21.魔獣のこと
「よお、姫さん」
別邸の皆で昼食を摂りにアンヌの店に入った時、奥から声が飛んできた。
「ジャックさん」
黒髪に黄色い瞳の兵士が片手を上げている。この間、別邸のあたりまで出歩いてたクロを連れて帰ってくれた人だ。傭兵なのかと思っていたけど、別邸にいるのは王国騎士団と魔術騎士団のみだそうだ。傭兵は街の宿場を利用しているとのこと。それも知らなかった。
「クロは?」
籠に入ったままのクロを差し出すと、クロは眠そうに頭をもたげた。別邸まで自力で行けるんだからそこまで心配しなくても大丈夫だとは思うんだけど、勉強の合間にしかクロと一緒にいられない分、少しでも一緒にいてあげたい。わたしが一緒にいて何とかなるわけじゃないんだろうけど、なかなか前みたいに機嫌よくニャアと鳴いてくれないクロが心配でたまらない。
しっぽをピンと立てて頭をこすりつけてくるクロに早く戻って欲しい。お風呂に一緒に入ってピカピカの毛並みといいにおいのクロにしてあげたいのに。
「よう、クロ」
籠に差し入れたジャックの人差し指をクロは丁寧に舐めた。そんなに美味しかったのだろうか。
「そういや姫さん、次の休みっていつだ?」
「休みは特に決まってないです。ずっとお勉強中だから」
「ええ? そりゃひでぇな。隊長に言って一日休み作ってもらうよ。早いとこクロを治療に連れて行ってやりたい」
「あ、ありがとうございます」
素直にお礼を述べる。実際のところ、ずっと勉強一色で、食事の時間にアンヌのところに行く以外、自由時間は全くない。国語は中断、ダンスと礼儀と算数は満点をもらったのでスケジュールは少しだけ余裕が出来たが、その部分に地理歴史と政治・経済、それから新しく一般常識が追加されている。
一般常識については、領主自らが教えてくれる。例えば、この国では生まれてから死ぬまでの生活習慣。ああ、日本で言えばお食い初めやら端午の節句やら、六歳になったら小学校に上がって、というのと同じように、暗黙のルールがある。
魔法の教育は三歳ぐらいから家庭内で始まるのだとか、貴族の婦女子は家政に関する知識はあれど実際には行わないとか。貴族の生活習慣についてならわたしにも覚えがあるが、五百年前のものだし別の国のものだからあまり役には立たなかった。むしろ、家名を持たない庶民としての常識のほうが欲しかった。
今のわたしは庶民だから。まあ、万が一にもこちらの世界で貴族に嫁ぐなんてことがあったら覚え直すけど、帰るのが第一目標。今は庶民としての振る舞いを覚えなきゃ。
実は外見から異国民なのはバレバレだから、それほどこだわる必要もなかったんだと気がついたのはずいぶん後になってからだった。
「じゃ、お先に。あとでな」
向こうでリーフラムがわたしを呼んでいるのに気がついて、ジャックが手を振る。わたしは頭を下げ、あわてて席に駆け寄った。
一番最後に席についたせいで選択の余地はなく、ルーファスの隣になってしまった。レダの目が怖い。
「何を話していた?」
リーフラムがすぐ聞いてきた。
「クロのことを。今度彼の魔獣にあわせてくれるそうです。クロのことも心配してくれて」
「ああ……そうだな」
リーフラムはわたしの足元におろしたクロの籠を見て言った。きっとジャックからも話をしてくれるんだろうけど、わたしからもお願いしておいたほうがいいよね。
「あの、どこかで一日、お休みをいただけませんか?」
「休み?」
怪訝そうにリーフラムが見下ろしてくる。
「魔獣を癒せるスポットがあるって聞いたので、クロを連れていきたいんです」
「ああ、なるほど。……そういえばガルフもそんなことを言っていたな」
そう、魔獣についてはガルフから聞いたのだ。ジャックはガルフに言われてクロの様子を見てくれてるんだろうか。ガルフはクロを助けると言ってくれた。
ちらりと今日は別テーブルに座っているガルフを見る。魔術騎士団の面々と何やら真剣に議論しながら食事を摂っているようだが、防音結界の向こう側で何を話しているのかは分からない。それほど重要な話なのだろう。
「わかった。領主様には俺の方から話をしておく。ジャックの休みが確か明後日のはずだから、それに合わせて休みをもらっておく」
「ありがとうございます」
三十人以上いる隊員のシフトを全部覚えているのか、この人は。ちょっと軽い驚きを覚える。
「それと、魔獣や魔族に関する授業も増やしてもらっておこう」
「はい」
そういえば、魔族や魔王についての授業はまだなかった。魔族の授業の時に魔王については先生から聞けばいいのか。
魔王と勇者の物語はいくつか本を借りて読んだけど、子供向けの絵本ぐらいしかないらしい。王都に行けばそういった文献も見せてもらえるのだろうか。
歴史ではなく、魔王と勇者そのものの記録が見たい。武器が持てない勇者がどうやって魔王を倒せるのか。その手がかりが少しでも欲しい。
勇者召喚で国が滅ぶのはいつものことなのかそうでないのか。それも含めて知りたい。
「ご注文の日替わりランチお持ちしましたぁ」
レダとエミリーがお盆を持ってやってきた。わたしに向けられた笑顔が怖い。
案の定、給仕をするふりをして脇腹をつねられた。




