第2話 薬師ヴァレリア
看板の文字が乾くまで、私はずっと眺めていた。
「ヴァレリア調薬房」。白い漆喰の壁に、濃い藍色の文字。自分で彫った。下書きに三日、彫りに二日。仕上げのニスを塗る時、手が震えた。
震えたのではない。力が入りすぎたのだ。八年ぶりに、自分の名前を書いたせいかもしれない。
王都アーレンシュタットの路地裏。表通りから二本入った、石畳が苔で緑がかった小路。間口は狭いが、奥行きがある。棚を三つ、調合台を一つ。銅の蒸留器は実家から運んだもので、母が使っていた代物だ。取っ手の革紐がすり減っている。買い替えるべきだが、この手触りが好きだった。
壁を自分で塗った。白い漆喰を、左官屋に教わりながら。棚も自分で組んだ。木材を選び、寸法を測り、鉋をかけて。指にまめができた。侯爵邸では手袋をしていた手だ。通りかかった大工が「手伝おうか」と声をかけてくれたのを、「大丈夫です、楽しいので」と断った。汗で前髪が額に張り付いていたと思う。元侯爵夫人が日曜大工。誰かに見られていたら噂になっていただろう。
構わない。看板に書いてあるのは「侯爵夫人」ではない。「ヴァレリア」なのだから。
薬瓶をガラス棚に一つずつ並べる。コルク栓の匂いを嗅いで、中身を確認。頭痛薬、解熱薬、傷薬、虫除け、睡眠薬、強壮剤。侯爵家を出る前に仕込んでおいた在庫。レシピは全て頭の中にある。
開店は今日。客が来るかどうかは、まだわからない。
◇◇◇
最初の客は、馴染みの薬草商人だった。
「奥方さ――」
言いかけて、口をつぐむ。白髪交じりの商人が、困ったように頬を掻いた。
「……ヴァレリアさん」
「はい。いらっしゃいませ」
名前で呼ばれた。それだけのことなのに、胸の奥で何かが緩んだ。コルクを抜いた瞬間、ふわりと香りが立つように。
薬草商人は薬を三瓶買い、「腕は変わらんな」と笑って帰った。帰り際、振り返って「……お元気で」と言った。その声の震え方で、この人も心配してくれていたのだと知った。
二人目の客は来なかった。
三人目も。
路地を行き交う人の足音を聞きながら、ふと考えた。侯爵邸にいた頃は、客が来ないことを心配する必要がなかった。薬草園で作ったものは全てディートリヒの名前で出荷され、注文は途切れなかった。王宮の薬務官に「ヴェルナー侯爵家の薬は信頼できる」と言われた日、あの人は頷いただけだった。私の名前は、一度も出なかった。
あの頃の私は、名前のない便利な手だった。
手元に目を落とす。爪の間の土は洗っても取れない。この手が作る薬を、「私の名前で」買いに来てくれる人がいるだろうか。
わからない。でも、わからないまま始めることに決めたのだ。
午後の日差しが傾き始めた頃、調合台に向かって新しい薬を仕込んでいた。銀月草の根を乳鉢で擦る。すりこぎの回転は一定に、力は均等に。母がそうしていたように。この作業の間だけは、何も考えなくていい。手が覚えている。指先に伝わる薬草の繊維の感触、すり潰される時のかすかな青い匂い。
棚の高さが三寸ほど合わない気がして、すりこぎを置いて立ち上がった。やはり右に傾いている。鉋をもう一度かけるべきか。それとも脚に薄い板を噛ませるか。
ふと手元を見ると、この乳鉢のひびは前からあっただろうか。母の蒸留器といい、道具が古い。新調する資金は……まあ、計算は後にしよう。
扉が鳴った。
「失礼。薬師のヴァレリアはいるか」
顔を上げた。
若い男が立っていた。砂色の短い髪に、商人らしい仕立てのいい上着。ただし袖口のボタンが一つ欠けている。目が鋭い。物の価値を見定める目。この手の目は商人に多い。
「私ですが」
「カッサーニ商会のレオン・カッサーニだ。あんたの薬を扱いたい」
敬語もなく、世辞もなく。名乗りと用件だけ。商人としては効率的、貴族社会なら無礼。ディートリヒの書斎に来る商人たちは、まず三分間の世辞から入った。この男にはそれがない。
私は少し面白いと思った。
「どの薬を、ですか」
「全部」
間がなかった。値踏みも交渉もなく、「全部」。
レオンは調合台に歩み寄り、棚のガラス瓶を一つ手に取った。光に透かし、傾けて、コルクの匂いを嗅いだ。
「……これは本物だ」
小さく呟いて、目の色が変わった。値段を見る目ではなかった。品質を見る目。すりこぎの手を止めて、私は黙って観察した。瓶を回す角度、光に透かす時間、コルクを嗅ぐ距離。職人の手仕事を理解する人間の所作。
「カッサーニ商会。お父上の代から薬の流通に強いと聞いています」
「親父は二年前に死んだ。今は俺がやっている」
声が低くなった。事実だけを言う声。身内の死を飾らない人間は、嘘もつかない。――いや、それは言い過ぎか。商人が嘘をつかないはずがない。ただ、この種の嘘のつき方は嫌いではない。
「そうですか」
「……商会の信用は俺が証明する。取引条件は――」
「本日の営業は間もなく終了ですので」
レオンが口を開けたまま固まった。
「明日の朝、改めてどうぞ。営業時間は日の出から六刻目までです」
追い返したわけではない。ただ、決めた営業時間は営業時間だ。八年間、二十四時間侯爵夫人だった。夜中に呼ばれれば薬を調合し、早朝に起こされれば薬草園に出た。あの日々は終わった。もうそういう生き方はしない。
レオンは数秒黙った。それから片方の口角だけ上げた。怒ったのではない。むしろ、面白がっている顔だ。
「……わかった。明日来る」
扉が閉まる。足音が遠ざかる。
一人になった薬房で、蒸留器の蓋を閉め直してから、私は看板をもう一度眺めた。夕日が文字の影を長く伸ばしている。
「ヴァレリア調薬房」。
今日、二人の人間が私を名前で呼んだ。薬草商人と、商会の若い頭。
八年間、誰にも呼ばれなかった名前。
棚の薬瓶が夕日を受けて琥珀色に光っている。母の蒸留器の銅が、使い込んだ色で鈍く輝いている。この小さな場所が、今日から私の世界。
窓を閉める。路地から夕餉の匂いが流れ込んでいた。どこかの家で、肉を焼いている。侯爵邸では銀の食器に三品が並んだ。ここでは、パンと干し肉と薬草茶。
――いえ。それで十分だ。十分すぎるくらい。
調合台の端に、薬草茶の葉を一つまみ置いた。明日の朝、最初に淹れるために。




