔獣を隷属させている。元は王国騎士団のメンバーだったが、魔術の腕を買われて魔術騎士団に移籍した。魔法の初歩を教えるのは彼女だろう」
「美人か?」
「まあ、美人だな。騎士だけあって気性は荒い」
「それは何とでもなる。それから?」
「次は王国騎士団の男。ジャック。彼も魔獣を隷属させている。彼のは猛禽類で、ウルクのは大型の猛獣だ。彼については魔獣についての講義をすると聞いた。どちらかといえば護衛の役目のほうが比重が大きいだろうな」
「へえ。魔獣のパートナーか」
「学院の魔獣小屋に入るそうだから、のぞきに行くといい。ああ、彼らは魔獣ではなく魔族だから気をつけて」
「魔族? マジかよ」
「そう。まあ、二人ともパートナーを狙ってるから、変な手出しはしないほうがいい」
「……うげ。それでどうやって接触しろって? もし絡まれたらお前の名前出すからな」
クラウスは心底嫌そうな顔をする。俺はふんと鼻であしらう。
「で、三人目。ガルフは魔術騎士団の隊長だ。魔力量は俺や彼女を除けば隊では一番だろう。魔具の製作には長けている。公開講義って話はガルフだろうな」
「なるほど。魔具は俺も多少経験はあるから興味はある。公開講義をやるなら楽しみだ。他には?」
「特にない。まあ、お前のことだ。仲良くなるのはお手の物だろう?」
「そりゃそうだけど、男相手はやだなあ」
「まあ、うまくやってくれ」
「分かった。……それにしても、初級クラスへの潜入が無駄だった分はどっかで埋め合わせしてくれるんだろうな?」
じろりと俺を見るクラウスに、俺はため息をついた。
「わかっている。……それとも、もうやめるか?」
「……お前な。ここまでやらせておいて無責任じゃねえかよ」
「嫌ならやめていいって話だ。……どうする?」
「辞めねえよ。せっかく子供たちもなついてきたし、授業も進むようになってきた。来月の合宿も楽しみにしてるんだ。コルネリアの料理も美味いし」
「そうか」
たぶんそう言うだろうとは思っていた。吟遊詩人の生活に未練がないわけではないだろうが、クラウスにとっては時間はそういう意味合いでは無限だ。
何の気まぐれか、しばらくはこの生活を楽しもうと思っているようだ。
奴のことだ、気が向けばまた吟遊詩人の生活に戻るつもりだろうが。
クラウスは腰を上げた。
「そろそろ館に帰るわ。コルネリアが来る時刻だ」
じゃあな、と片手を上げて戻っていくクラウスを見送って、俺も彼女のそばに戻ることにした。
◇◇◇◇
彼女も、お目付け役どもも寝静まった夜。
猫は少し開けたままの扉の隙間からするりと抜け出すと、館の中をぐるりと回った。どこかの窓が開いていればと思って探したが、残念ながらここの館は戸締まりがしっかりしている。その上、魔法で封印までされている。
それもそうか。辺境と王都ではセキュリティレベルが違う。ほんの少しでも窓が開いていればそれは賊が侵入した印だ。猫がこじ開けて出ても、騒動になろう。
仕方なく部屋に戻ろうとした時だ。
悪寒が走った。
悪意のない純粋な力の放流だが、悪意がないだけに、鋭い刃の姿に感じられる。そんな力が、どうして王都にあるリドリス辺境伯の館の中から放出されるのだ。
魔王ですら背筋の凍る思いをするほどの力を、誰かが放出している。
リドリスで感じたものとは違う質の力。
ぴりぴりと静電気でも帯びたように、ぞくりと猫の首筋の毛が逆立つ。
なんとか鼻をひくつかせると、古臭い匂いがする。
古の――いや、すでに滅びたはずの古の魔法だ。
こんなものを、誰が操っているというのだろう。
怖いもの見たさとでも言うのだろうか、猫は力を濃く感じられる方へそっと足を向けた。
◇◇◇◇
……なんであんなものがこの屋敷の中にあるのだ。
古の魔法の時代から残っている遺物と呼ぶべきだろう。
前代の魔王が討伐されたのはそう遠い話じゃない。俺が魔王になって、まだ数百年だ。おそらくあれが、前代の魔王を倒した剣だ。その証拠に、前魔王の呪いがバッチリかかっている。
あれをもしかして勇者に渡すつもりだろうか。
冗談じゃない。
あんな禍々しい……いや、禍々しいなんてものじゃない。
あれそのものは力だが、あれを手にする人間にかかる呪いはとんでもないものだ。
近寄る者全ての耳に人間及び勇者への呪詛を吐き、洗脳を試みようとする。結果、ありとあらゆる生きとし生けるものを殺す殺戮兵器と化す。愛する者がいるならばより残虐に、意識を残したままで殺させる。
こんなもの、彼女に渡せるか。
リドリス辺境伯はなぜこの館にあれを置いているのだ。
放出された力そのものはこの館の結界の維持に使われているのが見て取れる。
この力の放出を王国が放置しているとは信じがたい。おそらく知っているのだ。知っていて、ウィレムに託したのだ。
人の手にできない、魔王討伐のための剣を。
この世界の理から外れる彼女なら大丈夫だとでも言うのだろうか。
冗談じゃない。
あれは――魔王が破壊する。
彼女の手になど渡すものか。
怒りが先走って、思わず自分の体を呼び寄せかけた。視界が真っ赤に染まったところで彼女の声が耳に届いた。
――彼女が呼んでいる。
それだけで集中していた意識が四散した。
息を吐き、気を落ち着かせるために身づくろいをする。
彼女の声が引き戻してくれた。もう少しでこの館を灰に帰すところだった。
だが、あれだけは、存在してはならない。
彼女が手にするぐらいならいっそ――。
怒りが再燃するのを押さえ込んで、部屋へと足を向ける。
情報が欲しい。
あの剣の情報が。
クラウスに頼むとするか。
忙しいのはわかっているが、学院にいるからこそ探せる情報があるはずだ。
彼女のもとに戻ったら、隠れ家に伝言を残しておこう。
少しだけ開けたままの彼女の部屋に滑り込むと、目を覚ましていた彼女の膝に飛び乗った。
「どこに行ってたの? クロ。あんまりうろついてちゃだめだよ? 明日にはここを引き払うんだし」
ニャア、と返事をして彼女に体をこすりつける。
この体にあの剣の呪詛は残っていない。強烈な魔力に当てられたのかもしれない、彼女の魔力がひどく優しく感じられて、いつもよりも大目に貪る。
「寝よっか」
抱き込まれたまま、毛布をかけられて猫は目を閉じる。
愛しいお前の手にあんなものを持たせたりしない。絶対だ。
柔らかな体を肉球でふにふにと揉みしだき、体を押し付ける。
愛しいお前。
お前を守るためならば、魔王はいくらでも手を汚そう。




