第48話(最終話):金よりも価値のある宝物
数年の月日が流れた。
かつて「貧困と刺客の巣窟」とまで揶揄された北の最果て・ハルシュタット領は、今や王国でも一、二を争う一大貿易・経済都市へと変貌を遂げていた。
新港からの貿易益と、ヴィオラが打ち出した画期的な産業開発により、領民の暮らしは劇的に豊かになり、街には人々の賑やかな笑顔が溢れている。
そして――ハルシュタット城の中庭には、以前にも増して賑やかで温かい光景が広がっていた。
「まてーっ! 妹者、そっちへ行ったら危ないぞ!」
「きゃははっ! おにいちゃ、まてまてー♪」
青々とした芝生の上を元気いっぱいに駆け回るのは、今年四歳になる長男のレオと、二歳になったばかりの長女のリリィだ。
二人とも、アルベルト譲りの艶やかな銀髪と、ヴィオラから受け継いだ吸い込まれるようなサファイアブルーの瞳を持っている。
「まあまあ、若様、姫様! あまりお走りになるとお転びになりますぞ!」
汗を拭きながら二人を追いかけるのは、すっかり好々爺となった筆頭執事のハンスだ。
その傍らでは、騎士団長のグスタフが「がはは! 元気で結構! 将来は優秀な騎士と至高の姫君になるぞ!」と豪快に笑っている。
そんな愛くるしい子供たちの姿を、中庭を見渡すテラス席から穏やかに見つめる二人の姿があった。
◇
「……ふふ、本当にあの子たちは元気がよろしいことですわね」
ヴィオラは日たたみの下で優雅に紅茶を傾けながら、あざとく首をかしげて微笑んだ。
数年が経ち、大人の艶やかさと品格をさらに増した「至高の辺境伯夫人」。しかし、その可憐で小悪魔的な魅力は少しも衰えていない。
「ああ。レオは剣の筋も悪くないし、リリィはお前に似てすこぶる頭が切れる。……我が子ながら、恐ろしいほどの将来性だ」
隣に座るアルベルトが、愛おしそうに目尻を下げて頷く。
かつて「北の鬼神」「冷血無情」と恐れられていた面影は、今や家族の前では影も形もない。どこからどう見ても、妻と子を溺愛してやまない理想的な「親バカ夫」であった。
「ですが、旦那様。甘やかしすぎてはダメですわよ? 今朝もリリィにおねだりされて、おねだりされたおもちゃを全部買い与えようとしていらっしゃいましたでしょう?」
「うっ……! それは……あの子がサファイアの瞳でウルウルと上目遣いをしてきたからで……」
「あら、誰かさんの『理性の弱さ』は相変わらずですのね♪」
「ぐ……っ、言い返せん……」
顔を赤くして目を逸らすアルベルトに、ヴィオラはくすくすと鈴を転がすように笑った。
前世、歌舞伎町の頂点で男たちを転がしていたプロのノウハウは、今や完璧にハルシュタット領の経営と、愛する夫を転がすために遺憾なく発揮されている。
ヴィオラは手元の帳簿にサッと目を通すと、パチンと綺麗に閉じた。
「さて、本日の新港からの関税報告と、王都との商業協定の改定案ですけれど……完璧に我が家の利益が二割増しになる計算でまとまりましたわ。ガルシア新政権からの交渉も、こちらの言い値で合意させました」
「相変わらず凄まじい手腕だな、我が妻ながら……」
アルベルトは心底感心したように吐息を漏らした。
「かつてのハルシュタットは、剣と武力しか持たぬ野蛮な領地だった。それが今や、お前の知略と経済感覚ひとつで国全体の物流を握るまでに至ったのだからな」
「ふふ、当然ですわ♪ 私は『ハルシュタットの至高の夫人』ですもの。大切な我が家の金庫を潤すのは、私の最高のお仕事であり、道楽ですの」
ヴィオラがあざとくウインクしてみせると、アルベルトの胸がドクンと鳴った。
結婚して数年が経ち、二人の子に恵まれた今でも、彼女のちょっとした仕草一つで胸が跳ね上がる。彼の「溺愛度」は衰えるどころか、年々加速度的に更新されていた。
◇
「お父様ー! お母様ー!」
そこへ、芝生で遊んでいたレオとリリィが、小さな足を一所懸命に動かしてテラスへと駆け寄ってきた。
「おや、どうしたのだ、二人とも?」
アルベルトが腰を落とすと、レオとリリィは同時にアルベルトとヴィオラの膝へと飛び込んできた。
「見て見て! 庭で綺麗なサファイア色のお花を見つけたの! お母様の目とお揃い!」
「おはな、おかあしゃんにあげるのー!」
幼い手差し出されたのは、小さな青い野の花。
「まあ……! なんて可愛らしいお花なのかしら。ありがとうございます、レオ、リリィ♪」
