29.ピートに乗りました
「ピートに乗ってみない?」
そうウルク――ウルリーケが誘ってくれたのは宿に入る前のことだった。
「え?」
わたしは驚いてウルクの顔を見上げた。
少なくとも、ウィレムは絶対ダメだと言うに違いない。ウィレムと一緒に馬車に乗っているのは警備上の問題からだし、ウルクたちは先触れとして部隊が出発する前に宿を発って次の宿に向かい、部隊を受け入れる手続きや準備をするので、警護は全くされていない。
「でも、領主様が……」
「ああ、それなら大丈夫。この旅の間にシオンを乗せてもいいって許可、もらってるから」
それって、旅の間の何処かでピートに乗ってみるだけのことだとウィレムは考えてるに違いないよ?
これで二人がさらに罰を受けるようなことになったら……。
「それに、前回の一件で俺らも懲りてるからな。ちゃんとお前を守る」
ジャックがぽんとわたしの頭に手を置いてくれる。
さっきまでささくれだっていたわたしの心には暖かく染み通ってくる。
「ありがとう、ジャックさん、ウルリーケさん」
「ちょ、おま、なんで泣いてんだよっ」
ジャックがあわてて頭の上の手を退けたので、頭の上の体温が消えてしまった。
滲んできた涙を手の甲で拭って、わたしは二人を見上げて微笑んだ。
この二人とわたしは友達になれるだろうか。
「お前が何かまずいこと言ったんじゃないのか?」
ウルクの言葉にわたしは頭を振った。
「違うの、嬉しかっただけなの。……よかったら、乗せてもらえませんか?」
クルクルと側に立っていたピートが嬉しそうに喉を鳴らし、顔を寄せてきた。手を伸ばして鼻面を撫でると嬉しそうに目を細める。
足元に立っていたクロが急に体によじ登ってきたと思ったら、伸ばしてる手に乗ってきてピートの鼻面にぺしりと肉球を当てた。
「クロ? 爪立てちゃだめ」
ピートがびっくりして頭を離し、わたしもクロを胸に抱き込んだ。
「ピートも落ち着け。じゃあ、明日いつもより早く出ることになるから、今日はご飯食べたら早く寝ておいて。日の出前に迎えに行くから」
「うん、わかった。えっと……クロは連れていけないよね?」
ウルクはクロを見ながらうーん、と唸ったあと、やっぱり首を横に振った。
「そうだね。猫科で相性は悪くないけど、落っことしたら大変だしね。荷物と一緒に領主様に運んでもらってくれる?」
「うん、わかった。クロ、ごめんね。その代わり今日はゆっくりお風呂入れたげる」
怒り顔だったクロはニャア、と返事をして、しぶしぶわたしの手を舐めてくれた。一応これで明日はおとなしくしてくれるだろう。
「さ、そうと決まればとっとと宿に入りな。明日は結構な強行軍だからね」
「うん、わかった。ありがと」
二人と二匹に手を振ると、わたしは宿の入り口に向かう。
小走りになりながら、口元が緩むのをとめられなかった。
朝は本当に早かった。
馬車に乗ることは思ったよりわたしにとってはストレスになってたみたいで、まるで修学旅行前のようになかなか寝付けなかった。
だから朝、ウルクが起こしに来た時は今度はなかなか起きれなかった。クロが起こしてくれなかったらまだ寝てただろう。
ジャックとウルクに連れられて食堂に降りると、三人分の簡単な朝食が用意されていた。
本当にささやかな食事で、いつも宿で頂いていた朝食を思うと二人に申し訳なく思う。二人は朝早くに出掛けて先触れの仕事をこなしているのに、何もせずに馬車に揺られているだけのわたしが豪華な食事をいただいてるだなんて、間違ってる。
明日から、護衛隊と同じ食事にしてもらうように言おう。
まだ眠ってる胃に食事を流し込むと、宿を出た。
入り口で待っていたピートとヴィルクに挨拶すると、クルクルと二匹とも嬉しそうに鳴いている。
「今日はよろしくね、ピート」
そう挨拶をして手を伸ばすと、ピートは頭をこすりつけたあと、いわゆる『伏せ』の態勢になった。
「今日はずいぶん聞き分けのいい子じゃないか、ピート。わかってると思うけど、シオンを落っことしたりしたら、一週間はおやつ抜きだからな」
ウルクの言葉に情けなさそうにくぅ、と鳴き声を漏らした。
「よし、じゃあ乗ろうか。シオン、鞍がないから乗りにくいだろうと思うけど、わたしが一緒に乗るから、しっかりわたしにしがみついていてくれる?」
「は、はい」
「馬には乗れるんだっけ?」
「えっと、乗ったことはないです」
ブランシュの時代には乗ったことはあるし、乗馬については領主の館でも座学で授業があったから、知識としてはある。実践はしたことない。
「そっか。まあそうだよね。それに、その格好だと横乗りするしかないね。……ちょっとごめんね」
ウルクはそう断るといきなりわたしを横抱きにしたままピートにまたがった。そのまま、ウルクは体を前倒しにしてピートの首当たりに手を回す。
そうすると、ピートに仰向けに座ったわたしの上にウルクが覆いかぶさる体勢になる。
「きゃっ、あの、これ」
「ごめんね、ローブだと難しいか。仰向けだと辛いだろうから、うつ伏せになってピートの毛を掴んでくれる?」
「え、あ、はい」
ウルクが体を起こしたので、わたしは体勢を変えてみる。だがうつ伏せになっても足の置き場がない。
