D-虫の日々
氏家則明は頭の中のエイリアンと話をした。エイリアンが言う数々の冒険譚は彼を驚かせ、心を踊らせた。ソレは懇願する。己の記憶を取り戻したいがゆえに、この壁の中に入れてくれと。氏家則明は、その存在を信じるべきか否か、迷っていた。空っぽだった器に満たされていく物たち。それは、誰かに影響を与える程に。
御舟では、最低限の食事や衣服などの支給は保証されている。
月初めに送られるチケットを消費することで生活することができるが、あくまでもそれらは最低限のレベルに過ぎない。
ここでは、それとは別に生活費を稼ぐ方法もある。
学園内の購買部や飼育部で労働して、賃金を得る。つまりアルバイトをすることが可能なのだ。
A級やB級の上流ならば、家からの仕送りを望めるが、僕のようなD級はそうもいかない。己の糧は己で稼ぐしかない。
自治期間では、それまでの煩雑なカリキュラムから解放されるが、空いた時間にこそ一層働き、費用を賄わなければならない。
朝起きて、時計を見ると六時だった。
皆を起こさないようにそっと降りて、準備を整え寮を出る。
寮の前の道を真っ直ぐ下ると、やがて食堂に辿り着いた。
そのまま裏まで回り、従業専用口の前に行く。
スリットにIDカードを通しロックを外す。
中に入ると、夏特有のじっとりとした湿気に満ちていた。
ロッカーを開いて、作業服に着替える。
廊下を通って、厨房にたどり着くと、突然腰を蹴られた。
よろめき、壁に手をつきながらそちらを見る。
腕を組んで、冷めた目で僕を見下す男が居た。
「……野呂さん」
「あ? 挨拶はねえのか」
小さく、おはようございます、と呟く。
野呂さんは鼻を鳴らして、大きく膨らんだゴミ袋を投げた。
「早く捨てに行け。そんで帰ってきたら皿洗いだ」
不快げに、背後のシンクを指さしそう命令する。
「昨日遅番のボケが洗わずに帰ったらしい。まあてめえの仕事だ、ウジ」
僕は黙って頷く。
「客の前に出んなよ。お前が触った料理なんて誰も食いやしねえんだよ」
そんな悪意の篭った声も、ただただ背中で受け止める。
厨房で作業をしているアルバイト達は、こんなやりとりを無視している。
笑うでもなく、止めるでもなく。僕は空気のようなもので。誰も関わろうとはしない。
僕は、ゴミ袋を片手に取った。
今日の昼も忙しかった。
学園を出て外出する生徒も少なくないが、審査が厳しく、また認められたとしても日数が限られているので、ほとんどの生徒がこの壁の中に住んでいることになる。
幾つかある食事処の中でも、安価で無難なメニューの並ぶ「中央食堂」には、多くの人々が詰め寄る。
「パスタは何時上がるんだオラァ! おいテメエ食材間違えてんじゃねえか死ね!」
キッチンリーダーの野呂さんが、今日も威勢よく怒鳴っていた。
ミスをすれば怒鳴り、連携がもたつけば怒鳴り。その度に従業員達はびくりと首をすくめる。
僕は黙々と、汚れた皿を洗っていた。
蔑まれながらも粛々と仕事に耐える。そんな日常を繰り返していた。
その時までは。
「――ッざけんなアホか!?」
突如、野呂さんがそれまでとは比にならない大声を上げた。
「なんで食材がこんだけしかねえんだよ!」
彼は、業務用冷蔵庫の中身を見て、怒りを露わにしていた。
「なんでちゃんと確認してなかった!?」
忙殺されていたはずのキッチンが、水を打ったように静まり返った。
「これじゃあ全然足りねえぞ! 誰だ確認してなかったボケは!?」
それは野呂さんの責任だ。ぶつくさ言いながら遅番の尻拭いをしていて、中をあまり見ていなかったのだ。
まさかここまで食材が減ってるとは思っていなかったのだろう。
このままでは昼のオーダーを回すことなんてできない。
と、野呂さんが。
手を振るうと。
透明な拳が僕の顔に飛んできた。
その衝撃に倒され、床に尻餅をつく。
「ウジィ! お前がもたもたもたもたしてるからじゃねえか!」
そんなわけのわからないことを怒鳴られる。
「足引っ張りやがって……んだその目はよぉ!」
床に倒れる僕を、見えない力が襟をつかんで無理矢理起こされる。
「喧嘩売ってんのか……ああ?」
「ぐ……あ……」
「リ、リーダー!」
流石に、周りの人が野呂さんを止める。
野呂さんは、悪態をついて、【キネシス】を止めた。
空気を欲し、喉が勝手に動く。
そんな僕の様子を侮蔑の様子で見る野呂さん。
「さっさと買ってこい、ウジ、てめえの金でだぞ」
必要な食材を並びあげ、彼はそう指示した。
憐れみの目で、僕は見られる。
これ以上ぼやぼやしていたら、また怒鳴られてしまう。
作業服のまま、厨房から出て行った。
学舎の前は、繁華街とでも言うべき、学生の憩いの場となっている。
食堂や購買部、各団体の部室などが並んでいて中にはゲームセンターやバッティングセンターまである。
僕は食堂の裏を通って購買部まで走った。
自治期間宙に部員を増やそうと、いつも以上に勧誘が激しい。
チラシを押し付けようとしてくる輩や、強引に部室に引っ張ってこようとする部員を振り切り、目的地まで急いだ。
――その中に。
「学園生活を、より楽しく、有意義にしませんか!」
「月光会に興味のある方、お気軽にどうぞ!」
昨日、菱木要次郎が総会で高らかに宣伝していた、月光会の姿があった。
月のマークを弄った、簡素だがきらびやかな紋章を掲げている。
……「星付き」がおわす団体。
学園互助組織、とか言っただろうか。どんな活動をしているのか全くわからないが、「星付き」とお近づきになれるというのは大きなメリットになるのだろう。
艷やかなマントを羽織った集団が、にこにこと笑顔でチラシを配っている。
「すぐそこにサークルルームが御座いますので! よければ顔だけでも覗かせてください!」
今更、何を互助してくれるんだろうか。
僕は横目で彼らを見ながら、購買部へと向かっ――。
月光会のサークルルーム、その前に。
ある女生徒がいた。
会のマントを羽織り、まっすぐに伸びた黒髪を揺らす彼女は……。
「……久世さん?」
久世さんが、月光会に?
だがすぐに人波にさらわれ、彼女を見失ってしまった。
……ただの気のせい、だったのだろうか。
ふと立ち止まり、月光会の方を見つめる。
「あ、お兄さん! 会に興味があるのですか!?」
するとすぐに会員が勧誘に駆けつけてくる。
「あ、い、いや」
僕は首を振って、走りだした。
そもそも、久世さんが、どこでなんのサークルに入っていようが、関係の無いことだ。
生徒の間をかき分けて、僕はその場を去った。