ヴィオラが目尻を下げて二人の頭を撫でると、子供たちは「きゃははっ!」と嬉しそうに声を上げた。
アルベルトはその光景を、息をのむほど愛おしそうな眼差しで見つめていた。
両腕で二人のかけがえのない我が子をしっかりと抱きかかえ、その温もりを噛み締める。
「……なぁ、ヴィオラ」
「はい、アルベルト様?」
子供たちを膝に乗せたまま、アルベルトは遠い目をして、どこか懐かしそうに呟いた。
「覚えているか? 私たちが初めて出会った……あの日のことを」
「ええ、もちろんですわ。王都から『6人目の生贄』として送られてきた私が、この城の冷たい執務室で貴方様と対面した日……ですわね」
「そうだ」
アルベルトは苦笑いを浮かべた。
「あの頃の私は……愛も、感情も、未来すら信じていなかった。いつ死ぬかも分からず、ただ領地と血筋を守るためだけに殺伐と生きていた。『金と利益だけが全てだ』と……本気で思っていたのだ」
「アルベルト様……」
「ハルシュタットの跡継ぎなど不要だ、妻など政略の道具で十分だ……そう自分に言い聞かせ、周りに冷酷な壁を作っていた。……だが、お前が現れた」
アルベルトは愛おしそうにヴィオラのサファイアブルーの瞳を真っ直ぐに見つめた。
「お前は私の冷たさに怯えるどころか、あざとく微笑み、前世の知恵と度胸でハルシュタットの危機を次々と救ってくれた。私の凍りついていた心を溶かし、生きる喜びと……こんなにも温かい『家族』をくれた」
アルベルトの手が、そっとヴィオラの繊細な手を包み込む。
「王都の連中は……『不吉な生贄』として、格安の手切れ金と引き換えにお前を私に押し付けたつもりでいたのだろうな」
「ふふ、そうですわね。誰もが『ハルシュタットで数ヶ月も保たずに追い出される』と高笑いしておりましたわ」
アルベルトは深々と吐息をつくと、心からの感謝と満ち足りた幸福感を込めて、優しく微笑んだ。
「……愚か者どもめ。奴らは世界で一番価値のある『最高の宝』を手放したのだ」
「え……?」
アルベルトはヴィオラの手を自分の唇へと引き寄せ、愛おしそうに誓いのキスを落とした。
「ヴィオラ。……私は生涯で、世界で一番価値のある買い物をした(契約を結んだ)」
「……! 買い物、ですかしら?」
「そうだ。金など、お前の笑顔一つに比べれば何の意味も持たん。お前という『宝物』を手に入れられたのだから……私は世界一の果報者だ」
かつて「金しか愛さない」「冷酷無情」と恐れられた北の鬼神が、己のプライドも過去の誓いもすべて投げ打ち、ただ一人の妻を世界最高の宝だと語る。
そのストレートで、甘すぎる本気の言葉。
前世で百万の男たちの嘘と甘言を見抜いてきたヴィオラだが、目の前の夫がくれる純度100%の愛情には、いつだって胸が破裂しそうなほどキュンと高鳴ってしまう。
(……本当、この人には……一生勝てる気がいたしませんわね♪)
ヴィオラは真っ赤になった頬を隠すことなく、サファイアブルーの瞳をキラキラと輝かせた。
そして――前世で培ったどんな営業スマイルよりも、あざとく、可憐で、そして世界で一番美しく、愛に満ちた笑顔を咲かせた。
「……ふふ、旦那様ったら。今さらそんな甘いことをおっしゃるなんて……商売上手なホステス(私)への、最高の褒め言葉ですわ♪」
ヴィオラは背伸びをすると、アルベルトの頬にチュッと小さなキスを落とし、彼の首にそっと抱きついた。
「でも……お言葉をお返ししますわ、アルベルト様」
「ヴィオラ……?」
「私も……世界で一番価値のある『旦那様』を買い取らせていただきましたの。……絶対に、誰にもお譲りいたしませんからね♪」
「……ッ!! ああ、望むところだ!!」
アルベルトの顔が一瞬で歓喜に染まり、彼は子どもたちと一緒に、愛する妻を壊れるほど強く抱きしめた。
「おとうしゃん、おかあしゃん、ぎゅーっ!」
「わーい! 僕も! 僕も抱っこ!」
「「ふふっ……!!」」
温かい陽光が降り注ぐハルシュタットの中庭。
溢れる笑顔と、子どもたちの弾けた歓声、そして夫妻の甘い睦まじい吐息が重なり合う。
かつて「生贄の悪役令嬢」と呼ばれた少女と、「北の鬼神」と呼ばれた孤独な辺境伯。
二人が紡いだ「6人目の挑戦」は、どんな金銀財宝よりも美しく、誰にも破れない最高のハッピーエンドを迎えたのだった。
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