「あの……ローブの下にズボン履いてるから、普通にまたがってもいいですか?」
「えっ? 大丈夫なの?」
「はい、大丈夫です」
少しローブをたくし上げてピートの体をまたぐようにする。膝のあたりまでローブがめくれ上がってしまうけれど、体をぺったりとピートに前倒しにしてくっつけるから気にしなくてもよさそう。
「これで、どうですか?」
ウルクがわたしの背中にくっつくようにしてピートの首に手を回す。チャリ、と音がして首輪のような鎖が見えた。これが手綱のようなものなのかもしれない。
「うん、これならいけるかな。でも本当に大丈夫? ローブずいぶんめくれちゃってるけど」
「大丈夫です。それに、結構なスピードで走るんですよね? だったらローブ脱がない方がいいかなって」
「まあ、そうだね。じゃあ、これで行ってみよう。落っこちそうだとかどこかが痛いとかあったらすぐ言ってね?」
「はいっ」
「俺はヴィルクで上空から見てるからな。何かあったらすぐ連絡する」
「分かった、頼むね」
ウルクの命令一つでピートは立ち上がった。少し揺れて、馬よりも怖かったけど、ゆっくり歩くところから始めて、だんだんと駆け足から飛ぶような疾走にとランクアップしていく。
怖くてぎゅっと捕まって目を閉じる。
「シオン、怖い?」
「ち、ちょっと、だけ」
「下を向いてると酔うかもしれないね。少し横を見てごらん?」
ピートはすごい勢いで走り続ける。というか、飛んでる。密着していてよく分かる。ピートの肉体がどう伸縮しているのか。飛ぶ瞬間と地をかける瞬間の力の入り方もくっきりわかる。
そのおかげで、だんだん走るリズムがつかめてきて、体を揺さぶられるタイミングもわかってきた。
恐る恐る目を開けて顔を横に向けると、空の色と一緒に風景が流れていく。緑色の草原、立ち並ぶ木立、遠くにぽつんと立つ一本の木。
「すごい……」
「前を向いてるとスピード感がすごいんだけどね、わたしとピートの頭で隠れちゃって見えないだろうから、横を見てるといいよ。気分悪くなったりしてない?」
「はい、大丈夫です」
「そう? 気分悪くなったらすぐ言ってね? 寝てもいいよ」
「うん、ありがとう」
馬車に揺られていた間見なかった世界を、今見てるんだと思うとなんだか興奮してくる。
「お、元気いいね、もう少し進んだら休憩するからね」
「はいっ」
気分が上がってくる。うん、なんだろう、いい気分。
なんだか久しぶりにこの世界の空気に触れた気がした。
宿に着いたのはまだ日の高い時間帯だった。
ジャックとウルクは宿の手配や食事の指示、部屋割の指定と馬や魔獣たちの寝床の確保、消耗品の補充や水の補充などに奔走していて、わたしはピートとヴィルクと一緒に宿の裏庭でお留守番だ。
本当はジャックかウルクのどっちかと一緒にいたほうが護衛という意味合いではいいんだけど、わたしがついて回っても仕事のお邪魔にしかならない。
一人でも街の中を少し出歩きたかったけど、ここはあの街じゃないし、わたしはただの子供でしかない。
おとなしく二匹と戯れるだけで我慢することにする。
早めにチェックインできれば、部屋の中でおとなしくしてるほうがよいかもしれないけど、それでは護衛が本当にいなくなっちゃうし。
今はピートとヴィルクがわたしの護衛だ。
ピートにずっと乗ってたせいか、ヴィルクが拗ね気味だ。わたしを何とか背中に載せようとするけど、猫科のピートとは勝手が違うし、ジャックがいない状態では乗り方もわからない。
ごめんね、と頭を撫でるだけにした。
夕刻。一行が到着した。
ジャックとウルクが先頭に立っていたリーフラムとガルフの前に進み出る。その後ろにわたしが立っているのを見て、リーフラムは目を剥いた。
「貴様、まさかまたっ!」
「いえ、これは領主様にも了解を頂いております」
「本当か?」
疑わしげな目で二人を見たリーフラムはわたしをちらりと見て、それから後ろの馬車を見る。
丁度馬車が宿の前に止まり、扉が開かれるところだった。
降りてきたウィレムは、いつもより機嫌が悪かった。眉間のシワがくっきり刻まれて、三白眼がわたしを睨む。
「領主様、あちらに」
リーフラムの声にウィレムがなんと答えたのか、わたしには聞こえなかった。が、二人には特に何も言葉はなく、リーフラムとガルフは軽く二人とわたしを睨みつけてウィレムの後に従った。
ニャア、と声が飛び込んできてわたしは声の方を向いた。
「クロ、ごめんね。寂しかった?」
手を広げるとクロはぽんとジャンプしてわたしの胸に飛び込んできた。
ぐるぐると喉を鳴らし、顔や胸に頭をこすりつけてくる。よっぽど居心地が悪かったのかしら。
「シオン、領主様についていかなくていいの?」
「あ、そうだった。ありがとう」
あとを追いかけて、わたしは足を止めた。
「ジャック、ウルク、ありがとう。ピートをいっぱいねぎらってあげてね」
「こっちこそありがとう。ピートは君を乗せられて喜んでたよ」
「ヴィルクに拗ねられたよ。今度はヴィルクにも乗ってくれな」
「うん、ありがとう」
二人に手を振って、宿の入り口をくぐる。
ニャア、とクロが鳴く。
そうだ、一人にしたお詫びに今日はゆっくりお風呂でマッサージしてあげよう。




