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離縁届に夫が署名した瞬間、私はワインを開けた  作者: 九葉(くずは)


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第3話 ドミノの一枚目

 開店三日目の夜中に、泥棒が来た。


 窓の軋む音で目が覚めた。調合台の裏で仮眠を取っていたのが幸いした。仮眠というか、棚の修理を途中で投げ出して寝落ちしただけだ。鉋の屑が頬に張り付いている。


 暗がりに目を凝らす。窓枠に手がかかっている。指が太い。爪の間に土。靴底から泥の匂い。乾いた粘土質。王都の南区の土だ。


 蒸留器の銅パイプが手の届く場所にあった。母の蒸留器から外した予備。長さは腕ほど、重さは片手で振れる程度。


 泥棒が窓から体を入れた瞬間に、パイプで手首を叩いた。


 悲鳴。


 続けて足首を払い、倒れたところを背中に膝を乗せた。薬草園で十年以上土を掘り返してきた手だ。握力には自信がある。


「動かないでください」


 丁寧語で言った。自分でも可笑しいと思ったが、夜中でも礼儀は礼儀だ。


 泥棒は二十代の痩せた男だった。正座させて話を聞いた。ろうそくに火を灯すと、男の顔が照らされた。頬がこけている。南区の日雇いで、薬が買えないから盗みに来たと言った。左手が腫れている。潰瘍になりかけた古い火傷。包帯を巻いた形跡はない。誰にも診てもらえなかったのだろう。


「……これは放っておくと指が動かなくなります」


 棚から軟膏を取り出し、男の手に塗った。泥棒の手当てをしている自分がおかしくて、唇の端が少し上がった。


「薬代は後でいいですよ。盗みに来る代わりに、明日の朝、表の掃除をしてください」


 男は目を丸くしたまま三度頷いて帰った。戸口で振り返り、何か言いかけたが、結局頭を下げただけだった。


 翌朝、表の石畳は見事に磨かれていた。隅の雑草まで抜いてある。律儀な泥棒もいたものだ。



◇◇◇



 それから日が過ぎた。開店から一月余り。客は少しずつ増えた。


 通りの仕立屋の主人が頭痛薬を買いに来た。パン屋の女将が子供の虫除けを。鍛冶屋の親方が腰痛に効く貼り薬を求めた。


 代金が足りない客がいた。鍛冶屋の徒弟で、まだ若い。銅貨を掌に並べて「これで足りますか」と聞く声が小さい。


「足りますよ」


 足りていない。銅貨三枚では薬代の半額にも満たない。


 足りていない。銅貨三枚では薬代の半額にも満たない。だが本当に足りていないのは私の方かもしれない。侯爵邸にいた頃、使用人の薬代は全て私が持ち出していた。帳簿には載らない支出。あの癖が抜けていない。


 この徒弟の右手の火傷痕は鍛冶場のものだ。あの鍛冶屋の親方は弟子を大事にする人らしいから、きっとすぐに代金を持って来るだろう。


 調合台に向かう。今日は解熱薬の在庫を補充する。銀月草の根を乳鉢で擦りながら、午後の光を浴びる薬瓶を横目で見た。一瓶ずつ名前を貼った。私の字で、私のレシピ名を。「ヴァレリア調薬房」の印を押した小さな紙札。ヴェルナー侯爵家の紋章はどこにもない。


 棚が少しずつ埋まっていく。空瓶より中身のある瓶の方が多くなった日、ようやく店らしくなってきたと思った。



◇◇◇



 レオンが三度目に来た時――いつの間にか「ヴァレリアさん」と呼ぶようになっていた――帳簿を持っていた。


「先月分の売上と仕入れの報告だ。それと、一つ面白い話がある」


 帳簿の数字は正確だった。仕入れ値、卸値、手数料。一つずつ指でなぞる。利益は薄い。だが赤字ではない。この男は約束通りの価格で卸し、上乗せも搾取もしていない。ディートリヒの書斎に出入りしていた商人たちは、帳簿の裏にもう一冊帳簿を持っていた。この男にはそれがない。当たり前のことだが、当たり前をやる商人は少ない。


「面白い話、というのは」


「ヴェルナー侯爵家の薬草園が荒れているらしい」


 手が止まった。乳鉢の中で、すりこぎが銀月草の上に乗ったまま動かない。


「管理者が辞めてから回せる人間がいない。品種の選定も季節の管理も、引き継ぎがなかったんだとさ。庭師が三人辞めて、新しく雇った薬師は一週間で逃げたらしい」


「引き継ぎはありませんでした。求められなかったので。八年分の管理表は書斎の棚に残してきましたが」


 声が平坦になった。自覚はある。怒っているわけではない。


 ――いえ。怒っていないと言えば嘘になる。八年間、毎日手入れした薬草園だ。土壌の酸度を測り、品種ごとに日当たりを調整し、季節ごとの管理表を作った。あの庭の銀月草は、私が実家から持ち込んだ苗から育てたものだ。


 それが荒れている。


 関係ない、はずだ。もう私の庭ではない。


「……ヴァレリアさん。すりこぎ、止まってるぞ」


「ああ、すみません」


 手を動かした。一定の回転、均等な力。母にそう教わった。この作業の間は、何も考えなくていい。


「あんた、あの庭に未練があるのか」


「庭に未練はありません。ただ――」


 言いかけて、口をつぐんだ。銀月草の青い匂いが鼻に届く。この匂いを嗅ぐと、いつも薬草園の朝を思い出す。霜が降りた冬の朝、手袋を外して土に触れた時の冷たさ。


「ただ、土に罪はないので」


 レオンが黙った。数秒後、口の端がわずかに歪んだ。


「……悪くないな、あんた」


 商人が値踏みする時の目ではなかった。何を見ているのかは、わからない。


「それはそれとして」


 私は乳鉢を持ち上げた。


「新しい虫除けのレシピを試したいのですが、ローズマリーの乾燥葉を仕入れていただけますか。南方産の、日干しのもの。天日で三日以上干したものに限ります」


「……急に商売の話に戻るな」


「商売の話以外に何を話すのですか、商会の方と」


 レオンが口を開けて、閉じて、それから笑った。声を出して笑ったのは初めて見た。低い声で短く、乾いた笑い方。


 悪い笑い方ではなかった。声が低くて短い。


 帰り際、レオンは扉の前で振り返った。


「侯爵家の件。動きがあったら俺の耳にも入る。何かあれば知らせる」


「結構です。もう関係ありませんので」


「……ああ。まあ、一応な」


 扉が閉まった。


 一人になった薬房で、すりこぎを洗った。水が冷たい。指先が痺れる。銅の蒸留器の横に立てかけた予備のパイプが目に入る。先日の泥棒のことを思い出して、唇の端が緩んだ。


 侯爵邸にいた頃なら護衛を呼んでいた。今は自分でパイプを振る。どちらが私らしいかと問われたら、答えは明白だ。


 窓の外で、石畳を磨く音がする。規則正しい音。あの元泥棒が、今日も来たらしい。掃除の後に薬を塗りに来る。代金はまだもらっていない。


 まあ、いいでしょう。


 忙しくなる予感だけは、確かにある。

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